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「ソリッド思考」と「ファジー思考」

8.08 


 Sl-fz 00 


◆曖昧なことを曖昧に考える力

  「考える人間の最も美しい幸福は、
  究め得るものを究めてしまい、
  究め得ないものを静かに崇めることである」。

       ────ゲーテ『格言と反省』 (高橋健二訳『ゲーテ格言集』より)


ドイツの文豪ゲーテが、同時に優れた自然科学者であったことはあまり知られていない。
形態学の創始や色相環の発明など、その合理的、論理的、客観的な思考によって
科学の面でも人類に数多くの貢献を残している。

そのゲーテにとって、やはり「この宇宙とは何か?」「人間とは何か?」
そして「神とは何か?」は、生涯を懸けて取り組んだ“大いなる問い”であった。
その問いに対し、ゲーテは、
“大いなる合理的・論理的・客観的思考”をもって解明をしようとしたが、
ついに答えは出せなかった。
出せなかったというか、最終的には「不可知である」という結論にたどり着いた。

彼は不可知であるという謙虚な前提に立ち、今度は“大いなる曖昧な思考”でもって
この宇宙をとらえ、人間をとらえ、神をとらえた。
そして、大いなる示唆・暗示に富む戯曲『ファウスト』を書き上げた。
この歴史的名作は、以降、
“読める人が読めば”無尽蔵にその深遠さを与えてくれる文学として光彩を放っている。

今日私たちがこの『ファウスト』を読むことに困難を覚える理由として、
キリスト教の観念・知識が乏しいから、昔の外国の文章だから、
あるいは高尚すぎるから、といったことをあげるかもしれない。
それらは一部の理由としてあるだろう。
しかし私は、本質的な理由はそこにあらずと思っている。
真の理由は、端的に言ってしまえば、「曖昧に考える力」を失くしたからである。

現代の私たちは、あまりに、
物質還元論的な科学万能主義と、
ビジネス社会からくる効率・実用・功利主義の影響を受けていて、
曖昧さを悪とし、不明瞭を避け、揺らぎに不安を感じ、目に見えるものに固執し、
論理的客観的に考えることを賢いとし、具体的に記述することを奨励するようになった。
これらは決して悪いことではないが、その偏向が大きくなるにしたがって、私たちは、
曖昧さを肯定し、不明瞭を受容し、揺らぎを意図的に呼び込み、目に見えないものを求め、
直観的主観的に考えることを賢いとし、示唆的に表現をする、ことが弱くなった。

つまり、日常生活や人生、社会には、科学がどれだけ発達しようと、
依然、曖昧な問いだらけであるのだが、現代の私たちは、
それに対し、曖昧さで強く考え、曖昧な強い答えを持ち、
曖昧にどんと構えることができなくなってしまっているのである。

その代わりに、やたら情報を集めることで安心する、
書物に載っている知識を得ることで答えを知った気になる、
論理的な分析手法といわれるものに傾倒し、その行為に自己満足する、
他人の書いた成功法則・上達マニュアルなどを鵜呑みにして実践する───
といった見かけは具体的で合理的そうでありながら、
その実、中身が詰まっていない思考で曖昧さから逃げることが増えた。

そんなところから、きょうは、曖昧に考えることを肯定する記事である。
そして、世の中あげて具体的に形式化して考えることをよしとする趨勢が、
実は私たちの思考力を弱くしている現状を見つめ直す記事でもある。


◆「ソリッド思考」と「ファジー思考」
さて、本記事では、
人間の思考を「ソリッド思考」と「ファジー思考」の2つに分けて考える。

「ソリッド思考」とは、次のような要素を特徴とする。
 ・solid=固形の・硬い・実線の
 ・具体的に、定義して、明示して、形式化するように考えること
 ・関連語:tangible(触れられる)、explicit(系統立てられた)、logical(論理にかなった)、
  description(記述)

他方、「ファジー思考」とは、次のような要素を特徴とする。
 ・fuzzy=ぼやけた・曖昧な・不明瞭な
 ・抽象的に、輪郭を描かず、暗示して、示唆化するように考えること
 ・関連語:intangible(触れられない)、tacit(暗黙の)、intuitional(直観の)、
  metaphor(比喩)


「ソリッド思考/ファジー思考」という軸に加え、
もう1軸「中身が詰まった思考/中身の詰まっていない思考」を加えると下図になる。
私たちはこの4象限をうろちょろしながら物事を考える。


 Sl-fz 01

上の4象限の説明を簡単にしておくと、
ソリッド思考の陽面である「ダイヤモンドの彫刻刀」は、
クリスタルクリアな明晰さで物事を鮮明に切り出し、造形することのできる思考である。
逆に陰面である「糸吊り人形」は、
具体的・形式的に考えようとするのだが、
実際は他人の受け売りや流行の方法を真似るだけで、
思考が自分のものになっておらず、ギスギスとやせている状態をいう。
頭でっかちで目がぎょろっとしていて、身体は骨ばった恰好、
しかも実際は自分で動くのではなく、
人から操られてぎこちなく動くだけという糸吊り人形から想起している。

他方、ファジー思考の陽面「濃厚な滋養スープ」は、
どろどろと知識やら智慧やら洞察やら悟りやらが混然一体となり、
形のない液状として柔軟に豊かな思考がなされていくことを言い表している。
また、陰面の「霧の中のボート」は、
何をどう見てよいか、どう進んでよいかがわからずにプカプカと漂流している小船、
そのような思考状態を想像していただければよいだろう。


◆「ソリッド」と「ファジー」のコミュニケーションモデル
さて、私たちは外界・他者から情報をさまざまに受信して思考を行う。
その際にコミュニケーションが発生するわけだが、その原理を表したのが下図だ。
(J.B.ベンジャミン著『コミュニケーション』二瓶社からヒントを得て筆者が独自に作成)


Sl-fz 02 

漏斗(じょうご)を2つ横にして合わせたような図は、
送り手が送りたい内容を何らかの表現に変換して、情報として発信し、
受け手がその情報を受信して、読解作業を通し理解することを示している。

この基本図をさらに詳しく考察していこう。
図3はこの一連のコミュニケーションの詳細を描いたものだ。


Sl-fz 03 

送り手が送りたいことというのは、実は図に示したように、
色がはっきりしている部分とぼやけてにじんだ部分とがある。
前者は、送り手が具体的に考え明示できる、いわば「ソリッドな内容」であり、
後者は、曖昧に考え明示できない、暗示に任せたい、「ファジーな内容」である。

それに伴って、表現される情報も
実線部分(ソリッドな情報)と、にじみ部分(ファジーな情報)ができる。

そして受け手は、この情報を受信して読解するわけだが、
受け手が理解することもまた、色がはっきりする部分とにじむ部分とに分かれる。
前者は、送り手の情報を逐語訳的・具体的に把握する「ソリッドな理解」であり、
後者は、受け手自らが創造的・観照的に情報を解釈する「ファジーな理解」である。

では、このコミュニケーションモデルを実例で考えてみたい。
図4の受信例〈1〉は、ソリッド情報のみが伝達されるケースだ。
『JR時刻表』は、送り手から受け手に対し、羅列した数値情報を届けるもので、
曖昧さを許さないソリッドな内容→ソリッドな情報→ソリッドな理解を実現するものとなる。

Sl-fz 04 


受信例〈2〉は、そこにファジーな要素が入ってくるケースである。
松尾芭蕉は「古池や 蛙跳び込む 水の音」と詠んだ。
この句を詠んだとき、芭蕉は眼前に広がる自然を具体的に描写しようとした。
それが図の色が明確に塗ってある部分=ソリッドな内容である。
しかし、実際のところ、芭蕉が眼前に観ていたのは、具象的な景色だけではない。
むしろ直接目に見えない多くのことを感じ、それを伝えたいと思った。
それは図の色がにじんだ部分=ファジーな内容である。

芭蕉は森に深く身を浸しながら、ソリッドに、そして、ファジーに思考を巡らせ、
「五・七・五」という文字形式にそれを結晶化させた。

そして受け手である句の鑑賞者は、その「五・七・五」を文字通りに解凍して、
芭蕉の目に映った(耳に聴こえたというべきか)景色を自らの心の中に再現する。
これがソリッドな理解となる。
しかし、鑑賞者も、その記述通りの景色の再現で終えるわけではない。
鑑賞者それぞれは、それぞれの想像力に応じて、
その「五・七・五」の行間を膨らませたり、
必ずしも芭蕉が感じた世界とは同じではない別の世界を感じたり、
そうしたファジーな理解を行うのである。
このように、一級の芸術作品は、作者側の優れたにじみ表現と
鑑賞者側の優れたにじみ理解の両方がなされてはじめて成り立つのである。

芸術作品より難解な哲学書を表したのが、受信例〈3〉である。
デカルトが『方法序説』を通じて読者に伝える内容は、
具体的明示の部分は少なく、抽象的暗示の部分が大きい。
「我思う、ゆえに我あり」という言葉の結晶は形而上の示唆に富み過ぎていて、
私たち一般人が理解できるのはそのわずかしかない。

哲学書と同様(いやそれ以上に)、抽象的暗示に富んでいるのは、宗教の経典である。
キリスト教の『聖書』、仏教で例えば『法華経』、イスラム教の『コーラン』などは、
その文章を逐語訳的に理解したところで、その教えのごく一部分しか分からない。
その教義を理解するというのは、その大部分がファジーな思考・体験・確信によるのだ。

〈受信例4〉は、対自然の場合を表したもので、少し特殊である。
なぜなら、自然は、私たちに実にさまざまなメッセージを発しているが、
それらはいっさい形式化されないからだ。
すべてがファジーな情報(現象、雰囲気、アナログな変化)として発せられるのみである。
だから、そのメッセージを受け取るには、
道具を用いて観察値として検知するか(=ソリッド理解)、
個々の五感・第六感を研ぎ澄ませて感知するか(=ファジー理解)になる。
人間が自然の美しさを深く理解するのは、もちろん後者によってである。

このように私たちは、ソリッドとファジーの2つを複雑微妙に掛け合わせながら、
物事をとらえたり、伝えようとしたり、理解しようとしている。
大事なことは、物事が複雑になればなるほど、
ファジー、つまり不明瞭な“にじみ”の部分が大きくなってくることである。
このことは言い方を変えると、
世の中の複雑なことをとらえ、伝え、理解しようとするには、
ファジーに考える力をつけないとダメだということだ。

ソリッドに考えるということは、端的に言うと、
物事を単純化して目に見える形にしてしまうことである。
もちろんこういった思考も必要ではあるが、それに安易に偏向してしまうと、
往々にして、真理を含んだ“にじみ”の部分を捨ててしまう、
あるいは、曖昧の中に潜む本質を抽出できなくなってしまうことに陥る。
実はこれが、いまビジネス現場でも、世の中一般でも起こっている現象なのだ。


◆“にじみ”を省く思考がもたらすもの
私は企業研修とそれに関連するビジネス書の執筆を主たる生業としている。
顧客企業の要望に応え、潜在読者であるビジネスパーソンの要望を受けながら、
研修プログラムや書籍コンテンツをつくるのが仕事となる。
しかし、いつも研修担当者や出版社の編集者と綱引きをしている。
それはどんな綱引きかというと、
「なるべく具体的・実践実用的で分かりやすくしてください」という先方の要請と、
「多少、抽象論となっても、受け手に思索させる余白を入れましょう」という
私の意図との綱引きである。

企業の研修担当者は、業務処理に直結する研修内容を望む。
知識吸収や技能習得をさせて研修効果の見えやすいプログラムを望む。
そういったプログラムの方が、受講者からは何かと文句は出ないし、やりやすいのだ。
また、ビジネス書の企画・編集においてもそうだ。
ともかく内容を単純化し即効的なものにしたほうが売りやすいし、実際に売れていく。

受け手は簡便なソリッドな情報を欲しがり、理解に骨の折れるファジーな情報を敬遠する。
より正確に言えば、直接仕事の処理に結びつく情報には金を出して本を買うが、
直接的に実効のないものには、よいことが書かれているとは思いつつ、
金を出してまで難しい本を読みたくないというのが心情だ。
そのために中間にいる人たちは、戸惑いながら、しかし最終的に受け手におもねっている。
私は(自省を込めてだが)その傾向に抗わねばならないと思っている。

その理由を図5、図6を使って説明しよう。図5は、
書店によく並んでいる『○○に成功する25の鉄則』といった実用書のモデルである。
著者は、具体的で分かりやすい即効性のある本のほうが売れるだろうと思って、
そして出版社のそうした意向もあるので、思い切って内容を単純化する。
そして、にじみ情報を省いて、「成功する25の鉄則」という本をまとめる。


Sl-fz 05 


この本は、いわば簡便に内容が具体化され、整理されたソリッド情報の本である。
読者はにじみ部分の情報がないので、とても読みやすい。
読者は成功を信じて、25の鉄則をマニュアル的に実践すればよいだけだ。
読者はことさら行間を読み、
自分なりに内容を膨らませて理解しようという刺激を受けない。
こうした類の情報摂取・情報理解が習慣化してくると、
ファジーに考える力が衰えていくのは明らかだ。

にじみを省いた情報が好まれ、同時に、ファジーな思考力が衰えるとどうなるか
───図6を見てほしい。
いま、「成功する25の鉄則」を読んだ受け手Aは、
この本のことを他者(受け手a)に伝えようと思っているのだが、
本にはにじみの部分が削ぎ落とされている上に、
みずからもファジーに考える力が弱いので、自分なりににじみを加えられない。
すると、送り手Aが発信できるのは、
本を読んで具体的に理解できた箇所の要約か、
コピペ(コピー&ペースト)でまるまるの写しかになる。
そうして理解容易なソリッド情報だけが、縮小再生産されて伝わっていく。


Sl-fz 06 


私は研修の作り手、本の書き手として、
できるだけ分かりやすくプログラムやコンテンツをこしらえる努力は、当然する。
しかし、受け手が安易さから所望する「簡便で具体的で、考える手間を省略した」情報を
与えることは拒みたい。
たとえ売りづらくとも、ファジーな思索を要求する仕掛けを盛りたいのだ。

曖昧に考えることは大事なことだ。
曖昧さを受け入れて、曖昧さとともに思考ができない人は、実は思考力の弱い人である。
具体的な情報、具体的な方法は、効率・実用・功利に結びつきやすい。
大衆的な人気も起こりやすい。だからそこに商売も集まっていく。
しかし、そこに傾倒していけばいくほど、私たちは思考力を弱めていくという罠がある。

思考力は行動の源泉でもあるために、曖昧な思考力の脆弱化は、
仕事を具体的に指示されなければできない社員、
みずからの仕事をみずからつくり出せない社員が増えることと決して無関係ではない。
その点を十分に感じ取っている問題意識の高い人事担当者や編集者は少なからずいる。
しかし、昨今のビジネス現場に吹き荒れる実利・即効主義の明解で強い風の前では、
曖昧に考える力を育もうなどという、まさにファジーな意見(親心?)は、
その灯を消さずにいるのがやっとのことである。


◆ファジー思考とは「干しこんぶ」である
思考力を鍛えるということでロジカルシンキング流行りである。
しかし、その方法論をマニュアル的にいくら巧みに習得したところで、
曖昧なテーマを曖昧に考える力をそもそも欠いていては、
大元のところで行き詰まってしまい、
物事をロジカルに分解し、因果づけし、系統立てるという川下のプロセスに移ることはできない。
大きく複雑な問題であればあるほど、曖昧に考える力がまず必要で、
その上でのロジカルシンキングなのだ。

曖昧に考える力を身につけると、今度は逆に、
世の中の形式化された知識がどんどん生きてくる。
先ほど例に出したような「成功する25の鉄則」を読んでも、
曖昧に考える力を持った読者なら、その羅列された25項目の行間を膨らませたり、
あるいはそこに自分なりの批評と創造を加えて、発展的な理解を得ることができる。
つまり、形式的に固形化された情報を崩し、そこにみずからのにじみを加えて、
ふくよかに考えることができるのである。

ちなみに私はこれを「干しこんぶ思考」と呼んでいる。
―――干して乾燥させたこんぶ(昆布)はカリカリに固く縮こまっているが、
水の中に入れて浸すと、どんどんと大きく柔らかに形が戻ってくる。
そして、こんぶの表面にはぬるぬるした厚い粘液状の膜ができる。
その膜は昆布のエキスをたっぷり含んで、栄養価も高いらしい。
まさに曖昧な思考とは、この“昆布の水戻し”のようにしなやかに膨らみ、
豊かな“含み”をつくり出す思考なのだ。

ただ、私が結論として言いたいのは、
曖昧に考える(ファジー思考)力だけでなく、
やはり具体的に考える(ソリッド思考)力も同様に重要であるということだ。
この2つは車の両輪であって、2つがうまく掛け合う状態が最良である。

例えば、MBA(経営学修士)課程でよく用いられるケーススタディ学習を取り上げよう。
学習者は、まずケース文を読む。このケース文には、ばらばらと
ファクト(その事業に関連して起こった出来事やデータなど)が書かれているだけである。
このケース文は、いわば必要最小限度のソリッド情報と、
行間にたっぷりとにじみを含んだファジー情報の混合素材である。
学習者はこれを読んで、大いに想像をはたらかさねばならない。
事業はどんな状況に置かれていたか、経営者はどんな心境だったか、
こういう手を打てば競合他社はどういう反応をするか……
これらは曖昧さの中で行うファジーな思考である。
にじみを大きく膨らませて、そこでさまざまにシミュレーションを試みる作業となる。

そして次に、学習者は、その事業がなぜ成功したか、失敗したかの要点を整理する。
それは5つの要因にまとめられるかもしれないし、1つの図に表現できるかもしれない。
これは、曖昧さを固形化させる作業であり、ソリッド思考が求められる箇所だ。

そして、それら成果物をもとに、クラスでディスカッションを行う。
これはまた、ファジー思考とソリッド思考の往復になるだろう。
そしてそのケースで得た自分なりの結論を、今度は自分が直面する事業に応用する。
そこでもさらに、ファジーに考え、ソリッドに考える往復が待っている。
ただし、昨今、そこかしこでやられているケーススタディは、
事例をお決まりのフレームワークに流し込んで、
それで何かを学んだように錯覚しているところが問題である。
「4P」やら「SWOT」やら「5Forces」に流し込むのが学習の目的ではない。

理想は下図のような位置で、2つの思考が相乗的に回転することだ。
切れ味鋭いダイヤモンドの刀を持ち、
みずからが考えるものを明快に切り出し、造形する力を磨くとともに、
内には豊かな知識・叡智を湛え、
ひとたび稲妻が走るや否や、新しい何かを生み出す力を持つ───その両回転だ。
そのために大事なことは、物事を究めたいという意志を強く湧かせることだろう。
そして、借り物でない中身の詰まった自分自身の思考をすることだ。

理を尽くして考えて考えて、曖昧さにたどり着くことは自然に起こる。
(ゲーテが不可知論にたどり着いたように)
合理性と曖昧さは相反しない。
ただ、ラクをして考えたい効率性や功利主義の人間にとっては嫌うべきものなのだろう。
理を尽くして考え持った曖昧さは、そのままその人の考える力になる。
強い思考力を持った人は、内に相当の曖昧さを保持した人なのだ。


Sl-fz 07 



◆輪郭線で写実するのではない。内から精神的内容で満たすのである〈ロダン〉
最後に、彫刻芸術の巨人オーギュスト・ロダンの言葉を書き留めておく。
(いずれも『ロダンの言葉』高村光太郎編集、講談社より)
これらの言葉の行間には、にじみが溢れている。
そのにじみを大いに曖昧に味わってほしい。


  「良い彫刻家が人間の胴体を作る時、彼の再現するのは筋肉ばかりではありません。
  其は筋肉を活動させる生命です。
  われわれが輪郭線を写し出す時は、内に包まれている精神的内容で其を豊富にするのです」。  

  「凡庸な人間が自然を模写しても決して藝術品にはなりません。
  それは彼が“見”ないで眺めるからです」。

  「肉づけする時、決して表面(スルファス)で考えるな。
  凹凸(ルリーフ)で考えなさい。
  君達の精神がすべての上面にあるものは皆其を後ろから押している量の一端だと
  見做す様になれと思う。形は君達に向かって突き出たものだと思いなさい。
  一切の生は一つの中心から湧き起る。
  やがて芽ぐみそして内から外へと咲き開く。
  同じ様に、美しい彫刻には、いつでも一つの強い内の衝動を感じる。
  此が古代藝術の秘訣です」。 



*本記事からさらに考察を進め、「ソリッド思考」を「キレの思考」へ、そして「ファジー思考」を「コクの思考」へと概念を発展させ、2012年12月『キレの思考・コクの思考』(東洋経済新報社)として単行本を刊行いたしました。


 

美はそれを見つめる瞳の中にある

2.2.1


 “Beauty is in the eye of the beholder.”
美はそれを見つめる瞳の中にある。



春に爛漫と咲く桜は美しい。白銀の冠を戴き雄大にそびえる富士の山は美しい。
これらは万人にわかりやすい美だ。
それと同じように、近所の雑木林を歩いて見上げる冬の木々の、
魔女の手の甲に走る血管のような枝々も私は美しいと思う。
そして、地面に落ちもはや脱色しカラカラに朽ちた葉っぱも美しいと思う。

美は、“属性”(事物が有する性質)ではない。
美は、他がそれを美しいと感受してはじめて美になるのだ。
ゴッホの絵は美しいだろうか?……彼の生前は美しくなかったが、死後、美しくなった。

美は、受け取る側の感度・咀嚼力・創造力に任されている。
とすると、「美の生涯享受量」(LGPB;Lifetime Gross Perception of Beauty)というのは、
個人個人で天地ほどの差があるにちがいない。

私が興味を覚えるのは、
同時代の個人を比べて誰がLGPBが多いか少ないかということではない。小林秀雄が、

「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。
常なるものを見失ったからである」 (『無常という事』より)


と言ったように、現代人のLGPBは、はたして過去の人びとに比べてどうなのかという点だ。

21世紀に生きる私たちは、科学技術の発達によって、
うんと絵を見、うんと音を聞き、うんと移動して旅をし、うんと豊かにものを食している。
しかしそれでもなお、私が異国のリゾートホテルで見る月は、
鎌倉時代の女房がふと庭木越しに拝んだ月ほどに味わい深いものだろうか。
ひょっとすると日本人のLGPB曲線は、ある時代をピークとして現在では逓減カーブを描いているのではないか。

美を感受し、咀嚼し、創造する瞳が弱ってくることは、美をつくる側をも弱める。
音楽にせよ、絵画、映画、小説にせよ、現在では大作が生まれず、
作品が小粒になったとそこかしこで言われる。
それは、つくり手が小粒になったというより前に、受け手が小粒になったからなのだろう。
いつの時代も「偉大な聴衆が、偉大な音楽家を育てる」のだ。
優れた芸術家を殺すことは訳のないことである───みんなが鈍感になりさえすればよい。

その時代がどんな美を生み出すか、
そして自分自身が一生の間にどれだけの美を享受できるかは、
ひとえに私たち一人一人の瞳の磨き具合によっている。
アンリ・マティスは言った―――

「花はいつもどこにでもある。それを見たいと欲する気持ちさえあれば」と。


通勤途中に見過ごす街路樹の木肌が力強いぬくもりを持っていることや、
古本屋のワゴンで手に取ったすっかり紙焼けした古典詩集のなかに感じ入る一行を見つけること、
そして市民農園で育てた大根を味噌汁に入れて食べるときのおいしさには、
何か大きなものにつながっている美がある。
日々のなかに、そうやっていったん立ち止まり、
心を深くにもぐらせる暇(いとま)をつくることが大事なのだろう。
表層の刺激ばかりに反応する生活は、瞳を疲れさせるだけになる。
瞳を閉じてこそ、美はすっとにじんで立ち現われてくる。




高台に「もう一人の自分」をこしらえよ

3.7.5


現実の自分は何かと迷い、悩み、揺らぐものである。
そうしたとき、自分を導いてくれるのはほかならぬ理想の自分、目的を覚知した自分、
全体を冷静に俯瞰する自分である。
心理学ではそれを「メタ認知」といい、世阿弥は「離見の見」といった。


* * * * *

◆ボールから遠いときに何をしているか
故・長沼健さんは、往年のサッカーファンなら誰しも知る日本代表選手であり、日本サッカー協会会長としてもご活躍された方である。その長沼さんが書かれた『十一人のなかの一人~サッカーに学ぶ集団の論理』(日本生産性本部)の中に、「ボールから一番遠いとき、何を考え何をしているか」という一節がある。―――

「一試合で一人の選手がボールに直接関係している時間は、合計してもわずか二分か三分といわれている。一試合が90分だから、ボールに関係していない時間が87分から88分という計算になる。

ボールに直接関係しているときは、世界のトップ・クラスの選手も、小学校のチビッコ選手も同じように緊張し集中している。技術の上下はあっても、真剣であることに変わりはない。ボールに直接関係していない時間の集中力が、トップ・クラスの連中はすごいのだ。逆にいえば、ボールに直接関係していないときの集中力のおかげで、いざボールに関係するときの優位を占めることができるし、もっている技術や体力が光を帯びることになるわけである。

サッカー選手の質の良否を見分ける方法は比較的簡単だ。ボールから遠い位置にいるとき、何を考え、どういう行動をとるかを見れば、ほぼその選手の能力は判断できる」。



◆「メタ認知」「離見の見」
ところで、心理学の研究テーマのひとつに「メタ認知」がある。メタ認知とは、自分が認知していることを認知することで、いわば、現実に考え行動している自分を、もう一人の自分が一段高いところから観察することをいう。

世阿弥は約600年前に「離見の見」(りけんのけん)・「目前心後」(もくぜんしんご)と言った。つまり、能をうまく舞うためには、舞台を俯瞰できる場所に(想像上の)視点を置き、自分自身の舞いを客観的に眺めよ、目は前を見ているが、心は後ろに構えておけ、と指南するのだ。優れた舞いは、現実に舞っている自分と、それを監視し冷静にコントロールするもう一人の自分との共同でなされるという奥義である。世阿弥の伝えたことが、今日の心理学でいうメタ認知にほかならない。

メタ認知は、実は日ごろの仕事現場にも不可欠な能力である。例えば、会議や商談などで「空気を読んで」適切な発言をすること。これができるには、その場の状況の流れを客観的な位置から感じ取るメタ認知能力が必要になる。

また、何か悪い出来事やストレス負荷のかかる状況に接したとき、それをネガティブな思考回路にくぐらせず、ポジティブな解釈で対処するのもメタ認知レベルの作業である。

さらには、他社の成功事例から学ぶケーススタディは、その本質の部分を抽出して、自社に応用するという抽象化思考を行っているわけだが、これもメタ認知活動のひとつである。同様に、いま流行のクリティカル・シンキング(批判的思考)も、視点を一段上げ、そこから情報の矛盾や真偽を明らかにしていくという点でメタ認知的である。

私はみずから行っているキャリア教育プログラムの中で、「セルフ・リーダーシップ」というセクションを設けている。セルフ・リーダーシップとは、みずからがみずからを導くことであるが、これを説明するのに私は、「現実の世界で迷い、悩み、揺らぐ自分を、大いなる目的を覚知したもう一人の自分が導く状態」としてきた。これはまさに、セルフ・リーダーシップのためにはメタ認知能力が不可欠であることを言っている。

◆高台にいかに「もう一人の自分」をこしらえるか
さて、冒頭の長沼さんの言葉。彼は結局、優れたプレーヤーというのは、ボールが自分のところに回ってきたときだけ、局所的・分業的に高度な技術を発揮できればよいと考える人間ではなく、ボールがどこにあろうが、ピッチ全体を見渡す視点からゲームを眺め、大局的な判断から献身的に、ときに犠牲的に動き回る人間のことだと言っているのだ。やはりこれも、高台にいる想像上のもう一人の自分が、ピッチでプレーする現実の自分と常に高速でやりとりをしながら、瞬間瞬間にベストと考えるプレーを行うというメタ認知能力を駆使している姿である。

スポーツにせよ、芸術にせよ、そしてビジネス現場の仕事にせよ、高台から自分を見つめるもう一人の自分をこしらえることは、きわめて重要な能力となる。では、その高台のもう一人の自分をこしらえるためには、具体的にどんなことが必要になるのか―――それは次の3つのことがあげられる。

1つめに、飽くなき向上心をもって理想の自分像を思い描くこと。
2つめに、関わるプロジェクトに関し、
大きな目的(何を目指すのか×なぜそれをやるのか)を持つこと。
3つめに、たとえ部分的に関わっていることでも、
全体の責任を担うという責任者意識、当事者意識、オーナー意識を持つこと。


―――これら3つを意識したもう一人の自分をこしらえたなら、現実の自分を高台から叱咤激励し、きっと自分が予想もしなかった高みに引き上げてくれるにちがいない。




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