3●マインド・価値観 Feed

セレンディピティ~チャンス感度の鋭いラジオになる

3.6.1


「チャンスは、心構えした者の下に微笑む」。
Chance favors the prepared mind.
                            ――――ルイ・パスツール(細菌学者)



◆執念がチャンス感度を鋭くする。
科学の世界での偉大な発明・発見というのは、偶発の出来事がきっかけとなることが多いという。……ある日、徹夜明けのP博士は、ぼーっとしてA液の入ったビーカーにあろうことか、飲もうとしていたコーヒーを注いでしまった。すると、A液とコーヒーのカフェインが反応して思わぬ物質が発見された!とか、そんなような偶発である。
だが、それは本当に偶発なのだろうか? 「いや違う。そういったチャンスは自分が呼び込んだものなのだ!」―――こう主張するのが細菌学者パスツールだ。冒頭に挙げた彼の言葉を、科学者の多くは身で読んでいる。

2002年にノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊先生も自著『物理屋になりたかったんだよ』の中でこう書いている───

「たしかにわたしたちは幸運だった。でも、あまり幸運だ、幸運だ、とばかり言われると、それはちがうだろう、と言いたくなる。幸運はみんなのところに同じように降り注いでいたではないか、それを捕まえるか捕まえられないかは、ちゃんと準備をしていたかいなかったの差ではないか、と」。



私はこうしたことを次のように解釈している。
世の中には、実はチャンスがいっぱい溢れている。目に見えないだけで、そこにもあるしここにもある。それはたとえば、この空間に無数に行き交う電波のようなものだ。電波は目に見えないが、ひとたび、ラジオのスイッチを入れれば、いろいろな放送局からの音声が受信できる。感度のよいラジオなら、少しチューニングダイヤルを回しただけでいろいろと音が入ってくる。逆に感度の悪いラジオだと、ほとんど何も受信できないか、不明瞭な音声でしか聴くことができない。

一つの仕事に執念を持って取り組んでいる人は、その仕事課題に対する感度がいやおうなしに鋭敏になってくる。すると、チャンスをさまざまに受信しやすい状態になる。逆に、漫然と過ごしている人は、いっこうに感度が上がらない。だから、チャンスはそこかしこにありながら、それらを素通りさせるだけで何も起こらない。性質(たち)の悪い人になると、「自分にはいっこうに運がないのさ」と天を恨んだりする。


◆偶然をとらえて幸福に変える力は鍛えられる
こうした予期せぬチャンスを鋭くつかみ取る能力を表す単語が「セレンディピティ(serendipity)」である。「セレンディピティ」は、オックスフォード『現代英英辞典』にも載っている単語だが、まだ簡潔に言い表す訳語はない。

東京理科大学の宮永博史教授は、『成功者の絶対法則 セレンディピティ』の中で、セレンディピティを「偶然をとらえて幸福に変える力」としている。「ただの偶然」をどう幸福に導き、「単なる思いつき」をどう「優れたひらめき」に変えることができたのか、古今東西の科学研究の現場や事業の現場での事例を集めて説明してくれている。

また、セレンディピティを「偶察力」(=偶然に際しての察知力で何かを発見する能力)と紹介しているのは、セレンディピティ研究者の澤泉重一さんである。澤泉さんは、人生には「やってくる偶然」だけではなく、「迎えに行く偶然」があると言う。
つまり後者は意図的に変化をつくり出して、そこで偶然に出会おうとする場合のものだ。その際、事前に仮説をいろいろと持っておけば、何かに気づく確率が高くなる。基本的に有能な科学者たちは、こうした習慣を身につけ、歴史上の成果を出してきたと、彼は分析している。

さらに、パデュー大学のラルフ・ブレイ教授によれば、セレンディピティに遭遇するチャンスを増やす心構えとして、「心の準備ができている状態、探究意欲が強く・異常なことを認識してそれを追求できる心、独立心が強くかつ容易に落胆させられない心、どちらかというとある目的を達成することに熱中できる心」らしい(澤泉重一著『セレンディピティの探究』より)。

いずれにしても大事なことは、セレンディピティは「能力」という意味合いを含んでいることだ。これは能力だから強めることができるという発想にもつながる。単に「棚からボタ餅」でぼーっと幸運を待っている状態ではないのだ。



〈Keep in Mind〉
執念が「チャンス感度」を鋭くする




サラリーマンの「鈍化病」

3.6.6



「貧すれば鈍する」と昔から言うが、サラリーマンにおいて、「安すれば鈍する」ことが起きると私は観察している。

つまり、安心・安穏とした守られた状態に身を置き続けるうちに、働く意識がいろいろと鈍ってくるという症状だ。私はこれを「サラリーマンの鈍化病」と呼んでいる。「キャリアの平和ボケ」といっていいかもしれない。

私が指摘する「3つの鈍化」とは、
1)変化に鈍くなる
2)超えることに鈍くなる
3)リスクを取ることに鈍くなる  である。


◆鈍化病1【変化に鈍くなる】 “ゆでガエル”の話

生きたカエルを熱いお湯の入った器に入れると、
当然、カエルはびっくりして器から飛び出てくる。
ところが今度は、最初から器に水とカエルを一緒に入れておき、
その器をゆっくりゆっくり底から熱していく。
・・・すると不思議なことに、カエルは器から出ることなく、
やがてお湯と一緒にゆだって死んでしまう。


この話は、人は急激な変化に対しては、びっくりして何か反応しようとするが、長い時間をかけてゆっくりやってくる変化に対しては鈍感になり、やがてその変化の中で押し流され、埋没していくという教訓である。

窓際族とかリストラ組とか、それは嫌な言葉ではある。私はいま、企業(雇用組織)とも、そこで働く従業員ともニュートラルな立場で物事が見られる立場だが、窓際やリストラを生む原因は、会社にもあるし、働く個人側にもある。

この手の問題の解決は、根本的には、働く個人が働く意識を常に鋭敏にさせて、自己防衛・自己発展させていくしかないと思っている。だから、私は「サラリーマンよ、ニブ(鈍)リーマンになるな。環境の変化を感じつつ、変えない自分の軸を持って、自分を変えていけ。そして会社が留めておきたくなる人財になれ」と勇気づけるしかない。

ゆでガエルは、保守・安穏・怠惰・安住の行く末の象徴として肝に銘じておきたい話である



◆鈍化病2【超えることに鈍くなる】 “ノミの天井”の話

ノミの体長はわずか数ミリだが、体長の何十倍もの高さを跳ぶことができる。
ビーカーにノミを入れておくと、当初、
ほとんどはビーカーの口から元気よく跳び出ていってしまう。
しかし、ビーカーにガラス板でふたをしておくとどうなるか。
ノミは何度もガラスの天井板にぶつかって落ちてくる。
これをしばらく続けた後、ガラス板をはずしてみる。
すると、ノミは天井だった高さ以上に跳ばなくなっており、
ビーカーの外に跳び出ることはない。


確かに組織にはガラスの天井がさまざまな形で存在する。暗黙の制度であったり、経営幹部や上司の頭ごなしの圧力であったり、あるいは(これが最も怖いのだが)自分自身で限界を設ける姿勢であったり。

サラリーマンは、結局のところ、自分の時間と労力をサラリーに換えている職業であり、組織から言われた範囲で失敗なくやっていれば、給料は安定的にもらえる(ことに慣らされる)。だから自分を超える、枠を超える、多数決を超えることをしなくなる。

「なぜ、超えることをしないのか?」と問えば、「組織がこうだから」「上司がこうだから」など批判や愚痴まじりに自己を正当化することもしばしば。これがまさに鈍化病の症状である。

ちなみに、上のノミの天井話には続編がある。いっこうにビーカーの口から出なくなったノミたちを再び外に跳び出るような状態に戻すにはどうすればよいか?

―――普通どおり跳べるノミを1匹そのビーカーに混ぜてやる。
(ナルホド!)

なお、ゆでガエルとノミの天井の話は、ビジネス訓話としてよく用いられるものだが、科学的に根拠があるかは定かではない。


◆鈍化病3【リスクを取ることに鈍くなる】 “落とした鍵”の話

ある夜遅くに、家に帰る途中の男が、
街灯の下で四つんばいになっているナスルディンに出くわした。
「何か探し物ですか?」と男が尋ねたところ
「家の鍵を探しているんです」とナスルディンが答えた。
一緒に探しましょうということで、二人が四つんばいで探すのだが、見つからない。
そこで、男は再び尋ねる。
「ナスルディン、鍵を落とした正確な場所がわかりますか?」
ナスルディンは、後ろの暗い道を指し示した。
「向こうです。私の家の中」。
「じゃあ一体なんでこんなところで探しているんです?」
と男は信じられないといった口調で尋ねた。
「だって、家の中よりここのほうが明るいじゃありませんか」。

            ―――(『人を動かす50の物語』M.パーキン著より抜粋)



ナスルディンはなんともトンチンカンな人間のように思える。しかし、これはサラリーマンのひとつの姿をよく表している。

自分が求める解は、たぶん向こうの「暗い・未知の・想定外の展開を覚悟しなければならない・リスクのある所」にあるかもしれない―――こう思いつつも、サラリーマン組織にいると、「適当に見えている範囲で・既知の・想定の範囲内で済む(予定調和の)・リスクのない所」で、仕事をやろう(やり過ごそう)とする。

サラリーマン鈍化病の3つめは「リスクテイクして何かをつかみ取る」ことをしなくなることだ。

その暗い未知のゾーンで、もがけば何かつかめるかもしれないことはわかっていても、混乱や葛藤や迷路を背負い込みたくない。傷つくことの怖さ、見えないことの不安、もがくことの煩わしさ、やっても所詮ムダという冷めた達観、などがあるのだろう。

そのくせ、酒の場では、「ここは俺のいる場所じゃない!」と見得を切ったりもする。しかし、翌日には、また、街灯の下で鍵を探す(探すふりをして忙しく振舞う)……。

何事も見えている範囲で、リスクを負わず、
組織が求める想定内の結果を出すことで、
身を忙しくし、仕事をやっている気になる。
しかし、永遠に真に自分が求めているものを見出すことはない。
・・・それでも、給料は毎月きちんと振り込まれ、生活は回っていく。
だから、余計にサラリーマンはリスクを取らなくなる・・・。(沈黙)


* * * * *

【後記】
少しサラリーマン業を揶揄しすぎかもしれませんが、サラリーマンのみなさんの奮起を願うところです。私自身、脱サラで個人自営業として独立してはっきりわかったのですが、会社員として安定的に雇用されながら、組織の信用を使い、組織の技術やカネで、自分のしたいことをする、それがこの世で最も幸せな働き人ではないでしょうか。ただ、現実そうできる人はごく限られています。

おおかたは、「仕事量はキツイし、ストレスも溜まるから、抜くところは抜いて“鈍”になってなきゃ、やってられないよ」というのが正直なところかもしれません。しかし、私が本記事で伝えたいのは、そうやって“鈍”でだましだまし長いキャリアを送っていくのが、自分の生き方として納得がいくのか、美しいと思うのか、そこをぐっと自問してみてください、ということです。


「七放五落十二達」の法則~試す勇気と状況をつくりだす力

3.6.4



◆人はリスクと引き換えに何かを得る
リスクに対する「危機」という訳語は実に奥深いものだ。そこには、危険(デンジャー)と機会(チャンス)が同居している。

飛行機が飛ぼうとするとき、抵抗する風を浮揚力に変え、機体は地を離れる。サーファーにとって荒ぶる高波は命を奪いかねないものだが、いったんその波を捕まえるや、このうえなく爽快な瞬間を獲得することができる。考えてみれば、人はリスクをコントロールし、リスクと引き換えに何かを成し遂げるものである。

仕事やキャリアにおいても、ひとたび何か試してみよう、変化を仕掛けてみようとすれば、リスクが伴う。リスクとは、事態が悪化したり不安定になったりする可能性、体力や経済力を失う可能性、信用を落とす可能性、周囲から非難される可能性などだ。

これらリスクを挙げていけばきりがないが、リスクも考えようだ。平成ニッポンにおいての仕事上のリスクである。命を取られるわけでも、収入がゼロになるわけでもない。自分が決めた建設的な目的を持って、変化を仕掛けて、可能性を試す。そこでたとえ失敗したとしても、何か取り返しのつかない惨劇が待っているだろうか。おそらく、そこで得られる心境は、「これで、またひとつ状況が進んだぞ。得たものは大きい」―――ではないだろうか。目的に向かう意志の下では、自分を試すことに失敗はないのだ。

発明王エジソンは、1万回実験に失敗しても、「私は1万通りのうまくいかない方法を発見したのだ」と言った。

また、米国の人気経営コンサルタント、トム・ピーターズは、「Ready-Fire-Aim」ドクトリンを提唱している。それはつまり、

    「構え・狙え・撃て!」―――ではない。
    「構え・撃て!狙え!」―――である。

ともかく「撃て!」と。撃った後に狙えばいいのだと。彼はこうも加える。

    「ころべ、まえに、はやく」。

ともかく、自分の望む道をつかむためには、行動と修正、そしてまた行動と修正の繰り返ししかないのだ。


◆7で放ち、5まで落ちて、12に上がる
この複雑な社会、複雑な人生において、どんな行動プランであれ、10割読み切るということは不可能である。たとえ読んだとしても、世の中がそのプランどおりに展開してくれる保証はどこにもない。

だから、7割レベルまで状況が読めるなら、サイを投げよ!

私はこれを「七放」(しちほう)と名づけている。ただ、「七で放った」後、そこからは、混乱、困惑、不測の出来事のオンパレードである。未知の連続に、「こんなはずじゃなかった!」という場面も多々出現してくる。自分が描いていたプランのそこかしこにひび割れが生じ、あるいは崩れ落ち、変色し、縮小していくだろう。そうして当初掲げていたプランは5割レベルまで落ち込む状況になる。

―――これが「五落」(ごらく)である。

ただし、これは落ち込んだように見えるだけだ。「五落」という背丈まで生い茂る草むらのなか、素手で草を掻き分け、投げ倒し、道を探っていく。どれほどの長さかわからないが、そうした混沌をくぐり、修羅場をくぐると、やがて広い丘に出る。

その丘には、さわやかな風が吹いていて、ふと足元を見ると花も咲いている。そんな足元の花に気づくくらいに心に余裕ができたとき、振り返ってみてほしい。おそらく事を起こす前までの自分を、冷静に眼下に見下ろせるはずである。

その到達した丘は、当初自分が計画した以上の高みになっていることが多く、12割レベルというのが実感値となる。―――それが「十二達」(じゅうにたつ)ともいうべき境地である。


354



◆過去のことがすべてつながる「十二達の丘」
満足のいく仕事人生を築いていくにはさまざまな能力が必要だが、私はそのなかで最も重要なものは「自分を試す勇気」と「状況をつくりだす力」ではないかと思っている。

行動で仕掛ければ仕掛けるほど、自分の視界はどんどん開けてくる。Aという山を目指していたが、状況をつくりだすうちにBの山にたどり着くこともあるかもしれない。だが、そのときあなたはBの山頂に立ってこう思うだろう―――「あぁ、Bの山こそ自分の山だったのかもしれない。いい山だ」と。そして遠く向こうに見えるAの山頂をなつかしく眺めるだろう。

仕事の成就やキャリアの進路に唯一無二の正解はない。人はゆらぎながら成長していく動物である。ひとたび何か事を起こすと、自分を取り巻くいろいろな条件、制約、都合などが複雑な力学を伴って、自分に向かってくる。その状況のなかでもがきながら、キャリアの道筋はつくられ、選択肢が固まってくる。

動けば動くだけ新しい不安も起こってくるが、「何かが見えつつある」という確かな実感が、そのもがきプロセスを楽しいものにする。座して何もせずにいる不安のほうが、はるかに不健全な不安だ。

リスクを怖がらずに仕掛け、不測の状況と葛藤して、自分がほんとうに納得できる居場所を見つけられたなら、それこそが「キャリアの勝利」というものである。


◆ゼロをイチにさえすれば、やがて百にも千にも道が広がる
勇気と夢を持って自分試しを敢行した人たちの経験によると、「十二達」の丘に到達したとき、過去のことがすべて必然性を持ってつながると言う。過去に何気ないところで得ていた技術や知識、人脈、そして雑多な経験や失敗などが、あたかも、いま進んでいる道を行くためにあったのかと思えるのだ。

    「先が読めないから行動できない」というのは言い訳にすぎない。
    まずは行動してみないから、先が見えてこないだけの話である。

ヒルティは『幸福論』で次のように書いている。

「まず何よりも肝心なのは、思い切ってやり始めることである。
仕事の机にすわって、心を仕事に向けるという決心が、結局一番むずかしいことなのだ。
一度ペンをとって最初の一線を引くか、あるいは鍬を握って一打ちするかすれば、
それでもう事柄はずっと容易になっているのである。
……だから、大切なのは、事をのばさないこと」。



同様に、ノーベル化学賞受賞の福井謙一博士は、『哲学の創造』の中で、まったく新しい学問というのは、論理によらない直観的選択から始まる場合が多い。だから着想を持ったら、ともかく荒っぽくてもいいから実験を始めること。そうすれば試行錯誤の中で正しい結論が裏付けられていくと語っている。

何かの状況を前に、グズグズ、ウジウジ躊躇して、「ああなったらどうしよう、こうなったらどうしよう」と悩んでいる状態は気持ちが悪い。どうせ悩むんだったら、何か事を行って、その展開のうえでどうしようかと悩むほうが、悩みがいもあるし、第一気持ちがすっきりする。

本田宗一郎は―――「やりもせんに」と言った。
鳥井信治郎は―――「やってみなはれ」と言った。
そして、ナイキのブランドメッセージは―――Just Do It





〈Keep in Mind〉
サイを投げよ! すると腹が据わる。先が見えてくる。



Related Site

Link