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「3つの自」 ~自立・自律・自導 

3.1.2


人生・キャリアを航海に喩えるとするなら、
あなたの船はどんな船だろうか?
(非力なゴムボートだろうか、それとも強力なエンジン付きの鋼鉄船だろうか)
ぶれないコンパス(羅針盤)を持っているだろうか?
地図を持ち、そこには目的地が描かれているだろうか?



◆3つの自~働く意識の成長フェーズ
「自立」と「自律」については、「自立と自律の違いを考える(3.1.1)」で詳しく触れた。私はその2つに「自導」を加え、働く意識の3つの成長フェーズとしている。では、それらを概括してみてみよう。

〈1〉「自立」フェーズ
まず、自らを職業人として「立たせる」段階。
知識や技能、人脈を得、独り立ちして業務が処理できるようになる。
そして自分の稼ぎで生計を立てられるようになるというのがこのフェーズである。
このときに養うのはともかく働く主体となるべき基本的能力である。
自分が何の能力を身につけたか/身につけていないか(have or have not)が
中心課題となる。
このフェーズの基本動詞は、能力を「持つ」、生活を「保つ」である。
反意語は「依存」。

〈2〉「自律」フェーズ
次は、自分なりの律を持って、自分を「方向づけ」できる段階。
律とは、倫理・道徳観、信条・哲学、美学・型(スタイル)のようなもので、
それをしっかり醸成することで、仕事に独自の判断や個性を与えられるようになる。
養うべきは、どんな状況に置かれても、沈着冷静に正気を失わず、
物事の善い/悪い(right or wrong)を判別して選択する主観である。
基本動詞は、「決める」「動く」。
反意語は「他律」。

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〈3〉「自導」フェーズ
最後は、目的を設定し、その成就に向けて自らを「導く」ことのできる段階である。
なお、目的とは「成すべき状態や理想像+それを目指す意味」のことで、
端的に表すと想いとか夢/志、使命、大義など、
中長期の職業人生にわたる「大いなる目的」をいう。
このフェーズの特徴は、大いなる目的を覚知したもう1人の自分がいて、
それが現実の自分を導くという構図である。
必要なのは、「大いなる目的」に向かう「勇気」であり「覚悟」。
このフェーズで関心となるのは、
それは意味があるか/ないか(meaningful or meaningless)。
基本動詞は、「描く」「リスクを負って踏み出す」「拓く」。
反意語は「漂流・停滞」となる。

なお、自律と自導はどちらも方向性に関するもので、その点では共通するところがあり、相互に影響しあってもいる。自律はどちらかというと、直面している状況に対し、自分の律でどの方向に決めるかという現実思考である一方、自導は将来の目的から逆算して、自分をどこに導いていくかという未来志向のものになる。また、自律的であるためには冷静さが求められるのに対し、自導的であるには、抗し難く湧き起こってくる“内なる声”、“心の叫び”が必要であり、その意味では熱さを帯びるという性質のものである。

また、航海のアナロジーを用いるとすれば「3つの自」は次のように考えることができる。

・自立=「船」;知識・能力を存分につけて自分を性能のいい船にする
・自律=「コンパス」;どんな状況でも、自らの判断を下せる羅針盤を持つ
・自導=「(目的地を描いた)地図」;自分はどこに向かうかを腹決めする




*   * * * * * * *
【研修現場からの気づき】

◆「自律的」止まりでは不十分である!
昨今、企業が掲げる人材育成の方向性として、「自律的なキャリア形成意識を育む」「自律的に仕事をつくり出せる人材を育てる」といった流れが大きい。確かに、「自律性」を育むことはとても重要だし、それを遂行することもかなり難度が高い。しかし本当を言えば、「自律的」止まりでは不十分なのである。

企業の研修の現場に立つと(とくに大企業の場合はそうだが)、5年目以上の社員の中には、自律心がある程度確立されていて、自律的にちゃんと働ける人が少なからず見受けられる。彼らは、自らの判断基準で状況を判断し、主体的に行動を起こすことができる。上司に対しても、組織に対しても意見を言うことができるし、担当仕事の目標設定や納期、品質もきちんと自己管理ができる。すでに部下を持って、彼らを動かしたり後輩の面倒をみたりするなど、協働意識も強い。

しかし、彼らは漠然とした不安にかられていることが多い。なぜなら、中長期の自分をどこへ導いていっていいか分からないからだ。ともかく仕事はきちんとこなしていくものの、さりとて腹の底から出てくる叫びを呼び起こすこともできず、夢や志、ライフワーク的なものを抱くこともできず、やりがいに満ちている状態ではないのである。

つまり、
自分という船をしっかり造って(=自立ができ)、
羅針盤もきちんと持っているが(=自律もできているが)、
さて、自分という船をどこに導いていっていいのかが分からない、見えない。
地図上には目的地が入っておらず、
ある種の漂流感や停滞感に包まれているのだ(=自導でない)。

そんなときに、たまたまの人事異動やネガティブな出来事などに遭遇し、ストレスが過剰にかかったりすると、心身を病むケースがいろいろと出てくる。真面目で自立・自律的に仕事ができる人ほど、何かで調子が狂ったときに弱いものである。

30代後半以降、ほんとうに大事になるのは「自導」である。ひとたび、キャリア上の「大いなる目的」を持ち、そこに自分をたくましく導いていく状態ができれば、自分の内に湧いてくるエネルギーは相当に力強いもので、多少のストレスはものともしなくなる。また、その目的地に合わせて、船体はこれで大丈夫かとか、もっと精度のいいコンパスを持ったほうがいいぞとか、自立や自律を補強する意識も生まれてくる。

結局、自導的でない人は、真の活気が湧いてこない、働く発露がない、漂流感がいつまでもつきまとう。逆に自導的な人は、状況がどうであれ喜びを持つ。しんどくても快活になれる。迷いがない。自導できるか否かは、何十年と続くキャリアにおいて重要な分岐点となる。


◆たくましきキャリア形成の要は「空想力」
「自導」フェーズに自分をもっていくために不可欠なことは、「己を空想(妄想でもいい)すること」である。その空想が、現実の自分をいかようにでも引っ張り上げてくれる。その空想を実現しようとするとき、既得の知識・技能の再構築が起こり、新規の知識・技能の獲得に向けてもりもりと意欲が湧き起こる。

たとえば私自身、この人財教育分野の仕事は新参者である。私のコアスキルは何かと問われれば、それまでの仕事経験から、マーケティングや情報の編集といった分野だった。しかし、教育分野で独立しようと腹を括った瞬間から、すべてが変わった。

過去に培った知識・技能は、教育の角度で再構築され、不足している知識・技能を新たにどんどん吸収していった。新しい目的の下に、新たな自立と自律の回転が自分の中で起こったのである。そしていま、日々の仕事をするにあたって、自分の描いた理想とする教育サービス像、理想とする研修事業者像が自分を導いてくれているという実感である。困難やストレスも多いが、それを凌駕するエネルギーはいくらでも湧いてくる。

評論家の小林秀雄は『文科の学生諸君へ』の中でこう述べている───

「人間は自己を視る事から決して始めやしない。
自己を空想する処から始めるものだ」。


また、ウォルト・ディズニーの言葉はこうだ───

「夢見ることができれば、成し遂げることもできる」。


夢を描く人は、自己をリードできる。
しかし、夢を描かない人は、自己をリードできない。
自己をリードできないから、どこにもたどり着けない。
「少年よ、大志を抱け」とクラーク博士は言ったが、
十分に大人になった人間たちにも、やはり志は大事である。
でなければ、せっかくの人生が“もったいない”。



【『働くこと原論』関連記事】
 ・「自立」と「自律」の違いを考える   
 ・「自導」についての補足~2つのリーダーシップ   
 ・自律と他律 そして“合律的”働き方




「自導」についての補足~2つのリーダーシップ

3.1.3



◆リーダーシップの原形:天安門で戦車の前に立つ青年
「リーダーシップ」という言葉を、私たちは日常のビジネス現場で何度となく使っている。もちろん、指導力とか、人を率いる人間性・度量などの意味で理解している。しかし、この単語の原形イメージを頭の中で描いたことは少ないのではないだろうか。野田智義氏と金井壽宏氏による共著『リーダーシップの旅』は、それをうまく描き当てている。その箇所を抜き出してみたい───

「皆さんはリーダーと聞いて、どんな人をイメージされますか?」
すると、未だ三十代と思しき白人男性が立ち上がって答えた。
「天安門広場で戦車を止めようとして一人で立ちはだかった、
名も知れぬ若い中国人の男性」。


(中略)
あの(天安門の)青年はきっと特別な人間でも、エリートでもないだろう。
自分が戦車を止めることで実現されること、その何かを見てみたいと思い、
たった一人で足を踏み出したに違いない。
「他の人が見ない何かを見てみたい」という意志をもつあらゆる人の前に、
リーダーシップへの道が開けていることを、
彼の行動は示しているのではないか。



著者の1人である野田氏は、リーダーシップの原点が、この天安門広場で戦車の前に立った一青年の姿にあるという。つまり、青年が命を賭してその行動に出たのは、“内なる叫び”に従ってのことであろう。それは、自らの内なる叫びによって、自らを導いたといってもよい。そしてその勇気ある行動は、他の人びとを感化し、結果的に、他の人びとを導くこととなった。

このことは、リーダーシップが「リード・ザ・セルフ」を起点とし、「リード・ザ・ピープル」、「リード・ザ・ソサイアティ」と変化していくことを示している。野田氏は、自己をリードする人は、段階的成長を経て、結果的に他者をリードする人になるという論をこの本で展開している。


◆2つのリーダーシップ ~自己を導く/他者を導く
一般的に、リーダー/リーダーシップという概念は、他者をリードする(=導く)ということが前提となって使われている。しかし、上の考察のように、実はリーダーシップの起点は自己にある。他者をリードする前に、まず自己をリードしなければならない。この発想に立つと、リーダーシップを2つに分けて考えることができる。

すなわち、1つは、
内に向けた/自己のリーダーシップ;inward/ self-leadership

もう1つは、
外に向けた/対人のリーダーシップ;outward/ interpersonal leadership

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◆自分を導くもう1人の自分
私は「内に向けた/自己のリーダーシップ」を特に「セルフ・リーダーシップ」として扱い、研修プログラムのなかに取り込んでいる。

セルフ・リーダーシップをとらえる上で重要となるのは、「何が」己を導くのかということだ。それはおおいなる目的(夢/志、使命、大義など)であり、抗し難く湧き起こってくる“内なる声・心の叫び”であり、それを覚知したもう一人の自分である。
したがって、セルフ・リーダーシップの発揮のために何が必要かと問われれば、それは仕事に大きな意味を見出すことであり、自分が向かいたい理想像を描くことであり、同じ価値を抱く人たちとの交流である。自己をたくましく導いていけるかどうかは、技術のあるなしや、分析や計画がうまくできるかどうかではない。想いを抱けるかどうかにかかっている。

セルフ・リーダーシップについては、これまで、一般的なリーダーシップ(outward leadership)ほど多くが語られてきたわけではないが、たとえばスティーブン・R・コヴィー著『7つの習慣』では、その「第二の習慣;目的を持って始める」のなかで、“自己リーダーシップ(personal leadership)”として触れられている。

また、認知心理学では「メタ認知」という研究分野がある。メタ認知とは、「認知を認知すること」をいう。「メタ」とは「高次の、超えて」という意味である。「自己を認知する自己を一段高いところから認知する」というのもメタ認知である。メタ認知の研究では、人間の持つ省察的思考力や、自己に存在する“内なる他者”とのやりとり(=自己内対話)について考察していく。そんな観点から、セルフ・リーダーシップもメタ認知の一種であると考えられる。

* * * * *

【補足】
ちなみに、芸術家たちの創造の世界においても、現実の自己から離れたところにもう一人の自分の存在が重要になることは、次のような例からもわかる。

能の大成者、世阿弥は『花鏡』のなかで「離見の見」と言う。つまり、演者自身の目線は「我見」、観客の目線は「離見」。舞いを究めるには、我見・離見を越えて第三点から俯瞰する「離見の見」を持たねばならないという考えである。「離見の見」とは、現実の自分を冷静に見下ろすもう一人の自分をこしらえ、それが導き役を果たすという発想であり、まさにセルフ・リーダーシップに通じている。

また、パブロ・ピカソはこう言う───

「着想は単なる出発点にすぎない……
着想を、それがぼくの心に浮かんだとおりに定着できることは稀なのだ。
仕事にとりかかるや否や、
別のものがぼくの画筆の下から浮かびあがるのだ……
描こうとするものを知るには描きはじめねばならない」。



同じく画家、中川一政は自身の著書『腹の虫』でこう書いている───

「私の中に腹の虫が棲んでいる。
山椒魚のようなものか海鼠のようなものかわからないが棲んでいる。
ふだんは私はいるのを忘れている」。





【『働くこと原論』関連記事】
 ・「自立」と「自律」の違いを考える   
 ・「3つの自」 ~自立・自律・自導 
 ・自律と他律 そして“合律的”働き方


自律と他律 そして“合律的”働き方

3.2.1



◆自律は善で/他律は悪か
自律・他律といったときの“律”は、「ある価値観や信条にもとづく規範やルールのこと。さまざまな事柄を判断し、行動する基準となるもの」をいう。したがって、

○「自律的」
=自分自身で“律”を設け、それによって判断・行動する
(そこには、意志的、能動的な態度がみられる)

○「他律的」
=他者が設けた“律”によって、判断・行動する
(そこには、追従的・受動的な態度がみられる)


とまとめられるだろうか。このことから一般的に、自律的な働き方は善で、他律的な働き方は悪だと認識されがちである。しかし、そう単純に認識してもよくない。私は研修で、次のような表を出し、受講者に考えさせる。

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1つの軸に「自律的な働き方と他律的な働き方」を取り、もう1つの軸に、「望ましい点と望ましくない点」を置く。その4つの空欄にどんなことが当てはまるか。

誰しも「自律的×望ましい点」と「他律的×望ましくない点」はすぐに思い浮かべることができる。だが、じっくり考えると、「自律的×望ましくない点」や「他律的×望ましい点」についてもいくつか出てくる。

たとえば、自律が過剰にはたらくと、自己中心的な暴走や逸脱を生む。自律的働き方が、いつしか“俺様流”に陥るのだ。自律意識過剰の人間ほど、狭い視野の判断でトラブルを起こしてしまったり、「こんな会社やってられるか」と切れてしまい、簡単に転職に走ってしまうケースはよくある。

また、他律的な働き方は、ときに効率的でミスの少ないものである。もしその組織が、過去から営々と築き上げてきたノウハウを持っている場合は、ヘタに個人が独断で動くより、組織の持つ暗黙知・形式知に従って(=他律的に)淡々と仕事をやるほうがいい場合もある。先輩方が築き上げてきた伝統の知を従順に利用することは、賢明な手でもあるのだ。 (ただ、それに安住し依存してしまうと、他律的の望ましくない面がじわり出てくる)

いずれにしても、私たちが押さえるべきは、自分の律も他者の律も完璧ではないことだ。そしてさらに重要なのは、両者の律を「合して」つねに「よりよい律」を生み出していくことである。


◆自律と他律を高い次元で止揚する「合律」
さて、両者の律を合するとはどういうことだろう。私は、働き方として自律的と他律的の2分法を超えて、新しい意識概念を登場させるべきだと思っている。

自分の日ごろの仕事を振り返った場合、その仕事は、必ずしも自律で行なわれたか、あるいは他律かという両極の2つで分けられるものではない。実際にはその中間形態が存在する。

つまり、ある仕事をやろうとするとき、組織や上司はこう考え、こう行なうようにと命令してくる(=他律的な)流れと、それに対し、「いや、自分はこう思うので、こうしたい」とする(=自律的な)流れが生じる。そして、結果的には、自分と上司なり組織なりが討議をして、双方が納得する答えをつくりだしている。この自分と他者の間に生み出された第三の答えは、自律も含み、他律も含み、だが新しくもある。

その第三の答えは、双方の律を“合した”という意味で、「合律的」と呼んでいいかもしれない。自律的な「正」の考えに対し、他律的な「反」の考えがあって、その2つを高い次元で止揚する「合」が生まれたということだ。

31203


ただし、「正」と「反」がぶつかりあっても、妥協で済ませる場合は「合」ではない。「合」とは次元が上がって生み出された新しい何かである。


◆個々が合律的に振る舞う組織は変化に強い
事業組織は、つねに環境の変化にさらされていて、その環境適応・環境創造のために、新しいやり方を生み出していかねばならない。その際、誰がそれらを生み出していくのか?───もちろん、それは経営者および個々の働き手にほかならない。

31204


だが、彼らが過剰に自律的(時に我律的)に考え出し、行動する選択肢は往々にしてハイリスクであるし、全体がまとまるにもエネルギーが要る(存亡の危機にある組織が、起死回生の一発を狙って行なう経営者の超我律的選択肢は例外的なものと考えるべき)。そんなとき、自律と他律の間で、止揚的に第三の選択肢を創造していくことは、最も現実的で、かつ成功確率の高い変化対応策を生み出すことにつながる。

強い会社・変化対応に優れた組織というのは、経営者が合律的なマネジメントを実行するということは当然だが、やはり、現場の一人一人の働き手が、まず自律的な存在となり、自分の意見を組織にぶつけて、合律的に事に向かっていくことが決定的に重要である。

31205


合律的という意識は、一個人のなかにおいても大切である。自分の律に対し、つねにオープンマインドで他者の律をぶつけてみることで、自律の偏りやゆがみや不足などが見えてくる。そして他律から取り込むべきものは取り込んで、以前とは次元の上がった律を持つことができたなら、それは合律による成長である。




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