5●仕事の幸福論 Feed

なめてかかって真剣にやる

5.6.3


ずいぶん前のことになるが、米メジャーリーグに行ったある日本人選手が「なめてかかって真剣にやる」といった内容のことをコメントしていたと記憶する。「なめてかかる」とだけ言ってしまうと、何を高慢な、となってしまいそうだが、その後の「真剣にやる」というところが彼らしくて利いている。

「なめてかかる」というのは決して悪くない。いやむしろ、それくらいのメンタリティーがなければ大きなことには挑戦できない。

私たちの眼前には、つねに無限大の可能性の世界が広がっている。しかし、その世界は壁に覆われていて、どれくらい広いのかよく見えない。壁の向こうは未知であり、そこを越えて行くには勇気がいり、危険が伴う。一方、壁のこちら側は、自分が住んでいる世界で、勝手がじゅうぶんに分かっており、平穏である。無茶をしなければ、安心感をもって暮らし続けられると思える。そんなことを表したのが〈図1〉である。

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「既知の平穏世界」と「未知の挑戦世界」の間には壁がある。これは挑戦を阻む壁である。わかりやすく言えば、「~だからできない」「~のために難しい」「~なのでやめておこう」といった壁だ。壁は2つの構造になっていて、目に見える壁と目に見えない壁とに分けられる。

目に見える壁は、能力の壁、財力の壁、環境の壁などである。目に見えない壁は、不安の壁、臆病の壁、怠惰の壁などをいう。前者は物理的な壁、後者は精神的な壁だ。
何かに挑戦しようとしたとき、能力のレベルが足りていない、資金がない、地方に住んでいる、などといった物理的な理由でできない状況はしばしば起こる。しかし、歴史上の偉人をはじめ、身の回りの大成した人の生き方を見ればわかるとおり、彼らのほとんどはそうした物理的困難が最終的な障害物にはなっていない。事を成すにあたって、越えるべきもっとも高い壁は、実はみずからが自分の内につくってしまう精神的な壁なのだ。

私たちは誰しも、もっと何か可能性を開きたい、開かねばとは常々思っている。しかし、壁の前に来て、壁を見上げ、躊躇し、“壁前逃亡”してしまうことが多い。そんなとき、有効な手立てのひとつは、「こんなことたいしたことないさ」と自己暗示にかけることだ。やろうとする挑戦に対し、「なめてかかる」ことで精神的な壁はぐんと下がる。
どんな挑戦も、最初、ゼロをイチにするところの勇気と行動が必要である。そのイチにする壁越えのひと跳びが、「なめてかかる」心持ちで実現するのなら、その「なめかかり」は、実は歓迎すべき高慢さなのだ。

で、本当の勝負はそこから始まる。〈図2〉に示したとおり、飛び越えた壁の後ろは上り坂になっている(たぶん悪路、道なき道)。

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この坂で、「なめてかかった」天狗鼻はへし折られる。たぶん晴れて大リーガー選手になった彼も、自分の小生意気だった考え方を改めているに違いない。怪我やスランプを経験して、相当に試されているはずだ。だがその分、彼は真剣さに磨かれたいい顔つきになった。その坂では、いろいろと真剣にもがかねば転げ落ちてしまう。その坂はリスク(危険)に満ちているが、それは負うに値するリスクだ。

挑戦の坂を見事上りきると、「成長」という名の見晴らしのいい高台に出る。高台からは、最初に見た壁が、今となっては小さく見降ろすことができるだろう。このように壁の向こうの未知の世界は、危険も伴うが、それ以上にチャンスがある。

では、次に、壁のこちら側も詳しくみてみよう〈図3〉。ここは既知の世界であり、確かに平穏や安心がある。しかし、その環境に浸って、変化を避け、挑戦を怠けているとどうなるか……。壁のこちら側の世界は実はゆるい下り坂になっていて、本人はあまり気づかないだろうが、ずるずると下に落ちていく。そしてその落ちていく先には「保身の沼」、別名「ゆでガエルの沼」がある。^p

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壁を越えずにこちら側に安穏と住み続けることにもリスクがある。このリスクは、壁の向こう側のリスクとはまったく異なるものである。いつの間にか忍び寄ってくるリスクであり、気がつくと(たいてい30代後半から40代)、ゆでガエルの沼にとっぷり浸かっていることになる。

そこから抜け出ようと手足をもがいても、思うように力が入らず、気力が上がらず、結局、沼地でだましだまし人生を送ることになる。安逸に流れる“精神の習慣”は、中高年になってくると、もはや治し難い性分になってしまうのだ。

さて、私たちはもちろんそうした沼で大切なキャリア・人生を送りたくはない。だからこそ、常に未知の挑戦世界へと目をやり、大小の壁を越えていくことを習慣化する必要がある。そのために、どうすればいいか?───その一番の答えは、坂の上に太陽を昇らせることだ。

「坂の上の太陽」とは、大いなる目的、夢、志といった自分が献身できる“意味”である。この太陽の光が強ければ強いほど、高ければ高いほど、目の前に現れる壁は低く見える。と同時に、太陽は未知の世界で遭遇する数々の難所も明るく照らしてくれるだろう〈図4〉。

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フランスの哲学者アランは『幸福論』(白井健三郎訳)でこう言った───

「人間は、意欲し創造することによってのみ幸福である」。

「予見できない新しい材料にもとづいて、すみやかに或る行動を描き、そしてただちにそれを実行すること、それは人生を申し分なく満たすことである」。

「はっきり目ざめた思考は、すでにそれ自体が心を落ち着かせるものである。わたしたちはなにもしないでいると、たちまち、ひとりでに不幸をつくることになる」。


そう、跳ぶことはリスキーである。しかし、跳ばないことはもっとリスキーである。……ただ、そういうことは文字づらでは理解できても、なかなか実践ができない。やはり、人は(私も含め)人生の多くの局面で跳ぶことを避けたがる。なぜだろう?

それは人生の真実として次のようなことがあるからだ、というのを示したのが〈図5〉である。私たちは、危険を顧みず、勇敢に壁を越えていった人びとが、結局、坂の途中で力尽き、想いを果たせなかった姿をよく目にする。崖の底にあるのは、そんな「勇者たちの墓場」だ。

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その一方、私たちは次のこともよく目にする。つまり、現状に満足し、未知に挑戦しない人たちが、生涯そこそこ幸せに暮らしてゆく姿だ。壁越えを逃避する人たちが、必ず皆、ゆでガエルの沼で後悔の人生を送るかといえば、そうでもなさそうである……。

「安逸の坂」の途中には「ラッキー洞窟」があって、そこで暮らせることも現実にはある。振り返ってみると会社組織の中でもそうだろう。正義感や使命感が強くて組織の変革に動く人が、結局、失敗し責任を取らされ、組織を去るケースはどこにでも転がっている。逆に、保身に走り利己的に動く社員や役員が、結局、好都合な居場所を確保してしまい、長く残り続ける……(沈黙)

怠け者・臆病者が得をすることもあるし、努め者・勇敢者が必ずしも得をせず、損をすることが起こりえる―――これもまた真実なのだ。

人間社会や人生はそういう理不尽さを孕むところが奥深い点ともいえるが、問題は、結局、私たち一人一人が、みずからの行動の決断基準をどこに置くかだ。

「損か/得か」に置くのか、
「美しいか/美しくないか」に置くのか。

私自身はもちろん、壁を越えていく生き方が「美しい」と思うので、常にそうしていこうと思っている。「美しいか/美しくないか」―――それが決断の最上位にあるものだ。その上で、最終的に、その方向が「得だったね」と思えるようにもがくだけである。最初に「損か/得か」の判断があったなら、私はいまも居心地のよかった大企業サラリーマン生活を続けていたはずである。




努力が報われる人生とは!? ~グラン・ジュテが起こる時

5.6.2


NHK教育テレビで『グラン・ジュテ~私が跳んだ日』という番組がある。さまざまな女性の職業人生を追っているヒューマン・ドキュメンタリーで私は観るたびにいろいろにエネルギーをもらっている。

『プロジェクトX』のように壮大なドラマ仕立てでなく、『情熱大陸』のように超有名人を扱っていない。どちらかといえば普通の人が職業人生を切り開いていく物語で、自分と等身大のスケールで観ることができる。だから余計に現実味を帯びたエネルギーをもらえる。

「ロールモデル不在」とそこかしこで言われる日本社会だが、こういった番組はそんな中で多くに視聴を勧めたいものだ。登場する彼女たちの生きざま・働きざまはロールモデルにじゅうぶんになりえる。特に中学生くらいからどんどんみせたらいいと思う(今の子供たちは、想いにひたむきな生き方、志に向かう真剣な大人の姿をあまりに目にしていない)。

番組タイトル名のグラン・ジュテとは、バレエの専門用語で「大きな跳躍」という意味だ。毎回登場する主人公は、さまざまなきっかけや出来事によってその世界に入り、苦労や忍耐を重ねる。小さな成功に有頂天になるときもあるが、その後長く続く、ほんとうの試練にさらされて、次第に天狗鼻も削り落とされてゆく。その下積みのようなプロセスを番組はていねいに追っている。

その下積みの間の心理変化や、主人公のあきらめない心の持ちようこそが、この番組の一番の肝である。私もそこに強い関心を置く。

番組のタイトルどおり、番組の後半では、そうした苦境を乗り越え、主人公には晴れて「グラン・ジュテ」の瞬間が訪れる。そこから彼女たちは、仕事のステージががらりと変わり、成功へのキャリアストーリーが始まる。それはもう番組作り上の華のようなもので、また視聴者にとっては必ずあってほしいカタルシスのようなもので、「あぁ、よかった。彼女が報われて」となる。

―――しかし私たちは、この番組をあらかじめ「グラン・ジュテ」があることを知っているからこそ安心して観ていられる。番組は必ずハッピーエンドで終わってくれるのだ(だからこそ、番組化された)。

さて問題は、現実の自分自身の人生・キャリアに引き戻したときである。
自分がいま報われない環境にあったり、苦境やどうしようもない停滞に陥っていたりするとしよう。……この下積み状態はいったいいつまで続くのか?どこまで努力し耐えたら、みずからの「グラン・ジュテ」が訪れるのか?

いや、ひょっとすると、現実の自分の人生・キャリアには「グラン・ジュテ」などは起こらないかもしれない。努力が結果として報われない人生など、周辺にいくらでも転がっているのだ……。

さて、本項はそんなことを前置きとしながら、「努力が報われる人生とは何か」を考えてみたい。

◇ ◇ ◇ ◇

下の図は、投じる努力とそれによって得られる変化を表したものだ。

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〈比例変化〉とは、自分の投じた努力に比例して変化がきちんと起こる状況である。
たとえば、語学でもスポーツでも始めたばかりのころは、勉強量・練習量に応じて能力がきちんと上がっていく。

次に〈逓減変化〉とは、努力に対する変化の度合いが徐々に小さくなっていく状態である。
何事もある程度のレベルに上達してくると、何か「カベ」のようなものにぶち当たり、成長が鈍る。そんなときのことをさす。

そして3番目に〈非連続的変化〉
私たちはときに、努力しても、努力しても、状況になかなか変化が表れない期間を経験する。しかし、それでも努力を止めなかったとき、ふと、突然にジャンプアップの変化が起きるときがある。

私は米国に留学したとき、住みはじめた当初はどうしてもヒアリングに難があった。しかし、3ヶ月後くらいに、すぅーっと耳に通ってくる状況(英語の場合は、頭の中で翻訳プロセスを通さず、ダイレクトに英語でものを考えること)が起こる。これは自分の言語能力のレベルがぽんと変わった瞬間である。これが非連続的変化だ。

さて、冒頭に触れた「グラン・ジュテ」(大きな跳躍)―――
これはまさに3番目の非連続的変化のことだ。

また、グラン・ジュテは「過冷却」の現象にもなぞらえることができる。
過冷却とは、「気体や液体をその沸点や融点以下に冷やしてもなお気体や液体の状態にあること」だ。水を例にとると、水を常温からゆっくり静かに冷やしていく。すると、摂氏0度になっても凍らず、マイナス何度という液体の水となる場合がある。この状態を過冷却という。しかし、このとき振動などの物的刺激を与えると、一瞬のうちに水は凍結化する。

つまり、人生におけるグラン・ジュテの直前というのは、過去からの努力の蓄積が、とうに変化を起こしてもよいくらいの量を投じられているにもかかわらず、現象として変化が起きていない―――そんな「過冷却」状態であるわけだ。


私たちは、努力に努力を重ね、何かしらの変化が訪れるのを期待するときがある。そのとき、うまい具合に出来事や出会いが起こるときもあるし、結果的に起こらないときもある。努力が報われるか報われないかは「神のみぞ知る」で、やはり人知の及ばないものなのだろうか。それとも、努力が確実に報われる方法はあるのだろうか……?


下図を見てほしい。

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私たちは現在から一瞬先の未来のことは予測できない。
〈パターンA〉のように、あとどれくらいタイミングで、あとどれくらいの努力をつぎ込めば、グラン・ジュテが起きてくれるかはわからない。1年後か5年後か、いや、場合によっては明日なのかもしれない。

いや、ひょっとすると永遠に来ないかもしれない・・・〈パターンB〉

いや、そう考えている矢先、まったく努力などしない隣の能天気人間が、あっさりと成功を収めてしまうことだってある。〈パターンC〉


ちなみに、Cの場合のジャンプアップは、グラン・ジュテというより「ラッキー・リープ」(幸運な跳躍)と名づけるべきものだ。ラッキー・リープした人間は、跳躍した分の中身が伴っていないので、事後にそこを埋める努力をしないと、身を持ち崩すことが多い。


◇ ◇ ◇ ◇

さて、ここから本記事の大事な結論に移ろう。
私たちは、物事を自分の理想に近づけようと努力をする。特に仕事上の目標や人生の目的(夢や志)を達成するためには、相当大きな、そして継続的な努力を要する。しかし、その努力が“結果として”報われるがどうかは、残念ながら誰にもわからない。

血のにじむような努力をした人でも、それが報われなかった事例を私たちは周りで多く目にしている。かといって、この世の神様は非情だと嘆いてみてもしょうがない(たぶん神様は非情的でもなく、逆に同情的でもない。人間の情に関係なく、因果に透徹なだけだ)。そうしたことを前提として、大事なことが2つある。

○1つめ:
努力の結果の形が最終的にわからないにしても、
結果を出してやるという執念で努力をする。
つまり「人事を尽くして天命を待つ」の気構えで事に当たること。
結果に執念を持たない努力は惰性になる。

○2つめ:
その努力したプロセスが”意味によって”きちんと報われるようにする。


努力の報われ方には2種類ある。一つは、「結果によって報われる」こと。つまりその努力の後に、何かしら意図する形・状態・金銭・物が得られること。
もう一つは、「意味によって報われる」こと。これは、意味を満たす行為そのものが自分への大きな報酬になっていて、結果いかんに関わらず、すでにやっている最中で報われている、という考え方である。

たとえば、私たちが何かボランティア活動に汗を流したとき、私たちはその行為の結果をあまり気にしない。それをやったことによって、メディアが取材に来てくれたとか、どれだけ世の中を変えられたとか、そういったことは主たる関心ではなく、ともかく自分が意義を感じた行為をやったことに対し充足感を覚える。これが意味によって努力プロセスが報われた姿である。

だから、大事なことの2つめは、努力しようとする行為に意味を付与することだ。
そこに意味を見出しているかぎり、それは「やりがいのある努力」になり、結果がどうあれ自分は報われる。

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大切な私たちの時間と労力である。くれぐれも、やることに意味を与えず(つまり、いたしかたなくそれをやり)、しかも結果が何も出なかったというような「最悪の努力」は避けなければならない。

結局、自分のキャリア・人生を「努力が報われる」ものにしていくための根本は、やっていることに意味を与えること、あるいは、やっていることを意味あるようにつくり変えていくこと、に行きつく。

意味を感じていれば、まず、1つ1つのプロセスがその時点で報われる。そして、努力の継続もできる。自分の感じている意味が、ほかの人も感じられるような意味であれば、彼らからの共感や応援も加わる。そうこうしているうちに、自他供の努力の質と量が臨界点を超え、グラン・ジュテはいやおうなしにやってくる!(くるものと信じたい)。

神様は同情的でも非情的でもないが、意地悪でもない。
いや因果に透徹な神様であればこそ、
しっかりとした因をつくれば(神様を動かすことができ)、必ずグラン・ジュテは起こせる!



*   * * * *
【補足の言葉】

「ここまでダッシュと思ったら、最後まで全力で走る。
1m手前で力を抜いたせいで負けることもある」。

                        ───岡田武史(元サッカー日本代表監督)



「かなったか、かなわなかったかよりも、
どれだけ自分が頑張れたか、やり切れたかが一番重要」。
「成功は必ずしも約束されていないが、成長は約束されている」。

                        ───三浦知良(プロサッカー選手)

「成功」と「幸福」は別ものである

5.3.1

年収1000万円の働き手と年収400万円の働き手とでは、
年収1000万円もらうほうが「成功者」だろうか。

利益をあげる大企業で働いていれば「勝ち組サラリーマン」で、
困窮する中小会社で働いていれば「負け組サラリーマン」だろうか。

年収の上がる転職であれば「キャリア・アップ」で、
年収の下がる転職は「キャリア・ダウン」だろうか。


いつしか私たちの社会では、あまりに定量的、功利的な考え方が幅広く支配するようになったために、他人と自分を量的尺度で比較して、「多い/少ない」、「勝ち/負け」、「成功/不成功(失敗)」を峻別し、自分の人生の良し悪しを決めるようになっている。

だが、ここでじっくり見つめなおしてみたいことがある。
それは、他者との比較相対で「多・高・優・強」を獲得した人が、「成功者」であり、それが「幸福」を保障するものなのか。また逆に、他者と比較相対して「少・低・劣・弱」である人は、「不成功(失敗)者」であり、そのことがすなわち「不幸」を意味するのか、という問題だ。

現実社会をみてみると、仕事やキャリアで「成功」している人が、「不幸な」生き方をしているケースは多々ある。同様に、世間の尺度で言えば、必ずしも働き手として「成功者」とはいえないが、実に「幸せな」生き方を実現している人は大勢いる。

そうしてみると、つまり、「成功」と「幸福」は別ものと考えるべきなのだろう。

だが、それはどう整理してとらえればいいのか。
───「成功」と「幸福」の違い。本項ではそれについて考察する。


◆成功/不成功は「定規を当てる」こと
私は成功と幸福の違いを、下の図のようなイメージでとらえる。

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まず左側の『定規モデル』をみてほしい。これは、自分が仕事上で獲得したもの、たとえば、収入とかそれで買ったモノ、あるいは自分の知識や能力、さらには仕事の成果・業績など、有形・無形を問わずそれらのものを、定規(スケール)を当てて、自他で比較して評価することを表している。

その結果、自分の「相対的な位置」が確認できる。他人よりも多く、うまくやっていれば喜び、ほめられ、逆に、他人より少なく、ヘタであれば元気をなくし、責任を問われる。

当てる尺度はたいてい、定量的なものか、単純な定性的なもので、どれも一般化されていて、実行者本人の複雑で繊細な個性価値を表すには粗いものになっている。

しかし結局、世に言う「成功と不成功(失敗)」「勝ち組と負け組」とは、まさにこのような定規による相対的な判別を指しているのではないか。


◆幸福は「器を作り・満たし・分ける」こと
では、幸福とは具体的にどういうことだろう。それを表すのが『器モデル』である。

仕事の幸福は、まず自分の「器」(ポット)をこしらえることから始まる。器の素材や形状は、自分なりでよい。それは、仕事人生に対する、作り手の個性・美意識・価値観の表れだから。

また、こしらえていくうちに、器の大きさは、自然と自分の精神的な懐(ふところ)の深さ、視野の広がり、見えている世界の大きさといったものを反映するようになる。そして、その器は、自分が行う仕事や仕事から得られるもので満たされていく。

ここには作り手の3つの喜びがある。
1つに、器を作る喜び。
1つに、器を満たす喜び。
1つに、満たしたものを他に注ぎ分ける喜び。

これらの喜びが、すなわち「仕事の幸福」なのだ。


◆成功は相対的なもの・幸福は個性的なもの
この2つのモデルから引き出せるように、
成功は、他との比較相対によって生じるもので、
幸福は、自分に絶対軸を据えて、それをもとに生み出すものである。

哲学者・三木清の『人生論ノート』から重要な箇所を抜き出してみたい。

「成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福は何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。

他人の幸福を嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見ている場合が多い。幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。だから成功は、その本性上、他人の嫉妬を伴い易い。(中略)

純粋な幸福は各人においてオリジナルなものである。しかし成功はそうではない。エピゴーネントゥム(追随者風)は多くの場合成功主義と結びついている。近代の成功主義者は型としては明瞭であるが個性ではない」。



◆成功は消費される
とはいえ、成功はけっしてネガティブなものではない。働くうえで、成功は当然目指すべきものだ。最初から失敗でよいなどということでは、何事も成し遂げられない。ただ、成功は取り扱いにおいて、注意が必要ということだ。

1つには、成功は点数(多くはお金の量)による評価で決まることが多く、野心や自己顕示欲と結びついて俗的な手垢の付きやすいものになること。ヒルティが『幸福論』に記す下のことは、頭に焼き付けておくべき至言である。

「人間は成功によって“誘惑”される。
称賛は内部に潜む傲慢を引き出し、富は我欲を増大させる。
成功は人間の悪い面を誘い出し、不成功は良い性質を育てる」。
「絶えず成功するというのは臆病者にとってのみ必要である」。


もう1つには、成功は一過性のものであり、消費されること。成功は歓喜・高揚感・熱狂を呼ぶが、それは揮発性のもので長続きしない。幸福が与えてくれる持続的な快活さとは対照的である。イギリスの作家スウィフトが、「歓喜は無常にして短く、快活は定着して恒久なり」と言ったのは、まさにこのことなのだ。


◆成功や失敗は糟粕のごときものである
結局、成功を自分のなかでどうとらえればいいのか。渋沢栄一はこう書く。

「成功や失敗のごときは、
ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである。

現代の人の多くは、ただ成功とか失敗とかいうことのみを眼中に置いて、
それよりもモット大切な天地間の道理をみていない、
かれらは実質を生命とすることができないで、
糟粕に等しい金銭財宝を主としているのである、
人はただ人たるの務を完(まっと)うすることを心掛け、
自己の責務を果たし行いて、
もって安んずることに心掛けねばならぬ」。        ───『論語と算盤』



渋沢栄一は、江戸・明治・大正・昭和を生きた“日本資本主義の父”と呼ばれる大実業家である。第一国立銀行はじめ、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、渋沢が関わった企業設立は枚挙に暇がない。実業以外にも、一橋大学や東京経済大学の設立に加わったり、東京慈恵会や日本赤十字社などの創設を行なったりと、その活躍の幅は非常に広い。

彼のそうした仕事の数々からすれば、「渋沢財閥」を形成するには充分な金儲けができたにもかかわらず、渋沢はそうしたものにはいっこうに関心がなく、亡くなるまで、財産めいたものは残さなかったという。だからこそ、上の言葉は説得力をもってズシンと腹に響く。


◆気がつけば「幸福である」という状態
結局、「仕事の幸福」とは、渋沢の言う“丹精”込めて励みたいと思える仕事(=夢や志、大いなる目的)をつくりだすこと、そして、その仕事を理想形に近づけていく絶え間ない過程に身を置くことにほかならない。

もしそうした仕事および過程に没頭し、自分の全能力を発揮しているなと思えれば、それこそが最上の報酬であり、他者との比較で一喜一憂する自分は消滅しているはずである。

成功や失敗というものは、その過程における結果現象であり、通過点に過ぎない。成功や失敗には、獲得物や損失物を伴うが、そんなものは、真の仕事の幸福の前では副次的なものに思えてくるだろう。

幸福は、それ自体を追ってつかめるものではない。自分が献身できる、自分が意味を込められる何かをこしらえて、そこに没頭する。・・・そしてある時点で、振り返ってみて、「あぁ、自分は幸せだったんだな」と気づく―――それが、幸福の実体に近いものなのではないか。さぁ、器作りを始めよう。



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