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ロバート・B・ライシュ著『暴走する資本主義』を読んで

8.02


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ロバート・B・ライシュ『暴走する資本主義』
〈原題:“Supercapitalism”〉
雨宮寛・今井章子訳、東洋経済新報社








* * * * *

◆不特定多数のなかの加害者と被害者
本稿を書きはじめた折、テレビのニュースでは、ある事故について報じていた。それは、兵庫県明石市で2001年7月に起きた「明石花火大会歩道橋事故」である。市民花火大会に集まった見物客がJR朝霧駅南側の歩道橋で異常な混雑となり、「群衆雪崩」が発生。11人が死亡、247人が負傷した事故だ。

私には、この事故と、きょう紹介する『暴走する資本主義』とが、ある部分重なって見える。以降の論点に沿って、明石事故を分解してみると、この事故には着目する点が3つある。

1点目に、安全面での警備体制・規制がなされていなかったこと。例年、人がごった返し、かねてから安全面での問題が指摘されていたにもかかわらず、混雑を規制する計画も、当日の警察官出動もなかったという。

2点目に、被害者は主に過度の圧迫による死傷だったこと。歩道橋に溢れた人びとの一人一人は、もちろん事故を起こす意図などない。ましてや誰かを圧死させようなどという殺意があるわけでない。第一、一人の人間は他人を圧死させるような強い力を持ち合わせていない。しかし、物理的には、歩道橋にいた一人一人の自己防衛の行動が重なり合わさって、ある箇所に力として集中し、たまたまそこにいた個人が圧迫被害を受けた。

3点目に、したがって、当時、あの歩道橋にいた一人一人が知らず知らずのうちに(物理的な意味での)事故の加害者となり、かつ、誰もが被害者になりえた状況にあったこと。

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◆資本主義の暴走を荷担しているのは私たち一人一人
さて、そんなことを頭に置きながら、ロバート・B・ライシュ著『暴走する資本主義』の内容に触れたい。

「1970年代以降、資本主義が暴走を始めたのはなぜか?」―――著者はこの問いを置くことからスタートする。著者は、資本主義を暴走させたのは、根本的な意味で、強欲な企業・経営者、あるいは巨額の資金を運用する数々のファンドやマネーディーラーたちではないと言う。では誰か?―――それは、「消費者」「投資家」として力を持った一般の私たち一人一人なのだ。これが著者の主張する重要な観点である。

つまり、一人一人の力は小さいかもしれないが、「もっと安いものを!」「もっとリターンの高い投資を!」という欲望が束となって巨大な力を生み、資本主義を歪な形に走らせるプレッシャーをかけている。例えば、ウォルマートは今日、米国で最大規模の収益を上げ、最多の従業員を雇用し、日々、何千万人という消費者を招き寄せる圧倒的に強い小売企業となった。そしてここ数十年間、目覚ましい勢いで株価を押し上げ、株主に報いてきてもいる。それを可能にしているのは、ウォルマートのサプライヤーに対する過酷で非情な交渉力である。ウォルマートは「1セントでも安く買いたい」という個々の消費者の購買意思を集結させ、あたかもその消費者団体の代表として仕入れ先と値引きの交渉を行うのだ。

ウォルマートが収益を上げるためにやっている過酷なことは、外側だけに限らない。内側に対してもギリギリまで削りに削る。詳細の数値は本書に出ているので省くが、ウォルマートの従業員・パートタイマーの労働待遇(給料や福利厚生や年金保障、健康保険手当など)は厳しい。しかしだからといって、ウォルマートのCEOは、非情だとか残酷だとかのレッテルを張られる筋合いのものではない。彼は、ビジネスという競争ゲームのルールに従って、最大限の成果(収益獲得)を出そうと本人の能力を発揮し努力しているに過ぎないのだから。

仮に、サプライヤーや従業員に温情をかけてウォルマートの値引き率が鈍ってしまえば、1セントでも安く買い回る消費者は、そそくさと他のチェーン店に移ってしまうだろう。そして、収益が悪化傾向をみせるやいなや、株価が下がり始め、少なからずの投資家たちがワンクリックで株を売り払う流れが強まる。そして、株の下落は加速する。四半期ごとの成績を厳しく問われるCEOは、交代を迫られるはめになる。

そうした背後でプレッシャーをかける投資家とは誰なのか? 直接的にはもちろん、その株を保有する株主である。そして間接的には、年金ファンドや保険商品、投資信託商品を通じて、薄く広く「あなた」自身も、そこに関わる当事者の一人である可能性が高いのである。


◆強い「消費者・投資家」としての私 vs 弱い「労働者・市民」としての私
私たち一人一人には、多面性がある。「消費者」であり、(広い意味での)「投資家」でもある。そしてまた同時に、「労働者」であり、「市民」でもある。

70年代以降、「消費者としての私」、「投資家としての私」は、飛躍的にその立場が強まった。より有利な(=得をする)選択肢を求めて、動ける方法が格段に多くなったのだ。しかし、その「消費者」「投資家」としての利得欲望が増せば増すほど、「労働者」「市民」としての私たち一人一人は、逆に富を享受できない方向へと押しやられていく皮肉な現象を起こしているのが昨今の状況なのである。

そうした資本主義の歪みを矯正するのが、民主主義・政治の役割なのだが、もはや暴走する資本主義にのみ込まれてしまって機能不全に陥っている。著者は、ワシントン(=米国の政治)が、いまや企業という利益団体から雇われるやり手のロビイストたちで動かされている現状を具体的に書き連ねている。公益や社会の真に重要な問題を訴える市民団体や非営利組織などは、団結力や資金力に乏しいので、その訴えがワシントン上層部に届く前に雲散霧消していく場合がほとんどだと言及する。

「消費者」や「投資家」としての私たちは、ネットショッピングやネットの株取引、ネットの検索などを利用して、ワンクリックで自分の意思を即座に完結させることができる手段を持った。そして、それらはグローバルにつながり統合されることで、巨大なパワーとなる。

その一方で、「労働者」「市民」としての私たちは、意思を世の中に伝える手段はきわめて限られており、脆弱なままだ。一労働者・一市民として、「このままじゃいけないので反対しよう」「何か役立つことをしたい」と思ったところで、それを実行し、ましてや同じ考えの人びとを束ねて大きな運動にするには気の遠くなるような努力と時間が必要になる。

ライシュ氏は、序章でこう書いている。

「私たちは、“消費者”や“投資家”だけでいられるのではない。日々の生活の糧を得るために汗する“労働者”でもあり、そして、よりよき社会を作っていく責務を担う“市民”でもある。現在進行している超資本主義では、市民や労働者がないがしろにされ、民主主義が機能しなくなっていることが問題である。

私たちは、この超資本主義のもたらす社会的な負の面を克服し、民主主義をより強いものにしていかなくてはならない。個別の企業をやり玉に上げるような運動で満足するのではなく、現在の資本主義のルールそのものを変えていく必要がある。そして“消費者としての私たち”、“投資家としての私たち”の利益が減ずることになろうとも、それを決断していかねばならない。その方法でしか、真の一歩を踏み出すことはできない」。



著者は、序章でこうした結論を述べた後、残りの300ページ超にわたり事実を一つ一つ積み上げながら、資本主義が暴走を始める根本のメカニズムを書き解いていく。もちろん、その列挙する事実が偏向的だとか、決め付けだとかの声は出てくるだろうが、それにしてもこの本の主張には、力強い一本の背骨が入っている。文章表現や解釈というのはいやおうなしにその人の人格やら思考の性質を顕してしまうもので、ここにはロバート・ライシュという人物の堅固な良識さ・明晰さと、このことを社会に問わずにはいられないという使命にも似た強い意志を感じることができる。

* * * * *

◆捨てられない資本主義をどうするか
著者は、今のこの歪(いびつ)に暴走を始めた資本主義の進路コースを修正し、世界が継続的に維持発展できるようにするためには、一人一人がマクロの視点で、自分たちが依って立つ経済システムを見つめなおす意識を持つことが大事だと訴える。

そして、「消費者・投資家として私」が、際限のない欲望をうまく自制し、よき「市民・労働者」として、よき民主主義を蘇生させるよう動くことだと主張する。そのバランスを能動的に賢くとることができれば、強い資本主義と活気ある民主主義を同時に享受できるとしている。

私たちのほとんどは、資本主義を生まれた時から当然のものとして受け入れている。単純な比較で「資本主義=○、共産主義=×」と半ば反射的にとらえている。だが、そこには、確たる思想があって、資本主義を是としているわけではない。ただ何となく「共産主義は怖そうだから」とか「資本主義は自由だからいい」といった程度の感覚で支持しているにすぎないのではないだろうか。

しかし、今回明らかになったように、資本主義は、私たちの大事な民主主義を脅かしていて、「1%の経済的強者と99%の経済的敗者」を現実的につくりだす方向に加速している。資本主義など捨ててしまえ、という単純なものではない。おそらく、このシステムを土台にしてしか、当面、地球上の数十億人の経済は回っていかない(中国も事実上すでにこのシステムの上に乗っかっている)。

資本主義は基本的には優れたシステムである。しかし、人間の欲望をエンジンにして稼働するところが問題なのだ。そのとき私たちには、それを賢く扱うための「思想」が要る。言うまでもなく、一個一個の人間の内にそれが不可欠なのだ。

アンドレ・コント=スポンヴィル氏が『資本主義に徳はあるか』の中で言ったように、資本主義のメカニズムは、それ自体、道徳的でも反道徳的のものでもない。結局、それは経済を行なう人間に任されている。だから、私たち一人一人の思想いかんで、資本主義は“ノアの方舟”にもなれば、“泥船”にもなる。


◆資本主義を生かすためには叡智が要るが……
思想なり哲学なり叡智なり、人間の賢さというのは、少なからずの人が指摘するように時代が下ってもさほど進化してはいない(科学技術文明の発達ともあまり関係がない)。特に、欲望の扱いに関しては、人類は古くから惑わされっぱなしである。

渋沢栄一の『論語と算盤』は、昭和3年(1928年)の刊行だが、ここには現在と同じくマネー獲得を狙って投機に明け暮れる投資家や事業経営者たちがあちこちで言及されている。そして『論語』の思想で滔々と諭す渋沢がそこにいる。

また、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を著したマックス・ヴェーバーは(執筆した1904年時点で)、「営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることさえ稀ではない」と書いている。つまり、経済がその本来の意味である“経世済民”からはずれて、もはやマネーの多寡を競い合う体育会系ゲームになり下がっていると指摘しているのだ。

そもそもケインズも、私は資本主義より優れた経済システムを知らない。しかし、人びとの中に生まれる「貨幣愛」が問題である、と吐露している。資本主義が回り始めてこのかた、人びとの欲望がそのシステムの箍(たが)をはずし、いくつもの「●●恐慌」やら「●●ショック」を引き起こしてきた。金融の「暴走→暴落→規制→新たな暴走」というサイクルが止まないのは、人間がいまだ欲望をうまくコントロールできていない証左だともいえる。

古今東西、宗教は、人間の欲望を統御する力としてある程度の役割を果たしてきた。私は最終的には、歪み暴走する経済システムを矯正するために、宗教セクターの力は不可欠なものと信じている。またそれに加え、文化や芸術、哲学、教育の力が必要なことは言うまでもない。……一方、科学。科学は、実質、暴走経済を荷担する側になり下がっている。科学という刀を正しい経済システム構築に使うためには、やはり、人間の欲望のコントロール力というところに戻ってくる。

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◆答えは一個一個の人間の内側にある
私たちの考え方と行動いかんによって、資本主義が泥船化するかもしれないという大事な分岐点にあって、私たちは相変わらず、日々の業務効率化スキルの習得ばかりに目がいき、組織から下りてくる数値目標の達成に忙しい。肉体労働、知識労働の別にかかわらず、組織の歯車となって一人一人の労働者が働かされる構図はチャップリンが映画『モダンタイムズ』で描いたころとさして変わってはいない。

スーパーで1円を節約する主婦が、あるいは昼食で100円200円を浮かせたサラリーマンが、FX取引で「きょう1日で5万円の儲けが出た」とか「レバレッジで2000万円の損失が出た」と口にする風景は、どうも何かを見失っているように思える。

「生活防衛のための投資の何が悪い!」という気持ちもあるだろうが、それは冒頭で触れた明石の花火大会歩道橋事故で言えば、肘を立てて我さきに強引に逃げようとしている姿にも映る。橋全体が崩れるかもしれないという状況にもかかわらず・・・。

「パンとサーカス」は、詩人ユヴェナリスが用いた風刺句である。民衆はパン(=食糧)とサーカス(=適当な娯楽)さえ与えられていれば、為政者に文句を言わず、日々適当に暮らしていくということだ。

今の日本を見ると、問題山積ではあるものの、パンはそこそこ手に入るし、ストレス発散や憂さ晴らしをするサーカスもさまざまある。加えて、パソコンやスマホから手軽な操作で、マネーを増やす投資(投機)手段もいろいろ出てきた。「給料が増えないんなら、カネにカネを生んでもらおう」と投資商品を買い、日々の相場数値に一喜一憂する。意地の悪い風刺画家であれば、こうした状況をパンとサーカスに満足し、サイコロに夢中になっている人びとを描くのではないだろうか。

私は厭世家でも、マネー投資否定者でもアンチ資本主義者でもない。むしろ“強い資本主義”と“活気ある民主主義”の両方を望む者である。そして経済を本来の大義である“経世済民”として、その健全な発展を望む者である。

そのために「働くことのよき思想」を一人一人の人間の中に涵養していくことが決定的に重要だというのが本記事の主張である。そして職業人教育の分野で起業した私の事業動機もそこにある。歴史を振り返ると、よき時代には、必ず「よきエートス(道徳的気風)」が充満している。エートスはどこからか漂ってくるものではない。個々の人間の内側から湧き起こってくるものである。その個々の人間の内側にはたらきかける仕事ができることに私はやりがいを感じている。




【お勧めしたい関連読書】

・アンドレ・コント=スポンヴィル『資本主義に徳はあるか』
 (小須田健/C.カンタン訳、紀伊国屋書店)
・渋沢栄一『論語と算盤』(国書刊行会)
・野中郁次郎/紺野登『美徳の経営』(NTT出版)
・内山節/竹内静子『往復書簡 思想としての労働』(農山漁村文化協会)
・杉村芳美『「良い仕事」の思想』(中央公論社)
・塩見直紀『半農半Xという生き方』(ソニーマガジンズ)
・西村佳哲『自分の仕事をつくる』(晶文社)
・ジョシュア・ハルバースタム『仕事と幸福、そして人生について』
 (桜田直美訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン)
・ディック.J.ライダー『ときどき思い出したい大事なこと』
 (ウィルソンラーニングワールドワイド監修、枝廣淳子訳、サンマーク出版)





「形→本質」が日本のものづくりの道

8.01


この記事は、ビジネス雑誌『THINK!』(東洋経済新報社)2011年夏号に寄稿した
「曖昧さ思考トレーニング」の一部分を再編集したものです



◆意志を宣言するアップルvs性能説明をする日本メーカー
2011年、春の携帯端末機商戦。アップルは『iPhone4』の広告を展開していた。宣伝のためのポスターやリーフレット、ウェブページには、「すべてを変えていきます、もう一度」「見たこともない電話のかけ方を」「マルチタスキングとはこうあるべきです」といったコピーが載せられていた。

一方、日本の端末機メーカーの宣伝コピーはどうだったか―――「最薄部8.7mmのエレガントデザインと磨きぬかれた映像美の世界」(ソニー・エリクソン『Xperia arc』)、「トリプルタフネスケータイ~耐衝撃・防水/防塵構造」(NEC『N-03C』)、「ボタンが押しやすい約10.4mmスリムケータイ」(パナソニック『P-01C』)、「バカラのきらめき、歓びのかたち」(シャープ『SH-09C』)。アップルと日本メーカー勢とでは、明らかに商品の訴え方に違いがある。この違いは何なのか? そしてこの違いはどこから生じてくるのか?

アップルは自分たちが考える携帯端末機の「あるべき姿」を提示し、主観的な意志を宣言している。一方、日本メーカーは、ハード的な性能優位を謳うのが目に付く。それは客観的で説明的な言葉だ。

図1に示したように、アップルはコンセプトやスタイルといった「コト的」なものを創造することを志向し、抽象的な次元から絶対評価の眼をもって商品づくりをしている。ちなみにここで言う「コト」とは、商品の差異化手法としてよく用いられる記号論的な付加価値(例えば、ある商品に伝説的な物語を付与することによりステータス性を醸し出すことができる)のようなイメージ要素としてのコトではない。「根っこにある何か本質的なコト」という意味で用いている。

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一方、日本メーカーはこぞって、データやスペック(仕様・性能)といった「モノ的」な出来栄えにこだわり、具体的な次元から相対評価の眼で商品づくりをしている。この両者の違いを見て、それが単にコトからのアプローチとモノからのアプローチの違いであると片付けるわけにはいかない。そこには「本質」をつかまえているかどうかの重大な差があるのだ。


◆アップルは「essence→form」・日本勢は「form→form」
世の中の事象において、「本質は形をまとい、形は本質を強める」という相互作用がはたらいている。内側に本質の円を、外側に形態の円を描き、それを表したのが図2である。

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アップル「iPhone」の成功は、彼ら自身がとらえた本質的なものを起点として、それを巧みに形態(携帯端末機のハードやソフト、そしてビジネスモデルといった目に見えるもの)に落としたことにある。つまり、「essence→form」の流れがそこにある。もちろん彼らとて最初から本質が明快に分かっていたわけではない。プロトタイプ(試作品)というモノを何度も何度も起こし、仮説として抱いた本質を研ぎ澄ませていくという「form→essence」の流れも同時に起こしたのだが、あくまで主導は「essence→form」である。言い換えれば、彼らの思考は「inside-out」(内から外へ)なのだ。

さて、伝統的に優れたモノづくりをする日本人の思考はどうか。それは端的には「form →essence」主導の流れだ。 “神は細部に宿る”を体現した伝統工芸品、あるいは茶道や華道、柔道、剣道、能、歌舞伎など「型」を究めて本質にたどりつく修業などはその典型である。日本人は古来、「outside-in」(外から内へ)の思考なのである。

しかし問題は昨今の日本のモノづくりがどうかだ。「essence→form/inside-out」であれ、「form→essence/outside-in」であれ、本来、どちらが良い悪いというものではない。本質をつかみ取るかぎりにおいては、どちらが主導でもよい。それで携帯端末機市場を例に取れば、日本メーカーはやはりformから入っている。しかし、そこからformを究めることで、essenceの次元に上がっていっているだろうか……。残念ながらformの次元に留まり、相対的なハード面での競争を繰り返すだけのように見える。つまり、「form→form」「outside-out」の思考に陥ってしまっているのだ。


◆「曖昧さ思考」と「明瞭さ思考」
図3と図4はアップルと日本メーカーの思考の違いをさらに詳しく考察するために描いたものである。図に示したとおり、「essence」と「form」の間は、「本質→価値・意味→コンセプト→仕組み・スタイル・型→性能・技術→モノ・サービス」といったものが複雑なグラデーションを織りなしながら連続している。

私たちは「essence」を究めていこうとすればするほど、「曖昧さを取り込む思考」が必要になる。それは言ってみれば「ファジー(fuzzy)な思考」であり、抽象的に、輪郭を描かず、示唆化するように考えることである。そこでは、不確実性・曖昧さを受け入れ、ものごとをまるごと包み込んでとらえようとする全体論的な姿勢となる。また、主観的解釈で仮説を立てる、綜合的・拡散的である、問いに向かって非直線的に、というのもこの思考の特徴となる。ちなみにここで言う「曖昧さ思考」は、「曖昧な思考」とは異なる。前者は曖昧さをもって強く考えることであり、後者はどう考えをまとめてよいかわからず曖昧な状態に留まることである。

他方、私たちは「form」を究めようとすればするほど、「明瞭さに落とし込む思考」が必要となる。それは「ソリッド(solid)な思考」とも言うべきもので、具象的に、明示して、形式化するように考えることである。そこでは、不確実性・曖昧さを排除して、ものごとを細かに分解し調べて理解しようとする還元論的な姿勢となる。また、客観的説明を積み上げていく、分析的、収束的である、解決に向かって直線的に、というのがこの思考の特徴となる。

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アップルは図3のように、抽象度という川をさかのぼっていく曖昧さ思考と、具象度という川を下っていく明瞭さ思考の2つの次元を大きく往復運動しながら事を進めている。そのようなダイナミックな思考過程から、デジタル機器・デジタルライフのあるべき姿や体験価値・体験世界を考え、コンセプトを起こし、「iTunes」によるビジネスモデルを創出し、「iPod」はじめ「iPhone」や「iPad」といったハードを生み出した。彼らのつくり出すものは断片的な製品やサービスのひとつひとつではなく、まさに「i-Something」ともいうべき“ホールプロダクト(whole product)”なのだ。

真に成功するイノベーションは、技術中心ではなく、人間中心である。人間中心であるとは、曖昧で不明瞭で、ときに揺らぎ、ときに執着するような人間の想いや欲求の核にあるものをとらえることを最重要事項とする。そして、「お客様、あなたの欲しかったものはこういったものではなかったですか?」といって形にして差し出すために技術を使う。

確かに、消費者から日々寄せられる具体的な声を分析し、商品開発に役立てることは欠かせない。しかしそれら客観的分析アプローチから可能になるのは、改良や改善であって、既存枠を打ち破るような商品の創出ではない。なぜなら消費者は目の前にある具体的な商品については雄弁に語るが、いまだ体験せぬ夢の商品に関しては語れないからだ。よく言われるのはこうだ。―――「消費者の声分析はクルマのバックミラーのようなものだ。後ろはよく見せてくれるが、決して前を照らして見せてくれるわけではない」
だからこそ、消費者の声を超えて、つくり手こそが大胆に主観的な直観で仮説を立て、曖昧さの中へ深く入り込んでいかねばならない。そしてそれを形にして、しつこくお客様に差し出すことを繰り返さねばならない。アップルはそれをやっているのだ。


◆ものづくりが「form」次元で勝てる時代は終わった
他方、日本メーカー勢はそれに比べ、残念ながら図4のように思考の幅が縮こまった形になっているように思える。思考を曖昧さ次元に切り込むことなく、洞察がモノ寄りで留まっている。だから、出てくる製品や広告メッセージはどれもハード的な性能を謳うだけになってしまう。加えて、日本のメーカーにはアップルのようにホールプロダクト的な世界観がないために、ハードの性能で局所局所で戦うしか方策がないという状況もある。

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昨今の一般消費財の開発・製造現場は、スピード化と生産効率化のプレッシャーが過酷である。システマチックに大量にモノづくりを行う大きな組織の製造業であればあるほど、アイデア出しから技術検討、コスト検討、意思決定などに関わる思考作業をできるだけ効率化させたいという誘惑にかられる。そのために洞察の過程は分業化され、計画立てられ、目標に向かって直線的になる。「次の製品は現行より何ミリ薄くできます」「他社より安く商品化できそうです」といった「form」の次元でモノづくりを考えるほうが、多くの関係者がわかりやすし、コンセンサスも得やすい。明瞭さ思考に留まることは、万人に明瞭であるがために、ある意味、組織を動かすにはラクなのである。

しかしそれと引き換えに、着想と試作の往復運動はどことなく機械的に硬直化してしまう。そこからは突拍子もなく独創的であるとか、パラダイムを変えるようなエポックメーキングなものが出づらくなる。「品質はいいけど、面白みがないね」と言われる日本の製品の多くはこの回路の中にはまっている。

アップルが大組織にもかかわらずその硬直化を免れているのは、スティーブ・ジョブズ氏のいい意味での変人ぶりと、コンセンサスを得ることの困難を恐れず、曖昧さ次元を漂う思考を楽しもうとする組織文化があるからだ。そしてまた、ジョブズ氏の無理難題な夢想に技術が試作で応えようとする強靭さもある。

市場や店頭には、日々さまざまに具体的な商品が現れてくる。また、新聞や雑誌、業界紙などにもそれらの情報が溢れる。しかし、すでに誰かが形にしたものに振り回され、他社の成功物語に浮足立つより、私たちにはやるべきもっと大事なことがある。それは一生活者に立ち返って、自分のなかに曖昧とある想いや願望、意味や価値の芯が何であるかに考えを巡らせることだ。「form」の次元に拘泥せず、「essence」の次元に上がっていくこと―――これが日本のものづくりに課せられた問題である。そしてそれは突き詰めれば、1人1人の働き手が「曖昧に考える力」を養い、個として局面を突破できる独自で強いアイデアを出せるようになるかという教育、あるいは組織文化の問題となる。


◆思考ツールの簡便さが思考力を弱めている
「form」次元に思考が留まっているのは、何も携帯端末機メーカーだけの話ではない。広く私たち1人1人のビジネスパーソンの思考もそうなってしまっているきらいがある。明瞭に物事をとらえ、整理し、説得するためにロジカルシンキングやフレームワーク思考の習得が花盛りである。確かにこれらは有益なスキルではある。

しかし私が企業の研修現場で、そして大学院のMBA(経営学修士)課程で少なからず目にするのは、それらが簡便なツールと化し、もはやその型や枠に物事を流し込むことで何かを考えた気になったり、その行為自体が目的になったりしている風景だ。まさにこれは思考の型や枠といった「form」に留まっている姿である。

私たちは物事を「的確に合理的に考えるため」にロジカルシンキングやフレームワーク思考を取り入れている。しかし、実際は「ラクで能率的に考えるため」にすり替わっていることが多い。評論家の小林秀雄はその点をこう喝破する―――

「能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いをしているように思われるからだ。当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。(中略)考えれば考えるほどわからなくなるというのも、物を合理的に究めようとする人には、極めて正常な事である。だが、これは能率的に考えている人には異常な事だろう」(『人生の鍛錬』新潮社より)。



考える手間を省くことを習慣化すると、頭はやがて形式化され単純化された情報しか処理できなくなる。昨今の若年層社員についてしばしば指摘される個別具体的に記述された文章しか読めない、マニュアル化されないと行動ができないといった傾向はこのことと無関係ではない。

「その話は抽象的だ」というのは、多くの場合、ネガティブな意味に使われる。しかし、本質を含んだ深く広いことは、抽象的ににじみやぼかしを含んでしか表せないことがある。例えば、パスカルの放った「人間は考える葦である」という言葉はとても抽象的である。これを私たちは「抽象的すぎる」と批評できるだろうか。それを抽象的だという人は、実は、その本人に抽象的な表現を読解する力が欠けているからということもある。

時代をあげた「わかりやすさ信仰」「論理思考信仰」「即効・能率信仰」によって、私たちはとても大事なものを捨て去っている。いったいぜんたい、アップルのジョブズ氏がマシンガンのように夢想的アイデアを発するとき、周辺に「わかりやすく」と気づかっているだろうか、ツリー図にして系統立てて考えているだろうか、“MECE”(モレなく、ダブりなく)で語らなきゃいけないなど意識しているだろうか。それは結果的に「誰かが後付け」でやっているのだろうが、最初の枠を打ち破るところのアイデアは、とても無秩序で理不尽で破天荒でつじつまの合わない、むしろ穴だらけ、甘さだらけの、抽象的で多くが理解に苦しむアイデアであったに違いない。しかし、このブレイクスルーを個々の人間がやれるところに、そして組織もそれを奨励するところにいまだ米国の強さはあるのだ。

日本人は手先の器用さ・繊細さを長所とし、モノから思考し、他から型を取り込んで我が物としてしまうことに秀でた民族である。しかし時代は、モノや型といった「form」次元のみでビジネスを制することがますます難しくなってきている。抽象的な「essence」の次元に思考を巡らせ、曖昧さを許容し、むしろ曖昧さを味方につけなければ、真に強い独自の商品は生み出せなくなっている。曖昧さ思考は、明瞭さ思考に比べ直接的・即効的ではないが、“根本的”である。

能面から無限の表情を読み取り、碗のひび割れからも茶の幽玄の世界を観る。ひとつの所作のなかに道の奥義を込める。日本人が古来持つ「form」を究めて「essence」をつかむ能力をいまこそ再生すべき時がきている。そうすることで私たちはアップルやグーグルとは異なった、そしてまた安さで勝負をかけてくる新興諸国とは異なった形で世界とやりあっていける。



【補足】
本稿でいう「明瞭さ思考・曖昧さ思考」はその後、
コンセプトを発展させて、「キレの思考・コクの思考」とし、同名タイトルで単行本化しました。 
『キレの思考・コクの思考』(東洋経済新報社)





日本人は教えられすぎている

4.3.5



◇ ◇ ◇ ◇

「日本人は教えられすぎています」。───こう語るのは、キング・カズことプロサッカーの三浦知良選手だ。彼は加えてこうも言う。「教えられたこと以外の、自分の発想でやるというところがブラジルよりも遅れています」(いずれも『カズ語録』より)。

◇ ◇ ◇ ◇

米メジャーリーグ野球では、コーチのほうから選手にあれこれ指導しないと聞く。選手のほうからコーチに具体的にはたらきかけてはじめて、コーチが技術やメンタルを改善するためのヒントを与えるのだという。

このことは米国の大学院に留学経験のある私もじゅうぶんに理解できる。授業内容は研ぎ澄まされてはいるものの、どちらかというと淡々としている部分も多い。短い在学期間のなかで、ほんとうに自分の研究したいこと、成就したいことのために、大学教官の知見を引き出したり、協力を仰いだりするのはなんといっても授業外だ。授業外でどれだけ彼らを活用できるかが学生の優秀さでもある。教官に教えてもらうのを待つというより、こちらから能動的に引き出す、活用するというスタンスが強い。

◇ ◇ ◇ ◇

ひるがえって日本の企業研修の現場。研修を行った後に、受講者からの事後アンケートを見せてもらう。どこの企業でも少なからず見受けられるのが、「もっと方法を教えてほしかった」「技術論が少なかった」「具体的にどうすればよいのでしょう」といったハウツー要求の意見だ。

私の行っている研修が「知識・スキル習得型」のものであれば当然、そのあたりのことは伝授しなければいけない。しかし私の分野は「仕事観・働く自律マインド醸成型」研修である。自分の仕事の意味をどうすれば見つけることができるか、自律的な人間になるための術は何か、幸せに働くための方法はどうかなどを教えることなどできない。もちろん、そうしたテーマに対し、どう心を構えていくか、どう内省・思索するか、どう行動で仕掛けていくかのヒントは研修内でいくつも与えたつもりである。しかしそれでも技術的なハウツーにまで落として教えてほしいという(不満ともとれる)声は必ず出る。

困ったことに、人財育成担当者のなかには、そうした不満の声による研修の低評価をそのまま受け入れ、「では来年度はもっと方法・技術論を教えてくれる先生に任せよう」と考え違いする場合があることだ。「そんな処世術めいたことを安易に欲しがる社員をうちは増やしたくない!」くらいの毅然とした親心の評価眼で、そうしたアンケート回答になびかない担当者が増えてほしいものだ。

いずれにせよ、「よりよく働くこと・自律的に職業人生を切り拓くこと」のやり方は、自分自身が見出さねばならない。その方法・プロセスこそ、その人の人生そのものだし、自らが抱く価値の体現だからだ。そこの部分は、時間がかかろうが、不器用だろうが、まわり道をしようが、自分でもがいて築いていくしかない。
書店に行けば、「3日間で人生を変える魔法の●●」式の指南本がたくさん出ている。確かに、その中には有益なことも書かれているだろうが、そうしたものに頼っても“Easy build, easy fall”(お手軽に出来て・容易に崩れる)の域を出ない。人生の成功を即効的に刈り取りたいという考えに疑いを持つ人でないかぎり、深い生き方には入り込んでいけないと思う。

◇ ◇ ◇ ◇

芸術品や工芸品を観るとき、作品という成果のみに目がいきがちだが、私はつくり手の創作プロセスや方法に興味がわく。そこを知ることによって作品の味わいが格段に深まるのは言うまでもないが、「生きる・働く」うえでの力をもらえるからだ。すごい作品というのは、技術や発想がすごいというより、そこに達するまでの自己との戦いや鍛錬、執念の物語がすごいのだと思う。そのプロセスの一切合財がいやおうなしに作品や技術に宿るからこそ緊迫感のある名品が誕生する。

いま濱田庄司の『無盡蔵』(むじんぞう)を手元に置いて読んでいる。濱田庄司といえば、ありふれた日用雑器の焼きものだった益子焼(栃木県)を、世界にその名を知らしめるレベルにまで高めた陶芸家である。

濱田は陶芸を英国で始め、沖縄で学んだ。36歳のときに益子に移り住み、以降40年以上そこで作陶人生を送る。実は益子の土は粗く、焼きものに最上のものとはいえない。それを知った上で濱田はそこに窯を築いた。なぜか。濱田はこう書いている───「私はいい土を使って原料負けがしたものより、それほどよくない土でも、性(しょう)に合った原料を生かしきった仕事をしたい」と。

窯にくべる薪は近所の山から伐ってくる。釉薬(ゆうやく・うわぐすり)は隣村から出る石材の粉末で間に合わせる。鉄粉は鍛冶屋の鋸くずをもらってくる。銅粉は古い鍋から取る。用筆は飼っている犬の毛から自分で作る───その考え方・やり方こそが濱田そのものなのだ。

真の創造家は、創造する方法を生み出すことにおいてさえ創造的である。今日の益子焼を代表する色といえば、柿色の深い味わいをもつ茶褐色である。これは“柿釉”(かきぐすり)と呼ばれる釉薬を使用することによって生まれるのだが、その柿釉をつくり出したのは、ほかでもない濱田だ。気の遠くなるような材料の組み合わせや方法のなかから、思考錯誤を繰り返し、ついにこの柿色にたどり着いた。しかも釉薬の原料は先ほど触れたように、隣村からもらってくるのだ。

また、濱田の代表的な技法のひとつとして「流し掛け」というのがある。濱田は成形した大皿を左手に持ち、右手にはひしゃくを持つ。ひしゃくにたっぷりと釉薬を汲み、大皿の上にすっと縦に釉薬を走らせる。そして左に持つ大皿を手の平でひょいひょいと90度回転させるやいなや、再び釉薬を縦に無為に走らせる。すると大皿に十字にしたたる線が描きあがる。これを焼き上げると、躍動的で面白みある表情が出る。これが流し掛けだ。この潔く堂々とした方法こそ濱田そのものだと私は感じる。そしてまた、一見、無造作に流し掛けた線であっても、それがきちんと濱田庄司という人間の器にかなった線が出る。そこが芸術の面白いところだ。

ちなみに流し掛けを巡って、濱田は「一瞬プラス六十年」というエピソードを書き残している。ある訪問客が、これだけの大皿に対して、たった15秒ほどの模様づけではあまりに速すぎて物足りないのではないかとたずねたそうだ。そのときの濱田の返答───

「これは15秒プラス60年と見たらどうか」。

……60年とは言うまでもなく、濱田が土と戦ってきた歳月の長さだ。

方法やプロセスはその人そのものを写す。方法やプロセスにかけた厚みこそ、その人の厚みになる。だから、私たちは安易に教わりすぎてはいけないのだ。



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