1●仕事・キャリア Feed

意図的につくりにいくキャリア/結果的にできてしまうキャリア

1.6.4



「初志貫徹」は立派な姿勢である。しかし場合により、逆に自分の可能性や進路を狭めてしまうデメリットもある。たとえば、「東大(東京大学)浪人3年目」とか「司法浪人7年目」とか。あるいは、「ミュージシャン目指して30を超えました」とか「人気芸人になりたくて、アルバイト生活10年続けてますが、なかなか芽が出ないようで……」とか。

「東大合格」にしても、「司法試験合格」にしても、「ミュージシャンになる」、「人気芸人になる」にしても(各自の抱く内面の動機=“何のために”という自問の深さはともかくとして)、これらはひとつの夢の追求であり、何も目指さず漫然と生きていくよりはよい生き方だといえる。私はそうした夢や目標をもつことはとても大事だと思っているし、初志貫徹のための挑戦を続ける姿には敬意を表するものである。

ただ同時に、そうした人たちに対し、本項で述べることも頭の中に併存させてほしいと願うものである。なぜなら上記のような人たちの中で、ある割合の人たちは、夢を言い訳にしてほんとうの実り多き人生を逃していたり、その思い込みに向かってただチャレンジしている風だけの生活に自己満足することがあるからだ。

◆「なりたいもの」に固執することの弊害
キャリア形成には、「意図的につくりにいくキャリア」と「結果的にできてしまうキャリア」がある。

前者は、「医者になろう」とか「宇宙飛行士になろう」とか、明確な目標を定めて、意図的に計画しステップを踏んで、ついにそれを獲得していくものである。後者は、医者になろうと思って医学の勉強をしていたが、薬学の研究のほうに興味が湧いて、結果的に新薬の研究者になったとか、医者になったものの、文芸の才能に目覚めて小説家になってしまったとか(たとえば、北杜夫氏や渡辺淳一氏、マイケル・クライトン氏など)、必ずしも計画的ではなかったが、当初とは違う選択が途中でひらめいて、もがいて奮闘して、振り返ってみたらその道で食っていた、そんなようなタイプのものである。

もちろんこの2つのタイプは、二者択一のものではなく、この両者の複雑で動的な混合によりキャリアはつくられていく。

「意図的につくりにいくキャリア」の特徴は次のようなものである。
 ・ターゲット思考
 ・計画、分析、段取りを重視する
 ・長所=明確な到達点に向けて力を出しやすい
 ・短所=思考に柔軟性を欠き、自分の潜在的可能性を狭める危険性がある

「結果的にできてしまうキャリア」の特徴はこうだ。
 ・オープンマインド
 ・出たとこ勝負。状況創造・柔軟性を重視
 ・長所=想定外の可能性を成就させることが起こりえる
 ・短所=漂流する危険性がつねにある

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「自分はなにがなんでも東大に入りたい/司法試験に合格したい」といって何年も浪人生活を送っている人のなかには、その目標が“志”というよりも、むしろ東大・司法試験といった知的ブランドを手に入れたいといった欲望の固執になっている場合が見受けられる。つまり、東大合格や司法試験合格といった世間がわかりやすい評価を得てうらやましがられることが、もはや最大の目的になっている状態だ。私たちの人生の目的は、自己を最善にひらいていくことである。東大や司法試験合格は、なるほどその目的を満たす一つかもしれない。だがそれは手段にすぎないし、他のもっと有効な手段だっておおいにありえる。(だだ、それでも俺は固執する、という人に私はどうこう言えるものではない。その人の人生はその人のものだからだ)

「俺はこれになるしかない!」といった絶対無二の目標を立ててしまうと、他の選択肢が目に入らなくなり、自分の才能を限定してしまう恐れがある。あるいは、いったん他の道に進んで、そこから迂回して当初の目標にたどり着くという可能性をなくしてしまう。だから意識としては、将来の進路や達成イメージに関して、一方にターゲット思考を置き、他方にオープンマインドな柔軟性を置くことが大事になってくる。これが私の言いたい「意図的につくりにいくキャリア」と「結果的にできてしまうキャリア」のバランスの問題である。


◆「想い」を抱きもがくこと。されば道は開かれん
図1はキャリアの進路の変化を表したものである。キャリア形成の途上、私たちの目前には、日々月々、年々、大小さまざまな分岐点が現れてきて、その都度、複数の選択肢が起こる。そこである1つを選択して進んでいく。もしくは意思や努力に反してある方向に転がってしまう、そんなことの図である。

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たとえば、いま自分がA点にいて、D点という山の頂を「意図的につくりにいくキャリア」として目指しているとしよう。B点までは何とかうまく来て、次にC点に上ってゴールに到達したかったのだが、そこで大きな失敗をしてしまい、不本意ながらX点に落ちてしまった。

ここでモヤモヤ、ウジウジとD点という夢が捨てられなくて、モラトリアム状態、夢を言い訳状態にして時間を浪費してしまうことは、上に述べたとおり「意図的につくりにいくキャリア」の欠点になる。そのときに大事なことは、「この目標に固執することが、ほんとうに自分を活かすことにつながっていくのか」「自分の奥底にあるほんとうの想いは何なのか。それを満たすためのもっと身近な、もっと現実味のある別の目標は描けるか」「進路は明確にわからなくなってしまったが、何かに没頭できる別の環境はないか」といったことを深く見つめ直すことだ。そうした頭の切り替えをして、ともかくもがくことだ。

おぼろげでもなにか想いをもってもがいていると、人生とは不思議なもので、必ずなにかのきっかけが起こったり、人との出会いがあったりして、次の展開が起こってくる。図で言えば、Y点というきっかけを得て、Z点という当初想定もしていなかったような山の頂にたどりつくこともある。そしてZ点を経由して尾根伝いにD点に行けるリベンジチャンスも芽生えるかもしれない。

そのときあなたは、遠くにD山を眺めながらこう思かもしれない───「Zという山もまんざらではない。むしろこの山こそ自分が求めていた山だ」。「X点に落ちたときの失敗は自分には十分に意味があったのだ」と。この心心境に立てたときこそ、まさにあなたが偶発を必然に転換し、「結果的にできてしまうキャリア」を最大限のものにした瞬間である。


◆「自分の登るべき山」はどこにある!?
キャリアづくりにおける選択肢や出来事には、あらかじめの正解値はない。その後の行動で、それを結果的に「正しかった」と確信できる状況にできるかどうか、それこそが最重要の問題なのだ。アメリカンフットボールの名コーチとして知られるルー・ホルツはこう言っている。

「人生とは、10%の我が身に起こること。
そして残り90%はそれにどう対応するかだ」。



もうひとつ、画家パブロ・ピカソの言葉―――

「着想は単なる出発点にすぎない
着想を、それがぼくの心に浮かんだとおりに定着できることは稀なのだ。
仕事にとりかかるや否や、別のものがぼくの画筆の下から浮かびあがるのだ。
・・・描こうとするものを知るには描きはじめねばならない」。



私はここで絶対的な目標を立てるな、すべては柔軟的であれと言って、「意図的につくりにいくキャリア」の欠点だけを強調するつもりはない。ひとつ決めた道を何が何でもやり遂げるという生き方は素晴らしいものだ。逆に「結果的にできてしまうキャリア」を偏って肯定すると今度は漂流するキャリアという現象をまねく危険性が出てくる。

私が本項で主張したいポイントは、

・各自が「自分の登るべき山」をもつことは必須である
・しかし「自分の登るべき山」はそれひとつのみではないかもしれない
・キャリアを拓くためのもっとも重要な力は「状況を創出するたくましさ」である
 (計画する力は二の次のものである)
・状況を創出しようと奮闘する過程で見えてくる山が真の山であることが多い
・そう構えれば「自分の登るべき山」はそこかしこに無限に存在する
・そして死ぬ間際に「自分の登った山」(ひとつかもしれないし、複数かもしれない)を充実をもって振り返る。それが「幸せのキャリア」(「成功のキャリア」ではない!)である




◆自己を最善にひらくとは、登るべき山を不断に求めること
最後に理解の補足・おさらいとして図を加える。下図をみてほしい。あなたは、キャリアの途上で、当初目指したD山もZ山も登頂がかなわずに(それは意志・努力が足りなかったのか、運命のいたずらなのか分からないが)、P点に落ちてしまった(P点に退く形にしかならなかった)。ともかくあなたは気落ちしている。

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さて、あなたはもうこの世に登るべき山など見出せないのだろうか? これまで果たせなかったD山やZ山を恨めしく思いながら生きていくのだろうか? もう山なんぞこりごりだと言って適当に自分をごまかして過ごしていくのだろうか? ……まぁ、そうすることもできるだろう。(実際、そういう人は多い)

しかし、やはり私たちはもがかなければならない。もがくことが生きることだから。そしてそのときには、やみくもにもがくのではなく、「想い」をもってもがくことが大事だ。

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ともかくもがくことで、いったん、Q点のような少し見晴らしのきく場所にたどり着くことができるだろう。そして、そこから実はいろんな山が見えてくる。それはR1という山かもしれないし、R2山かもしれない、R3かもしれない……無限の種類のR山がありうる(P点に沈んでいた時には想像もつかないようなR山が)。

結果的にR山を登ってしまった人にとっては、過去のP点の自分を悠然と振り返られる。逆に、P点でもがくことをせず、妥協の人生に流れた人は、ついぞR山の可能性が無限に広がっていたことに気づくこともなく生きていく。

だから「自分の登るべき山はどこにある?」という自問に対する答えはこうだ―――想いのもとにもがいていれば、そこかしこに無限に見えてくる! そして(こちらのほうがもっと大事なことなのだが)、これだと見出した山は必ずしも登頂できるとは限らない。むしろ挫折することのほうが多いかもしれない。それでもまた、次の山を求めるべきだ。その絶え間ない繰り返しこそが、自己を最善にひらく作業そのものであり、山をへたに登頂して満足してしまうよりは得ることがはるかに多いのである。

下の図は、その目指すべき山を見出す努力と挫折との繰り返しを表したものである。たとえば、ここに野球が人並み外れて上手い甲子園球児のAさんがいたとしよう。彼の夢は当然プロ野球選手になることだった。甲子園で活躍し(B点)、後はドラフトに指名されて(C点)プロ野球界入り(D点)を期待していた。ところが肩に故障があることが判明し、その夢が絶たれた(X点)。

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いったんは相当に落ち込んだAさんだったが、それでも野球をやめたくない。そこで彼は次の山を見出した。実業団の世界で野球を続け、スター選手になることだ(Z点)。そして強い野球部を持つ会社に入社した(Y点)。ところが実業団野球の世界も甘くはない。肩がじゅうぶんでないAさんはレギュラーポジションを取れない。それどころかさらに肩を壊してしまい、いよいよ野球すらできない状態になってしまった(P点)。

絶望の底にいるAさんは、それでも「想い」を描き続けた。「野球と共にある人生を送りたい」「名勝負をつくりだす仕事がしたい」。そういう想いさえ抱き続けてもがけば、何かのきっかけをつかめる地点にいくことができる。Aさんは、「日本一の野球道具開発になる」という山だって、「日本一の身体改造トレーナーになる」という山だって目指せるのだ。想いを見失わない人の前には、それこそ山は無限に現われてくる。


◆高いだけが自分にとっての「よい山」ではない
最後に補足をもうひとつ。私が大学講義で就職活動中の学生に伝えたことである。冒頭の「なにがなんでも東大/司法試験合格」のように、就職の際の会社選びにしても、「何がなんでも三菱商事」とか「何がなんでも東京海上」など、世間の決めた人気ランキングに依って、ブランド品を欲しがるように就職先を志望する傾向性は根強くある。私は冒険家・植村直己さんの次の言葉を紹介した。

私は五大陸の最高峰に登ったけれど、
高い山に登ったからすごいとか、厳しい岸壁を登攀したからえらい、
という考え方にはなれない。
山登りを優劣でみてはいけないと思う。
要は、どんな小さなハイキング的な山であっても、
登る人自身が登り終えた後も深く心に残る登山がほんとうだと思う」。
 
                 ―――植村直己『青春を山に賭けて』






働く動機の5段階~お金・承認・成長・共感・使命

1.5.2



◆「働く理由」として大事なもの3つを挙げよ
私がやっている研修プログラムのなかで『「働く理由」自問ワーク』というのがある。なぜ自分は働くのか、日々この仕事をやるのはどうしてか、をあらためて見つめる作業である。あまりにも単純で使い古された問いのように思えるが、日常の雑多な業務処理に追われる仕事現場では、この問いにじっくりと真正面から考える機会は少ないし、ましてや互いの「働く理由」について真面目に話し合う場もほとんどないように思える。

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実際、研修でこれをやってみると、各自がなにかずっと胸の奥底にくすぶらせていた固まりが一気に噴き出す感じで、皆が実に熱く語り出す。「人はパンのみに生きるのか?」という問いは、いまもって大きく深いテーマなのだ。

このワークに用いる自問シートは次のようになっている。まず左側に働く理由の選択候補をいくつか挙げてある。たとえば、

□ この仕事を行うことによって、生計が立てられるから
□ この仕事を行うことによって、裕福になり、財を成したいから
□ この仕事を行うことによって、自分は尊敬されたり、頼りにされたりするから
□ この仕事を行うことによって、成功し、有名になりたいから
□ この仕事を行うこと自体が楽しいから
□ この仕事を行うことによって、自分を成長させることができるから
□ この仕事は、家族に誇れたり、家族が応援してくれているものであるから¥@r
□ この仕事を行うことによって、さまざまな人との出会いが生まれるから
□ この仕事を行うことによって、社会に影響を与えることができるから
□ この仕事を通じて、自分の生き方を表明したいから
□ この仕事を通じて、世の中に残したい何かがあるから
□ その他(              )



これらの理由リストのなかで当てはまるものにチェックを付けていき、それぞれの理由の大事さについて1~5の数値で重み付けをしていく。そして最後に、最も大事だと思う理由の上位3つを順に自分の言葉で書き出す。

1■この仕事(働くこと)は、〈          〉ために大事である。
2■この仕事(働くこと)は、〈          〉ために大事である。
3■この仕事(働くこと)は、〈          〉ために大事である。



さて、働く理由としてこの上位3つに入るものにどんなものがあるだろうか。私がさまざまな研修現場できいてみると、まずもって「生計を立てるため」、そして「自己を成長させていくため」「いろいろな人と出会うため」などが上位の常連となる。すなわち、「お金」「成長」「人とのつながり」が働くことの大事な理由として感じられているようだ。

ではもっと限定して、受講者が働く理由のトップ1に挙げるものは何なのか。これは実施する研修の対象企業、受講者の年次によって多少差が出るが、おおよそ、「お金」を挙げる人が50%、そして「非お金」(=成長や出会いや志の実現など)を挙げる人が50%となっている。働く理由のトップ1に「非お金」を挙げる人は、実は少なからずいるのだ。

私が実施するのはほとんどが企業内研修なので、受講者は同じ会社の同じ年次の集まりになる。しかし、働く理由のトップ1については、「お金」と「非お金」の真っ二つに割れるところが面白い。もとより、働く理由のトップ1に「お金」を挙げるのが低次であるとか、「非お金」を挙げるから高尚であるという話ではない。お金は大事であるし、不当に安い給料で満足するものでもない。今の時代、経済難はさまざまな形で自分に起こってくるものだから、お金を第一に考えるのは当然のことだ。

ただ研修で受講者とのやりとりを観察していると、トップ1に「お金」を挙げる人の一部には、「しょせん、仕事は生きていくために我慢してやるもの」といった労役感や、「もっと買いたいものがあるのに、いまの年収じゃ足りないよね」といった物欲ベースの不足感が見え隠れするところもある。その一方で、トップ1に「非お金」を挙げる人の多くは、今の仕事に何かしらのやりがいを見出していて、そこにおおかたの意識が向かっている様子である。没頭できる仕事テーマがあり、そこに没頭した結果、振り返ると月末に給料が振り込まれていた、そんな感じの仕事生活になっている。


◆「お金を得ることは働く目的か?」にどう答えるか
生きていくうえで、もちろんお金は大事である。だがそのとき、お金を得ることを働く目的に据えるのか、それとも、目的は他にあってお金は手段もしくは結果的に得られればよいものなのか、この両者の意識の差は、実は大きい。

そこで私はさらに下の問いを受講者に投げかけ、討論してもらう。

【問い】
あなたにとって、お金を得ることは働く目的か?
あなたの担当事業(あるいは会社)にとって、利益獲得は事業の目的か?



もちろんこの問いに対する唯一無二の正解はない。働くことは算数の世界ではなく、芸術(アート)の世界に近いともいえる。だからその人なりの意味や価値の尺度が当然ある。実際、研修ではさまざまな意見が飛び交う。その多様な尺度による考え方を共有することで、受講者は自分の考え方の偏り具合や熱い/冷たいを相対的に知る。そして互いに刺激しあうなかで、自分の考えを強める人は強め、修正する人は修正し、冷めていた人は少し熱くなる。そうして意味や価値をはかる尺度もできてくるのだ。私が請け負うキャリア形成に関するマインド醸成研修は、こうした「ピア・ラーニング」(仲間相互による学び合い)こそが一番有益なものになる。

さて研修では、各グループでのディスカッション内容を発表してもらった後、私のほうからもある種の考え方を提示する。

まず1つめ。ピーター・ドラッカーは次のように言う。

「事業体とは何かを問われると、たいていの企業人は利益を得るための組織と答える。たいていの経済学者も同じように答える。この答えは間違いだけではない。的外れである。利益が重要でないということではない。利益は企業や事業の目的ではなく、条件である」。
───『現代の経営』より



ドラッカーは、企業や事業の真の目的は社会貢献であると他の箇所で述べている。その真の目的を成すための「条件」として利益が必要だと、ここで言及しているのである。

金(カネ)は経済の世界では言ってみれば血液のようなものである。人間の体は、血液が常に良好に流れてこそ健康を維持でき、さまざまな活動が可能になる。血の流れが止まれば、人体は死を迎える。それと同じように、経済活動の血である金の流れが止まれば、その経済活動や事業体は死に直面する。ただ、だからといって、血のために私たち人間は生きるのだろうか? 「血をつくるために、日夜がんばって生きています!」という生き方はどこかヘンだ。やはり人間の活動として大事なことは、その身体を使って何を成すかである。血は、肉体を維持するための条件であって、目的にはならない。そう考えると、利益追求が企業にとっての目的ではなく、条件であるとするドラッカーの指摘は説得力がある。
私たち職業人の一人一人の生活にあっても、金を得ることは、目的というより、自分が仕事をするために必要な基礎条件である───これが1つのとらえ方である。


◆お金は結果的に生まれる「恵み」である
次はこの2人の言葉である。

「本質的には利益というものは企業の使命達成に対する報酬としてこれをみなくてはならない」。───松下幸之助『実践経営哲学』

「徳は本なり、財は末なり」。「成功や失敗のごときは、ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである」。───渋沢栄一『論語と算盤』



松下幸之助は、事業家・産業人として『水道哲学』というものを強く心に抱いていた。それは、蛇口をひねれば安価な水が豊富に出てくるように、世の中に良質で安価な物資・製品を潤沢に送り出したいという想いである。松下にとって事業の主目的は、物資を通して人びとの暮らしを豊かにさせることであり、副次的な目的は雇用の創出だった。そして、そうした目的(松下は“使命”と言っているが)を果たした結果、残ったものが利益であり、それを報酬としていただくという考え方だった。

一方、明治・大正期の事業家で日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は、財は末に来るもの、あるいは糟粕のようなものであると言った。仁義道徳に基づく行為こそが目的であり、その過程における努力が大事であって、そこからもたらされる財には固執するな、無頓着なくらいでよろしいというのが、渋沢の思想である。渋沢は、第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、そして一橋大学や日本赤十字社などに至るまで、多種多様の企業・学校・団体の設立に関わった。その活躍ぶりからすれば、「渋沢財閥」をつくり巨万の富を得ることもできたのだろうが、「私利を追わず公益を図る」という信念のもと、蓄財には生涯興味を持たなかった。いずれにせよ、お金・利益を「結果的に生まれる恵み」とするのも一つのとらえ方である。


◆「建物と地盤」
私もこれら3人が指摘したように、「条件」あるいは「結果的な恵み」としてのお金・利益を強く意識している。その解釈イメージを促すために、私は受講者に「建物と地盤」のメタファーを提示する。すなわち、自分たちが働く目的はあくまで何かの建物をこしらえて、さまざまな人に使ってもらうことである。だが、その建物は地盤がしっかりしていないと建たない。お金を得ること、利益を獲得することは、言ってみれば地盤づくりに当たる。
もしその建物が多くの人に利用してもらい役に立てば、その結果の恵みとして、お金が得られることになる。その利益でさらに地盤を固め、土地を大きくしていけば、さらに複雑で大きな建物が建てられる。自己の能力を証明し、人に役立っていくのはあくまで建物を通じてであり、どんなものを建造していくかこそが働く目的となる。地盤づくり自体は目的にはならない(なったとしても、副次的な目的に留まる)。

私は、仕事とは突き詰めれば、能力と想いを掛け合わせて行う「表現活動」だと考えている。お金や利益はその「表現活動」を可能にしたり、発展させたりする機能として効いてくるものだ。だから、お金は血液であり、地盤であるのだ。


◆働く動機の5段階
さて、働く理由・目的についてさらに考察を深めたい。私は、自律的に働くことの意識醸成を目的とした研修をやってきて、さまざまな観察や分析から「働く動機」を5段階に整理している。それを表したのが下図である。

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[段階Ⅰ]金銭的動機
動機の一番土台にくるのが「金銭的」動機である。そこには「生きていかねばという自分」がいて、誰しも懸命に働こうとするのである。金銭を動機として働くことが必ずしも卑しいということではない。「食っていくためにはお金がいる。だからきちんと働いてお金を得、生活を立てていこう」とする姿はむしろ尊い。金銭的動機は、個人を労働に向かわせ、社会の規律や秩序を守るための土台として機能する大事なものだ。ただ、金銭的動機は、「外発的」であり、「利己的」である。

[段階Ⅱ]承認的動機
誰しも他から自分の能力や存在を認められたいと願う。そこにはたらくのが「承認的」動機である。仕事でうれしかったことをアンケートすると、「上司から褒められた/難しい仕事を任された」「お客様からありがとうを言われた」「ネットに発表した記事が多くに読まれた」など、承認・評価にかかわることが多く出てくる。ソーシャルメディア『フェースブック』の「いいね!」ボタンも、いわばこの承認的動機を刺激するものの一つである。ただし、この動機もどちらかというと「外発的」「利己的」の部類である。

[段階Ⅲ]成長的動機
仕事をやるほどに自分の能力が伸びていく、深まっていく、となればもっとその仕事をやってみたくなる。それはその仕事が「成長的」動機を喚起しているからだ。この場合、仕事そのもののなかに動機を見出しているので、「内発的動機」となる。だが、いまだ「利己的」ではある。

[段階Ⅳ]共感的動機
仕事や働くことは、一人では完結しない。何かしら他者や社会とつながりを持つものである。Ⅱ段階目の「承認」より、もっと相互に、積極的に、質的に他者と結びつくことで、やる気が起こってくるのが「共感的」動機である。
自分のやっていることが他者と共感できる、他者に影響を与えることができる、社会に共鳴の渦をつくることができる、そうした手応えは強力な力を内面から湧き起こす。この段階から「利他的」な動機へと変容してくる。

[段階Ⅴ]使命的動機
自分が見出した「おおいなる意味」を満たすために、文字通り、“命を使って”まで没頭したい何かがあるとき、それは「使命的」動機を抱いている状態であるといえる。夢や志、究めたい道、社会的な意義をもったライフワークなどに一途に向かっている人はこの段階にある。

ちなみに、これら5つの動機を性格づける「外発的/内発的」「利己的/利他的」という二元的な分類について、内発的だから優れ/外発的は劣るとか、利己的はダメで/利他的はよい、ということではない。これらは本来、優劣や善悪で差別するものではない。「内発的」と「利他的」の掛け合わせである使命的動機が段階Ⅴとして一番上に置かれているのは、その動機を抱くことが最も難しいからである。動機を抱く難度が階段の高さを示していると考えてほしい。逆に言えば、金銭的動機(段階Ⅰ)は生存欲求からの動機で、最も容易に起こることから一番下に来ているのだ。


◆動機を重層的に持つこと
ここから最後の重要な点に入っていく。5つの動機自体には、優劣がつけられないものの、「動機の持ち方」としては、望ましい持ち方と望ましくない持ち方がある。

動機の持ち方として望ましいのは、これら5段階ある動機を重層的に持つことである。動機を重層的に持っていれば、仮に一つの動機が失われても、他の動機がカバーしてくれることとなり、働く意欲は持続される。また、動機どうしが相互に影響し合い、統合的に動機が深まりを増すことも起こるからだ。

お金を儲けたいという動機は抱いてもいっこうにかまわない。ただその動機の層だけにどっぷり浸かって、過度に利己的にやるとすれば、いずれ問題を引き起こすことになるだろう。また、この段階Ⅰの動機だけに終始して働くことは、先も述べたように、「地盤づくり」だけをやって、結局は「建物」を生涯建てなかったことに等しい。自分の仕事人生を振り返って、何の建造物もこしらえず、世の中に何の貢献も機能も果たさなかったというのは、どこかさみしくはないだろうか。

だから、お金を儲けたいという動機と同時に、他の動機も重層的に持つことだ。そうすることで、手にするお金は真に生かされるし、また複合的に湧いてくるエネルギーで長く強く働くことができる。段階Ⅱ以降の動機こそ、「建物」を立てようという意志を内面に湧き起こさせるものである。つまり───

動機Ⅱ)何か自分なりの「建物」を建てて人に知ってもらいたい
動機Ⅲ)その「建物」をつくることはいろいろな知識・技術が身について楽しい
動機Ⅳ)その「建物」に共感してもらえる人びととつながることでワクワクする
動機Ⅴ)その「建物」が多くの人に役立ってうれしい

これを読んでいる人のなかには、「ともかく自分は正社員の職を得て、生活をやりくりしていくのに精一杯だ。夢や志を描くなど程遠い」と漏らす状況があるかもしれない。しかし、志を立てるのに何のコストがかかるというのだろう。想い描くことは、誰でも、いま、この場で、タダでできることなのだ。想い描くことをしないかぎり、「食うためだけの仕事」という重力圏から抜け出せない。
ウォルト・ディズニーはこう言った───「夢見ることができれば、成し遂げることもできる」。キング牧師は「アイ・ハブ・ア・ドリーム」と叫んだ。「心構えした者に、チャンスは微笑む」とパスツールは残した。このように偉人・賢人たちは一様に想い描くことの重要性を説いてきた。


◆使命的動機の「シャワー効果」
もちろん私は、働く動機を重層的に持つための内省ワークを研修のなかでやる。そのときに方向は2つある。

1つは動機の段階を上げていく方向。つまり動機難度の低いほうから高いほうへと内省を促していくやり方だ。たとえば、「その仕事によってどんな成長が得られますか? あるいは、現状の仕事をどんなふうに変えていけば、自分の成長が起こるようになりますか?」といった段階Ⅲの動機を喚起させる問いを投げる。次に、「その仕事を通じてどんな人たちとつながることができるのでしょう?」や「あなたは一職業人として何の価値を世の中に提供する存在ですか?」といった具合に段階Ⅳ、段階Ⅴの問いに上げていく。こうした自問を通して、自分の担当仕事に「非お金」的な動機を重層的に持たせていくわけである。

もう1つの方向は、いきなり段階Ⅴの動機を見つめさせるやり方である。これは具体的には、段階Ⅴの使命的動機に生きた特定の人物をロールモデルとして取り上げ、「おおいなる意味」のもとに仕事を成し遂げる人間がいかに自己を強く開いていけるかを学び取るものである。考察していけばわかるのだが、ひとたび使命的なテーマを見出し、そこに没入していくとどうなるか───

・そのテーマに共鳴する同志との出会いが生まれ深いつながりができる。
 (→動機Ⅳが喚起され、満たされる)
・そのテーマを成し遂げるための能力発揮・能力習得・能力再編成が起こる。
 (→動機Ⅲが喚起され、満たされる)
・そのテーマの仕事がやがて人びとの耳目を集め出す。
 (→動機Ⅱが喚起され、満たされる)
・気がつくと必要なお金が得られていた。あるいは回り出していた。
 (→動機Ⅰが満たされる)


そう、つまり、段階Ⅴの動機をしっかり抱いて懸命に動けば、他の動機は自然と上から順に喚起され、満たされるのだ。私はこれを、使命的動機の「シャワー効果」と呼んでいる。

とはいえ、20代にせよ、40代にせよ、私の主要顧客であるサラリーパーソンに「夢を描け、志を立てよ」といっても敬遠されるばかりである。たいていの大人は、「いまさらプロサッカー選手や宇宙飛行士になれるわけでもないさ」と心のなかで苦笑いをする。だから私は、彼らのなかにある夢や志の概念を変えさせなければだめだと思っている。
限られた少数の人間しか成しえない壮大で特別なことをやるのが夢や志ではない。みずからの本分で、何か世の中に役立っていこうと自分なりの目標を決める。あるいは一つの道に肚を据える。そしてその成就に向かって自己を開き、越えていこうと持続的に挑戦をする。あるいは、道から逃げないで一歩一歩進む。そのプロセスこそが、すでに夢や志に生きている状態なのだ。

さて最後に。「人はパンのみに生きるのか?」という問いに対し、私はこう答えるようにしている。───

「人は志にこそ生きる。
おおいにもがくことになるが、そこでパンを食いそびれることはない」。





目的と手段を考える[下] ~金儲けは目的か手段か?

1.3.4


【問い】
金儲け(利益追求)は、仕事(あるいは会社)の目的か? それとも手段か?


……これに対し、あなたはどんな答えを持つだろうか。

ところで、金を儲けることは、貨幣の考案以来、人類にいつも多くの考える題材を与えてきた。お金は欲望に直結しており、変幻自在で強大な力を持っている。「金持ちが天国の門を通り抜けるのは、駱駝(ラクダ)が針の穴を通るより難しい」とは聖書の言葉である。金儲けは罪である、金欲は悪だという意識は、現代の資本主義社会ではかなり薄らいできたものの、それでも、過度の利殖行為に対して、多くの人は何か眉をひそめる。また同様に、企業にとって利益追求が至上の目的であるとする考え方にも、少なからずの人が首をかしげる。
さて、考察の問いに戻り、あなたの人生において、金儲け(ここでは広く「お金を得ようとすること」と考えてほしい)はどんな位置づけだろうか。生計を立てていくにはお金が不可欠なので、金儲けは「目的」と考えられる。しかし金儲けは目的である、とのみ考えるだけで十分だろうか。目的以外の何かではないだろうか。もしくは、主目的ではなく、副目的という場合はないだろうか。


◆利益は事業の目的ではなく「条件」である
この考察問題を解くためには、目的と手段のほかに新たに2つの要素を考え起こす必要がある。それが、「条件」と「成果・報酬・恵み」である。

私たちは、そもそも目的の達成・手段の行使のために基本的な支えや環境が必要になる。それが「条件」である。条件は間接的に目的や手段に利く要素となる。

ピーター・ドラッカーは次のように言う。

「事業体とは何かを問われると、たいていの企業人は利益を得るための組織と答える。たいていの経済学者も同じように答える。この答えは間違いだけではない。的外れである。利益が重要でないということではない。利益は企業や事業の目的ではなく、条件である」。      ───『現代の経営』より



ドラッカーは、企業や事業の真の目的は社会貢献であると他の箇所で述べている。その真の目的を成すための「条件」として利益が必要だとここで言及しているのである。

金(カネ)は経済の世界では言ってみれば血液のようなものである。人間の体は、血液が常に良好に流れてこそ健康を維持でき、さまざまな活動が可能になる。血の流れが止まれば、人体は死を迎える。それと同じように、経済活動の血である金の流れが止まれば、その経済活動や事業体は死に直面する。ただ、だからといって、血のために私たち人間は生きるのだろうか? 「血をつくるために、日夜がんばって生きています!」という生き方はどこかヘンだ。やはり人間の活動として大事なことは、その身体を使って何を成したかである。血は、肉体を維持するための条件であって、目的にはならない。そう考えると、利益追求が企業にとっての目的ではなく、条件であるとするドラッカーの指摘は説得力がある。

私たち職業人の一人一人の生活にあっても、金を儲けることは、目的というより、自分が仕事をするために必要な基礎条件である───これが1つのとらえ方である。


◆利益は結果的に生まれる「恵み」である
次に、もう1つの要素である「成果・報酬・恵み」について考えてみたい。手段を尽くして目的を成就させると、結果的に何かしらの産物が出る。産物とは、具体的なモノかもしれないし、目に見えないコトかもしれない。経済的な利益をここに位置づけることもできる。

「本質的には利益というものは企業の使命達成に対する報酬としてこれをみなくてはならない」。  ───松下幸之助『実践経営哲学』

「徳は本なり、財は末なり」。「成功や失敗のごときは、ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである」。  ───渋沢栄一『論語と算盤』



松下幸之助は、事業家・産業人として『水道哲学』というものを強く心に抱いていた。それは、蛇口をひねれば安価な水が豊富に出てくるように、世の中に良質で安価な物資・製品を潤沢に送り出したいという想いである。松下にとって事業の主目的は、物資を通して人びとの暮らしを豊かにさせることであり、副次的な目的は雇用の創出だった。そして、そうした目的(松下は“使命”と言っているが)を果たした結果、残ったものが利益であり、それを報酬としていただくという考え方だった。

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一方、明治・大正期の事業家で日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は、財は末に来るもの、あるいは糟粕のようなものであると言った。仁義道徳に基づく行為こそが目的であり、その過程における努力が大事であって、そこからもたらされる財には固執するな、無頓着なくらいでよろしいというのが、渋沢の思想である。
渋沢は、第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、そして一橋大学や日本赤十字社などに至るまで、多種多様の企業・学校・団体の設立に関わった。その活躍ぶりからすれば、「渋沢財閥」をつくり巨万の富を得ることもできたのだろうが、「私利を追わず公益を図る」という信念のもと、蓄財には生涯興味を持たなかった。

私自身もこのようにお金・利益を「条件」や「成果・報酬・恵み」として位置づける意識を強く持っている。なぜなら、結果的に生まれた「成果・報酬・恵み」としてのお金や利益は、「条件」づくりに還元されたり、補強財としてはたらく。そうして「条件」が堅固に強くなると、その分、目的の達成・手段の行使もより広く強く行えるようになるという循環のイメージが起こるからだ(図6)。これはまさに金が身体でいう“血液”であることのイメージに重なってくる。

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◆金儲けはさまざまに位置づけられるが……
とはいえ、やはり、お金や利益を目的にする人たちはいる。金融機関はまさに金を投入して金を得るというのが事業である。また、是が非でも儲けることが重要な手段になる場合もある。深刻な経営危機から再生しようとする企業にとって、ともかく利益を出すことが先決である。「黒字に戻った!」というのは、何にも代えがたい社内の士気向上の材料になるからである。

金儲けは目的か手段か───結論から言えば、それは目的にもなりえるし、手段にもなりえる。条件や成果・報酬・恵みにもなりえる。より正確には、これら4つの要素の複雑な混ざり合いである。どの要素の比重が大きくなるかは個々のとらえ方や状況による。ただ一点、金を自分の意志の支配下に置くか、それとも自分が金の支配下に置かれるか、ここは個人の生き方や事業のあり方にとってきわめて重要な分岐点であるにちがいない。


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