4●個人と組織・人とのつながり Feed

働く忠誠心はどこにあるか~「組織人」と「仕事人」

4.1.3


あなたの働く忠誠心は、組織(会社)にあるだろうか? それとも職業・仕事にあるだろうか? その忠誠心の置き方によって「組織人」の意識と「仕事人」の意識とに分かれる。

【組織人(会社人)の意識】
・雇用される組織(会社)に忠誠を尽くす
・組織(会社)とはタテ(主従)の関係
・組織(会社)が要求する能力を身につけ、会社が要求する成果を出す
・組織(会社)の信頼で仕事ができる
・組織(会社)の目的の下で働く
・組織(会社)は船。沈没したら困る。下船させられても困る
・組織(会社)内での居場所・存在意義を見つけることに敏感
・みずからの人材価値についてあまり考えない
・組織(会社)ローカル的な世界観
・「一社懸命」

【仕事人の意識】
・自分の職業・仕事に忠誠を尽くす
・組織(会社)とはヨコ(パートナー:協働者)の関係
・仕事が要求する能力を身につけ、仕事を通じて自分を表現する
・自分の能力・人脈で仕事を取ってくる
・自分の目的に向かって働く
・組織(会社)は舞台。自分が一番輝ける舞台を求める。舞台に感謝する
・世に出る、業界で一目置かれることを志向する
・自分が労働市場でどれほどの人材価値を持つかについてよく考える
・コスモポリタン(世界市民)的な世界観
・「一職懸命」



私のように個人で独立して事業を行っている場合は、依って立つ組織はないので当然、「仕事人意識」100%で働くことになる。一方、会社員や公務員のように組織から雇われている場合は、この2つの意識の混合になる。たいていの人は、やはり組織人意識の割合が大きくなるだろう。だが、なかには仕事人意識が勝っている人もいる。


◆自分を勤務先で紹介するか・仕事内容で紹介するか
自分のなかでどちらの意識が強いかは、たとえば下のような自問をしてみるとよい。自分が一職業人として社外で自己紹介するとき、XとYのどちらのニュアンスにより近いだろうか。

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【Xタイプ】
〇「私は〈 勤務会社 〉 に勤めており、
 〈  職種・仕事内容  〉を担当しております」。

【Yタイプ】
〇「私は〈 職種・仕事内容 〉の仕事をしており、(今はたまたま)
 〈 勤務会社 〉に勤めております」。



Xは「組織人」の自己紹介ニュアンスである。組織人であるあなたを言い表すものとして、まず勤務先があり、次に任された職種・仕事内容が来る。他方、Yは「仕事人」のものである。仕事人はまず職種・仕事内容で自己を言い表す。そしてその次に勤めている組織が来る。

仕事人の典型としてプロスポーツ選手の場合で考えてみよう。たとえば、米メジャーリーガーのイチロー選手の場合、どうなるかといえば、「私は〈プロ野球選手〉の仕事をしており、今はたまたま〈ニューヨーク・ヤンキーズ〉に勤めております」だ。数年前であれば、後半部分は「今はたまたま〈シアトル・マリナーズ〉に勤めております」であった。

野球にせよ、サッカーにせよ、プロスポーツ選手たちは、仕事の内容によって自己を定義する。彼らは「組織のなかで食っている」のではなく、「自らの仕事を直接社会に売って生きている」からだ。彼らにとっての仕事上の目的は、野球なり、サッカーなり、その道を究めること、その世界のトップレベルで勝負事に挑むことであって、組織はそのための舞台、手段になる。そういう意識だから、世話になったチームを出て、他のチームに移っていくことも当然のプロセスとしてとらえる。ただ、それは組織への裏切りではない。“卒業”であり、“全体プロセスの一部”なのだ。


◆「組織人×依存心」=「雇われ根性」が生む諸問題
さて、ひるがえって日本の働き手で圧倒的多数を占める組織人に話を移そう。言うまでもなく、戦後の日本は、組織が「終身雇用によるヒトの抱え込み×年功ヒエラルキー型」を強力に実行し、そのなかで労働者が忠誠心を組織に捧げて、与えられる仕事を真面目にこなしてきた。労使を挙げて、コテコテの組織人が大量に生産された時代だった。

ここで組織人やその意識を悪く言うのではない。私自身もサラリーマンとして働いた17年間の蓄積があればこそ独立ができた。会社が過去から蓄えたノウハウを伝授してもらい、会社の信頼度で仕事を広げ、人脈をつくり、会社のお金で研修もさまざまに受けた。組織人であることのメリットを感じながら、それを最大限活かし成長していく意識は、むしろ奨励されるべきことである。

問題なのは、組織人意識が依存心と結びついた場合である。「組織人×依存心」は、いわば「雇われ根性」を働き手に染みつかせ、さまざまな問題を誘発する。下は組織人と仕事人の仕事意識を図化したものである。

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組織人の図式において着目すべき点は、仕事が組織のなかに囲われているということだ。これは、組織が雇用や人事権、業務命令権などを通して仕事を実際的に握っていることもあるが、本質的には、働く個が、「自分はその仕事分野で独立しているわけでもなく(するつもりもなく)、仕事は組織のなかにあり、組織から受けるものである。突き詰めれば今のこの仕事は自分のものではない」という意識を表している。必然的に、働く個は、組織との関係を「タテの主従」関係ととらえる。組織人はそのタテ関係を前提にしたうえで、頑張ろうとする。

他方、仕事人の意識はまったく異なる。仕事人は、たとえ組織に雇われの身であっても、「今のこの仕事は自分のものである」と強く認識し、仕事を自分のなかに収めている。そして「組織は自分に機会と場を提供してくれる存在であり、この組織でずっと働くかもしれないし、将来独立することだってあるかもしれない」と考えている。そこには担当仕事を一つの職業として抱く、プロフェッショナルとしての矜恃がある。

ともかく組織人は、仕事は組織から発生し、組織から言い渡されるものだという心の姿勢に傾きやすい。そこに依存心が混じるとどうなるか───自律性が脆弱化する。

個々の働き手の自律性の弱まりは、さまざまな症状になって現われる。言われたことはやるが言われた以上の仕事はしない、先回りした行動ができない、仕事をつくり出せない、自身の役割を広げることをしない……などだ。また、そこで問題が根深いのは、本人は仕事をそれなりにこなしているという自覚でいることである。ともかく、いろいろと“お膳立て”をしてやらなければ、十分な仕事をやれない状態になる。


◆組織の不正・不祥事の温床
もう1つ、組織人の意識が潜在的に抱える問題について指摘しておこう。それは、顧客目線が組織都合になりがちであることだ。組織人は自分が雇ってもらっている組織を船とみる。当然、その船が沈没したり、自分が下船を命じられたりすることを極端に怖れる。そのために、組織の自己保存ための方策には寛容的にならざるをえない。

たとえば、顧客に対して、ある売り方や取引条件が組織に都合よすぎるという状況があったとしよう。あなたが一消費者の立場からみたときに、それは理不尽であり、あきらかに売り手のわがままだと感じている。さて、そのときに、あなたは組織に向かって「そのやり方は改めるべきです」と言い切り、変革の行動に出られるだろうか。

わかりやすい例を出してみよう。あなたは、ある中堅食品メーカーに勤めて10年になる。ここ最近、会社の業績がかんばしくない。従業員減らしが始まるという噂も耳にする。そんななか、ある商品の売れ行きが好調で、それがかろうじて会社の売り上げを支えている。社長からの命令で、あなたの部署もその商品の拡販をやることになった。が、その商品は食材偽装まがいのもので、法律の網をくぐったきわどいものであることを知った。そのとき、あなたは組織に対し、どう行動できるだろう。

もちろん、いまこれを読んでいるあなたは、頭のなかで「そんな犯罪じみたことはやりたくない。会社に反対意見を言う」となるだろう。しかし、現実に目の前に会社の倒産が見え隠れし、あるいは、自分の解雇の脅威があったなら、ほんとうにそこで組織に背けるだろうか。仕事人意識を強く持って働いている人間であれば、仕事は自分のなかにあり、他で雇われうる力も保持しているだろうから、そこを去ることは十分できるのだが。

実際、企業や官公庁でさまざまな不正・不祥事が起こる。そのときの要因を探っていくと、組織の自己保存・そこで働く者たちの自己保存が至上目的化して生じるケースが後を絶たない。いずれにせよ、組織人の意識に依存心が加わると、顧客目線が組織都合になったり、組織の自浄作用が弱まったりする害が起こる。


◆「出世」とは何か?
ところで、「出世」とはどういうことだろう。組織人のとらえ方としては、部長に上がったとか、役員になったとか、そういう社内の階段を上っていく話になる。

電通の元プロデューサーとして有名な藤岡和賀夫さんは、『オフィスプレーヤーへの道』の中の「“出世”の正体」という章でこう書いている。

「自分の会社以外の世界からも尊敬される、愛される、
それは間違いなく『世に出る』ことであり、『出世』なのです。
そこで肝心なことは、『世に出る』と言ったときの『世』は、
自分の勤めている会社ではないということです。
(中略)
自分の選んだ会社を“寄留地”として、
そこを足場として初めて『世に出る』のです。
(中略)
“寄留地”を仕事の足場として、ビジネスマンという仕事のやりかたで、
もっともっと広い社会と関わっていくということが『世に出る』ということなのです」。



以前、韓国のあるIT会社のマネジャーから面白い話を聞いた。その会社では、マネジャークラス以上の人間は、少なくとも年に1回、業界のカンファレンスやビジネスエキスポなどで講演やセミナーをしなければいけない、というルールがある。実行できなければ、降格評価の材料となるそうだ。「社内の管理業務だけに閉じこもっているな。社外に開いて、『この分野に○○社あり』『この分野に“誰々”あり』とアピールしてこい」というもので、これは、いわば、「組織内“仕事人”」をつくり出す方針として注目に値する。


◆ほんとうの「愛社精神」とは
元プロ野球選手の松井秀喜さんは、読売巨人軍を去って、ニューヨーク・ヤンキーズに入団した。だが、松井さんの巨人を愛する心はいまもって深いだろう。できるかぎりの恩返しはしたいにちがいない。仕事人であっても、かつて所属した組織への愛情を注ぎ、恩に報いることはできるのである。逆に、組織人であっても、組織に愛情や恩情を注がない人もいる。そのくせ、組織への「ぶら下がり意識」は強いことさえある。

ほんとうの「愛社精神」とは、組織に雇用され続けたいという下心から起こるものではない。世の中にどんな価値を届ける事業が望ましいか、顧客のためにどんな商品・やり方が理想であるか、などの共通の目的のもとに、組織と個人が対等な立場で言い合える関係のなかで生まれるものである。だから、ほんとうの愛社精神を持った個人は、ときに組織に対して苦言を呈することもあるのだ。

また、次のような愛社精神の表れもある。IBMやアクセンチュア、リクルートといった企業は、仕事人意識の強い人たちが多く集まる。したがって彼らは転職で出て行くケースが多い。しかし、社外に巣立った人たちは、元の会社と継続的に関係を保持しながら、場合によっては、競合しながら業界を育て盛り上げていくことをしている。彼らは元の会社での武勇伝をそこかしこで披露し、いかに自分がそこで育てられたかを語る。そういった話が業界に流布すると、その会社に人財が流入しだすということが起こる。つまり、人財をよく輩出する組織は、人財をよく取り込めるという循環が生まれるのだ。巣立った人びとの武勇伝が、元の会社への強力な恩返しになっているわけである。

繰り返して言うが、組織人の意識自体が悪いわけではない。ただ、組織人の意識は、本質的に、依存心と結びつきやすく、保身的、閉鎖的な姿勢に陥りやすい。だからこそ、仕事人の意識を意図的に取り込む努力をしなければならない。仕事人の意識は、自律心を呼び起こし、革新的、開放的な姿勢を強める。ともかく日本の会社・官公庁は、「組織ローカルな人間」を育てすぎるし、働き手本人たちもそこに安住したいと望む傾向がある。私はみずからが行う人財育成プログラムで、「仕事コスモポリタン」を増やしたいと思っている。その仕事分野において、境界を越えていく世界市民的な人間が日本の仕事現場には少ないからだ。






自分にとっての「よい会社」とは?

4.1.2


「自らの価値観が組織の価値観になじまなければならない。同じである必要はない。だが、共存できなければならない。さもなければ心楽しまず、成果もあがらない」。
―――ピーター・ドラッカー『仕事の哲学』



◆働くことがマラソンだとすれば……
「よい会社」の定義は、人・立場によりそれぞれである。経営者にとっては、多様な人材(人財)と技術力を保持し、1円でも多くの利益を創出していく会社が「よい会社」である。一方、株主にとってみれば、株価も配当も上がり続ける会社が「よい会社」である。また、社会にとっては、雇用や納税など経済的な貢献と、商品・サービスを通して文化的な貢献をするのが「よい会社」である。

では、私たち働く個人にとって「よい会社」とは何だろう?

……給料の高い会社、やりたいことをさせてくれる会社、ずっと雇用してくれそうな会社、ステータスのある会社、社風に活気のある会社、ブランド力の強い会社、理念に共感できる会社、子育てのできる会社、海外に住まわせてくれる会社など、いろいろあるだろう。しかし、総合的に考えて、よい会社とは「自分に馴染む(フィットする)会社」ではないだろうか。

働くことは、ある意味、マラソンであり、会社はそのマラソンに用いる肝心要のシューズと考えてみる。違和感のあるシューズ、見た目はよいが機能性のないシューズでは思った走りができない。短期には頑張れても、中長期ではどこかで足を痛め、ひいては身体を壊し、完走が難しくなる。

「馴染む」とは、いろいろな意味を含む。たとえば、会社の扱っている商品・サービスが自分の感性に馴染む、経営者の考え方が自分の価値観に馴染む、職場の人たちが馴染める人柄である、担当業務・通勤場所・雇用条件が自分にフィットする、などをいう。つまり、シューズにとって「履き心地」が最重要問題であるならば、会社は「働き心地」「働きやすさ」こそ最重要の観点となる。勤めることの持続可能性を考えれば、年収額や知名度、会社規模は二の次でいいのかもしれない。

ただし、念のために加えておくと、働き心地のよい会社に勤めることは、「仕事がラク」であることを意味しない。マラソン自体がどんなに履き心地のいいシューズを選んだとしても、長くて苦しい運動であることに変わりはないのと同じである。体力や知力、理想や計画、完走意志はやはり不可欠なのだ。

そんなところから、自分にとってのよい会社とは「仕事に厳しいが、やりがいが起きて、長く勤めたいと思える会社」と私は提唱したい。


◆2つの円が重なる~会社の目的と個人の目的
さて、その自分のとってのよい会社の「仕事に厳しいが、やりがいが起きて」の部分をさらに掘り下げてみたい。どういった状態が、やりがいが起きる状態なのだろう。そこで「2つの円」を考える。

会社には会社の事業目的がある。これが1つめの円だ。そして個人には個人の働く目的がある。これがもう1つの円である。この2つの円の重なり具合によって、次の3つの関係性が生まれる。

① 【健全な重なり関係】
会社と個人の間には、何かしらの共有できる目的(目的観)があり、両者は協調しながらその成就に向かい、関係性を維持・発展させていくことができる。
こうした関係の下では、ヒトを「活かし・活かされ」といった空気ができあがる。会社は働き手を「人財」として扱い、働き手は会社を「働く舞台」としてみる。ここに、強い理念を掲げた魅力ある経営者が求心力となれば、その組織はとても強いものになる。

② 【不健全な従属関係】
会社の目的に個人が飲み込まれ(この場合、たいてい個人はみずからの目的を明確に持っていない)、個人が会社に従属し、いいように使われてしまう関係である。
個人が他に雇われる力のない弱者である場合、雇うことを半ば権力として会社は暴君として振る舞うことが起こる。

③ 【不健全な分離関係】
会社と個人はまったく別々の目的を持っていて、両者の重なる部分がない。会社はとりあえず労働力確保のために雇い、個人はとりあえず給料を稼ぐためにそこで働くといった冷めた関係となる。

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長き職業人生を送っていくにあたり望むべきは、当然、1番めの関係性である。会社側の目的と個人側の目的と、2つの円が重なり合うこと。この重なりは、賃金労働というカネの重なり以上に、理念共有とか「活かし・活かされ」の相互信頼といった精神的な重なりを表す。

会社と個々の働き手の間で意味的な共有がなされ、魅力的な経営者が求心力を創造している組織の典型を、私は本田宗一郎の次の言葉の中に見出すことができる。


“惚れて通えば千里も一里”という諺がある。
それくらい時間を超越し、自分の好きなものに打ち込めるようになったら、
こんな楽しい人生はないんじゃないかな。

そうなるには、一人ひとりが、自分の得手不得手を包み隠さず、ハッキリ表明する。
石は石でいいんですよ。ダイヤはダイヤでいいんです。

そして監督者は部下の得意なものを早くつかんで、
伸ばしてやる、適材適所へ配置してやる。

そうなりゃ、石もダイヤもみんなほんとうの宝になるよ。
企業という船にさ 宝である人間を乗せてさ
舵を取るもの 櫓を漕ぐもの 順風満帆 
大海原を 和気あいあいと
一つ目的に向かう こんな愉快な航海はないと思うよ。

―――『本田宗一郎・私の履歴書~夢を力に』“得手に帆を上げ”より




会社と「ヒト」

4.1.1



◆会社とはヒト・モノ・カネを投入して価値を生み出す装置である
1人の家具職人が、木を切り出してから1脚の椅子を作るのに丸3日かかる。しかし、その工程を5つに分け、5人の作業員で分業化すると1日に10脚の椅子が作れる。生産性が6倍上がった勘定である。そこで、資本家はカネを集め、生産設備と原材料(=モノ)を買い入れ、経営者と多くの作業員(=ヒト)を雇う。そして、効率的な分業体制の下、椅子の多量生産を始め、そこから多くの事業利益を目論む―――これが近代的企業の発足原理である。

会社とは、端的に言えば、ヒト・モノ・カネを効率的に用いて、より高い価値を生み出す装置である。会社にはそれぞれ、利益獲得なり社会貢献なりといった目的がある。そのとき、会社という装置に投入されるヒト・モノ・カネは、経営側の目的意思によって、さまざまに制限を受けるのが当然となる。したがって、働き手にとって、「(会社に)雇われる生き方」を選択することは、ある意味、自分自身の自由の一部を会社の目的に引き渡し、それを給料に換えることを容認したと考えなければならない。

よく若手従業員のなかに、「会社は自分のやりたいことをさせてくれない」とか「能力適性を無視した異動がなされて許せない」といった不満を口にする人がいる。しかし、この不満は的外れな部分がある。もちろんそうしたことを組織側に訴えていくことはやってよい。会社は事業目的を達成するためにある組織であって、従業員1人1人の(ときに感情的な)望みや好みをそれよりも優先させることはない。だから、会社の原理下で「雇われる生き方」を選択したあなたにとって大事なことは、会社の意思による配置のなかで、最大限に自分自身を生かすべく働こうという心構えなのだ。


◆経営トップがヒトに対して心熱があるかどうかは重要問題
会社選びというのは、ある種、“くじ引き”的なところがあって、実際に働き出してみないとその会社の実態や性格はわからない。もちろんあなたは採用試験の段階でいろいろな情報を集めたかもしれないが、入社後、会社がイメージどおりでなかったという場合が十分起こる。特にその会社が「ヒト」をどう扱っているかは、外部からは見えにくい。しかし、会社がヒトをどう扱っているかは、その会社で長く働き続けたいかと思わせるかどうかに大きく関わってくる問題である。ひょっとすると、会社がどんな商材を扱っているかよりも大きな問題かもしれない。

経営者と会社組織は、事業を行う上でヒトをさまざまにとらえる。一つには、ヒトを「資源」ととらえること。そこでは、ヒトは使い減ったり、適性がよくなかったりすれば取り替えればよいという考え方に立つ傾向が強くなる。経営者は多様なヒト資源をどう組み合わせて、いかに最大限の成果を出すかをひたすら考える。ここでは、ヒトは「人材」という発想になる。

また一つには、ヒトを「資本」ととらえることもできる。ヒトは長期にわたって価値を生み出すものであり、生産のための貴重な元手ととらえる。したがって、一人一人に能力を付けさせ、そのリターンをさまざまに期待する考え方をする。すなわち、「人財」の発想である。

会社は、強力な経済合理性の下に動いているために、利益を獲得しようとする熱心さはどこの会社・どの経営者も同じである。が、ヒトをどう扱うかは千差万別である。「儲けたい」は会社・経営者にとっての原理的な強い生存欲求から来ているのに対し、「ヒトを大切にする」は、個々の経営者の理念・哲学から来ているからである。ヒトを「材」とみなすか、それとも「財」として目をかけるか、雇われる側の人間にとっては極めて重要な事項である。

詰まるところ、社長の考え方が会社の考え方をつくる。社長が利益拡大(金儲け)しか考えない会社は、社員も給料稼ぎ以外のことを考えないギスギスした集団になる。そこでは、カネが最優先にされ、ヒトは脇に置かれる。社長がヒトを大事にする思想を持っていれば、ヒトを育てようとする組織になり、またヒト好きなヒトが社員として寄ってくる。そのように社長がある考え方・方針を掲げてそれを強く推し進めれば、その考え方・方針に共感できない人は去り、共感できる人は組織に残る。そうして組織はその考え方の色に染まっていくものである。


◆「雇われうる力」を持て
会社という生きた装置は、それ自体、善でも悪でもない。経営者の理念・思想によって、あるいは、会社が抱く事業目的によって、善くも悪くもなる。

経営者や会社が目指す善い目的に対し、働き手個人もそれに共感しながら働けることは幸せである。逆に、経営者や会社が抱く悪い目的(たとえば、従業員を過剰に搾取して利益獲得を追求し、経営者個人が私欲を満たすこと)に、従属しなければいけない働き手は不幸である。

昨今頻繁に話題に上がるいわゆる「ブラック企業」は、さまざまな形で存続するだろう。そんなときに雇われる側が持たなければならないのは、悪い会社であれば潔くそこを辞めて、他でも十分に「雇われうる力」(専門用語で“エンプロイアビリティ”という)である。あるいは、雇われない生き方(自営業や起業など)を志向することである。いずれにせよ、自分が職業人として、強く自立・自律することが、最大の攻めであり、守りとなる。






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