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「請求書的」祈り・「領収書的」祈り

5.3.3



年始に原稿に向かっている。きょうは「祈り」というテーマで書きたい。正月3が日のテレビニュースの定番といえば初詣。世の中や生活が平和であれば益々の安泰を願い、不景気で不安定であれば、よりよくなることを願う。人びとの心の中から祈りが消えることはない。しかし、私個人は、この年始イベントとしての初詣風景を、少し距離を置いて見ている。一つには、一部の寺社に商業主義めいたものが目に付くこと。そしてもう一つには、参拝客の「祈りの姿勢」にある。

もちろん商業主義に走らないまっとうな寺社もあるし、真摯な信仰心で詣でる人はたくさんいる。私自身も信仰心が篤いほうだが、私は近所の多摩川に出て、昇りゆく太陽に一人静かに祈りを立てるだけのスタイルでやっている。


◆請求書的祈り・領収書的祈り

仏教思想家のひろさちやさんは、祈りには2つの種類があることをうまく表現している。

「宗教心というと、今の日本人はすぐに御利益信仰を思い浮かべますが、神様にあれこれ願い事をするのは宗教ではありません。ああしてください、こうしてくださいとまるで請求書をつきつけるような祈りを、私は『請求書的祈り』と名付けていますが、本物の宗教心というのは、“私はこれだけのものをいただきました。どうもありがとうございました”という『領収書的祈り』なんです」。
―――『サライ・インタビュー集 上手な老い方』より



私が一億総初詣に「どうもなぁ」と思ってしまうのは、その多くが『請求書的祈り』になっていやしないかと思うからだ。そこには賽銭(さいせん)も飛び交う。これで本当に願いがかなってしまうのなら、私はその神仏や信仰心(?)は、逆に、あやういものだと思う。


◆職人の心底に湧く「痛み」

そんなことを前置きとしながら、ここからは「仕事・働くこと」の要素も含めながら「祈り」を考えていきたい。「祈り」について、私が著書でよく引用するのが次のお二人の言葉である。西岡常一さんは1300年ぶりといわれる法隆寺の昭和の大修理を取り仕切った知る人ぞ知る宮大工の棟梁である。彼は言う―――

「五重塔の軒を見られたらわかりますけど、きちんと天に向かって一直線になっていますのや。千三百年たってもその姿に乱れがないんです。おんぼろになって建っているというんやないんですからな。
しかもこれらの千年を過ぎた木がまだ生きているんです。塔の瓦をはずして下の土を除きますと、しだいに屋根の反りが戻ってきますし、鉋(かんな)をかければ今でも品のいい檜の香りがしますのや。これが檜の命の長さです。

こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目ですわ。千年の木やったら、少なくとも千年生きるようにせな、木に申し訳がたちませんわ。・・・生きてきただけの耐用年数に木を生かして使うというのは、自然に対する人間の当然の義務でっせ」。 
 ―――『木のいのち木のこころ 天』より



もう一人は染織作家で人間国宝の志村ふくみさん。淡いピンクの桜色を布地に染めたいときに、桜の木の皮をはいで樹液を採るのだが、春の時期のいよいよ花を咲かせようとするタイミングの桜の木でないと、あのピンク色は出ないのだという。秋のころの桜の木ではダメなのだ。

「その植物のもっている生命の、まあいいましたら出自、生まれてくるところですね。桜の花ですとやはり花の咲く前に、花びらにいく色を木が蓄えてもっていた、その時期に切って染めれば色が出る。
・・・結局、花へいくいのちを私がいただいている、であったら裂(きれ)の中に花と同じようなものが咲かなければ、いただいたということのあかしが、、、。

自然の恵みをだれがいただくかといえば、ほんとうは花が咲くのが自然なのに、私がいただくんだから、やはり私の中で裂(きれ)の中で桜が咲いてほしいっていうような気持ちが、しぜんに湧いてきたんですね」。 
 ―――梅原猛対談集『芸術の世界 上』より




◆いかなる仕事も自分一人ではできない

仕事という価値創造活動の入り口と出口には、インプットとアウトプットがある。ものづくりの場合であれば、必ず、入り口には原材料となるモノがくる。そして、その原材料が植物や動物など生きものであれば、その命をもらわなければならない。

古い言葉で言えば「殺生」である。

そのときに、アウトプットとして生み出すモノはどういうものでなくてはならないか、そこにある種の痛みや祈り、感謝の念を抱いて仕事に取り組む人の姿をこの二人を通して感じることができる。

毎日の自分の仕事のインプットは、決して自分一人で得られるものではなく、他からのいろいろな生命、秩序、努力によって供給されている。例えば、いま私はこうして原稿を書いているが、まずは過去の賢人たちが著した書物が私に知恵を与えてくれている。また、この原稿をネットにアップしようとすれば、ネット回線の維持・保守が必要であり、ブログサイトをきちんと運営してくれる人の労力がいる。

さらに、こうして考えるためには、私の頭と身体に栄養が必要で、昼に食べた雑煮(そこには出汁にとった昆布や鶏肉、そして餅の原料となるコメ)がその供給をしてくれている。それら、昆布やら鶏やらコメの命と引き換えに、この原稿の一文字一文字が生まれている。だからこそ、古人たちは、食事の前後に「いただきます」「ごちそうさまでした」と手を合わせた。

そんなこんなを思い含んでいけば、自分が生きること、そして自分が働くことで何かを生み出す場合、他への恩返し、ありがとうの気持ちが自然と湧いてくる―――これこそが祈りの原点だと思う。


◆「よい仕事」とは?

物事をうまくつくる、はやくつくる、儲かるようにつくることが、何かとビジネス社会では尊ばれるが、これらは「よい仕事」というよりも「長けた仕事」というべきだろう。「よい仕事」とは、真摯でまっとうな倫理観、礼節、ヒューマニズムに根ざした「祈り」の入った仕事をいうのだと思う。

私たちは、いつの間にか、生きることにも働くことにも、効率やスピード(即席)、利益ばかりに目がくらんで、大事な祈りを忘れている。ましてや、祈りにも効率や即席を求めるようになった。普段の仕事現場で、自然の感覚から仕事の中に「祈り=ありがとう、そしてその恩返し」を込められる人は、おそらく「よい仕事」をしている人で、幸福な仕事時間を持っている人である。これらをないがしろにして、「さ、正月だ、初詣だ、賽銭だ、儲かりますように(柏手:パンパン)」ということに、私は閉口する。


◆祈りの三段階

宗教学者の岸本英夫氏は『宗教学』の中で、信仰への姿勢を3段階に分けている。すなわち、「請願態」、「希求態」、「諦住態」である。

1番めの請願態とは、先の請求書的祈りと同じく、神や仏、天、運といったものに何かご利益を期待する信仰の姿勢である。2番めの希求態は、信仰の根本となる聖典に示されているような生活を実践して、真理を得ようとする求道の姿勢である。そして3番めの諦住態とは、信仰上の究極的価値を見出し、その次元にどっしりと心を置きながら、普段の生活を営んでいく姿勢をいう。

振り返ると私たちは、自分たちの祈りがついつい請求書的になっていないだろうか───
 「もっと給料を上げてほしい(これだけ頑張ってんだから)」、
 「もっと自分を評価してほしい(この会社の評価システムはおかしいんじゃないか)」、
 「上司が変わればいいのに(まったくもう、やりにくくてしょうがない)」、
 「宝くじが当たりますように(会社を辞めてもいいように)」など。

こうした祈りは、自分の中にエネルギーを湧かせることはなく、むしろエネルギーを消耗させるものである。祈りの質を、本来のものに戻していかなければならない。信仰も仕事も一つの道と考えれば、大事な姿勢というのは2番目の希求態と3番目の諦住態である。

その2つのエッセンスを一言で表現すれば、「覚悟」ではないか。ほんとうの祈りとは、「他からこうしてほしい」とおねだりすることを超えて、「自分は自分が見出した意味のもとに何があってもこうする!」という覚悟であるべきなのだ。「誓願」といってもいいかもしれない。まず誓いがあって、そのもとでの願いである。祈りがそうした覚悟にまで昇華したとき、おそらくその人は、嬉々として、たくましく、いかなる困難が伴ったとしても強く動けるはずだ。

私は、祈りの理想形を「ろうそく(蝋燭)モデル」としてとらえている。

つまり、ろうそくのろうの部分が「ありがとう」という感謝の念。ろうそくの芯の部分が、「自分の覚悟」。そして、そのろうと芯を燃やして「具体的行動・仕事」という炎を明々と灯す。炎がつくる明かりは世の中を照らすのみならず、自分が進んでいく前をも照らす。こうしたろうそくが1本2本……何百万本、何千万本と増えていくことが、世の中がほんとうに強く動いていくことだと思う。

「ありがとう」と「覚悟」から生まれる祈り───私は、働くことや生きることの中心にこれを据えていきたい。



選択肢の創出力 ~仕事を「選べる人」・「選びにいく人」

1.6.5


Aさんのもとには彼の才能と人柄を頼って、日々、いろいろな仕事・仕事相談が舞い込む。そして、彼はその中から自分がワクワクできる仕事を悠々と選ぶことができる。(つまらない案件だと思えば、それを断ることもできる)

他方、Bさんは自分に都合のよい条件の仕事を探し回っている。3度目の転職を考えているのだ。「まったく、世の中にはイイ仕事なんてありやしない」と愚痴混じりに、ネット上の膨大な求人情報をさまよう。


◆カタログ上の仕事情報は急増している・・・だが
ピーター・ドラッカーは『断絶の時代』の中でこう述べている。

「先進国社会は、自由意志によって職業を選べる社会へと急速に移行しつつある。
今日の問題は、選択肢の少なさではなく、逆にその多さにある。
あまりに多くの選択肢、機会、進路が、若者を惑わし悩ませる」。



確かに、この指摘は一面で正しい。だが一面で、正しくないともいえる。つまり、カタログ上の職業や職種、あるいは求人は過去に比べ増えている。ネットや印刷物に載る就職情報・求人情報は日常、溢れるほどあり、そういった意味では、ドラッカーの言うとおり、私たちはその種類の多さに、いったんは惑い、悩む。しかし、よくよく自分の適性やら条件やらに当てはめていくと、「これもダメ」、「あれもバツ」……となっていき、ついには自分が選べるものがみるみるなくなっていく。そして、残った数少ないものに応募し、面接するのだが、結果は「不採用」・・・(沈黙)カタログの中には、無数の選択肢が目まぐるしく記載されているのに、自分はどこからもはじかれてしまう。そんなBさんのような人が世の中には多くなっている。

とはいえ、広い世間には、それとは真逆の人もいる。Aさんのような人だ。彼のもとには、仕事が向こうから寄ってくる。


◆「仕事を選びにいく回路」に留まっているかぎりジリ貧になる
この二人の状況の差を生み出しているのが、「選択肢創出力」の差である。すなわち、「選択肢をつくり出し、結果的に“選べる自分”になる力」だ。

Bさんのように、都合のよいものだけを追いかける働き方をしている人は、そもそも選択肢を増やすことをしない。既存の選択肢に自分が擦り寄り、あれこれ選り好みしているだけなので、早晩、ジリ貧になる。「選びにいく」先の洞窟はどんどん狭くなっているのだ。

ところがAさんは自分が譲れない価値や大事にしたい意味を持っている。それを軸にして仕事をする。たとえ目の前の状況や環境に不満や違和感があっても、軸を変えず、ともかくその場でなにかの結果を出す。そして少しずつ方向修正をしながら、「職業人としての自分」というもの、「自分の仕事」というものの独自性や世界観を醸し出していく。と同時に、周囲からも信頼を得る。その独自性や世界観、信頼は、知らずのうちに人との出会いや機会を引き寄せることになり、結果的に選択肢が広がる状況が生まれる。

自分の仕事の世界観をつくるには、明確な目的を抱き(=自分が働く方向性・イメージ・意味を腹に据え)、自分の道を“限定”していくことだ。自分を目的に沿って限定することが、逆説的だが、実は、選択肢を増やすことにつながっていく。


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今の世の中は、専門バカといわれようが、オタクと呼ばれようが、そんな小さな隙間分野に固執して大丈夫かと言われようが、自分の決めた目的の下に、粒立った一個の仕事人になることが「選択肢の総出力」を高めることにつながる。

「選べる自分」になるのか、「選びにいく」自分になるのかの分岐点は、理屈をこねず、怠け・甘え・臆病を排し、ひとたび腹を据えて、目的(当初はあいまいでもよい)を設定し、そこにがむしゃらに動くかどうかである。それを実証してみたいなら、何かに3年間しがみついて、こだわって、没入してみること。すると予想もしなかった選択肢が自分のところに寄って来るのがわかるだろう。


◆「小さな自由」と「大きな自由」
ネット通販amazonの日本法人の立ち上げ時期に書籍バイヤーとして活躍し、現在は出版コンサルタントをしている土井英司さんは、『「伝説の社員」になれ!』のなかでこう書いている。

「転職は、今いる会社で実績を積み、“伝説”をつくってからでも遅くはありません。いや、実績を積んだときはじめて、転職するもしないも自由な身になれるのです」。



そう、私たちの目の前にはいろいろと選択肢はある。現職に違和感や不満があり、なんとなく転職でもしてみるかという心理モードになる場合もある。確かに人材紹介会社に登録をすれば、どこかに移れるかもしれない。しかし、それは「小さな自由」のなかの選択にすぎない。現職にいましばらく留まって、なにかしらの「伝説」をつくったならば、おそらくそのときにはまったく違った選択肢が自分の周りに見えていることだろう。それが「大きな自由」を手に入れることだ。

いまいるその場で、自分を限定的に燃やし、結果を出すことが大事である。そのことをせずに、いつも目をキョロキョロさせて、もっと都合のいい条件・環境はないかと探し回らないことだ。「選びにいく自分」の末路は必ずどん詰まりになる。理想をイメージすること、自分を目的の下に置くこと、そして何かしらの結果を出してやるぞという気骨さえあれば、「選べる自分」になっていく。特別な能力は必要ない。

私は毎朝メールボックスを開けるのが楽しみでだ。きょうも既知・未知の誰かから、何かしらプロジェクトの提案メールが来ているかもしれない。「選べる自分」になると、未来がワクワクする。


*   * * * *
【補足1】

阪急グループ創業者である小林一三はこう残した───

「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。
 そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」。



豊臣秀吉が織田信長の下足番からのし上がり、ついには天下を取った話は有名である。小林は著書『私の行き方』の中でこう補足する。

「太閤(秀吉)が草履を温めていたというのは決して上手に信長に取り入って天下を取ろうなどという考えから技巧をこらしてやったことではあるまい。技巧というよりは草履取りという自分の仕事にベストを尽くしたのだ。厩(うまや)廻りとなったら、厩廻りとしての仕事にベストを尽くす、薪炭奉公となったらその職責にベストを尽くす。

どんな小さな仕事でもつまらぬと思われる仕事でも、決してそれだけで孤立しているものじゃない。必ずそれ以上の大きな仕事としっかり結びついているものだ。

仮令(たとえ)つまらぬと思われる仕事でも完全にやり遂げようとベストを尽くすと、必ず現在の仕事の中に次の仕事の芽が培われてくるものだ。そして次の仕事との関係や道筋が自然と啓けてくる」。



要は、生涯、下足番になり下がるも、それを極めて次のステップに自分を押し上げるも、すべては本人の心持ち次第ということだ。演劇の世界に「小さな役はない。小さな役者がいるだけだ」という言葉もある。切り替えて言えば、「小さな仕事はない。仕事を小さくしている働き手がいるだけだ」ということになる。


*   * * * *
【補足2】

「選択力」

人生は選択の連続である。私たちは朝起きてから夜寝るまで、大小無数の岐路に立たされ、何か一つの選択をして進んでいく。人生は選択が織りなす模様ともいえる。そのとき、人それぞれに「選択する力」の差がある。私はその「選択する力=選択力」を次の3つで考える。すなわち、

  ・「選択肢を判断する力」
  ・「選択肢をつくる力」
  ・「選択を(事後的に)正解にする力」

1番目は、眼前にある選択肢のうちどれが最良のものかを分析・判断する力。2番目に、自分が選べる選択肢をつくり出す、増やす、呼び寄せる力(これが本項の中心論議だった)。そして3番目に、自分が選んだ道をその後の努力で「これが正しかった!」と思える状況をつくる力。

選択力を考えるとき、誰しも1番目ばかりに頭がいく。そしてこれを鋭く磨くことのみを考える。だが、人生・キャリアを切り拓いている人は、2番目をしたたかにやり、3番目をしぶとくやっていることに気がつくべきだ。








個と組織の自律性~米・パタゴニア社『社員をサーフィンに行かせよう』

4.3.3


今日、従業員の自律性を高めることは、人材育成上の大きな課題となっている。ここでは、個々の自律性を考える教材として、一冊の本を取り上げたい。その中には、自律的な働き手たちのひとつの模範がある。その本とは───

『社員をサーフィンに行かせよう-パタゴニア創業者の経営論-』
(原題:Let My People Go Surfing)
イヴォン・シュイナード著(森摂訳)、東洋経済新報社

米・パタゴニア社はアウトドアスポーツ愛好者の間では多くが知る道具・衣料メーカーである。本社はカリフォルニア州の太平洋を望むベンチュラにあり、日本支社は神奈川県鎌倉市にある。いずれも間近にサーフィンのできる海岸があることがミソだ。

それで、この本の「日本語版への序文」を少し長いが引用する(部分的に省略した)。

◇ ◇ ◇

私たちの会社では、本当に社員はいつでもサーフィンに行っていいのだ。もちろん、勤務時間中でもだ。平日の午前11時だろうが、午後2時だろうがかまわない。いい波が来ているのに、サーフィンに出かけないほうがおかしい。私が「社員をサーフィンに行かせよう」と言い出したのには、実はいくつか狙いがある。

第一は「責任感」だ。私は、社員一人一人が責任を持って仕事をしてほしいと思っている。いまからサーフィンに行ってもいいか、いつまでに仕事を終えなければならないかなどと、いちいち上司にお伺いを立てるようではいけない。もしサーフィンに行くことで仕事が遅れたら、夜や週末に仕事をして、遅れを取り戻せばいい。そんな判断を社員一人一人が自分でできるような組織を望んでいる。

第二は「効率性」だ。自分が好きなことを思いっきりやれば、仕事もはかどる。午後にいい波が来るとわかれば、サーフィンに出かけることを考える。するとその前の数時間の仕事はとてもはかどる。たとえば、あなたが旅行を計画したとすると、出発前の数日間は仕事をテキパキやるはずだ。机に座っていても、実は仕事をしていないビジネスマンは多い。彼らはどこにも出かけない代わりに、仕事もあまりしない。仕事をしているふりだけだ。そこに生産性はない。

第三は「融通をきかせること」だ。サーフィンでは「来週の土曜日の午後から」などと、前もって予定を組むことはできない。もしあなたが真剣なサーファーだったら、すぐに出かけられるように、常日頃から生活や仕事のスタイルをフレキシブルにしておかなければならない。

第四は「協調性」だ。パタゴニアには、「私がサーフィンに行っている間に取引先から電話があると思うので、受けておいてほしい」と誰かが頼むと、「ああ、いいよ。楽しんでおいで」と誰もが言える雰囲気がある。そのためには、誰がどういう仕事をやっているか、周囲の人が常に理解していなければならない。

第五の狙いは「真剣なアスリート」を多く会社に雇い入れ、彼らを引き止めることだ。なぜ、真剣なアスリートを多く雇いたいのか。それは、私たちの会社は、アウトドア製品を開発・製造し販売しているからだ。自然やアウトドアスポーツについては、誰よりも深い経験と知識を持っていなければならない。

結局、「社員をサーフィンに行かせよう」という精神は、私たちの会社の「フレックスタイム」と「ジョブシェアリング」の考え方を具現化したものにほかならない。この精神は、会社が従業員を信頼していないと成立しない。これを私なりにMBAと呼んでいる。「経営学修士」ではなく、「Management By Absence(不在による経営)」だ。いったん旅行に出ると、私は会社には一切電話しない。そもそも携帯電話もパソコンも持っていかない。もちろん、私の不在時に彼らが下した判断を後で覆すことはない。社員たちの判断を尊重したいからだ。そうすることで、彼らの自主性がさらに高まるのだ。



◇ ◇ ◇

……どうだろう、私はここに「自律的な個人と自律的な組織」のひとつの模範をみる。

読者の中には、「これは特殊な会社の事例だ」「企業プロパガンダの施策ではないか」「うちの事業サービスでは従業員が職場を離れることなど非現実的」「大企業組織ではそもそも無理」などといった感想があるかもしれない。

いや、ここで着目してほしいのは、パタゴニア社の「やり方」ではなく「考え方」だ。つまり、

・自律的な組織のみが自律的な個人を育むことができる。
 そして自律的な個人が、その組織をより自律的に強めていく。
・自律性とは知識や技能とは別次元のものである。
 それは心の構え様であり、習慣、文化でもある。
・自律的な個人と自律的な組織の間で強力なエンジンとして回転しているのは
 経営者の思想である。



私はこれらの考え方をこそ多くの組織は真剣に取り込む必要があると思う(やり方は組織それぞれに適合したものがあるにちがいない)。

組織・人事の世界では、ひところ、というか今でもなお、社員のキャリアの自律性を高めるためには「ポータブルスキル」を身につけさせることだという考え方がなされる。これは誤りだ。

「会社を越えて持ち運び可能なスキルを持てば、どこの会社でも雇ってもらえる=自律的」という解釈なのだろう。これは自律的という意味を矮小化している。

先の二番目にあげたとおり、自律性は、知識や技能の習得の問題ではない。いくら知識を豊富に持っていても、いくら技能に長けていても、「みずからの判断を下せない」「みずからの仕事をつくり出せない」「みずからのキャリアを拓いていけない」働き手は多く存在する。自律的であるとは、みずからの「律」(=規範・価値観)に基づいて判断・行動ができ、みずからの選択肢をつくり出し、局面を拓いていこうとする心の構え様の問題なのだ。

自律性は心の構え様であるだけに、他人がテクニック的に教えることはできない。本人がみずからの内に醸成するしかない。他者ができるのは、その醸成の刺激づけや範を示すことである。だから、自律性の強い組織からは、自律的な人財が育ち輩出する流れができる(逆に他律的な組織では、他律的な働き手が居つき、自律的な働き手は流出する)。そして自律を促す経営者の思想や理念は、そこに組織文化を生み、求心力を生む。

力強い個の力強い組織をつくるためには、まず「自律性」の涵養からはじめなくてはならない。プロ野球監督としていくつものユニフォームを着た野村克也さんも次のように言う。

「しつけの目的は、自分で自分を支配する人間をつくること」。
(『野村の流儀』より)



そのために、パタゴニア社のシュイナード社長は「社員をサーフィンに行かせよう」という方法をとった。さて、あなたの組織では、どんな取り組み・仕掛けがなされているだろうか。あるいは、組織の中心者は「自律性」ということに対し、どんな思想・理念を現場の一人一人に発しているだろうか。






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