8●「働くこと」つれづれ Feed

「諦める」とは「明らかになる」こと

8.04


Kiyoharu_gm 清春芸術村(山梨県北杜市長坂町)のアトリエ「ラ・リューシュ」


美しいものが実によく見えるようになったから、
もう絵は描かなくていいんだ。

                                            ───梅原龍三郎



梅原龍三郎(1888-1986年)は戦前・戦後の日本を代表する洋画家である。冒頭の言葉は、梅原と親交の深かった画商・吉井長三氏の半自伝『銀座画廊物語』の中で紹介されている。梅原の最晩年のエピソードを吉井氏はこう書いている―――

ある日、(梅原)先生のお宅にうかがうと、
「今朝起きたらバラがあんまり綺麗だったから、10号のキャンバスに描いてみた」
と仰り、書生の高久さんに、「吉井君にその絵を見せてあげてくれ」と言われた。
高久さんが怪訝な顔をして、
「どこにあるんですか。今朝そんな絵をお描きになりましたか」と言うと、
「いや、描いた。そこに伏せてあるからね、それを見せてあげなさい」
と念を押される。しかし、絵はどこにもなかった。

この話を数日後、私は小林秀雄先生にした。
「梅原先生も最近錯覚するようになりましてね、
描いてないものを描いたと言っておられるんですよ」と言うと、
「それは君、錯覚じゃないよ。それは空で描いているんだよ。
そういうことを勘違いしてはいかん」と小林先生は言われた。
「これは素晴らしい話だよ。言葉が絵なんだから」

最晩年には、高久さんがキャンバスや絵の具を用意しても、
梅原先生は絵筆をとろうとしなくなった。そして、こう仰った。
「美しいものが実によく見えるようになったから、もう絵は描かなくていいんだ」



「もう絵は描かなくていいんだ」―――私はこの末尾の一行を読んだ刹那、椅子から立ち上がり、唸り声を上げてしまった。繰り返し読むほどに、梅原の一言はなんとも重く、広く、味わい深い。

表現する営みがすなわち生きる営みである芸術家にとって、表現をやめるなどということは、ふつう考えられない。私のような半端なもの書きであっても、死ぬ間際まで何かを書き続けたい、思考と技術を向上させたい、形にしたものを人に触れさせたいと熱望するものだ。モネは、ほとんど視力を失っても睡蓮を描き続けようとしたし、マティスは、筆が持てなくなると、今度はハサミを持って切り絵で表現しようとした。ベートーベンは聴力が不自由になっても、耳をピアノの板に押しつけながら第九を遺した。ピーター・ドラッカーにしても、最晩年に記者から「これまでの最高の自著は何か」と訊かれ、「次に書く本だよ」と答えた。

風貌や画風から見てとれるとおり、豪放磊落な生命が横溢するあの日本洋画壇の巨人が、そうやすやすと「もう描かなくていい」とは口にするはずがない。それだけにこの一言を発した心境を想像することは実に面白い。

私は、梅原龍三郎がついに「諦(あきら)め」の境地に達したのだと解する。

ちなみにここで、「諦める」という言葉について道草をしておきたい。「諦める」とは「明らかにする」が原義である。すべてのことが明らかになるということで、「諦」は「真理・悟り」を意味する。現代の口語で「諦める」は、中途半端に断念・中断するという意味で使われるが、本来はそんな軟弱な言葉ではない。

古典文学研究者である中西進氏の著書『ひらがなでよめばわかる日本語』に「あきらめる」に触れた箇所があるので、それを抜き出してみる。―――

ものごとの状態を明らかにするよう、十分に努力をし、もうこれ以上はできないというところでやめる。それが「あきらめる」なのですね。「諦」という漢字をあててしまったことで、本来の意味がわかりにくくなっていますが、「あきらめる」には本来、今日使われているような、「もうしようがないや」とものごとを投げ出すような、ネガティブなイメージはありませんでした。

おもしろいことに、英語の「ギブ・アップ(give up)」も同じです。「ギブ」を「アップ」する。あることを成し遂げるため八方手を尽くし、「ギブ」していく。そして、もうこれ以上「ギブ」できないところまできて、「アップ」する。そういうふうに考えれば、ただ「降参する」のではなく、「十分」という意味が生きてくるでしょう。

日本語の「あきらめる」も、英語の「ギブ・アップ」も、今日使われているようなネガティブなことばではなく、もっとポジティブな意味をもっているのです。単に努力の放棄ではない。努力に努力を重ねた結果、もう十分であるという結論に達した。それが「ギブ・アップ」であり、「あきらめる」ことであると、私たちは考えないといけないのです。



……そうした「諦める」の本義を確認したところで、改めて梅原の一件。彼は最晩年、とうとう「諦め」の境地に達したのだと私は思う。

おそらく梅原は、本当は死ぬ間際まで筆をとって描きたかったに違いない。しかし、いつごろからか、眼や手や身体が思うとおりにならなくなった。そんな無様な状態を、そして間近に来る死を受け入れるには相当の憂悶と抵抗があったはずだ。しかし、その大きな受容と入れ違いに頭がかつてないほど冴えわたるようになってきたのではないか。そして彼の言葉どおり、「美しいものが実によく見える」ようになった。

画家にしても何にしても、作家というものは、作品という外形物をこしらえて初めて、自分の見たもの、創造したかったものを確認する。だが、梅原にあっては、いよいよ、作品をこしらえずとも、(小林秀雄の表現を借りれば“空で描いて”)ものが見えるようになった。作品の最終形まで頭の中で手触りできるようになった。だから、もう筆で描くことに執着することもない、あきらめよう、となったのだろう。この状態こそまさに「明らかなる」境地であり、「諦め」の境地だ。

梅原はなんと幸福な人間だろう。生きている間に芸術家として高い評価を受け、作品は多くの人に愛された。98星霜を生きて、ついに「諦める」ことができた。燃え尽きて灰になるのでもなく、余生の日々を無為に存(ながら)えるのでもなく、この世に悔いを残すでもなく、この世の欲に執着するでもなく、じゅうぶんに描ききり、じゅうぶんに感じきった生涯。生き方も、逝き方もかくありたいと思えるひとつのモデルである。



ルイス・マンフォード著『現代文明を考える』を読んで

8.03


◆smartばかり増やして、thoughtfulを増やしていない
現代が変化・スピードの時代であることは誰しも否定しようがない。そのため、変化に押し流されないよう個人も組織も常に最新の情報の摂取に忙しい。そして何事もスピーディーに行動することを求められる。時代の先を読み、迅速に反応できる人間が、優秀だと評価される。

私も仕事柄、組織で優秀だと言われる人財にさまざま会ってきた(MBA学生をしていたとき、席を並べた同級生たちもそんな類の人財たちだ)。確かに彼らは時代の先読み感覚はあるし、頭の回転も行動も早い。知識や技術もハイクラスのものだ。しかし、彼ら(私自身も含めて)の弱いところは、「史観」を持って自分たちの置かれた状況を見つめ、物事を解釈することだ。経営者・ビジネスパーソンに限らず、第一級の人間は、独自の史観を内面に醸成している。そして、表層の波のごとく変化する現在の出来事を長い時間軸から俯瞰してとらえ、物事を判断する。

いまの教育は、時流に対応できる「smart=利口な」人間を増やしてはいるが、果たして、時流がどうあれ、どっしりと思索のできる「thoughtful=思慮深い」人間をつくっているだろうか。

史観というものは易々と教育できるものではないし、そもそも「史観はこうあるべきだ」という正解もないから、特定の基軸で教育すべきでもない。しかし、大人たちは、若い世代にさまざまな刺激や啓発を与える任務を負っている。そのために大人ができることは、歴史的視点から考える材料や機会を若い世代にどんどん与えることだ。どのような史観を醸成させるかは、あくまで本人による。

私はMBA教育にはさほど感動はしなかったが、それでも「経営哲学」という科目で、渋沢栄一の『論語と算盤』やマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などを教材として資本主義を歴史の視点から再考させてくれたことには、いまもって感謝している。ああいった学びがなければ、いまだに私は、資本主義を無条件に漫然と受け入れるだけで、資本主義に使われる人間になっていただろうと思う。資本主義の毒の部分を知って、その上で肯定する―――その理解次元に立てたことは大きな成長だった。

* * * * *

◆人類の最初の恩人はプロメテウスかオルフェウスか

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さて、そんな観点も含め、本稿ではルイス・マンフォード著『現代文明を考える』(生田勉・山下泉訳、講談社)を紹介していく。

本著は、米国の文明批評家であるマンフォード(1895-1990)が、1951年にコロンビア大学で行った講演をまとめたものである。原題が『Art and Technics』とあるとおり、芸術と技術の2つから文明をとらえていく。

マンフォードはギリシャ神話に出てくるプロメテウスとオルフェウスを比喩として用いる。一般的な見解では、プロメテウスが人間に最初に火をもたらした神であり(火は総じて道具や技術の意味を含む)、人間が野生動物から分離していく発展の源をつくったとしている。それに対し、マンフォードは「いや、オルフェウス(竪琴の奏手、ここの文脈では芸術・表象の意味)こそ人間の最初の教師、恩人であったのだ」と反論をする。

人間を最初に人間たらしめたものは、道具を使うという技術(プロメテウス)であったのか、それとも、形態や意味を表象する芸術(オルフェウス)であったのか、それは大いに議論が出るところだが、いずれにしても、人類の文明の発展(あるときには、後退とか停滞とか破壊があるだろうが)には、2つの推進力―――プロメテウス(技術)的な推進と、オルフェウス(芸術)的な推進が絡んでいる。同時に付け加えるならば、この2つの推進力は一人の人間の内にも同居する。


◆人間を置き去りにして技術だけが勝利した
マンフォードはどちらの力が優で劣か、ということを論じない。かつてその二つは表裏一体となって睦まじい関係にあったが、いつしかその二面は剥ぎ裂かれてしまい、双方が均衡を欠いていることが現代の危機であると指摘する。均衡を欠くとは、すなわち、プロメテウス(技術)の肥大化・暴走化とオルフェウス(芸術)の衰弱化・病弊化だ。

「機械の誇りとする能率にもかかわらず、またエネルギー、食糧、素材、製品がありあまるほど豊富なのにもかかわらず、質の面では今日の日常生活はそれらに見合った改善がなされず、文明のなかで充足し栄養十分な大衆が、情緒的不感症と精神的冬眠、無気力と萎びた願望の生活を送り、近代文化の真の潜勢力(ポテンシャル)に背を向けた生活をしているのです。まさに『芸術は貶(おとし)められ、想像力は拒まれ、戦争は国民を支配した』(注:ウィリアム・ブレークの言葉)のです」。



人間性を失くした技術の肥大と暴走は、同時に、芸術の衰弱と病弊を呼ぶ。

「社会が健全なときには、芸術家は社会の健全性を強めますが、社会が病んでいるときには、同じようにその病弊を強めます」。



マンフォードも各所で指摘しているのだが、技術と芸術は単純な二元論で片付けることができない。もし、これらが単純な二元対立でとらえられるなら、一方の技術の暴走は、もう一方の芸術の復興によって修正することができるはずだ。―――しかし、残念ながらそうはならない。芸術はいったん崩壊の流れに乗るや、みずから崩壊の度を強めていくのだ。

「その(芸術の)運動自体は、崩壊作用をみずからの栄養分としており、まさにその崩壊作用に著しく規定されているため、精神の根底から変化しないことには、その運動が新しい平衡と安定を私たちの生活にもたらすことはできまい」。



これは、いみじくもゲーテが「文学は人間が堕落する度合いだけ堕落する」と喝破したことと共鳴する。

確かに、昨今の芸術――ここで言う芸術とは、芸術家による創作活動だけではなく、すべての人が情念の発露として行う表現活動まで含める――において、表現する道具や手法などがそれこそ技術の発達によって洗練されたにもかかわらず、出来あがってくるものは、神経質でギスギスと痩せたものばかりだ。道具や手法などが未発達で粗だった時代のほうが、芸術ははるかに健やかさとふくらみをもっていた。

また、真の芸術の衰退は、人びとがそれを求めなくなることで加速される。

「真の芸術家はやむにやまれぬものを描き、書き、作曲するもので、同時代人を喜ばせることは、二次的な問題にすぎないのですが、かれは同時代人のかれへの興味、悦び、直観的反応によって、いっそう努力するよう促されるのです。
私の親しい友マシュウ・ノヴィッキが建築についてよく言っていたことですが、『偉大な依頼者こそ偉大な建物の制作に不可欠である』という言葉は、他のどんな芸術形式にもあてはまるように思われます」。



私たちは、技術を「富」の増幅と獲得に用いるばかりである。確かにそのことによって、先進国では物が増え、娯楽が増え、平均寿命は延びた。現代において、技術だけが勝利しているように思える。芸術は縮み、人間は技術の配下に置かれる状況が生まれている。この事態を健全な状態に切り返す手立てはいったい何なのか? マンフォードは言う――――

「救いの道は、人間個性を機械へ実用的に適応させることにあるのではなく、
機械はそれ自体、生活の秩序と組織の必要から生まれた産物ですから、
機械を人間個性に再適応させることにあるのです。
つまり人間類型、人間的尺度、人間的テンポ、とりわけ人間の究極目標が
技術の活動と進行を変革しなければなりません。…(中略)
人格のない技術によっていまやまさに枯渇させられた生気とエネルギーとを、
もう一度芸術のなかに注ぎなおさなければならない」。



結局のところ、人間が技術を司るのである。結局のところ、人間が芸術を司るのである。技術の自己肥大化、芸術の自己病弱化に人間が振り回されているのが重大問題なのだ。そのために、私たち人間は、技術の主人となれ、芸術の主人となれ、そのために叡智を集結させて文明の流れを修正せよ、これがマンフォードのメッセージである。

* * * * *

◆大きなシステムの中で部品化する人間
しかし、技術の主人となる、芸術の主人となることは、そう簡単な話でない。私たちは今日、標準化、大量生産、大量消費、分業、カネがカネを生む経済システムによって“生かされている”。

もっと多くを欲し、もっと多くを生産する。もっと速く生産し、もっと速く消費する。そうして工場を稼働させ続け、拡大再生産回路を絶たないようにする。これこそが社会を潰さず、企業を潰さず、個人の生活を潰さないための唯一の方法―――現代文明は、ブレーキもハンドルもなくアクセルしか付いていない暴走車にいまや何十億人という人間を乗せて走っているのだ。

大量生産・大量消費・拡大成長・競争原理を前提とした経済は、必然的に、仕事の分業化を押し進める。仕事の分業化は、働く個人の技能的部品化・知能的部品化を意味する。

チャーリー・チャップリンの映画『モダンタイムス』(1936年)は、工場労働者が単純作業にまで分解された仕事を黙々とこなし、生産機械の一部になっていくことを痛烈に批判したものであるが、これをいまのビジネスパーソン(ナレッジワーカー)たちが観て、「かわいそうになぁ、そりゃあんな単純な肉体労働を歯車のようにさせられちゃ人間疎外にもなるよ。昔はひどかったな」と思うかもしれない。しかし、よくよく考えてみるに、チャップリンが描いた当時のブルーカラーも、現代の大企業オフィスで知的労働に関わるホワイトカラーも問題の本質は変わっていない。単純な肉体作業が多少複雑な知的作業に取り替わっただけの話であって、依然一人の働き手が、大きな利益創出装置の中の歯車であることには変わりがない。

私は主に企業の従業員を対象に研修をしているが、新入社員であっても、3年目、5年目社員であっても、そして部課長ですら、その多くが「(生計を立てるため、というほかに)働く目的を明確に持っていない」、「夢・志を描けない」、「働きがいが見出せない」、「10年後どうなっていたいか、特に想いはない」……という状況だ。

このことは、過度に進む仕事の分業化と関連がある。
自分のやっていることが、全体とどう結びついているかが見えにくい、
自分のやっていることが、末端のお客様とどうつながっているかが実感しにくい、
自分のやったことで、直接お客様から「ありがとう」を言われたことがない、
自分のいまやっていることは、会社からの異動辞令が出ればまた変ってしまう、
自分に任された範囲のことをきちんとやっていれば、月末に給料が振り込まれる……
そんな状況で働いて、
働く目的や意味を見出せ、将来を描けというのは、酷な話かもしれない。

人間は、自らの仕事に全人的に関わらないかぎり、そこに働きがいや意味を付与することは難しい。


◆手仕事の職人という理想形
マンフォードは労働者の理想、そして技術と芸術のよき均衡を19世紀中葉までの手仕事の職人に見る。

「かれ(職人)は自分の仕事に時間をかけ、自分の身体のリズムに従ってはたらき、
疲れれば休息し、経過をふり返っては工夫し、
また興がのったところでは、ためつすがめつ、あれこれ手をかけていました。
ですから仕事はあまりはかどりませんが、かれがそれに費やした時間は、
真に生きた時間でした。

職人も、芸術家とおなじように、
自分の仕事に生き、仕事のために生き、仕事によって生きたといえます。
はたらく報酬も、そうした活動そのものにもともと備わっているもので、(中略)
かれ自身が製作工程を支配する親方であるという事実は、
人間的尊厳の大きな満足であり、その支柱でもあったのです。

手仕事のもうひとつ報いられた点は、

職人がさらに技術的に熟達すれば、
仕事の操作から仕事の表現という面に移行できたことです」。



私自身、大企業の管理職を辞め、自営業で独立した。個人事業は苦労も多いし、障壁も多いが、仕事には格段の充実を得るようになった。それはとりもなおさず、自らの仕事の全体を掌握する主人になったからだ。コンサルタントという知的サービス業ではあるが、それは職人的手仕事と似ている。自分を全体的に使って、仕事を全体的に動かしていく。自分の信ずるところの想いを事業という形に変えるという営みは、技術と芸術の相互の掛け合わせなしには実現されない。技術は芸術を高め、芸術は技術を刺激する。そして技術と芸術は、自分の想いをどんどん進化・深化させてゆく。そのやり応えを一度でも知ったなら、とてもサラリーマンには戻れない。

私は周囲の骨のある人間には、常にこう勧めている―――ともかく生涯に一度でも、自分の事業をやってみなさいと。

ちなみに、19世紀中葉に活躍し、アーツ・アンド・クラフツ運動の中心的人物だったウィリアム・モリスも職人的手仕事を理想的な労働とした一人であるが、彼は著書『ユートピアだより』の中で、有用な仕事は3つの希望を与えると言っている。

その3つとは―――
「休息という希望」、「生産物という希望」、「仕事自体楽しいという希望」である。

確かに、自らの意志の下で行う職人的手仕事という労働はひとつの理想形ではある。しかし、この現代社会において、そして地球人口が70億人を超えそうな状況において、すべての人間が職人的手仕事に従事して世界経済を回していくわけにはいかない。

私たちはやはり大量生産・大量消費、分業制、企業組織、金融システムといったものを利用しながら人類を食わせていかねばならない。しかし人間がそれらの下僕になってしまってはいけない。その解決のための決定打は何なのか―――。


◆1人1人が1日1日の小さな決断をたくさん積み重ねた結果、流れが変わる
マンフォードはきちんとそのことについて言及している。しかし、その決定打というのは、起死回生の一発逆転満塁ホームラン!のような即座の劇的な方法ではない。それは、一人一人が“人間味”を取り戻すこと、生物全体、人間全体へと関心を方向転換させること、内なる自分を見つめ、耳を傾け、心中の衝動と情動に応える習慣を身につけること、だと彼は言う。なぜなら、文明の流れの全面的変化は、「ある独裁的命令で即座に生じるのではなく、新しいアプローチや新しい価値観の傾向や新しい哲学などから生じる一日一日の小さな決断をたくさん積み重ねた結果」もたらされる(されてきた)からである。

そしてマンフォードは、絶対神を崇めるキリスト教思想よりも、自然と共生し、個々の人間の自制的生活を促すという意味で東洋思想への期待をにじませている。

そう聞くと、「なんだ、結局は一人一人の人間が慎ましく変われということか。平凡な答えだ」と思う人が多いかもしれない。しかし、そうした答えを大勢が見くびっていく先には、文明の衰退があるだけだ。

「一人一人の人間が叡智を湧かせて変わる。それこそが世界をよく変える唯一確実な道」
―――平凡だがこれほど偉大な答えはない。

超一級の学者が常にそうであるように、ルイス・マンフォードは、大きな問題に独自の視点を与え、表現を凝らしてそれを照らし出す。そして、一貫して人類の叡智を信じ、強い楽観主義に基づいて聴衆の心に呼びかけをする。この本には、文明の視座からいろいろなことを考えさせてくれる指摘や考察があるので、是非お薦めする。




ロバート・B・ライシュ著『暴走する資本主義』を読んで

8.02


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ロバート・B・ライシュ『暴走する資本主義』
〈原題:“Supercapitalism”〉
雨宮寛・今井章子訳、東洋経済新報社








* * * * *

◆不特定多数のなかの加害者と被害者
本稿を書きはじめた折、テレビのニュースでは、ある事故について報じていた。それは、兵庫県明石市で2001年7月に起きた「明石花火大会歩道橋事故」である。市民花火大会に集まった見物客がJR朝霧駅南側の歩道橋で異常な混雑となり、「群衆雪崩」が発生。11人が死亡、247人が負傷した事故だ。

私には、この事故と、きょう紹介する『暴走する資本主義』とが、ある部分重なって見える。以降の論点に沿って、明石事故を分解してみると、この事故には着目する点が3つある。

1点目に、安全面での警備体制・規制がなされていなかったこと。例年、人がごった返し、かねてから安全面での問題が指摘されていたにもかかわらず、混雑を規制する計画も、当日の警察官出動もなかったという。

2点目に、被害者は主に過度の圧迫による死傷だったこと。歩道橋に溢れた人びとの一人一人は、もちろん事故を起こす意図などない。ましてや誰かを圧死させようなどという殺意があるわけでない。第一、一人の人間は他人を圧死させるような強い力を持ち合わせていない。しかし、物理的には、歩道橋にいた一人一人の自己防衛の行動が重なり合わさって、ある箇所に力として集中し、たまたまそこにいた個人が圧迫被害を受けた。

3点目に、したがって、当時、あの歩道橋にいた一人一人が知らず知らずのうちに(物理的な意味での)事故の加害者となり、かつ、誰もが被害者になりえた状況にあったこと。

* * * * *

◆資本主義の暴走を荷担しているのは私たち一人一人
さて、そんなことを頭に置きながら、ロバート・B・ライシュ著『暴走する資本主義』の内容に触れたい。

「1970年代以降、資本主義が暴走を始めたのはなぜか?」―――著者はこの問いを置くことからスタートする。著者は、資本主義を暴走させたのは、根本的な意味で、強欲な企業・経営者、あるいは巨額の資金を運用する数々のファンドやマネーディーラーたちではないと言う。では誰か?―――それは、「消費者」「投資家」として力を持った一般の私たち一人一人なのだ。これが著者の主張する重要な観点である。

つまり、一人一人の力は小さいかもしれないが、「もっと安いものを!」「もっとリターンの高い投資を!」という欲望が束となって巨大な力を生み、資本主義を歪な形に走らせるプレッシャーをかけている。例えば、ウォルマートは今日、米国で最大規模の収益を上げ、最多の従業員を雇用し、日々、何千万人という消費者を招き寄せる圧倒的に強い小売企業となった。そしてここ数十年間、目覚ましい勢いで株価を押し上げ、株主に報いてきてもいる。それを可能にしているのは、ウォルマートのサプライヤーに対する過酷で非情な交渉力である。ウォルマートは「1セントでも安く買いたい」という個々の消費者の購買意思を集結させ、あたかもその消費者団体の代表として仕入れ先と値引きの交渉を行うのだ。

ウォルマートが収益を上げるためにやっている過酷なことは、外側だけに限らない。内側に対してもギリギリまで削りに削る。詳細の数値は本書に出ているので省くが、ウォルマートの従業員・パートタイマーの労働待遇(給料や福利厚生や年金保障、健康保険手当など)は厳しい。しかしだからといって、ウォルマートのCEOは、非情だとか残酷だとかのレッテルを張られる筋合いのものではない。彼は、ビジネスという競争ゲームのルールに従って、最大限の成果(収益獲得)を出そうと本人の能力を発揮し努力しているに過ぎないのだから。

仮に、サプライヤーや従業員に温情をかけてウォルマートの値引き率が鈍ってしまえば、1セントでも安く買い回る消費者は、そそくさと他のチェーン店に移ってしまうだろう。そして、収益が悪化傾向をみせるやいなや、株価が下がり始め、少なからずの投資家たちがワンクリックで株を売り払う流れが強まる。そして、株の下落は加速する。四半期ごとの成績を厳しく問われるCEOは、交代を迫られるはめになる。

そうした背後でプレッシャーをかける投資家とは誰なのか? 直接的にはもちろん、その株を保有する株主である。そして間接的には、年金ファンドや保険商品、投資信託商品を通じて、薄く広く「あなた」自身も、そこに関わる当事者の一人である可能性が高いのである。


◆強い「消費者・投資家」としての私 vs 弱い「労働者・市民」としての私
私たち一人一人には、多面性がある。「消費者」であり、(広い意味での)「投資家」でもある。そしてまた同時に、「労働者」であり、「市民」でもある。

70年代以降、「消費者としての私」、「投資家としての私」は、飛躍的にその立場が強まった。より有利な(=得をする)選択肢を求めて、動ける方法が格段に多くなったのだ。しかし、その「消費者」「投資家」としての利得欲望が増せば増すほど、「労働者」「市民」としての私たち一人一人は、逆に富を享受できない方向へと押しやられていく皮肉な現象を起こしているのが昨今の状況なのである。

そうした資本主義の歪みを矯正するのが、民主主義・政治の役割なのだが、もはや暴走する資本主義にのみ込まれてしまって機能不全に陥っている。著者は、ワシントン(=米国の政治)が、いまや企業という利益団体から雇われるやり手のロビイストたちで動かされている現状を具体的に書き連ねている。公益や社会の真に重要な問題を訴える市民団体や非営利組織などは、団結力や資金力に乏しいので、その訴えがワシントン上層部に届く前に雲散霧消していく場合がほとんどだと言及する。

「消費者」や「投資家」としての私たちは、ネットショッピングやネットの株取引、ネットの検索などを利用して、ワンクリックで自分の意思を即座に完結させることができる手段を持った。そして、それらはグローバルにつながり統合されることで、巨大なパワーとなる。

その一方で、「労働者」「市民」としての私たちは、意思を世の中に伝える手段はきわめて限られており、脆弱なままだ。一労働者・一市民として、「このままじゃいけないので反対しよう」「何か役立つことをしたい」と思ったところで、それを実行し、ましてや同じ考えの人びとを束ねて大きな運動にするには気の遠くなるような努力と時間が必要になる。

ライシュ氏は、序章でこう書いている。

「私たちは、“消費者”や“投資家”だけでいられるのではない。日々の生活の糧を得るために汗する“労働者”でもあり、そして、よりよき社会を作っていく責務を担う“市民”でもある。現在進行している超資本主義では、市民や労働者がないがしろにされ、民主主義が機能しなくなっていることが問題である。

私たちは、この超資本主義のもたらす社会的な負の面を克服し、民主主義をより強いものにしていかなくてはならない。個別の企業をやり玉に上げるような運動で満足するのではなく、現在の資本主義のルールそのものを変えていく必要がある。そして“消費者としての私たち”、“投資家としての私たち”の利益が減ずることになろうとも、それを決断していかねばならない。その方法でしか、真の一歩を踏み出すことはできない」。



著者は、序章でこうした結論を述べた後、残りの300ページ超にわたり事実を一つ一つ積み上げながら、資本主義が暴走を始める根本のメカニズムを書き解いていく。もちろん、その列挙する事実が偏向的だとか、決め付けだとかの声は出てくるだろうが、それにしてもこの本の主張には、力強い一本の背骨が入っている。文章表現や解釈というのはいやおうなしにその人の人格やら思考の性質を顕してしまうもので、ここにはロバート・ライシュという人物の堅固な良識さ・明晰さと、このことを社会に問わずにはいられないという使命にも似た強い意志を感じることができる。

* * * * *

◆捨てられない資本主義をどうするか
著者は、今のこの歪(いびつ)に暴走を始めた資本主義の進路コースを修正し、世界が継続的に維持発展できるようにするためには、一人一人がマクロの視点で、自分たちが依って立つ経済システムを見つめなおす意識を持つことが大事だと訴える。

そして、「消費者・投資家として私」が、際限のない欲望をうまく自制し、よき「市民・労働者」として、よき民主主義を蘇生させるよう動くことだと主張する。そのバランスを能動的に賢くとることができれば、強い資本主義と活気ある民主主義を同時に享受できるとしている。

私たちのほとんどは、資本主義を生まれた時から当然のものとして受け入れている。単純な比較で「資本主義=○、共産主義=×」と半ば反射的にとらえている。だが、そこには、確たる思想があって、資本主義を是としているわけではない。ただ何となく「共産主義は怖そうだから」とか「資本主義は自由だからいい」といった程度の感覚で支持しているにすぎないのではないだろうか。

しかし、今回明らかになったように、資本主義は、私たちの大事な民主主義を脅かしていて、「1%の経済的強者と99%の経済的敗者」を現実的につくりだす方向に加速している。資本主義など捨ててしまえ、という単純なものではない。おそらく、このシステムを土台にしてしか、当面、地球上の数十億人の経済は回っていかない(中国も事実上すでにこのシステムの上に乗っかっている)。

資本主義は基本的には優れたシステムである。しかし、人間の欲望をエンジンにして稼働するところが問題なのだ。そのとき私たちには、それを賢く扱うための「思想」が要る。言うまでもなく、一個一個の人間の内にそれが不可欠なのだ。

アンドレ・コント=スポンヴィル氏が『資本主義に徳はあるか』の中で言ったように、資本主義のメカニズムは、それ自体、道徳的でも反道徳的のものでもない。結局、それは経済を行なう人間に任されている。だから、私たち一人一人の思想いかんで、資本主義は“ノアの方舟”にもなれば、“泥船”にもなる。


◆資本主義を生かすためには叡智が要るが……
思想なり哲学なり叡智なり、人間の賢さというのは、少なからずの人が指摘するように時代が下ってもさほど進化してはいない(科学技術文明の発達ともあまり関係がない)。特に、欲望の扱いに関しては、人類は古くから惑わされっぱなしである。

渋沢栄一の『論語と算盤』は、昭和3年(1928年)の刊行だが、ここには現在と同じくマネー獲得を狙って投機に明け暮れる投資家や事業経営者たちがあちこちで言及されている。そして『論語』の思想で滔々と諭す渋沢がそこにいる。

また、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を著したマックス・ヴェーバーは(執筆した1904年時点で)、「営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることさえ稀ではない」と書いている。つまり、経済がその本来の意味である“経世済民”からはずれて、もはやマネーの多寡を競い合う体育会系ゲームになり下がっていると指摘しているのだ。

そもそもケインズも、私は資本主義より優れた経済システムを知らない。しかし、人びとの中に生まれる「貨幣愛」が問題である、と吐露している。資本主義が回り始めてこのかた、人びとの欲望がそのシステムの箍(たが)をはずし、いくつもの「●●恐慌」やら「●●ショック」を引き起こしてきた。金融の「暴走→暴落→規制→新たな暴走」というサイクルが止まないのは、人間がいまだ欲望をうまくコントロールできていない証左だともいえる。

古今東西、宗教は、人間の欲望を統御する力としてある程度の役割を果たしてきた。私は最終的には、歪み暴走する経済システムを矯正するために、宗教セクターの力は不可欠なものと信じている。またそれに加え、文化や芸術、哲学、教育の力が必要なことは言うまでもない。……一方、科学。科学は、実質、暴走経済を荷担する側になり下がっている。科学という刀を正しい経済システム構築に使うためには、やはり、人間の欲望のコントロール力というところに戻ってくる。

* * * * *

◆答えは一個一個の人間の内側にある
私たちの考え方と行動いかんによって、資本主義が泥船化するかもしれないという大事な分岐点にあって、私たちは相変わらず、日々の業務効率化スキルの習得ばかりに目がいき、組織から下りてくる数値目標の達成に忙しい。肉体労働、知識労働の別にかかわらず、組織の歯車となって一人一人の労働者が働かされる構図はチャップリンが映画『モダンタイムズ』で描いたころとさして変わってはいない。

スーパーで1円を節約する主婦が、あるいは昼食で100円200円を浮かせたサラリーマンが、FX取引で「きょう1日で5万円の儲けが出た」とか「レバレッジで2000万円の損失が出た」と口にする風景は、どうも何かを見失っているように思える。

「生活防衛のための投資の何が悪い!」という気持ちもあるだろうが、それは冒頭で触れた明石の花火大会歩道橋事故で言えば、肘を立てて我さきに強引に逃げようとしている姿にも映る。橋全体が崩れるかもしれないという状況にもかかわらず・・・。

「パンとサーカス」は、詩人ユヴェナリスが用いた風刺句である。民衆はパン(=食糧)とサーカス(=適当な娯楽)さえ与えられていれば、為政者に文句を言わず、日々適当に暮らしていくということだ。

今の日本を見ると、問題山積ではあるものの、パンはそこそこ手に入るし、ストレス発散や憂さ晴らしをするサーカスもさまざまある。加えて、パソコンやスマホから手軽な操作で、マネーを増やす投資(投機)手段もいろいろ出てきた。「給料が増えないんなら、カネにカネを生んでもらおう」と投資商品を買い、日々の相場数値に一喜一憂する。意地の悪い風刺画家であれば、こうした状況をパンとサーカスに満足し、サイコロに夢中になっている人びとを描くのではないだろうか。

私は厭世家でも、マネー投資否定者でもアンチ資本主義者でもない。むしろ“強い資本主義”と“活気ある民主主義”の両方を望む者である。そして経済を本来の大義である“経世済民”として、その健全な発展を望む者である。

そのために「働くことのよき思想」を一人一人の人間の中に涵養していくことが決定的に重要だというのが本記事の主張である。そして職業人教育の分野で起業した私の事業動機もそこにある。歴史を振り返ると、よき時代には、必ず「よきエートス(道徳的気風)」が充満している。エートスはどこからか漂ってくるものではない。個々の人間の内側から湧き起こってくるものである。その個々の人間の内側にはたらきかける仕事ができることに私はやりがいを感じている。




【お勧めしたい関連読書】

・アンドレ・コント=スポンヴィル『資本主義に徳はあるか』
 (小須田健/C.カンタン訳、紀伊国屋書店)
・渋沢栄一『論語と算盤』(国書刊行会)
・野中郁次郎/紺野登『美徳の経営』(NTT出版)
・内山節/竹内静子『往復書簡 思想としての労働』(農山漁村文化協会)
・杉村芳美『「良い仕事」の思想』(中央公論社)
・塩見直紀『半農半Xという生き方』(ソニーマガジンズ)
・西村佳哲『自分の仕事をつくる』(晶文社)
・ジョシュア・ハルバースタム『仕事と幸福、そして人生について』
 (桜田直美訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン)
・ディック.J.ライダー『ときどき思い出したい大事なこと』
 (ウィルソンラーニングワールドワイド監修、枝廣淳子訳、サンマーク出版)





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