1●仕事・キャリア Feed

坂を上る2つの力~「ガマン・プッシュ」と「ドリーム・プル」

1.3.5


◆人はつねに坂に立つ
フランスの哲学者、アンリ・ベルグソンは『創造的進化』のなかで次のように書いた。

「生命には物質のくだる坂をさかのぼろうとする努力がある」。


私はこの言葉に接して以来、人は常に坂に立っており、その傾斜を上ることがすなわち「生きること・働くこと」だと考えるようになった。

たとえば丸い石ころを傾斜面に置いたとき、それはただ傾斜をすべり落ちるだけである。なぜなら、石ころはエントロピーの増大する方へ、すなわち、高い緊張状態から低い緊張状態へと移行するほかに術をもたない惰性体だからだ。しかし生命は、そのエントロピーの傾斜に逆らうように、みずからを生成し、みずからが見出した意味や価値に向かって創造する努力を発する。(物質にも自己組織化作用があり、形成を行うという論議はここではとりあえず考えない。本稿の以降の議論にもつながってくるが、この「坂を上る」というのは、「物質的な形成」ということ以上に、「意味や価値に向かっての成就」を含ませている)

その「人はつねに坂に立つ」ことを図にしたのがこれである。

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◆坂を上っていくための2つの力
さて、職業人としての私たちは何かしらの職業をもち、日々、仕事をやっている。もちろん仕事をやるというのは創造的な作業であり、坂を上っていく努力である。そこでもう1つ、図を示そう。

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あなたが行う仕事の難度は図でいう三角形の傾斜角度である。難しい仕事であればあるほど角度は大きくなり、傾斜途中に立っている自分にかかる下向きの力は大きくなる。この下向きの力とは、その仕事の達成のために起きてくる障害やリスク、プレッシャーやストレスである。

こうした下向きの力、いわば「負の力」に対抗するために、私たちは「正の力」を出して踏ん張り、創造的態度をとろうとする。正の力には、「プッシュ型」と「プル型」と2つの種類がある。

1つは、その仕事をやらなくてはならないという義務感、責任感から生まれる力である。これは傾斜から落ちないように我慢や辛抱をし、自分で自分を押す力となる。これを「ガマン・プッシュの力」と名付けよう。

もう1つは、自分が描き出したイメージを成就させようとする力で、内面からふつふつと湧き起こるものだ。これはいわば夢や志といった目的イメージが自分を引っ張り上げてくれる力で、ここでは「ドリーム・プルの力」と名付ける。


◆「プルの力」を湧かせ坂を上る──そのときすでに幸福を得ている
もし、あなたに夢や志などの目的イメージがなければ、長いキャリア人生を送っていくのは消耗戦を覚悟しなくてはならない。なぜなら、「ガマン・プッシュの力」のみで坂道を上がって行かなくてはならないからだ。自分にかかる負の力は、年次が上がるにつれ、職責が重くなったり、扶養家族が増えたりして、大きくなっていく。しかしその一方、自分の体力や知力は、あるときをピークに衰えていく。夢や希望の力は湧いてこない。傾斜から転げ落ちないよう、いつまで耐えられるか、不安はつきない。悪くすれば、「プッシュの力」を絞り尽くしたとき、メンタルを病むことも起こりえる。無情なことに、義務感や責任感が強い真面目な人ほど、いったんメンタルを壊すと治癒に時間がかかる。

ところが、自分のなかで生き生きとした目的、成就したい理想のイメージを抱くことができれば、そこから情熱というもう1つの力、すなわち「ドリーム・プルの力」を得ることができる。プルの力は、内面から発露として湧いてくるエネルギーであり、無尽蔵である。年齢にも関係がない。

成果主義が厳しいとか、数値目標の達成プレッシャーがきついとか、昨今の職場は確かに人を疲れさせる仕組みで覆われている。しかし、そんななかにあっても仕事を楽しんでいる人はたくさんいる。彼らは異口同音に、「やりがいがあったから」とか、「自分の決めた道だから」という内容の言葉を発する。これは「プルの力」を自然と湧き起こし、目的イメージからぐっと引っ張られたという状態だ。「プッシュの力」は傾斜から落ちないように「自分を留める」のがせいぜいの役割だが、「プルの力」は、傾斜をぐいぐい上っていくのみならず、「自分らしくある」「自分を拓く」ための燃料になる。

哲学者のアランは『幸福論』のなかで、

「幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい」


と書いた。アランは一貫して、幸福というものは、“幸福である”という静的に漫然とした状態では存在せず、意欲し、創造し、誓うことによってのみ起こり、存続しうるものであると訴える(私はアランの考えを「行動主義的幸福観」と呼びたい)。この一文も、「笑う」という意欲と動作を起こすことが、幸福そのものなのだという論である。

だから、「働くことの幸福」を得るには、“坂の上にある太陽”を見つけることだと私は言いたい。それを描き持つことができれば、すでに自分のなかには「プルの力」が生まれ、すでに坂を上りはじめている。その状態こそがまさに「働くことの幸福」を得ている自分なのだ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

=人事・人財育成観点からの補足議論=

【補足1】
「目的」を遂げるための手段・過程として「目標」がある

目的も目標も志向する先を表わす言葉だが、語意に違いがある。目標とは単に「目指すべき状態(定量的・定性的に表される)・目指すべきしるし(具体物・具体像)」をいう。そして、そこに「意味(~のためにそれをする)」が付加されて目的となる。それを簡単に表せば次のようになる。

目的=目標+意味

プロ野球選手でいえば、「今年は打率3割を目指します」、「10勝以上をあげたい」、「伝説の〇〇さんのような選手になりたい」───これが目標である。目的というのは、その目標をクリアすることによって、「野球とともにある人生を送るため」「自己の能力を証明するため」「観ている人に感動を与えるため」といったことになるだろう。

そうとらえると、目的のもとに目標があるという関係がみえてくる。すると目標は目的に向かう手段・過程であることもみえてくる。

たとえば、国内の大会で優勝した体操選手がヒーローインタビューで「いえ、これは一つの通過点ですから」と答えた。彼にとっては、国内で1位になることは単に目標Aであって、その次に世界選手権で1位になる目標Bがある。さらにはオリンピックで金メダルを取るという目標Cまで胸のなかにある。そして、目標AもBもCも、すべては「強く美しい演技を通して自分もハッピーになりたい、人もハッピーにさせたい。それが競技者としての自分の存在意義である」という人生のおおいなる目的につながっている。それを図化すると次のようになる。

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【補足2】
「目標による管理制度」はうまく機能しているか

目的は意味を含んだものである。目的は実現したい価値と置き換えてもいいだろう。人は、自分の行動に目的を持ち、意味や価値を体現する理想像を思い描くことができれば、すすんで目標を立て、成果を出したがる状態に変わるものだ。本文で述べた坂の例で言えば、それがたとえ厳しい傾斜であっても、登山家やロッククライマーのようにむしろそれを楽しんで上ろうとする。

したがって、個が真に自律的・主体的に働くために必要なものは目的である。目標が不要ということではない。目標は目的のもとに設定されこそ有効にはたらく。

昨今の職場では「目標による管理制度」が広がっている。しかし、ノルマ的な数値目標を課し、報酬制度と連動させることばかりに目がいっていて、目的の創造はおざなりになっているのがほとんどではないか。目標にだけ向かわせる働かせ方には、すでに限界がみえている。職場では「目標疲れ」さえ起きている。成果主義の悪い側面だけが噴出している。

個々の能力開発目標にしても、単に業務処理の要請からくるスキルを部品的に1つ1つ習得させていく機械論(人材はスキルを寄せ集めてできる機械であるととらえる)的なやり方が一般的である。ここでも目的は不在である。実現したい意味・価値のために、全人的に仕事に没入するとき、人は強く豊かに統合的な成長を遂げる。

目的の創出は意味・価値を問う作業になる。この意味や価値を考え、描くことが、個人においても組織においても、大きなチャレンジになる。

個人において働く目的を考えるとは、「5年後の自分はどうなっていたいか」などの質問に代表されるような矮小なものではない。研修でこのような問いを盛り込むことが多いようだが、無難に“置きにいく”答えしか出てこない。「職能3等級をクリアしてプロジェクトマネジャーについていたい」「〇〇の分野でトップ10の成果を出せる研究者になっていたい」などの回答が悪いわけではないが、いっこうに思いが意味や価値の次元にもぐっていないし、結局のところ、組織のなかの一サラリーパーソンとしてどう振る舞うかの枠におさまっている。

私はみずから行う研修のなかでは、個々が一職業人・一人間として何の価値に献身できるのか、何の意味に魂を生き生きとさせることができるのかを内省・対話させる。価値観は多様であり、プログラムの進行には難しさもあるが、こういう正解のない哲学的な問いに真正面から取り組んでいく場こそマインドを醸成する研修にふさわしいと思っている。

また、会社が組織としてどんな目的を掲げるかも大きな問題である。昨今の職場には、「数値目標は溢れるが、目的がない」。会社の目的として、社是・社訓、企業理念やコーポレート・バリューのようなものがある。ただ、社是社訓は古色蒼然とした単なるお題目になっているところもあるし、理念やバリューはあくまで行動規範を示すに留まり、働く者に生き生きとした志向性・未来像を想い描かせるものにはなってはいない。

経営者のなかには、「業界シェアNo.1をとる」「売上げ●●億円企業になる」といった旗を揚げるところもある。こうした数値的な到達点は本稿で繰り返し述べているように目標であって、目的ではない。なぜシェアや売上額をそこまで伸ばすのか、そのことが社会や働く個人にどんな意味や価値をもってつながっているのか、それを肉声で語らないかぎり目的にはならない。それが経営者の覇権欲・野心を満たすためであれば、従業員は部品化してしまう。部品化し目的を持たない従業員は、与えられた業務目標をこなし、それに見合った金銭的報酬をもらえばいいと考えるだけの殺伐とした意識になる。そうした会社では、ヒトの定着が悪く、取っ替え引っ替え労働力を集めてこなくてはならない。

組織が目的を考えるとは、会社や事業の「存在意義」を経営者、管理職、従業員がともに考え創出することだ。「この世にあってもいい事業なのか、なくてもいい事業なのか」、「なくてはならない会社なのか、ないほうがいい会社なのか」───こういった観点の対話がいったいどれくらいの組織で行われているか。

私はそういった意味で、組織のなかに「CPO」(チーフ・パーパス・オフィサー)なる最高責任者がいてもよいのではと思っている。ここの「P」は「purpose(目的・意義)」のほか、「philosophy(哲学)」の頭文字でもある。CPOの役割は、その組織にとって、そこで働く社員にとって、「この事業を世に行う意味は何か」「会社の存在意義は何か」「実現したい理念は何か」「働きがいとは何か」「経営と働く個人が共有できるビジョンはどんなものか」などについての論議や対話を起こすことだ。つまり「坂の上の太陽は何か」を問い、つくり出していく先導者である。

理想的には、経営者、管理職、従業員の一人一人が「P」を考え、「会社組織のP」と「各人のP」を重ね合わせていく作業ができることである。しかし実際のところ、経営者は会社という組織を存続させるための利益追求に忙しい。中間管理職においては、一職業人としての働く目的を(「生計を立てるため」という以外)明快に語れる人は少数派であり、彼らもまた「ガマン・プッシュの力」で坂道を耐えているという状況にある。ましていわんや、一般社員の多くは日々の雑多な仕事をモグラたたき状態でこなしている。だれしも「P」をしっかりと肚で考える暇(いとま)も術(すべ)も持っていないのである。

組織にとっても、働く個人にとっても、目的はその在り方を決める。目的をあやふやにしたまま、あやふやな在り方で、この世に存続することはできるかもしれない。ただ、それをあなたは「美しい」と思うかどうかだ(「正しい」かどうかの問題ではない)。坂の上にどんな太陽を昇らせるのか───恒常的に考えたい大切なテーマである。

 

 

 

 




 

 




心の成熟化 ~「成功」志向から「意味」志向へ

1.4.2


「ずっと若い頃の私は百日の労苦は一日の成功のためにあるという考えに傾いていた。近年の私の考えかたは、年とともにそれと反対の方向に傾いてきた」  ───湯川秀樹



人の欲望にあらかじめ、それが「よいもの」「わるいもの」というラベルが貼ってあるわけではない。「こうしたい」「ああなりたい」「あれがほしい・これを手に入れたい」といったエネルギーは、人を育てもするし、惑わしもするし、壊しもする。

若いころの欲は、往々にして、「具体的で功利的な結果」を求め、「自己に閉じがち」である。しかし、その人が“よく成熟化”していくと、欲の性質が変わっていくように思える。つまり、「意味の感じられるプロセス」を求め、「他者に開いていく」心持ちになっていく。
ただし、この変化はそこに書いたように“よく成熟化”した人間が得られるのであって、年齢とともによく成熟化ができないと、依然、欲は結果に拘泥し、自己に閉じたまま、いやむしろ、それが強まりさえしてしまう。

私自身、決してよく成熟化しているとは言えない凡夫なのであるが、個人的に振り返ってみるに、やはり20代、30代の欲は、功名心や野心めいたものの力が強かったように思う。メーカーで商品開発を担当し、次に出版社に転職をして雑誌の編集をやったが、「ヒット商品を当てて世間を騒がせたい」「スゴイ記事を書いて世の中を驚かせたい」と鼻息は荒かった。そのためにいつも自分が担当した商品や記事の販売数や閲読率という数字に執着していた。成功者になりたいというエネルギーは、多分に自己顕示欲を満たしたい、自己優越感に浸りたいといった感情を連れ添っていた。

また、「自己実現」という言葉が流行ったときでもあり、「そうだ、すべてはジコジツゲンのためだ!」とストレスと疲労が溜まっても自分にモチベーションを与えて頑張っていた。が、いま考えると、その自己実現は「利己実現」ではなかったかと恥ずかしくなる。

しかし、年を重ねるとは、ありがたや、不思議な影響を人間に与えてくるもので、私は41歳でサラリーマンを辞め、教育事業で独立をした。一つには“消費されない仕事”をしたい。消費されない仕事とは、人をつくる仕事だと思うようになったこと。そしてもう一つは、「大きな目的のために自分を使いたい」と心持ちが変化したことだ。

私は子供のころから身体が丈夫なほうではない。大病こそせずに済んでいるが、いつも身体のことを気にかけている。もし私が、昭和以前に生まれていたなら、この生物的に弱いつくりの個体は、とっくに何かで死んでいただろう。医療が発達し、物質が豊かで、衛生環境もよい現代の日本に生を受けたからこそ、ようやく私は人並みに働くことができ、生きている。私は40歳になったとき、「40以上の寿命は天からの授かりものと思って、今後はもっと世のため人のためにこのアタマとカラダを使いたい」と思った。
そういえば、聖路加国際病院理事長の日野原重明先生が、あの1970年「よど号ハイジャック事件」に乗客として遭遇し、無事解放されたときに、「これからの人生は与えられた人生だから、人のために身をささげようと決心した」と語ったエピソードは有名である。そしてまさに、先生はそうされている。

さて、この記事で私が何を言いたいかというと、

1) 心の成熟化に伴って、「成功」志向は弱まっていき、「意味」志向になる
2) つまり、成功という「功利的結果」を手にするよりも、
  意味のもとに自分が生きている/生かされている「プロセス」に
  喜びを感じるようになる
3) とはいえ、若いうちは大いに成功を目指し、結果を出すことを習慣づけるべき


そのあたりのことを、賢人たちの言葉から補ってみたい。

「人間の値打ちとは、外部から成功者と呼ばれるか呼ばれないかには関係ないものです。むしろ、成功者などと呼ばれない方が、どれだけ本当に人生の成功への近道であるかわかりません。
だれが釈迦やキリストを成功者だとか、不成功者だとかという呼び方で評価するでしょうか。現代でも、たとえばガンジーやシュバイツァーを成功者とか、失敗者とかいういい方で評価するでしょうか。世俗的な成功の夢に疑惑をもつ人でなければ、本当に人類のために役立つ人にはなれないと思います」。
───大原総一郎(『大原総一郎~へこたれない理想主義者』井上太郎著より) 


「ずっと若い頃の私は百日の労苦は一日の成功のためにあるという考えに傾いていた。近年の私の考えかたは、年とともにそれと反対の方向に傾いてきた」「無駄に終わってしまったように見える努力のくりかえしのほうが、たまにしか訪れない決定的瞬間よりずっと深い大きな意味を持つ場合があるのではないか」。
───湯川秀樹(『目に見えないもの』講談社学術文庫あとがきより)



このお二人の無私で透明感のある言葉を、ようやく私は咀嚼できるようになってきた。しかし、仕事上で20代、30代の若い世代に「仕事観」を醸成する研修を行っている私は、こうした賢人の達観を伝えるとともに、次のメッセージも届けなければならないと感じている。それは、

「勝ち負けは関係ないという人は、たぶん負けたのだろう」。
───マルチナ・ナブラチロワ(テニスプレイヤー)


母国チェコスロバキアを逃れてアメリカに亡命し、70~80年代に黄金の歴史を築いた女子プロテニス界最強の一人が言うのだから、実にすごみのある言葉である。

そう、やはり、勝つという結果にはこだわるべきなのだ。特に若いうちは、野心でも利己心でも、ギラギラと何かを獲得しようと動き、もがいたほうがいいのだ。最初から結果を求めず、「私はプロセス重視派です」なんていうのは、実際のところ、怠慢か逃避の言い訳である。そういう姿勢は、結局、先の二人(大原と湯川)の言った「成功を考えないこと・プロセスが実は大事であること」の深い次元での理解からも遠くなる。

逆に、若いうちに成功を求め、結果を追った者ほど、ある人生の段階に入ったときに、二人の言葉がふぅーっと心に入りやすくなる。なぜなら、欲は、よいものもわるいものも、利己的なものも利他的なものも、“ひとつながり”だからだ。欲の質は縁(きっかけ)に触れて変わる。仏教はそれを「煩悩即菩提」と教えている。

「結果」と「プロセス」を語るとき、そして「成功」について語るとき、そこに忘れてはならないワードは、「目的」である(目的は“意味”と置き換えてもよい)。何のための結果を追い求めているのか、何のための成功を欲しがっているのか───それが「開いた意味」に根ざしているなら、やがて結果も成功も心の中心から外れていくだろう。代わって、プロセスに身を置くことが幸福感として真ん中に据わってくる。しかもそれは持続的である。結果や成功を得ることが、ある種、一時的な興奮・高揚であるのとは対照的である。

要は、動くことなのだろう。動くことからすべてが起こる。動くほどに、ものが見えてくる。動くほどに、同じように動いている人と結び付く。そしてその人たちの影響を受けて、さらにものが見えてくる。さらに動こうという欲求が起こってくる。



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【姉妹記事】
○「成功」と「幸福」は別ものである
○「結果とプロセス―――どちらが大事か?」



選択肢の創出力 ~仕事を「選べる人」・「選びにいく人」

1.6.5


Aさんのもとには彼の才能と人柄を頼って、日々、いろいろな仕事・仕事相談が舞い込む。そして、彼はその中から自分がワクワクできる仕事を悠々と選ぶことができる。(つまらない案件だと思えば、それを断ることもできる)

他方、Bさんは自分に都合のよい条件の仕事を探し回っている。3度目の転職を考えているのだ。「まったく、世の中にはイイ仕事なんてありやしない」と愚痴混じりに、ネット上の膨大な求人情報をさまよう。


◆カタログ上の仕事情報は急増している・・・だが
ピーター・ドラッカーは『断絶の時代』の中でこう述べている。

「先進国社会は、自由意志によって職業を選べる社会へと急速に移行しつつある。
今日の問題は、選択肢の少なさではなく、逆にその多さにある。
あまりに多くの選択肢、機会、進路が、若者を惑わし悩ませる」。



確かに、この指摘は一面で正しい。だが一面で、正しくないともいえる。つまり、カタログ上の職業や職種、あるいは求人は過去に比べ増えている。ネットや印刷物に載る就職情報・求人情報は日常、溢れるほどあり、そういった意味では、ドラッカーの言うとおり、私たちはその種類の多さに、いったんは惑い、悩む。しかし、よくよく自分の適性やら条件やらに当てはめていくと、「これもダメ」、「あれもバツ」……となっていき、ついには自分が選べるものがみるみるなくなっていく。そして、残った数少ないものに応募し、面接するのだが、結果は「不採用」・・・(沈黙)カタログの中には、無数の選択肢が目まぐるしく記載されているのに、自分はどこからもはじかれてしまう。そんなBさんのような人が世の中には多くなっている。

とはいえ、広い世間には、それとは真逆の人もいる。Aさんのような人だ。彼のもとには、仕事が向こうから寄ってくる。


◆「仕事を選びにいく回路」に留まっているかぎりジリ貧になる
この二人の状況の差を生み出しているのが、「選択肢創出力」の差である。すなわち、「選択肢をつくり出し、結果的に“選べる自分”になる力」だ。

Bさんのように、都合のよいものだけを追いかける働き方をしている人は、そもそも選択肢を増やすことをしない。既存の選択肢に自分が擦り寄り、あれこれ選り好みしているだけなので、早晩、ジリ貧になる。「選びにいく」先の洞窟はどんどん狭くなっているのだ。

ところがAさんは自分が譲れない価値や大事にしたい意味を持っている。それを軸にして仕事をする。たとえ目の前の状況や環境に不満や違和感があっても、軸を変えず、ともかくその場でなにかの結果を出す。そして少しずつ方向修正をしながら、「職業人としての自分」というもの、「自分の仕事」というものの独自性や世界観を醸し出していく。と同時に、周囲からも信頼を得る。その独自性や世界観、信頼は、知らずのうちに人との出会いや機会を引き寄せることになり、結果的に選択肢が広がる状況が生まれる。

自分の仕事の世界観をつくるには、明確な目的を抱き(=自分が働く方向性・イメージ・意味を腹に据え)、自分の道を“限定”していくことだ。自分を目的に沿って限定することが、逆説的だが、実は、選択肢を増やすことにつながっていく。


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今の世の中は、専門バカといわれようが、オタクと呼ばれようが、そんな小さな隙間分野に固執して大丈夫かと言われようが、自分の決めた目的の下に、粒立った一個の仕事人になることが「選択肢の総出力」を高めることにつながる。

「選べる自分」になるのか、「選びにいく」自分になるのかの分岐点は、理屈をこねず、怠け・甘え・臆病を排し、ひとたび腹を据えて、目的(当初はあいまいでもよい)を設定し、そこにがむしゃらに動くかどうかである。それを実証してみたいなら、何かに3年間しがみついて、こだわって、没入してみること。すると予想もしなかった選択肢が自分のところに寄って来るのがわかるだろう。


◆「小さな自由」と「大きな自由」
ネット通販amazonの日本法人の立ち上げ時期に書籍バイヤーとして活躍し、現在は出版コンサルタントをしている土井英司さんは、『「伝説の社員」になれ!』のなかでこう書いている。

「転職は、今いる会社で実績を積み、“伝説”をつくってからでも遅くはありません。いや、実績を積んだときはじめて、転職するもしないも自由な身になれるのです」。



そう、私たちの目の前にはいろいろと選択肢はある。現職に違和感や不満があり、なんとなく転職でもしてみるかという心理モードになる場合もある。確かに人材紹介会社に登録をすれば、どこかに移れるかもしれない。しかし、それは「小さな自由」のなかの選択にすぎない。現職にいましばらく留まって、なにかしらの「伝説」をつくったならば、おそらくそのときにはまったく違った選択肢が自分の周りに見えていることだろう。それが「大きな自由」を手に入れることだ。

いまいるその場で、自分を限定的に燃やし、結果を出すことが大事である。そのことをせずに、いつも目をキョロキョロさせて、もっと都合のいい条件・環境はないかと探し回らないことだ。「選びにいく自分」の末路は必ずどん詰まりになる。理想をイメージすること、自分を目的の下に置くこと、そして何かしらの結果を出してやるぞという気骨さえあれば、「選べる自分」になっていく。特別な能力は必要ない。

私は毎朝メールボックスを開けるのが楽しみでだ。きょうも既知・未知の誰かから、何かしらプロジェクトの提案メールが来ているかもしれない。「選べる自分」になると、未来がワクワクする。


*   * * * *
【補足1】

阪急グループ創業者である小林一三はこう残した───

「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。
 そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」。



豊臣秀吉が織田信長の下足番からのし上がり、ついには天下を取った話は有名である。小林は著書『私の行き方』の中でこう補足する。

「太閤(秀吉)が草履を温めていたというのは決して上手に信長に取り入って天下を取ろうなどという考えから技巧をこらしてやったことではあるまい。技巧というよりは草履取りという自分の仕事にベストを尽くしたのだ。厩(うまや)廻りとなったら、厩廻りとしての仕事にベストを尽くす、薪炭奉公となったらその職責にベストを尽くす。

どんな小さな仕事でもつまらぬと思われる仕事でも、決してそれだけで孤立しているものじゃない。必ずそれ以上の大きな仕事としっかり結びついているものだ。

仮令(たとえ)つまらぬと思われる仕事でも完全にやり遂げようとベストを尽くすと、必ず現在の仕事の中に次の仕事の芽が培われてくるものだ。そして次の仕事との関係や道筋が自然と啓けてくる」。



要は、生涯、下足番になり下がるも、それを極めて次のステップに自分を押し上げるも、すべては本人の心持ち次第ということだ。演劇の世界に「小さな役はない。小さな役者がいるだけだ」という言葉もある。切り替えて言えば、「小さな仕事はない。仕事を小さくしている働き手がいるだけだ」ということになる。


*   * * * *
【補足2】

「選択力」

人生は選択の連続である。私たちは朝起きてから夜寝るまで、大小無数の岐路に立たされ、何か一つの選択をして進んでいく。人生は選択が織りなす模様ともいえる。そのとき、人それぞれに「選択する力」の差がある。私はその「選択する力=選択力」を次の3つで考える。すなわち、

  ・「選択肢を判断する力」
  ・「選択肢をつくる力」
  ・「選択を(事後的に)正解にする力」

1番目は、眼前にある選択肢のうちどれが最良のものかを分析・判断する力。2番目に、自分が選べる選択肢をつくり出す、増やす、呼び寄せる力(これが本項の中心論議だった)。そして3番目に、自分が選んだ道をその後の努力で「これが正しかった!」と思える状況をつくる力。

選択力を考えるとき、誰しも1番目ばかりに頭がいく。そしてこれを鋭く磨くことのみを考える。だが、人生・キャリアを切り拓いている人は、2番目をしたたかにやり、3番目をしぶとくやっていることに気がつくべきだ。








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