4●個人と組織・人とのつながり Feed

日本人は教えられすぎている

4.3.5



◇ ◇ ◇ ◇

「日本人は教えられすぎています」。───こう語るのは、キング・カズことプロサッカーの三浦知良選手だ。彼は加えてこうも言う。「教えられたこと以外の、自分の発想でやるというところがブラジルよりも遅れています」(いずれも『カズ語録』より)。

◇ ◇ ◇ ◇

米メジャーリーグ野球では、コーチのほうから選手にあれこれ指導しないと聞く。選手のほうからコーチに具体的にはたらきかけてはじめて、コーチが技術やメンタルを改善するためのヒントを与えるのだという。

このことは米国の大学院に留学経験のある私もじゅうぶんに理解できる。授業内容は研ぎ澄まされてはいるものの、どちらかというと淡々としている部分も多い。短い在学期間のなかで、ほんとうに自分の研究したいこと、成就したいことのために、大学教官の知見を引き出したり、協力を仰いだりするのはなんといっても授業外だ。授業外でどれだけ彼らを活用できるかが学生の優秀さでもある。教官に教えてもらうのを待つというより、こちらから能動的に引き出す、活用するというスタンスが強い。

◇ ◇ ◇ ◇

ひるがえって日本の企業研修の現場。研修を行った後に、受講者からの事後アンケートを見せてもらう。どこの企業でも少なからず見受けられるのが、「もっと方法を教えてほしかった」「技術論が少なかった」「具体的にどうすればよいのでしょう」といったハウツー要求の意見だ。

私の行っている研修が「知識・スキル習得型」のものであれば当然、そのあたりのことは伝授しなければいけない。しかし私の分野は「仕事観・働く自律マインド醸成型」研修である。自分の仕事の意味をどうすれば見つけることができるか、自律的な人間になるための術は何か、幸せに働くための方法はどうかなどを教えることなどできない。もちろん、そうしたテーマに対し、どう心を構えていくか、どう内省・思索するか、どう行動で仕掛けていくかのヒントは研修内でいくつも与えたつもりである。しかしそれでも技術的なハウツーにまで落として教えてほしいという(不満ともとれる)声は必ず出る。

困ったことに、人財育成担当者のなかには、そうした不満の声による研修の低評価をそのまま受け入れ、「では来年度はもっと方法・技術論を教えてくれる先生に任せよう」と考え違いする場合があることだ。「そんな処世術めいたことを安易に欲しがる社員をうちは増やしたくない!」くらいの毅然とした親心の評価眼で、そうしたアンケート回答になびかない担当者が増えてほしいものだ。

いずれにせよ、「よりよく働くこと・自律的に職業人生を切り拓くこと」のやり方は、自分自身が見出さねばならない。その方法・プロセスこそ、その人の人生そのものだし、自らが抱く価値の体現だからだ。そこの部分は、時間がかかろうが、不器用だろうが、まわり道をしようが、自分でもがいて築いていくしかない。
書店に行けば、「3日間で人生を変える魔法の●●」式の指南本がたくさん出ている。確かに、その中には有益なことも書かれているだろうが、そうしたものに頼っても“Easy build, easy fall”(お手軽に出来て・容易に崩れる)の域を出ない。人生の成功を即効的に刈り取りたいという考えに疑いを持つ人でないかぎり、深い生き方には入り込んでいけないと思う。

◇ ◇ ◇ ◇

芸術品や工芸品を観るとき、作品という成果のみに目がいきがちだが、私はつくり手の創作プロセスや方法に興味がわく。そこを知ることによって作品の味わいが格段に深まるのは言うまでもないが、「生きる・働く」うえでの力をもらえるからだ。すごい作品というのは、技術や発想がすごいというより、そこに達するまでの自己との戦いや鍛錬、執念の物語がすごいのだと思う。そのプロセスの一切合財がいやおうなしに作品や技術に宿るからこそ緊迫感のある名品が誕生する。

いま濱田庄司の『無盡蔵』(むじんぞう)を手元に置いて読んでいる。濱田庄司といえば、ありふれた日用雑器の焼きものだった益子焼(栃木県)を、世界にその名を知らしめるレベルにまで高めた陶芸家である。

濱田は陶芸を英国で始め、沖縄で学んだ。36歳のときに益子に移り住み、以降40年以上そこで作陶人生を送る。実は益子の土は粗く、焼きものに最上のものとはいえない。それを知った上で濱田はそこに窯を築いた。なぜか。濱田はこう書いている───「私はいい土を使って原料負けがしたものより、それほどよくない土でも、性(しょう)に合った原料を生かしきった仕事をしたい」と。

窯にくべる薪は近所の山から伐ってくる。釉薬(ゆうやく・うわぐすり)は隣村から出る石材の粉末で間に合わせる。鉄粉は鍛冶屋の鋸くずをもらってくる。銅粉は古い鍋から取る。用筆は飼っている犬の毛から自分で作る───その考え方・やり方こそが濱田そのものなのだ。

真の創造家は、創造する方法を生み出すことにおいてさえ創造的である。今日の益子焼を代表する色といえば、柿色の深い味わいをもつ茶褐色である。これは“柿釉”(かきぐすり)と呼ばれる釉薬を使用することによって生まれるのだが、その柿釉をつくり出したのは、ほかでもない濱田だ。気の遠くなるような材料の組み合わせや方法のなかから、思考錯誤を繰り返し、ついにこの柿色にたどり着いた。しかも釉薬の原料は先ほど触れたように、隣村からもらってくるのだ。

また、濱田の代表的な技法のひとつとして「流し掛け」というのがある。濱田は成形した大皿を左手に持ち、右手にはひしゃくを持つ。ひしゃくにたっぷりと釉薬を汲み、大皿の上にすっと縦に釉薬を走らせる。そして左に持つ大皿を手の平でひょいひょいと90度回転させるやいなや、再び釉薬を縦に無為に走らせる。すると大皿に十字にしたたる線が描きあがる。これを焼き上げると、躍動的で面白みある表情が出る。これが流し掛けだ。この潔く堂々とした方法こそ濱田そのものだと私は感じる。そしてまた、一見、無造作に流し掛けた線であっても、それがきちんと濱田庄司という人間の器にかなった線が出る。そこが芸術の面白いところだ。

ちなみに流し掛けを巡って、濱田は「一瞬プラス六十年」というエピソードを書き残している。ある訪問客が、これだけの大皿に対して、たった15秒ほどの模様づけではあまりに速すぎて物足りないのではないかとたずねたそうだ。そのときの濱田の返答───

「これは15秒プラス60年と見たらどうか」。

……60年とは言うまでもなく、濱田が土と戦ってきた歳月の長さだ。

方法やプロセスはその人そのものを写す。方法やプロセスにかけた厚みこそ、その人の厚みになる。だから、私たちは安易に教わりすぎてはいけないのだ。



『一徹視理』~3年ジョブローテーション再考

4.3.4



手元にビジネス雑誌『THE 21』2009年6月号(PHP研究所発行)がある。この中のキッコーマン・茂木友三郎会長のインタビュー記事が面白かったので紹介したい。

茂木会長のコメントを要点だけ抜き出すと、


毎年、新入社員に「いつでも会社を辞められる人間になれ」という言葉を贈る。いつでも辞められる、どこにいっても働けるぐらいの人材でないと、社内で思い切ったことができない。自分の意見もおっかなびっくりでしか言えない、また、上から睨まれて、クビにされるのが困ると思ってしまう人材に、会社に長くいてもらってもいいことはない。


要は、“スペシャリティー”をもて、ということ。スペシャリティーとは、「社内でこの問題はあいつに任せれば安心だ」とか、「この問題に関してはアイツにはかなわない」というようなレベルではない。「業界の中で、キッコーマンのアイツはスゴイよ」とか、「キッコーマンにはあいつがいるからウカウカできないぞ」といった業界内で名前が轟(とどろ)くようなスペシャリティー。


(企業では3年ぐらいでジョブローテーションをさせるのが一般化している。そんな中でスペシャリティーを磨くのは容易ではないが、との問いに───)

これはもうとんでもない話。一つの仕事を3年しかやらないなんてナンセンス極まりない。そもそも3年サイクルのローテーションは、エリート官僚のための制度だった。官僚の中のトップ5%くらいの人間が、そうやっていろいろな仕事をかじって、全体をみる経験をしていく。企業に入ってくる多くの大卒者はエリートでもなんでもない。そんな人材が、短期間でグルグル仕事を変わるなんてことは意味がない。3年ぐらいではとてもスペシャリティーなんて身につかない。その世界では、まだまだ下っ端にすぎない。


私の理想論としては、最低でも一つの仕事を10年間やる。それくらいの経験が大事。30歳までに一つの仕事。そして40歳までにもう一つの仕事。その二つの仕事でスペシャリティーになれば、どこへいっても通用する人間になる。


(40歳までに二つの仕事しか知らないのでは世界が狭すぎないか、との問いに───)

そんなことはない。スペシャリストになると、仕事のコツや勘どころがみえてくる。それはどんな仕事にも応用が利く。40歳以降は、それまでに培った自分なりの“仕事の仕方”を全部の仕事に応用していけば、どんなジャンルの仕事もこなせる人間になる。



* * * * *

能力開発・キャリア形成における時間レンジのとらえ方はいろいろあるだろうが、私は、3年・5年・7年・10年に重要な区切りがあると感じている。

3年は、その分野の「基本習得」に必要な期間。
5年は、その分野の「深耕」に必要な期間。
7年は、その分野に「根を張るため」に要する期間。
そして
10年は、その分野の「プロフェッショナルとして自立・自律するため」に要する期間。


その意味で、茂木会長の持論は傾聴に値する。ジョブローテーション制度により、「一畑三年」でたびたび異動をさせてしまうと、多様な経験はできるものの深耕や根を張るところまではいかない(この深耕や根を張るところでの負荷が、実は人間を図太く成長させる貴重な機会でもある)。仮に、そうした流動的な環境で、うまく仕事をやりこなしていく人間が出たとしても、それはやはり「組織内ジェネラリスト」「組織内エキスパート」の域を出ないのではないか。社外に放り出されてしぶとく独りでやっていけるプロフェッショナルには育たない可能性が高い。

だから、20代と30代をかけて「一畑十年×2ラウンド」という発想は、実行に値する。組織が骨のあるプロフェッショナルを育てるには、10年レンジでの育成観が必要だ。ただ確かに、3年ほどでローテーションさせる制度にはメリットも多い。しかし、人事の方々とこの話をすると、

 ・ジョブローテーションの制度を謳わないと、新卒募集の人気に悪い影響が出る
 ・モチベーションをなくした社員に対し、異動は一つの刺激剤にはなる
 ・実際、3年を待たず、職場をかわりたがる社員が増加している

など、ローテーション制度が本来もっていたはずのポジティブ要因ではなく、ネガティブ要因によって支持される傾向が強まっているようにも思える。ただ現実は、育成には時間がかかるが、20代をいろいろと異動させて自己特性と職種をマッチングさせる期間とし、30代、40代で、「一畑十年×2ラウンド」というのが適切なのかもしれない。実際のところ、私自身も20代は業界横断的に流動的に仕事を変えた。

* * * * *

私は、仕事上でいろいろなキャリアの姿を研究してきて、そしてまた、ビジネス雑誌記者時代から幾百もの第一級の仕事人を観察してきて、あるいは自分自身が、メディアの世界で情報編集畑の仕事を10年、教育畑の仕事を10年やってきて、思い浮かんできた言葉(造語)がある。それは―――

  『一徹視理』(いってつしり)
  一つを徹すれば、理(ことわり)を視(み)る

つまり、一つのことを徹していけば、全体に貫通する筋道・法則のようなものが視えてくる、ということだ。

そしてこうした道筋・法則のようなものが視えてくると、変化が怖くなくなる。自分の変えない信念や軸ができているので、変えるのは技術や適応方法でよい、というように腹が据わるからだ。逆に、一つに徹するという「経験×時間」がなく、環境を頻繁に変える人は、そもそも変えてはいけない信念・軸が醸成されず、粘り強さも身につけていないので、技術や適応方法を変えることに右往左往し、不安がる日々が続く(たぶん定年まで、そして定年以降も)。

企業内の人財育成において、「10年をかけて一つの分野に徹する」という観点にもっと関心がいってもよいと思う。もちろん「徹する」のであるから、漫然と同じ1年を10回繰り返すのではなく、毎年厚みを重ねていく10年にしていくことは言うまでもない。



個と組織の自律性~米・パタゴニア社『社員をサーフィンに行かせよう』

4.3.3


今日、従業員の自律性を高めることは、人材育成上の大きな課題となっている。ここでは、個々の自律性を考える教材として、一冊の本を取り上げたい。その中には、自律的な働き手たちのひとつの模範がある。その本とは───

『社員をサーフィンに行かせよう-パタゴニア創業者の経営論-』
(原題:Let My People Go Surfing)
イヴォン・シュイナード著(森摂訳)、東洋経済新報社

米・パタゴニア社はアウトドアスポーツ愛好者の間では多くが知る道具・衣料メーカーである。本社はカリフォルニア州の太平洋を望むベンチュラにあり、日本支社は神奈川県鎌倉市にある。いずれも間近にサーフィンのできる海岸があることがミソだ。

それで、この本の「日本語版への序文」を少し長いが引用する(部分的に省略した)。

◇ ◇ ◇

私たちの会社では、本当に社員はいつでもサーフィンに行っていいのだ。もちろん、勤務時間中でもだ。平日の午前11時だろうが、午後2時だろうがかまわない。いい波が来ているのに、サーフィンに出かけないほうがおかしい。私が「社員をサーフィンに行かせよう」と言い出したのには、実はいくつか狙いがある。

第一は「責任感」だ。私は、社員一人一人が責任を持って仕事をしてほしいと思っている。いまからサーフィンに行ってもいいか、いつまでに仕事を終えなければならないかなどと、いちいち上司にお伺いを立てるようではいけない。もしサーフィンに行くことで仕事が遅れたら、夜や週末に仕事をして、遅れを取り戻せばいい。そんな判断を社員一人一人が自分でできるような組織を望んでいる。

第二は「効率性」だ。自分が好きなことを思いっきりやれば、仕事もはかどる。午後にいい波が来るとわかれば、サーフィンに出かけることを考える。するとその前の数時間の仕事はとてもはかどる。たとえば、あなたが旅行を計画したとすると、出発前の数日間は仕事をテキパキやるはずだ。机に座っていても、実は仕事をしていないビジネスマンは多い。彼らはどこにも出かけない代わりに、仕事もあまりしない。仕事をしているふりだけだ。そこに生産性はない。

第三は「融通をきかせること」だ。サーフィンでは「来週の土曜日の午後から」などと、前もって予定を組むことはできない。もしあなたが真剣なサーファーだったら、すぐに出かけられるように、常日頃から生活や仕事のスタイルをフレキシブルにしておかなければならない。

第四は「協調性」だ。パタゴニアには、「私がサーフィンに行っている間に取引先から電話があると思うので、受けておいてほしい」と誰かが頼むと、「ああ、いいよ。楽しんでおいで」と誰もが言える雰囲気がある。そのためには、誰がどういう仕事をやっているか、周囲の人が常に理解していなければならない。

第五の狙いは「真剣なアスリート」を多く会社に雇い入れ、彼らを引き止めることだ。なぜ、真剣なアスリートを多く雇いたいのか。それは、私たちの会社は、アウトドア製品を開発・製造し販売しているからだ。自然やアウトドアスポーツについては、誰よりも深い経験と知識を持っていなければならない。

結局、「社員をサーフィンに行かせよう」という精神は、私たちの会社の「フレックスタイム」と「ジョブシェアリング」の考え方を具現化したものにほかならない。この精神は、会社が従業員を信頼していないと成立しない。これを私なりにMBAと呼んでいる。「経営学修士」ではなく、「Management By Absence(不在による経営)」だ。いったん旅行に出ると、私は会社には一切電話しない。そもそも携帯電話もパソコンも持っていかない。もちろん、私の不在時に彼らが下した判断を後で覆すことはない。社員たちの判断を尊重したいからだ。そうすることで、彼らの自主性がさらに高まるのだ。



◇ ◇ ◇

……どうだろう、私はここに「自律的な個人と自律的な組織」のひとつの模範をみる。

読者の中には、「これは特殊な会社の事例だ」「企業プロパガンダの施策ではないか」「うちの事業サービスでは従業員が職場を離れることなど非現実的」「大企業組織ではそもそも無理」などといった感想があるかもしれない。

いや、ここで着目してほしいのは、パタゴニア社の「やり方」ではなく「考え方」だ。つまり、

・自律的な組織のみが自律的な個人を育むことができる。
 そして自律的な個人が、その組織をより自律的に強めていく。
・自律性とは知識や技能とは別次元のものである。
 それは心の構え様であり、習慣、文化でもある。
・自律的な個人と自律的な組織の間で強力なエンジンとして回転しているのは
 経営者の思想である。



私はこれらの考え方をこそ多くの組織は真剣に取り込む必要があると思う(やり方は組織それぞれに適合したものがあるにちがいない)。

組織・人事の世界では、ひところ、というか今でもなお、社員のキャリアの自律性を高めるためには「ポータブルスキル」を身につけさせることだという考え方がなされる。これは誤りだ。

「会社を越えて持ち運び可能なスキルを持てば、どこの会社でも雇ってもらえる=自律的」という解釈なのだろう。これは自律的という意味を矮小化している。

先の二番目にあげたとおり、自律性は、知識や技能の習得の問題ではない。いくら知識を豊富に持っていても、いくら技能に長けていても、「みずからの判断を下せない」「みずからの仕事をつくり出せない」「みずからのキャリアを拓いていけない」働き手は多く存在する。自律的であるとは、みずからの「律」(=規範・価値観)に基づいて判断・行動ができ、みずからの選択肢をつくり出し、局面を拓いていこうとする心の構え様の問題なのだ。

自律性は心の構え様であるだけに、他人がテクニック的に教えることはできない。本人がみずからの内に醸成するしかない。他者ができるのは、その醸成の刺激づけや範を示すことである。だから、自律性の強い組織からは、自律的な人財が育ち輩出する流れができる(逆に他律的な組織では、他律的な働き手が居つき、自律的な働き手は流出する)。そして自律を促す経営者の思想や理念は、そこに組織文化を生み、求心力を生む。

力強い個の力強い組織をつくるためには、まず「自律性」の涵養からはじめなくてはならない。プロ野球監督としていくつものユニフォームを着た野村克也さんも次のように言う。

「しつけの目的は、自分で自分を支配する人間をつくること」。
(『野村の流儀』より)



そのために、パタゴニア社のシュイナード社長は「社員をサーフィンに行かせよう」という方法をとった。さて、あなたの組織では、どんな取り組み・仕掛けがなされているだろうか。あるいは、組織の中心者は「自律性」ということに対し、どんな思想・理念を現場の一人一人に発しているだろうか。






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