1●仕事・キャリア Feed

3つの「テンショク」~展職・転職・天職

1.7.1.



◆職人の手と道具
私はかつて勤めた出版社で、デザイン雑誌の編集をやっていたときがある。取材の中でも、伝統工芸家や職人さんの取材はとても面白かったものである。取材時に私が毎回、目を引かれたのは彼らの手と道具だ。

長年の間、力と根気を入れて使った手や指は、道具に沿うように曲がってしまう。また道具も、彼らの指の形に合うようにすり減って変形してしまう。時が経つにつれ、互いが一体感を得るように馴染みあった手と道具は、それだけで味わい深い絵(写真)になる。

真新しい道具が手に馴染まず、なにか違和感がありながらも、使い込んでいくうちに手に馴染んでいく、もしくは手が道具に馴染んでいくという関係は、職と自分との関係にも当てはまるのではないか。つまり、仕事人生の途上で出合う雇用組織・職・仕事で、あらかじめ自分に100%フィットしたものなどありえない。仕事内容が期待と違っていた、人間関係が予想以上に難しい、自分の能力とのマッチング具合がよくないなど、どこかしらに違和感は生じるものだ。

ただ、そうしたときに職業人としての自分がやらねばならない対応は、自分の行動傾向をその職・仕事に合うように少し変えてやる、もしくは自分の能力を継ぎ足したり、改善したりすることだ。または、その職・仕事の環境を自分向きに変えてやる、あるいは、些細な違和感を乗り越えられるよう雇用組織との間で大きな目的を共有するという努力も必要となる。


◆最初の仕事はくじ引きである 
ピーター・ドラッカーは次のように言う───

「最初の仕事はくじ引きである。
最初から適した仕事につく確率は高くない。
得るべきところを知り、向いた仕事に移れるようになるには数年を要する」。



私は職業人の最も重要な能力の一つは、「状況対応力/状況創造力」だと思っている。ドラッカーの言うとおり、最初の仕事はくじ引きなんだから、「はずれ」が出ることもある。そう楽観的に構えることがまず大事だ。で、当初は「はずれ」であったとしても、自分の状況対応、状況創造によって、じゅうぶん事後的に「当たり」に変えることができるのだ。

結論的に言えば、キャリアづくりとは、職業選択というくじ引き後の職と自分の馴染み化(状況対応/状況創造)のプロセスなのである。

もちろん世の中にはとてもひどい会社があって、労働条件が理不尽なところや、組織ぐるみで不正まがいのことをやっているところもある。そういう場所に気まじめに居続けよということでもない。ただ、たとえそんな「大はずれ」に当たってしまった場合にでも、ある期間、自分なりに奮闘してみて、なにかしらを吸収してくるという粘り根性は必要である。

私自身も長いサラリーマン生活の間に何度か、ひどい上司、ひどい職場を経験した。しかし、そこで粘っているといろいろなものがみえてくるもので、反面教師的なこととか、理不尽なことへの対処法だとか、それはそれでその後のキャリアに有益にはたらく学びとなる。とにかく、世の中は清濁併せ飲んでいかねばならないのだから、思い通りにならない環境に放り込まれたからといって、短期に腐り、冷めて、投げやりにならないことだ。

与えられた環境への違和感、不満、不足、不遇は誰にでも起こる。それを嫌って、すぐに居場所を変えたところで、自分の内にある根本的な“逃げの心”を治さないかぎり、漂流回路に陥るリスクを大きくするだけだ。「いま・ここの場所」で留まり、何かをつかまないかぎり、次への建設的な移行はない。


◆3つの「テンショク」
目の前の職・仕事と自分が馴染み合うように状況を変えていくその能動的な営みを、私は、「展職」と名づける。

「展職」の「展」は、“展(の)べる” とか“展(の)ばす”と訓読みし、広げる、進める、変えるといった意味を含む。どんな仕事も、展べる余地は無限にある。むしろその展べる作業こそ、仕事の重要な部分である。ただ、それをやるかやらないかはすべて働き手本人の問題である。「会社が自分のやりたい仕事をさせてくれない」「自分の能力が発揮されないのは配属のせいだ」と一方的に他に要因を押しつける考え方では永遠に自分をひらくことはできない。

「小さな役はない。小さな役者がいるだけだ」とは、演劇の世界の言葉だ。それと同様に、「つまらない仕事はない。仕事をつまらなくしている人間がいるだけだ」とも言える。したがって、長きにわたる仕事人生において、基本は「展職」である。

そして場合により、「転職」が必要なときもある(私も実際4回した)。しかし、転職はあくまで手段。自分の目的や方向性がある程度みえているなら、その選択肢は有効となる。しかし、安易な動機でそのハイリスクのカードを切ると、ますます状況を悪化させることにもつながりかねない。転職の転は「転(ころ)ぶ」とも読むのだ。転びはじめると、それが“転びグセ”になることも往々にしてある。

何度も言うように、基本は「展職」に忍耐強く取り組んでみることだ。そうこうしているうちに、結果として、「天職」、あるいは、生涯を通じてやり続けたいライフワークのようなものがみえてくる。それは、「展職」についてくるごほうびみたいなものでもある。

職・仕事との向き合いで決して短気を起こさないこと。キャリアは、短距離競争ではなく、いろいろガマンの要る山あり谷ありのマラソンだから。




〈Keep in mind〉
基本は「展職」・場合により「転職」・結果として「天職」





働く動機の分類

1.5.1



◆内発的動機/外発的動機
内発的動機とは、自分の内側から湧き起こってくるもので、仕事そのものの中にそれを行う理由を見出すものである。他方、外発的動機は、自分の外側(他者)から与えられるもので、仕事の周辺に行う理由がある。

賞罰(アメとムチ)による制度は、外発的な動機をベースにする典型的なものである。つまり、成果を上げれば金銭的な報酬や地位・名誉が与えられ、逆に成果を上げなければ尻を叩かれるといった具合だ(尻を叩かれるとは、もちろん実際に叩かれるわけではなく、プレッシャーをかけられるとか、干されるとか、ボーナスが減らされるといったようなこと)。
また、その仕事は他人がカッコよく見てくれるとか、その資格を取っておくと有利といったように、理由の起点が自分の外にあり、他者から意欲を焚きつけられる場合も外発的動機である。


◆外発的動機は単発的で反応的~いつか疲れる
一般的に、内発的動機は持続的で意志的である。それに対し、外発的動機は、単発的で反応的になる。成果主義は、金銭的な報酬による刺激策で外発的動機を誘うものだ。私たちは、ときにそうした刺激に反応して意欲を燃やす場合があるが、それのみで長いキャリアの道のりを進んでいくには限界が出てくる。なぜなら、人間は刺激疲れ、競争疲れしてしまうからだ。中長期にわたってその仕事をまっとうしていくためには、やはり、その仕事、その職業、その職場に内発的な動機を持っていなければ持続しない。

心理学者ミハイ・チクセントミハイは、仕事自体の中に内発的動機を見出しそれに没入するときの包括的感覚を「フロー」と名づけたことで有名である。彼は著書『フロー体験 喜びの現象学』で次のように書いている。

「人間の生物学的性向を利用する社会的に条件づけられた刺激/反応のパターンに従っている限り、我々は外から統制される。我々は身体の命令からも独立し、心の中に起こることについて責任を負うことを学ばねばならない」。


つまり、金銭的報酬や賞罰といった外発的動機づけで動かされている働き手は、本質的に、餌で訓練されているサーカスの玉乗り熊と変わらないと言っているのだ。実にどきっとする指摘ではないだろうか。

また、米・コロンビア大学で哲学の教鞭を執るジョシュア・ハルバースタムは『仕事と幸福そして人生について』で次のように言う。

「お金はムチと同じで、人を“働かせる”ことならできるが、“働きたい”と思わせることはできない。仕事の内容そのものだけが、内なるやる気を呼び覚ます」。

「迷路の中のネズミは、エサに至る道を見つけると、もう他の道を探そうとしなくなる。 このネズミと同じようにただ(金銭的)報酬だけを求めて働いている人は、自分がしなければならないことだけをする」。



◆利己的動機/利他的動機
動機を分類として、利己的動機/利他的動機の考え方もある。
利己的動機とは、まず自分の利益を中心に据える動機である。それに対し、利他的動機は、他者の利益がまず思いの中心にあり、結果的に自分がうれしいという動機である。「内発的動機と外発的動機」という軸と合わせ、動機を四つに分けたのが下図である。

151



さて、利己的な動機と利他的な動機を比べて、どちらがより望ましいだろうか。これについては、私たちのよく知っているオーソドックスなことわざが簡潔に結論を言ってくれている。すなわち───「情けは人のためならず」(=人にかけた善行は、めぐり巡って自分に帰する)だ。

「利他的であれ」というのは、説教じみて面白くない結論だと思うかもしれない。しかしこれは理にかなっている。なぜなら、利他的に行動するためには、まず自分をしっかり持たなければならない、また全感覚を研ぎ澄ませて他者を受信しなければならない、そして自らの欲求は他者への願いや祈りへと変わっていく。すると、その行為を受けた他者から、感謝や支援、協力といったものが集まりだす。そうして、ますます自分は勇気づけられ、多少の挫折や困難にも負けていられない自分ができあがる。……気がつけば、自分が望む結果になっていた。そんな状況が生まれるからである。

逆に、利己的な動機は、自分の世界に閉じこもりがちであり、どうしても私欲を強める方向に進んでいく。その実現過程において他者からの応援なども生じにくい。結果として、行き過ぎた利己は好ましからぬ状況にたどりつくことを私たちは少なからず自他の人生経験から学んでいるはずだ。


◆利他的な動機も、ときにマイナスの作用が出る
ちなみに、利他的な動機にも短所はある。利他的な思いを含んだ使命感は、それが過剰になると(専門用語では「過価観念」とか「固着観念」といい、「脅迫観念」よりは病的でないもの)、思い上がりや独りよがりを生んで、自分自身の反省機能を鈍らせ、必ずしも建設的な結果をもたらさないことがある。

また、利己的な動機もけっして否定されるべきものではない。利己的動機は、それが純粋で真摯なものであれば、結果的に利他にはたらく場合もある。
例えば、ひたむきに練習に励み、試合で活躍するスポーツ選手や、命を賭して危険に挑む冒険家、創造に没頭している芸術家などの場合だ。彼らは必ずしも他人のためにひたむきにやっているわけではなく、おおかたの動機は、自己のためにある。だが、彼らのそうした一途な姿は、他者の心を打ち、「自分もあのようにがんばろう」と感化を呼ぶ。

このように、利他的動機・利己的動機は、一歩引いた目線で、多面的にみておく必要があるだろう。なお、利己的・利他的と言うとどうしても道徳教育的になるので、私は「内に閉じる動機」・「外に開く動機」と呼び換えてもいいように思っている。


◆自分の動機ベースを「内発×利他」へシフトする
ともあれ、動機の最強の組み合わせは「内発×利他」である。みずからの働く動機を「内発×利他(外に開く)」方向へシフトさせていく意識づけをするために、私が研修現場で用意している自問リストが次のようなものだ。リストをもとに、何を考え、何を行動に移すかを受講者に問うていく。

〈自問リスト〉
□この仕事・やり方はまだまだ進化する余地があるはずだ。それは何だろう?
□この種の仕事の名人・達人と呼ばれる存在になってやろう。
□自分の業務ノウハウを人に教えてあげよう。

□自分の業務知識を体系的にまとめて発表しよう。
□今、自分がこの職場に与えている貢献は何だろう?
 自分が職場で不可欠な存在になるために何をすることが必要なのか。
□この仕事は顧客に何を提供しているのだろう?
 それは顧客が望む最良・最高のものか。

□この仕事はどのように社会につながっているのだろう?
 そのつながりは現状のままでよいのか。修正や強化の方法はないのか。
□この仕事をやる意義は何だろう?
 それは家族に誇りを持って語れるものだろうか。
□仮に年収が2割減になったとして、それでも今の仕事を続けたいと思うだろうか?
 その2割分を補う(金銭的でない)何かを仕事から生み出す自信があるか。




◆ハーズバーグの「動機づけ要因」と「衛生要因」
動機を考える視点で、もう1つよく言及される分類を紹介しておこう。アメリカの心理学者であるハーズバーグは、「動機づけ・衛生」理論を展開したことで知られる。

彼は被験者に、これまでの仕事の中で、非常にいい思いをした経験、非常に悪い思いをした経験をインタビューした。すると、非常にいい思いをしたという話では、仕事の達成感や承認(評価)、仕事そのものの面白さ、そして責任感などが数多くあげられたという。
一方、非常に悪い思いをした話の中では、会社の方針や経営のしかた、人の監督のしかた、人間関係、労働環境などが主としてあげられた。ここからハーズバーグは、前者を働く者に「満足と動機づけを与える要因」であるとし、後者を「不満を募らせる衛生的な要因」であるとした。

ここから一般的に、「動機づけ要因」は、よりよく働こうという動機を増すもので、仮にそれが不足しても動機がそれに比例して落ちていかないものとされた。それに対し「衛生要因」は、それを欠くと不満が増し、よりよく働こうという動機を損なうものであり、それらが十分に改善されても、それに比例して満足や動機が増していかないものとされた。



結果とプロセス―――どちらが大事か?

1.4.1



働いていくうえで、そして自分をつくるうえで、「結果」と「プロセス」のどちらが大事か?―――これは難しい問題である。

私たちは皆、程度の差こそあれ成果主義の仕事現場に生きている。結果を出すことは、確かに利益獲得に直結しているのみならず、人を自信づけ、歓喜をもたらしてくれる。しかし、その一方で、人を惑わしたり陥れたりもする。「結果はウソを言うときがあるが、プロセスはウソを言わない」と言い換えてもいい。

このあたり、イチロー選手の語録には深く噛みしめるべき内容があるので、いくつか紹介したい。

○「結果とプロセスは優劣つけられるものではない。
結果が大事というのはこの世界で無視してはいけない。
野球を続けるのに必要だから。
プロセスが必要なのは野球選手としてではなく、人間をつくるうえで必要と思う」。


これは一般のサラリーパーソンについてもまったく同様だ。会社員であれば組織から与えられた事業目標、業務目標があり、それを成果として個々が達成することで、会社が存続でき、給料ももらうことができる。また、自分の能力よりも少し上の目標を立て、それを達成することで自分は成長する。

ただ、そうした結果を出すことが絶対化すると、周囲との調和を図らない働き方や、不正な手段を用いた達成方法を生み出す温床となる。また、働く側にとっては、それが続くと、早晩、消耗してしまう。結果至上主義は多くの問題をはらんでいる。イチロー選手はこうも言う。

○「負けには理由がありますからね。
たまたま勝つことはあっても、たまたま負けることはない」。

○「本当の力が備わっていないと思われる状況で何かを成し遂げたときの気持ちと、
しっかり力を蓄えて結果を出したときの気持ちは違う」。



これはつまり、結果が出た(=勝った・記録を残した)からといって有頂天になるな、結果はウソを言うときがあるぞ、というイチロー選手独自の自戒の言葉だ。

プロセスが準備不足であったり、多少甘かったりしたときでも、何かしら結果が出てしまうときがときにある。そうしたときの結果は要注意だ。そこで天狗になってしまうと、次に思わぬ落とし穴にはまることが往々にして起こる。結果におごることなく、足らなかったプロセス、甘かったプロセスを見直し、次に向け気を引き締めてスタートすることが必要だ。

こう考えてくると、「結果」をめぐる問題点は、どうやら2つありそうだ。一つは、「結果を出せ!」とか「結果を出さなくてはならない」といった強要や自縛がはたらくと、結果主義はマイナスの面が強く出る。もう一つは、たまたま「結果が出てしまう」ことで、本人に慢心が起こる。
この点に気をつければ、「結果を出すこと」は働くうえで重要な意識になるだろう。むしろ、結果を求めないプロセスは、惰性や無責任を生む。また、結果が出ることによってこそ、それまでのプロセスが真に報われることになる。

要は、結果とプロセスはクルマの両輪であって、どちらを欠いてもうまく前に進むことはできない。結果を出そうとすることは前輪(努力する方向感を出す)となり、プロセスは後輪(日々進んでいく駆動力)となる。



【補足】
私は管理職向けの研修で次のようなことも話に加える。

(部下に成果を求める中間管理職に対し)
成果とはその字のごとく「果(木の実)を結ぶこと」である。
果を得るには、木の根・幹・葉が丈夫であってこそ。

根・幹・葉、果に必要なものは、太陽であり、水であり、土である。
あなたのチームにとって、太陽とは何だろう? 水とは? 土とは?……
その太陽、水、土を整え、強化するのは管理職の仕事。
太陽、水、土というプロセスを豊かに整えれば、木の実は無理なく生る。





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