5●仕事の幸福論 Feed

人は「無視・賞賛・非難」の3段階で試される

5.1.5



「毀誉褒貶」(きよほうへん)という言葉がある。「ほめたり、けなしたりすること」の意味だ。私がかつて勤めたメディアの世界はまさに毀誉褒貶の世界である。

メディアは常に自分たちの関心を集める事件やキャラクターを欲している。政治家にしろ、芸能人、文化人、スポーツ選手にしろ、ヒーローやスター、アイドル、ヒール(悪役)を何かしら生み続け、そして同時に、消費し続ける。メディアが煽(あお)るから大衆心理が騒ぐのか、大衆心理が煽るからメディアが騒ぐのか。たぶんその両輪だが、いずれにせよ時代から毀誉褒貶はなくならない。

一般人である私たち一人一人も、長い人生途上にあって、メディアに騒がれるかどうかは別にして、ときに周囲からちやほやされ、実力以上に持ち上げられるときがある。また同時に、少し頭角を現すや否や、周囲の嫉妬などによってつぶされそうになるときがある。
そんなとき、私たちが留意しておきたい大事なことをプロ野球選手・監督して活躍された野村克也さんは、こう表現している。

「人間は、“無視・賞賛・非難”という段階で試されている」。

                                                                    (『野村の流儀』より)



◆段階1:「無視」によって試される
誰しも無視されることは辛いものだ。自分なりに一生懸命やっても、誰も振り向いてくれない、誰も関心を持ってくれない、話題にも上らない、評価もされない。組織の中の一歯車として働いていると、こうした感覚をよく覚える。

またプライベート生活でも、個人でブログやツイッターを開設し、自分の意見や作品をネット発信して叫ぶのだけれど、まったく反応が来ない。あるいは、就職活動中の学生が、志望企業にエントリーをしてもしても、応募は空を切るばかりで、自分という存在が何十回も否定される。これらはすべて、「無視」という試練にさらされている状況だ。

「無視」という名の試練は本人の何を試しているかといえば、それは「負けじ根性」だ。

偉大すぎる芸術家などは、その作品があまりに万人の理解を超えているので、ときに本人の生きている間には誰もが評価できない場合が起こりえるが、一般人の場合であれば、たいてい自分の身の周りには目利きの人が多少いるものだ。
だから、もし「無視」によって、自分にやる気が起こらないという状況にあれば、そのときの答えは、負けじ根性を出して「人を振り向かせてやる!」という奮起である。その心持ちをしぶとく持ってやっていれば、ひょんなところから理解者、評価者は現れてくるものである。


◆段階2:「賞賛」によって試される
いまはネットでの情報発信、情報交換が発達している時代なので、仕事の世界でも、趣味の世界でも、「シンデレラボーイ/ガール」があちこちに誕生する。
ネットの口コミで話題になったラーメン屋が一躍「時の店」になることは珍しくないし、『You Tube』でネタ芸を披露した人(ペット動物さえも)が、1週間後にはテレビに出演し、人生のコースが大きく変わることはよくある話である。人生のいろいろな場面で、こうした「賞賛」という名の“持ち上げ”が起こる。

「賞賛」は、受けないよりは受けたほうがいいに決まっているが、これもひとつの試練である。「賞賛」によって、人は「謙虚さ」を試される。

芸能人ではよく目にすることだが、賞賛によってテング(天狗)になってしまい、その後人生を持ち崩してしまう人がいる。賞賛は、わがままを引き出し、高慢さを増長させるはたらきがあるからだ。

このことを古くから仏法では「八風におかされるな」と教えてきた。「八風」とは、仏道修行を妨げる8つの要素で、「利・誉・称・楽・衰・毀・譏・苦」を言う。このうち前半4つは「四順(しじゅん)」と呼ばれ、

利い(うるおい):目先の利益
誉れ(ほまれ):名誉をうける
称え(たたえ):称賛される
楽しみ(たのしみ):様々な楽しみ


で、どちらかというとポジティブな要素である。まさに称賛という試しは、この四順の中にある。ちなみに後半の4つは「四違(しい)」と呼ばれ、

衰え(おとろえ):肉体的な衰え、金銭・物の損失
毀れ(やぶれ):不名誉を受ける
譏り(そしり):中傷される
苦しみ(くるしみ):様々な苦しみ


といったネガティブな要素になる。これらは次の試しの段階にかかってくる。


◆段階3:「非難」によって試される
野村さんが3番目にあげる試練は「非難」である。その人のやっていることが大きくなればなるほど、妬む人間が増えたり、脅威を感じる人間が増えたりして、いろいろなところから非難や中傷、批判、謀略が降りかかってくる。野村さんは

「賞賛されている間はプロじゃない。
周りから非難ごうごう浴びるようになってこそプロだ」 と言う。

自分を落としにかかる力を撥ね除けて、しぶとく高さを維持できるか、ここが一流になれるか否かの重大な分岐点となる。この分岐点は、いわば篩(ふるい)と言ってもいいものである。この篩は、その人の技量や才覚について一流か否かの選別を行うのではなく、その人が抱く信念の強さについての選別を行う。結局、自分のやっていることに「覚悟」のある人が、非難に負けない人である。

芸術家として思想家として政治家として、生涯、数多くの非難中傷を受けたゲーテは書く(『ゲーテ格言集』高橋健二訳より)―――

「批評に対して自分を防衛することはできない。
これを物ともせずに行動すべきである。
そうすれば、次第に批評も気にならなくなる」。


以上、「無視・賞賛・非難」という3つの段階で試されることを図にしてみた。

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◆毀誉褒貶を乗り越えて
さて、さらに発展して考えると、歴史上の偉人たちはもうひとつ4段階目のプロセスを経ているように思える。つまり、下図に示したように、さらなる困難や妨害といった強力な下向きの力を受けながらも、しかし、同時に、それを凌駕する上向きの力を得ながら高みに上がっていく、それが偉大な人の生きざまであろう。

このとき受ける上向きの力は、2段階目のときの「持ち上げ」とはまったく異なり、これは共鳴や同志という名の堅固なエネルギーの力である。偉大な仕事には、必ずそれを支える偉大な共鳴者や同志の力があったはずである。

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私は4段階目にあって大きなことを成し遂げようとする人の姿を、広野に一本立つ大樹のイメージでとらえる。

その大樹は、高く立っているがゆえに、かつ、枝葉を大きく広げているがゆえに風の抵抗をいっそう強く受ける。しかしその大樹は、人びとの目印となり、勇気づけとなり、暑い夏の日には広い木陰を与え、冷たい冬の雨の日には雨をしのぐ場所を与えてくれる。そしていつごろからか、そこにつながる蹊(こみち)もできる。春や秋には、樹の下で唄や踊りもはじまる。

もはや、その大樹にとって、世間の毀誉褒貶はどうでもいいことになる。




「自信」について ~自らの“何を”信じるのか

5.6.1



ところで、私は長らく調布市(東京都)に住んでいる。2010年、NHK連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』効果で市はたいへん盛り上がった。そんなことを冒頭に触れておき、きょうは、「自信」ということを見つめなおしてみたい。

「あなたには自信がありますか?」と言ったとき、その自信とはどんな含みだろうか。
つまり、「自信」とは読んで字のごとく「自らを信じる」ことなのだが、
自らの“何を”信じることなのだろうか。


◆2種類の自信
今日では、何か目標や課題に対しそれをうまく処理する能力が自分にある、そして具体的な成果をあげられると強く思っている―――そんな意味で使われる場合がほとんどだ。つまり、「自らの〈能力と具体的成果〉を信じる」ことを自信と言っている。

しかし、自信とはそれだけだろうか? 自信という言葉はもっと大事なものを含んでいないだろうか?

広辞苑(第六版)によれば、自信とは、「自分の能力や価値を確信すること。自分の正しさを信じて疑わない心」―――とある。そう、能力を信じる以外に、自分の「価値」を信じる、自分の「正しさ」を信じるのも自信なのだ。

だから、たとえ自分の能力に確信がなくとも、具体的成果が出るか出ないか分からないにしても、自分に(自分のやっていることに)価値を見出し、意味や正しさを強く感じているのであれば「自信がある」と言い切っていいのである。

自信を2つの種類に分けるとすれば、

1:「能力・成果への自信」=自らの〈能力と具体的成果〉を信じる
2:「やっていることへの自信」=自ら行っていることの〈価値・意味〉を信じる


となるだろうか。前者は「達成・有能志向」であるし、後者は「意義・役割志向」である。


◆水木しげるさんの自信は何だったか?
私は2番目の自信を強く持ち続け、結果的に大成した人物として『ゲゲゲの女房』で再び時の人となった漫画家・水木しげるさんをイメージする。

水木さんは終戦後、兵役から戻り絵を描く商売で身を立てようとするのだが、売れない時代が何年も続き、夫婦は赤貧の日々だった。水木さんには売れる漫画を描くという(いわばマーケティング)能力への自信はまったくなかった。しかし、自分の描いている作品への価値や意味に関しては揺るぎない自信があった。ゲゲゲの女房こと武良布枝さんは、どん底の貧乏で明日のことは見えなかったが水木さんのその自信にずいぶん励まされもし、安心感も得たという。

自分に果たして能力があるのか、それで成功できるのか、などをいちいち深刻にとらえず、自らのやっていることを信じ、肚を据えてひたむきに仕事と向き合う。そしてつくり出したものを世間に「これでどうだ!」とぶつけることをやり続ける。自らが信じる価値や意味の中からエネルギーを湧かせる―――これも間違いなくひとつの自信の姿である。

『ゲゲゲの女房』の佳境は何と言っても、長く続く不遇の日々のなか、大手出版社の編集者がひょっこりと事務所に現れ、以降、水木さんがとんとん拍子に出世していく箇所だ。原著『ゲゲゲの女房』では第4章にあたり、見出しは「来るべきときが来た!」となっている。

著者の布枝さんによれば、夫(水木しげる)の信念と積み重ねた努力が報われないはずがない、報われる準備をしてきて、いま、それがこういう形で報われたのだ、ということだ。水木さんは、1番目の「能力・成果への自信」というより、2番目の「やっていることへの自信」を捨てなかったことによって大輪の花を咲かせた事例である。さらに言えば、2番目の自信を貫き懸命に仕事をやった結果、ついには1番目の自信も獲得した、そんな事例だ。

昨今のビジネス現場では、何事も能力と具体的(特に量的)成果が問われる。そのために、「自分には十分な能力がないのではないか」とか、「他より優れた成果を出すことができるだろうか」といった不安に取り囲まれ縮こまってしまう。そして結果が伴わないと「自分は有能ではない」といたずらに自分を追い込んでしまう。

そうした現状にあって、私が言いたいのは、仕事をする本人も、そして上司や組織も、能力や成果に対しての自信をとやかく問い過ぎるな、その自信を問うよりも、もうひとつの自信、つまり、「自分がやっていることの価値・意味への自信」をもっと掘り起こせ、ということだ。

私個人の話をすると、私は独立して10年超が経ち、何冊かの著書を刊行させてもらっている。私は当初から事業をうまくやる能力や本を書く能力に自信があったわけではない。ましてやヒット商品やベストセラー本を当てる確信もなかった。しかし、自分のやろうとする事業や自分の書く本の意義に関しては依怙地なまでに譲れない軸を持って、自らを信じてやってきたつもりである。

「やっていることへの自信」は、何よりも“粘り”を生む。能力の不足や見込みの甘さによって事業の苦労は絶えないが、自分が価値を見出している仕事であるから、粘れるのだ。粘れるとは、多少の失敗にもくじけない、踏ん張りどころで知恵がわく、楽観的でいられる、そんなようなことだ。

そしてもがいているうちに、本当に必要な能力もついてくる、成果も出はじめる。まさに水木さんと同様、2番目の自信がベースにあれば、1番目の自信は時間と労力の積み重ねのうちについてくるものであることを実感している。


◆自信の4象限
自信を持つことにおいて最良の状態は、「能力・成果への自信」と「やっていることへの自信」の両方を持つことだが、どうすればそういう境地に至れるのか―――それを図で考えてみたい。

次の図は、本記事で説明した2つの自信を分類軸に用い、4象限に分けた図である。
それぞれの象限を次のように呼ぶことにしよう。

〈達人〉=「能力・成果への自信:強い」×「やっていることへの自信:強い」
〈腕利き〉=「能力・成果への自信:強い」×「やっていることへの自信:弱い」
〈使命感の人〉=「能力・成果への自信:弱い」×「やっていることへの自信:強い」
〈縮こまり〉=「能力・成果への自信:弱い」×「やっていることへの自信:弱い」

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理想の境地〈達人〉に至るには2つのルートがある。
ひとつめに、まず自信のベースを「能力・成果への自信」に置き(=「腕利き」となり)、そこから自分のやっていることへの価値や意味を見出していって〈達人〉に至る―――これがルートSである。

ふたつめに、まず自信のベースを「やっていることへの自信」に置き(=「使命感の人」となり)、そこから能力や成果への自信をつけていって〈達人〉に至る―――これがルートBだ。もちろん一個の人間の内で起こることはとても複雑なので、実際のところ、人はルートSとBを混合させながら動いていくわけであるが、ここでは単純化して考える。

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◆2つの坂
次にこの4象限を斜めから俯瞰したのが下の図である。
この図は、〈達人〉の境地が最も高いところに位置しており、そこへの道のりは、2つの坂を上っていかねばならないことを示している。

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ひとつの坂は「能力・成果への自信」をつけるための傾斜で、すなわち、習得する・熟達する・安定して成果を出すという技能的な鍛錬をいう。もうひとつの坂は「やっていることへの自信」をつけるための傾斜で、すなわち、やりがい・意義・使命感を見出すという意志的な希求をいう。

〈達人〉に至るルートSとルートB、この2つはどちらがよいわるいというものではない。人それぞれにいろいろあっていい。さきほど水木しげるさんや私個人の例で示したのはルートBのほうだ。

Bの場合、〈使命感の人〉になるまでのルートB1という坂を上ってしまえば、そこからもうひとつの坂(ルートB2)を上るのは必然性があるので努力がしやすい。なぜなら上で説明したように、「やっていることへの自信」がある人は、それを世の中に知ってもらおう、広げようとする“粘り”が出て、技能的な習熟に自然と懸命になれるからである。その点で、〈使命感の人〉は比較的〈達人〉に近いといえる。

一方、〈腕利き〉は〈達人〉から遠くなる場合がある。というのは、〈腕利き〉は、ルートS1という坂を上って能力・成果に対する自信をつけていくのだが、自分の腕前が上がってくると、技能や知識そのものが面白くなってきたり、成果をあげることで経済面で裕福になったり、成功者として満足を得たりして、その状態に留まってしまうことが起こるからだ。

ルートS2という坂は、価値や意味を見つけるというあいまいな作業である。技能を磨く、成果を出すといったような具体的なものではない。だから〈腕利き〉の状態にある人たちは、少なからずが〈達人〉を目指さなくなる。

私は仕事上、多くの人のキャリアを観察しているが、〈腕利き〉に留まった人ほど、燃え尽き症候予備群であったり、人事異動によってその後のパフォーマンスがぱたりとさえなくなったり、リタイヤ後の人生に漂流観を感じたりする場合が多いようだ。

また、〈腕利き〉の中でも、仕事をひとつの求道だとみる人、職人気質の人、何か大きな病気にかかった人などはルートS2の坂をしっかり上っていくように思う。

加えて言っておけば、〈使命感の人〉にも陥りやすい穴はある。自分のやっていることに大きな意味を感じる、とそれだけで自己満足になってしまい、技能的な努力をおざなりにしてしまうことや、自分のやっていることは正しく社会的意義があるのだから、世の中は当然認めてくれるはずだという期待がわき、成果を意図的に出そうとするのではなく、成果を半ば受け身で待つという姿勢になりやすい。いずれもルートB2を上らなくなるという穴だ。こんなとき、〈使命感の人〉に対するアドバイスは、「正義は勝つ」のではなく、「正義は勝ってこそ証明される」を意識させることである。


◆「長けた仕事」と「強い仕事」
〈腕利き〉は、自らの専門技術や知識を活かして「長けた仕事」をする。〈使命感の人〉は、自らの強い価値信念のもとに「強い仕事」をする。

前者の「長けた仕事」においては、目標の達成度や事がうまくできたかどうかの優劣が問われ、競争が働く者を刺激する。後者の「強い仕事」においては、成すべきことの意味や自分の役割が問われ、共感が働く者を刺激する。

「長けた仕事/競争」も「強い仕事/共感」もどちらも大事であるが、昨今の事業現場では、「長けた仕事/競争」への偏りが大きいことが問題だ。

いったい今のあなたの職場に、自分の仕事に関し、自分自身への意義、組織への意義、社会への意義を見出しながら、こうあるべきという信念を軸に自律的な「強い仕事」をしている働き手がどれくらいいるだろうか。それと同時に、上司や組織は、そうした意義を引き出すために、どれだけ個々の働き手たちと共感の対話をしているだろうか。(これについては拙著『個と組織を強くする部課長の対話力』で詳しく書いた)

“skillful”な(スキルがフル=技能が詰まった)人財ばかりを求め育てるのではなく、
“thoughtful”な(思慮に満ちた)人財を増やしていくことに
もっと上司と組織は意識を払うべきである。

そのためにはまず、上司と組織が、自組織にとっての2番目の自信、すなわち、自らの組織がやっていることの価値・意味を信じることが不可欠だ。そしてそれを言語化して、部下や社員に表明できなくてはならない。企業が単に利益創出マシンになっているところからはこの自信は生まれてこない。


◆負けたら終わりではない。やめたら終わりだ
個人においても組織においても、自信をもつことは精神的な基盤をもつことに等しい。逆に、自信をなくすことは基盤をなくすことでもある。

自信には2つあるが、では、1番目の「能力・成果への自信」と2番目の「やっていることへの自信」とどちらが最下層の基盤なのだろう?―――私は後者だと思っている。

先日、知人のベンチャー会社経営者と会ったとき、会社存続が危ういことを打ち明けられた。事業整理もし、人員整理もし、ぎりぎりのところで踏ん張ろうとするのだが、それでも見通しは厳しい。いっそ会社をたたんでリセットしてしまい、一人身軽に再出発するほうがはるかにラクだという。有能なコンサルタントであった彼の自信はもはやズタズタに切り裂かれた。経営能力の不足、経営者としての未熟さ……自分を責めても責めきれないのだが、そうこうしている間にも、次の資金繰りのタイムリミットもくる。

「やはり会社をたたむかな」……。
そこで会ったとき、彼は最後にそうつぶやいていた。

2週間ほど経ち、再び彼から連絡があった―――会社をたたまずに頑張りたいと。彼の内では、「能力・成果への自信」は完全に砕かれていたが、「自分がやろうとしていることへの自信」は消えていなかったのだ。確かに彼は、会社を軌道に乗せるというビジネスの勝負にはいったん負けた。しかし、負けたからといってそこで終わりではない。自分がやりたい・やるべきだと信ずるものを持ち続けることをやめたら、そこが本当の終わりなのだ。

彼は起業当初の志をまだ捨てていない。最下層の基盤は彼の内で死守された。自信とは不思議なもので、特に2番目の自信は、苦境や不遇の状態に身を沈めているときにこそ強化される場合がある。

なぜなら、2番目の自信は「意志的な希求」という坂を上ることによって得られるもので、まさに人は、苦しい状況にあればあるほど価値や意味といったものを真剣に求めようとするからだ。言い方を変えれば、自らの信ずるものは、苦難によって篩(ふるい)にかけられるということだ。

たぶん、水木しげるさんも赤貧の下積み時代に、自ら信ずるところの想いを地固めし、自らの存在意義を確かめながら、20年30年分のアイデアを溜め込んでいたのではないだろうか。そうした自信を基盤にした人は、突然のブレイクでヒットしたとしても、中身が詰まっているので、その後、泡沫のように消えていかないのが常だ。たまたま要領よくスマートに物事が処理できて、早くから成功してしまい、その能力に自信過剰になった人間が、その後、逆に人生を持ち崩すことがあるのとは対照的である。

「能力・成果への自信」と「やっていることへの自信」、この両方を自分の内に強く持って、〈達人〉の境地で働くこと―――これはすべての働き手にとって大きなテーマである。




 

「苦」と「楽」の対称性

5.5.1



◆「10の夢を見れば、10の面倒くさいことが来る」 by 矢沢永吉
強烈な個性を発し続けるミュージシャン、矢沢永吉さんが糸井重里さんとの対談で次のように語っていた。

矢沢: いいことも、わるいことも、あるよ。昔、僕が言ったこと、覚えてる? 「プラスの2を狙ったら、マイナスの2が背中合わせについてくる。プラスの5を狙ったら、マイナスの5がついてくる。プラスを狙わないなら、マイナスもこない。ゼロだ」って。で、どうしますか?って、神様が言うんだよ。俺は、若さがあったから言えたんだよ。「えい。くそ、一度の人生、オレは10狙ってやる!」ってね。そしたら、間違いなかったね、10の敵が来たよ。

糸井: 表裏がセットなんだね。

矢沢: セットなんだから、いろんなことが足引っ張るんだよ。めんどくせーわけよ! 10の夢を見たら、案の定、10の面倒くさいことがきたよ。だけどさ、面倒くさいからとか、いやだとかで一歩も動きません、ゼロでいいです、というのは悲しい話でね。(中略)じーっとしとけば、叩かれることもなかったんだよ。ところが、じーっとできないじゃん。

                                                ───『新装版ほぼ日の就職論「はたらきたい」』より



夢と面倒くさいことはセットである。夢の大きさに比例して面倒くさいことが付いてくる。あの矢沢節でこう言われたなら、強力な説得力をもって腹にズドンとくるだろう。

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生きるうえで、働くうえで、いつでも喜びは苦労と対になっている。だから、ほんとうの苦労を経なければ、ほんとうの喜びを味わうことはできない。そこそこの苦労から得られるものは、そこそこの喜びでしかない。フランスの哲学者も次のように言い表わす。

「登山家は、自分自身の力を発揮して、それを自分に証明する。この高級な喜びが雪景色をいっそう美しいものにする。だが、名高い山頂まで電車で運ばれた人は、この登山家と同じ太陽を見ることはできない」。 ───アラン『幸福論』



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また、詩人、加島祥造さんの言葉はこうだ。

「高い山の美しさは深い谷がつくる」。     ───加島祥造『LIFE』


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◆深い悲しみと高い喜びが人間の厚みをつくる
苦と楽は対称性を成し、その幅は体験の厚みとなり、人間の厚み、仕事の厚み、人生の厚みをつくっていく。ドストエフスキーがなぜあれだけの重厚な小説を書き残せたのか。それは彼の死刑囚としての牢獄体験や持病のてんかんなど、暗く深い陰の部分が、押し出され隆起して至高の頂をつくったからにちがいない。キリスト教にせよ仏教にせよ、なぜいまだに多くの人に連綿と信じ継がれているのか。それは、イエスや釈迦の悲しみが深く大きいために、愛や慈しみもまた深く大きいと人びとが感じるからではないだろうか。

昨今、文学にしても、絵画、映画にしても、作品が小粒になったと言われる。それは豊かで穏やかな社会が苦を和らげるために、表現者の厚みをなくさせていることがひとつの理由にあるのかもしれない。

そんな人生の真実を熟知していたのだろう。陶芸家で人間国宝だった近藤悠三は、つくれど、つくれど、みずからの作品が大きくなっていかないことを思いわずらい、次のように語ったと井上靖さんは書き留めている。

「なんぞ、手でも指でも一本か二本悪くなるか、腕でも片方曲らんようになれば、もっと味わいの深いもんができるかと思うし、しかし腕いためるわけにもゆかんので、夜、まっくらがりで、大分やりましたねえ。そして面白いものできたようやったけど、やっぱし、それはそれだけのものでしたね」。 
                                                        ───井上靖『きれい寂び』より


あえて自分の身体の一部を不自由にしてまで芸の極みに到達したい。それほどまでに近藤は苦を欲していたのだ。

苦と楽は対称性をもつ。そしてその苦楽の幅は、その人の厚みを形成する。もし、自分がある不幸や不遇、悲しみやつらさのなかにあるなら、それとは対称の位置にある幸福や喜びを得られる可能性がある。

だから考え方によっては、自分がネガティブな状態にあることは、ある意味、すでに半分の厚みを得ているわけで、あとはその反対側にある半分のポジティブを手に入れるチャンスが目の前にあるということだ。

もし、いまの自分が幸も不幸もそこそこレベルだとしたら、自分の厚みもそこそこということになる。そんなそこそこで満足していてはダメだというのであれば、矢沢さんの言ったとおり「プラス2」を狙うのではなく、「プラス10」を狙う生き方に変えてみることだ。そして身に降りかかってくる「マイナス10」を勇敢に乗り越えることで、「プラス10」を獲得する。その過程で、その人は「20」の厚みに成長していく。そしてその後、「20」の厚みに相応する仕事をし、それに引き合う人間を呼び寄せ、環境を変えていく。

先天的に、あるいは自分の思いのきかないところで苦労を背負わされることはさまざま起こる。だが、そのマイナス分をプラスに転じていこうとするのは自分の選択だ。

また、特段苦労はないという生活のなかに、夢や志を描いて、その成就のための負荷を意図的につくりだそうとするのも自分の選択だ。人生の厚みを決めるのは、やはり自分の意志であり、選択なのだ。

「艱難汝を玉にす(かんなんなんじをたまにす)」という言葉のとおり、自分が石になるか、玉になるか、の選択はいつも自分にあり、その境目は艱難を選ぶかどうかにかかっている。モンテーニュは『エセー』でこう記す───

「人は軽薄の友である歓喜や、快楽や、笑いや、冗談によって幸福なのではない。むしろ、しばしば、悲しみの中にあって、剛毅と不屈によって幸福なのだ」。


いまこの記事を書いているのは、厳冬の2月。
冬の寒さを知るほど、春の陽の暖かさを知る。まもなく春が巡ってくる。



【補足の考察】

「苦と楽は対称性をなす」という考え方のほかに、「苦と楽は表裏一体である」というとらえ方もできる。苦と楽、美と醜、善と悪のように対立する概念を、一体のものとしてとらえる思考は、特に東洋哲学において顕著である。

『梵我一如』(「梵=宇宙」と「我=個人」は一体である)や『因果一如』(原因と結果は一体である)、『色心不二』(「色=肉体・物質」と「心=魂・精神」は一体である)、『身土不二』(「身=行い」と「土=環境)は一体である)など、東洋は二元論で分離させず一元論で考えることをしてきた。

55104その概念イメージは、苦と楽を「メビウスの環」の表裏としてとらえることもできる。ちなみに、美と醜、善と悪などの対立概念をこうしてメビウスの環に描く発想は、江戸中期の禅僧である白陰(はくいん)が、布袋(七福神の一つ)をモチーフにした禅画のなかで試みている。




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