4●個人と組織・人とのつながり Feed

ヒトを全人的に育てる思想~ホンダのOCT

4.3.2


◆「やりたいやつは手をあげろ!」「はいっ!」
あるとき、ホンダ(本田技研工業)のマネジャークラスの方にお会いしたとき、“OCT”なる言葉を聞いた。

―――「OCT(オン・ザ・チャンス・トレーニング)」

「人は育てられるのではない、自ら育つ」というスタンスに立ち、会社側はそのための環境とプロセスを整えること、これがホンダの人財育成の根本思想であるという。

確かに、ホンダの歴史をみても、たとえば、1959年(創業11年目)、伝説の「マン島TTレース」参戦では、メカニックもライダーも全員20代。人選も「やりたいやつは手をあげろ!」「はいっ!」で決まった。同じく59年、本田と藤澤の経営陣は、鈴鹿工場建設のすべてを30代の一人の課長(白井孝夫氏)にあっさりと一任した。白井課長は、その勉強のために「おまえ、しばらくヨーロッパに行って来い」と言われたそうだ。

また、ホンダの有名な文化として、

『三現主義』:
・現場に行け
・現物、現状を知れ
・現実的であれ

『自己申告主義』:
研究や開発は、アイデアを出した人がそのテーマの責任者となる。いわゆる“言い出しっぺ”がリーダーを張るのだ。年次は関係ない。



こうしたことがベースになって、「チャンスの中でヒトは勝手にしぶとく育っていく」というホンダのOCTが、人づくり思想として組織の中に深く根を張っている。これは思想であって、人財育成戦略とか、施策などという表層で移り変わるものではなく、組織員一人一人の気骨に染み込んだDNAになっているように感じる。

その大本である本田宗一郎も、

・「創意発明は天来の奇想によるものではなく、
せっぱつまった、苦しまぎれの知恵である」
(だから、人を2階に上げておいて、はしごをはずせば、いい知恵がわく)

・「見たり聞いたり試したりの中で、試したりが一番大事なんだ」

・「やりもせんに」
(やりもしないで、机上の知識でものの可否を断ずるな)



など、いろいろな語録を残している。


◆全人的・全体的に仕事を任されることで「自分の仕事」になる
私は新卒で最初、文具・オフィス用品メーカーに入り、商品開発を担当した。入社直後からいきなり担当商品を割り当てられ、プロダクトマネジャーとして、企画立案から試作品づくり、デザイン検討までを行い、製造、流通、広報・広告、アフターサービスそれぞれの工程の専門スタッフをチーム化して、夢中(霧中)で働いた。この会社には3年弱在職し、いくつかの商品を世に送り出すことができた。結果的に、ここでの経験がその後の私の仕事上の姿勢や考え方のほとんどを育ててくれたといっても過言ではない。

私の場合、職業人として何年も経ってから、ようやく財務の読み方やマーケティング、戦略論の勉強をした。「SWOT」だの「5 Forces」だの、そうした思考フレームは、どうも現実味の迫力に乏しく、ひとつひとつの知識が「ギスギスとやせて」いて、腹ごたえがないように思えた。後になってそれらは、物事を体系的に整理し、関係者一同が共通了解を得るために必要な道具・方便であるとことに気づいた。

他方、ひとつの完結するプロジェクトなり、大きな仕事単位をどっさり任されることは、全人的に、全体的に取り組まねばならない奮闘であって、それは格好の体験学習、コミュニケーション機会、修羅場、歓喜の瞬間を与えてくれる。その意味で、実に「ふくよか」なのだ。こうしたふくよかな機会をもらってこそ、断片的な知識や技術も真に活きる。

現在、世の中のさまざまな研修プログラムや教育施策は細分化の流れにある。これはビジネスがどんどん高度に細分化(分業化)し、専門的な業務処理能力が欠かせないことに呼応している。だから会社側も、テーマが細分化されたスキル研修や知識セミナーに多くの従業員を行かせる。しかし、業務処理能力を即効的に身につけさせるという対症療法的な教育に偏っていると、「知識でっかち」「技能でっかち」の人間ばかりを増やす結果となり、全人的・全体的に仕事を動かせる人間が出てこなくなってしまうことを意識しておかねばならない。

できるだけ若い年次のころに、仕事を包括的に任されることを経験しておいたほうがよい。断片的な知識と技術をある程度身につけさせ、一人前半になったころに丸ごとを任せるという順序ではない。全体的に仕事を動かし責任を持つという経験は、早ければ早いほど、その人の成長を早め深める。20代のころのほうが、丸ごと任せるにしても仕事規模が小さいので、実際、組織としてもやりやすいだろう。ともかく、その任された丸ごとの仕事を「自分の仕事」として引き受けることを肚に覚えさせることが肝心なのだ。

まだ20代だからといって、部分部分の仕事を切り売り的に任せることでは、結局、部分しか考えられない肚の器の小さい人間ができてしまう。任された仕事を「自分の仕事」としてではなく、「それは会社の仕事」として、どこか第三者的に処理すればいいとする肚構えになってしまうきらいがあるのだ。私は働くマインドや観の醸成研修を主に実施しているのでよくわかるが、年齢が30を超えるころには、人はマインド・観が相当に固まってしまっていることが大半で、そこからの意識変革は難しいことを実感している。


◆全体論的な視点からのヒトの育成
還元論(あるいは機械論)と全体論というのが科学の概念にある。

還元論は、物事を基本的な1単位まで細かく分けていって、それを分析し、物事をとらえるやりかたである。人間を含め、自然界のものはすべて、部分の組み合わせから、全体ができあがっているとみる。西洋医学は基本的にこのアプローチで発展してきた。胃や腸などの臓器を徹底的に分解することで、さまざまな治療法を開発するのだ。

他方、胃や腸など臓器や細胞をどれだけ巧妙に組み合わせても、一人の人間はつくれない、全体はそれ一つとして、意味のある単位としてとらえるべきだというのが全体論である。東洋医学が主にこのアプローチである。

この両方は、どちらかが良い悪いではなく、バランスが必要だ。

専門特化された技能研修や知識セミナーは、還元論アプローチである。一方、ホンダの『OCT』は、全体論アプローチである。医療の世界では、東洋医学への見直しが高まっているように(ガンと共生する考え方や、漢方薬、ヨガなど)、人財育成も、全体論的な角度からの見直しが必要である。それは小難しいことではなく、どんとチャンスをどんと与えることである。チャンスを与えられ目をかけられたときの10代や20代の能力発揮、そして成長には驚くべきものがある。




働く個と雇用組織の関係[2]~人財の流出か輩出か

4.1.5



◆「3年で3割が辞める」ことにあたふたしてもしょうがない
以前、「大学新卒入社者のうち、最初の3年で3割が辞めていく」という事実が大きな話題となった。「えっ、そんなに(離職率が)高いの!?」というのが一般の反応だった。人事の採用部門もそうしたデータが一般化するに伴って、経営側から「1人の社員の採用コストもバカにならないのだから、辞めさせないように」といったプレッシャーがかかったに違いない。

しかし、ここで私たちが認識したいことは、やみくもに「3年3割」という数字のみにあたふたしないことだ。というのも、厚生労働省職業安定局が集計している「新規学卒就職者の在職期間別離職率」をみると分かるように、大卒入社者の3年3割離職という現象は今にはじまったことではなく、過去からずっと3割前後を推移してきているのである。彼らの離職理由を詳細にみていくと、確かに会社側の至らなさによるものもあるが、浮気症な理由で辞めていくケースも少なからずあるのだ。もちろん離職率を低める努力はすべきだろうが、3割という数字はある意味「やむをえない数字」と割り切るスタンスも必要である。

いまや大卒者・大学院卒者の約4割が転職を経験している(総務省『就業構造基本調査』による)という人材の大流動化時代を迎えている。会社を去っていく人間がいても、その分、中途入社で適材を十分に補強できる時代なのだ。むしろ不満や違和感を抱いている人間が組織に居つくことこそ害が多いとも言える。組織にとって、人材の流動化はある種の健全な新陳代謝活動である。だから「3年3割」の数字だけに動揺してはいけないのだ。


◆外側から囲い込むのでなく、内側からつながる
「エンプロイメンタビリティ」という言葉がある。組織の雇用能力の1つで、働き手側に「あそこで働いてみたい」「ここで雇われ続けたい」と思わせる魅力度をいう。私自身、会社勤めは4社経験し、またビジネス誌記者として7年間、さまざまな企業をみてきたことからいうと、冷静に評価して、あそこで働きたいなという会社もあれば、あそこはゴメンという会社もある。明らかにエンプロイメンタビリティの高低差はある。

さて雇用組織側がそのエンプロイメンタビリティを向上させるにはどうすればよいだろう。高い技術力・差別化力を持つ、いい給料を出す、魅力的な福利厚生制度をつくる、終身雇用する、業界で有名になる、株式公開する……どれも具体的で、ある効果が期待できそうでやったほうがいいことばかりだ。しかし、これらはどれも「外からの施策」である。

組織はそれとの掛け合わせで「内からの施策」に手を打たねばならない。「内からの」とは、働く一人ひとりに内発的動機を起こさせることである。あなたの会社では、経営者トップが「会社は何を使命とし、どんな理念を抱いているか」、「どんなビジョンを抱いているか」を(ホームページやIR報に載せている何かキレイな言葉ではなく)肉声の言葉で従業員に語っているだろうか。また一人ひとりの従業員に、仕事とどう向き合ってほしいか、みずからの人財観、ヒトへの思いはどんなものか、を表明しているだろうか。そして、トップが発信した理念や思想・ビジョンに部課長が感化を受けて、それを咀嚼し、「この職場で働くことの意義」について腹応えのある対話をしているだろうか。

そうした「内からの施策」なしには、入社して数年内の若手は、やれ配属のミスマッチだ、やれ上司との反りが合わない、組織が重い、仕事がつまらない、ネットで年収査定したらいまの給料は相場より15%も安い、とそれだけで、ゲームをリセットする感じでいとも簡単にそこを辞めていってしまう。確かにこれらの人間の一部は「外からの施策」で引き留めることができるかもしれない。だが、それによって留まった人間は、ほんとうにその後真剣に働いてくれるだろうか。物理的なメリットだけに反応する人間が、ほんとうにあなたの会社に残ってほしい人財なのだろうか。


◆管理職は転職を決めた部下に対しどう接するか
管理職であるあなたのもとへ、ある日、部下がやってきた。そして「会社を辞めたいのですが」と告げる。そしてもう次の転職先から内定を取り付けていると言う―――さて、この場合、部課長としてどう対応すべきだろうか。

この場合、多少の再考を促す一言は発するにしても、基本的には送り出してやるしかない。そしてこのとき大事なのは、巣立つ雛鳥をやさしく見守るように接することである。決してやってはいけないのは、裏切り者扱いの目線、出る者は勝手に出ていけ発言である。

私も会社員時代、次の転職先を決めて、会社側に退職の意志を伝えた。部長は、私の将来のキャリアの方向性やら志の部分の話をじっくりと聞いてくれ、最後には「君の意志を尊重しよう。狭い世間なんだから、いつかまた一緒に仕事することもあるかもしれない。何なら出戻ってきてもいいんだぞ」と言ってくれた。その部長はある企業の社長にまでなってしまったけれど、私はその後も、その部長とは公私ともに付き合わせていただいている。ともかく、その部長と元の会社には、何か恩返しができればうれしいといつも思っている。

その一方、当時の担当役員は私の辞意を部長経由で知るや否や「それは裏切り行為だ、ここまで育ててやったのに」といった怒りのメッセージを伝えてきた。私は面会を求めたが、それはかなわなかった。私はその後、もちろんその役員とつながろうとは思わない。

人の器の大きさというのは、こういうときによく表れるものである。部下が退職したい、そしてすでに転職先まで決めてきている、その時点で上司がジタバタしても始まらないのだ。部下がその会社を出ようとしたことは、それまでの普段の時間の流れの中で決まっていたことである。そうなったら、いっそさわやかに送り出してやるのが一番よいことである。人財の大流動化時代にあって、転職は「巣立ち」であると考える寛容の器を持つべきである。そのほうが結果的に、部下・上司双方にとって、そして会社にとって有益な関係性を保持できるからである。


◆ヒトを真の意味で留めるのは「絆化」である
ヒトを組織に留めるというときに、私は下図のように2つのモデルがあると考える。すなわち、「リテンション〈囲い留め〉型」と「ボンディング〈絆化引力〉型」である。

○「リテンション〈囲い留め〉」型
 ・retention
 ・ヒトを物理的報酬や心理的報酬で「囲い込む・引き留める」発想
 ・柵囲いの牧場
 ・個と組織はタテ(主従)関係

○「ボンディング〈絆化引力〉」型
 ・bonding
 ・ヒトが共感・共振など心的引力によって「おのずと留まる」発想
 ・人的宇宙
 ・個と組織はヨコ(パートナー)関係



415


戦後の高度成長期における日本企業は、終身雇用を前提として個人と組織の関係性を築いてきた。ここでの関係性は「リテンション〈囲い留め〉型」である。魅力ある雇用条件・雇用保障を与えて、ヒトを長く囲い込むことに成功してきた。この関係性の下では、転職は罪悪めいたものになる。

他方、個人はひとたび、その組織との間で理念共感や損得勘定を超えたところでの互恵意識といったものによって絆化がされれば、その組織の引力圏内に自然と留まるようになる。地面(組織内)に留まって直接的に貢献する場合もあれば、地面から離れて別空間(組織外)に行き、間接的に貢献を続ける場合もあるだろう。この関係性が「ボンディング〈絆化引力〉型」である。

たとえば、IBMやリクルート、アクセンチュアなどは人財輩出企業として有名である。そこでは、現役の社員たちとそこを巣立った人たちが緩やかなネットワークを組み、業界全体を盛り上げる活躍をしている。それはあたかも、ある恒星を中心として個性ある惑星があまた周回し、ふくよかな空間を形成している姿に見える。言ってみれば、ある一つの企業を中心とした「ヒューマン・コスモス(人的宇宙)」の形成である。彼らはそうした関係性の中で、自分を育ててくれた会社や業界に貢献を果たす。

ヒトを真の意味で留めるのは「絆化」である。

絆化ができずにヒトが辞めていくことを、人財「流出」という。
絆化ができているヒトが辞めていくことを、人財「輩出」という。

流出したヒトは、たぶんその後のキャリアにおいて、もといた組織と再び手を組むことは少ないだろうし、その組織の悪評をこぼし回ることすらするかもしれない。他方、輩出したヒトたちは、その後も元の会社と協業したりするだろうし、あちこちでその組織に育てられた恩義を語ることだろう。そのようなことで、その組織の評価は高まり、結果的に新たな人財が集う流れが生まれるのである。気前よくヒトを輩出する組織は、その分、ヒトもよく入ってくるという逆説的な現象が起こる。


いずれにせよ、ヒトが流動する時代において、組織側が真に考えなければならないのは、一度でも縁があって入社してくれた人間に対し、価値共有(さらに言えば、その価値実現に向けての体験共有)を通して、絆をつくろうとするかどうかである。人と人の関係性において、何か高い理念に向かって協働しようとする心的な結びつきほど強いものはない。個と組織においてもそうだ。

確かに、金銭的報酬など物理的な処遇による引き留めはある程度必要だ。しかし、そうした「外からの囲い」はせいぜいヒトを出て行かないようにするためのもので、悪くすると、保身的に悪く居つかせる危険性もある。その点、「内からの絆」は、ヒトを自発的に留めるのみならず、ヒトを育む。ヒトを巣立たせたなら、また別のヒトを呼び込むはたらきがある。従業員一人一人とどういう関係性を築いていこうとするかは、組織(経営者・管理職)にとってとても重要なテーマである。









働く個と雇用組織の関係[1]~『蟹工船』を超えて

4.1.4


いま、小林多喜二の『蟹工船』が再び読まれているという。まさにプロレタリア文学の直球作品。確かに、その過酷な労働現場の描写や人物の表現は、息詰まるほどリアルなイメージを呼び起こす。搾取する側(=資本家)と搾取される側(=労働者)の単純明快な対立構図。そして最後のダメ押しとして、国家権力が資本家側につくというオチ。「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」───小説の最終部分に出てくる労働者のこの悲痛な叫びは、そのまま、現代のある層の労働者にも当てはまる吐露でもあるように思える。

『蟹工船』しかり、また『女工哀史』しかり、そこで描かれているように資本家が“雇用”をある種の権力にして経済的弱者である労働者の生殺与奪を握り、彼らを使い回すことは、古くて新しい問題である。昨今では「ブラック企業」なる言葉でも顕在化している。


◆資本家・企業家は必ずしも人格者ではない
これは、「悪徳資本家を追放し、善良な労働者を守れ」というような単純に階級闘争の図式に落とし込めばよい問題ではない。これは、誰のなかにも潜む人間の欲望のコントロールに関する問題である。私たちが認識すべきは、資本家や企業家、経営者が、必ずしも聖人君子、高邁な人格者ではないことだ(労働者もまた、必ずしも聖人君子、高邁な人格者ではないのと同じように)。

私はビジネス雑誌の編集を7年間やり、さまざまな企業人をインタビューするなどして人間観察してきたが、成功者と呼ばれる人はたいてい、我欲・自己顕示の強い場合がほとんどである。人間のバランスとしては(良くも悪くも)偏りがあり、歪んでいる。だからこそ、それがパワーとなって成功を得るわけでもある。利益獲得競争のビジネス世界では、総じて、バランスのいいお人よしは成り上がれないのだ。

そして、成功してカネやら既得権益やらを手に入れると、人間というものは、ますます欲望が増長して、暴走する可能性を大きくする。マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で「精神のない専門人、心情のない享楽人」と表現しているのも、まさに資本主義ゲームの盤上で我欲を増長させ跋扈する不逞の輩のことである。

ただ、世の中は奥深いもので、渋沢栄一や松下幸之助、本田宗一郎といったみずからら抑制のきく哲人企業家が存在するのも事実であるし、『日本でいちばん大切にしたい会社』(坂本光司著)で紹介されているような、地味だけれども、志の清らかな経営者はいる。要は、欲望とはある種の力で、それを善いように用いるか悪いように用いるかは、その人間に任されているのである。言い換えるなら、欲望のもとに、私たち一人一人は善人にも悪人にもなる可能性がある。


◆働き手よ、成り下がるな!
いずれにしても、不当な過酷労働、不幸な労働者搾取は、いつの時代も起こってきたし、これからも起こるにちがいない。これを最小限に食い止めるためにどうすればよいのだろう。

もちろん法律で規制していくことは不可欠だし、報道メディアによる指摘・糾弾、買う側の不買運動もある程度有効な策になるだろう。が、これらはあくまで他律による外側からの処置に留まる。欲望の問題は根本的には各人の自律的抑制によらねば解決しない。だからこそ、資本家や企業家、経営者には、特段高い理念・倫理観を抱くことを求めなければならない。そこには教育の力、文化・芸術の力、宗教の力などが総合的に結びついていくことも大事である。これは中長期にわたる人の精神の土壌を健やかに育むところから始めなくてはならない実に大きな問題なのだ。

そして、やはり最後に決定的なのは、働く側本人の生きる姿勢である。人生はもともと不平等だし、理不尽だし、運不運が左右する。しかし、不遇があれ、不幸があれ、幸福をつかむ人はたくさんいる。むしろそうしたネガティブな状況こそがほんとうに強い人間をつくるという事実がある。だから結局、成り上がるも、成り下がるも、自分の意志・努力の反映なのだ、と強く思う人間を増やさなくてはならない。もちろん、社会は結果的に弱者になってしまった人へのセーフティネットを整備する必要はある。しかし、最初からそうしたセーフティネットを当てにして、ただ「世の中が悪い。ブラック企業が悪い」と被害者意識のみで、みずからの環境に立ち向かうことをしなくなる人間が増えてしまえばどうなるだろう。社会の足腰は致命的に弱くなる。だからこそ私は、教育の現場で、「蟹工船」的な職場でしか雇ってもらえないような自分に成り下がるなと叫んでいる。


◆キツネとタヌキの化かし合い?
さて、ここからは広く「働く個(従業員)と雇用組織(会社)の関係」を考える。

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私は、両者の関係は図のような3つの極があると感じている。1つめは、冒頭触れたように、会社が労働者に過酷な労働を強い搾取するという「蟹工船」の極。そして2つめは、逆に、従業員が組織にべったり依存し、保身に浸る「ぶら下がり」の極。

私は企業内研修の現場で、働き手のいろいろな就労意識に接しているが、ほんとうにひどい会社への寄りかかり根性、保身・安住意識の人たちを目にすることもしばしばある。ちなみに、私はそういうときに、クラス全体に向かって次のことを投げかけることにしている。「あなた自身が働き手としてどれだけの人財価値があるか即座に判定できる方法があります。それはこう自問することです───もしあなたがいま、この会社の社長だったら、あなた自身を雇いますか? YES or NO 」と。

特に大企業のなかには、「ぶら下がり」とは言わないまでも、仕事を「ほどほど」にやっていればよいという人、求められる仕事を処理しているだけなのにそれで「そこそこ」満足している人は多い(ただ、そこには「これ以上、仕事量とスピードを上げられたら、身体が壊れちゃうよ」といった自己防衛もある。この点は十分に留意する必要がある)。実際のところ、私のもとには、そうした層に対して、「キャリア形成の自律意識醸成」や「社員の活性化」といったテーマで研修を依頼されるケースがほとんどだ。人の働く意欲の「よどみ」や「たるみ」は、数値で表すことのできない、組織のなかに潜在化する問題としてある。ましてや組織の年齢構成が確実に高齢化する趨勢にあっては、よどみやたるみは放置しておけない深刻な課題なのだ。

この「蟹工船」と「ぶら下がり」の2つの極は、いずれも従業員と会社のネガティブな関係である。こういう関係のもとでは、会社側はもっぱら労働者をいかに効率的に安く多く働かせるかを考え、他方、労働者側はもっぱらどれだけラクに組織に居付くかを考える……。まさにキツネとタヌキの化かし合いである。会社と従業員は、この2つの極の間のどこかで折り合い、両者とも「しょーがねぇーなー」という冷めた感じで雇用・被雇用関係を維持していく。


◆企業という船にさ 宝である人間を乗せてさ
そんななか、会社と従業員がポジティブな関係を築こうとするところもある。3つめの極「活かし活かされ」がそれである。ここでは、会社は働き手を「人財」として扱い、働き手は会社を「働く舞台」としてみる。両者間では事業理念の共有がなされ、たいてい、魅力的な経営者が求心力を創造している。私は、その典型を、本田宗一郎の次のような言葉の中に見出す───

「“惚れて通えば千里も一里”という諺がある。
それくらい時間を超越し、自分の好きなものに打ち込めるようになったら、
こんな楽しい人生はないんじゃないかな。
そうなるには、一人ひとりが自分の得手不得手を包み隠さず、ハッキリ表明する。
石は石でいいんですよ。ダイヤはダイヤでいいんです。
そして監督者は部下の得意なものを早くつかんで、
伸ばしてやる、適材適所へ配置してやる。
そうなりゃ、石もダイヤもみんなほんとうの宝になるよ。
企業という船にさ 宝である人間を乗せてさ
舵を取るもの 櫓を漕ぐもの 順風満帆 大海原を 和気あいあいと
一つ目的に向かう こんな愉快な航海はないと思うよ」。

            『本田宗一郎・私の履歴書 ~夢を力に』 “得手に帆を上げ”より



◆「働くことの成熟化の形」を示すために
このように私は、「働く個(従業員)と雇用組織(会社)の関係」を3つの極でとらえる。もちろん、世の中の多くが「活かし活かされ」型の関係性になってほしいと願う。私はこの問題をとらえる根本は、誰のなかにも潜む人間の欲望のコントロールに目を向けるべきだと書いた。経営者であれば、できるだけ人件費を減らして儲けたいと思う。また、労働者であれば、できるだけラクをして多くの給料をもらいたいと思う。そうした、いわば「欲望の負の重力」があるために、社会から「蟹工船」型や「ぶら下がり」型はなくならない。

平成ニッポンという国・時代に生まれ合わせた私たちが、「働くことの成熟化の形」を世界に示していく、後世に引き渡していくのを挑戦とするなら、この「欲望の負の重力」を「欲望の正の飛力」ともいうべきものに転換して、個と組織が共通の価値・理念に向かって協働することが求められる。

持続可能な個人の仕事生活、持続可能な組織、そして持続可能な経済システムと社会をつくりあげていくためには、詰まるところ、個々の人間が賢く欲望をコントロールし、賢く向かうべき価値を見定めることだ。そうした意味で、一人一人の知力、感性、倫理観にアプローチしていく、教育、文化・芸術、哲学・宗教のセクターが、もっと力を付け、賢く発信することが望まれる。教育を生業とする私自身も意を新たに強くしたい。





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