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サラリーマンの「鈍化病」

3.6.6



「貧すれば鈍する」と昔から言うが、サラリーマンにおいて、「安すれば鈍する」ことが起きると私は観察している。

つまり、安心・安穏とした守られた状態に身を置き続けるうちに、働く意識がいろいろと鈍ってくるという症状だ。私はこれを「サラリーマンの鈍化病」と呼んでいる。「キャリアの平和ボケ」といっていいかもしれない。

私が指摘する「3つの鈍化」とは、
1)変化に鈍くなる
2)超えることに鈍くなる
3)リスクを取ることに鈍くなる  である。


◆鈍化病1【変化に鈍くなる】 “ゆでガエル”の話

生きたカエルを熱いお湯の入った器に入れると、
当然、カエルはびっくりして器から飛び出てくる。
ところが今度は、最初から器に水とカエルを一緒に入れておき、
その器をゆっくりゆっくり底から熱していく。
・・・すると不思議なことに、カエルは器から出ることなく、
やがてお湯と一緒にゆだって死んでしまう。


この話は、人は急激な変化に対しては、びっくりして何か反応しようとするが、長い時間をかけてゆっくりやってくる変化に対しては鈍感になり、やがてその変化の中で押し流され、埋没していくという教訓である。

窓際族とかリストラ組とか、それは嫌な言葉ではある。私はいま、企業(雇用組織)とも、そこで働く従業員ともニュートラルな立場で物事が見られる立場だが、窓際やリストラを生む原因は、会社にもあるし、働く個人側にもある。

この手の問題の解決は、根本的には、働く個人が働く意識を常に鋭敏にさせて、自己防衛・自己発展させていくしかないと思っている。だから、私は「サラリーマンよ、ニブ(鈍)リーマンになるな。環境の変化を感じつつ、変えない自分の軸を持って、自分を変えていけ。そして会社が留めておきたくなる人財になれ」と勇気づけるしかない。

ゆでガエルは、保守・安穏・怠惰・安住の行く末の象徴として肝に銘じておきたい話である



◆鈍化病2【超えることに鈍くなる】 “ノミの天井”の話

ノミの体長はわずか数ミリだが、体長の何十倍もの高さを跳ぶことができる。
ビーカーにノミを入れておくと、当初、
ほとんどはビーカーの口から元気よく跳び出ていってしまう。
しかし、ビーカーにガラス板でふたをしておくとどうなるか。
ノミは何度もガラスの天井板にぶつかって落ちてくる。
これをしばらく続けた後、ガラス板をはずしてみる。
すると、ノミは天井だった高さ以上に跳ばなくなっており、
ビーカーの外に跳び出ることはない。


確かに組織にはガラスの天井がさまざまな形で存在する。暗黙の制度であったり、経営幹部や上司の頭ごなしの圧力であったり、あるいは(これが最も怖いのだが)自分自身で限界を設ける姿勢であったり。

サラリーマンは、結局のところ、自分の時間と労力をサラリーに換えている職業であり、組織から言われた範囲で失敗なくやっていれば、給料は安定的にもらえる(ことに慣らされる)。だから自分を超える、枠を超える、多数決を超えることをしなくなる。

「なぜ、超えることをしないのか?」と問えば、「組織がこうだから」「上司がこうだから」など批判や愚痴まじりに自己を正当化することもしばしば。これがまさに鈍化病の症状である。

ちなみに、上のノミの天井話には続編がある。いっこうにビーカーの口から出なくなったノミたちを再び外に跳び出るような状態に戻すにはどうすればよいか?

―――普通どおり跳べるノミを1匹そのビーカーに混ぜてやる。
(ナルホド!)

なお、ゆでガエルとノミの天井の話は、ビジネス訓話としてよく用いられるものだが、科学的に根拠があるかは定かではない。


◆鈍化病3【リスクを取ることに鈍くなる】 “落とした鍵”の話

ある夜遅くに、家に帰る途中の男が、
街灯の下で四つんばいになっているナスルディンに出くわした。
「何か探し物ですか?」と男が尋ねたところ
「家の鍵を探しているんです」とナスルディンが答えた。
一緒に探しましょうということで、二人が四つんばいで探すのだが、見つからない。
そこで、男は再び尋ねる。
「ナスルディン、鍵を落とした正確な場所がわかりますか?」
ナスルディンは、後ろの暗い道を指し示した。
「向こうです。私の家の中」。
「じゃあ一体なんでこんなところで探しているんです?」
と男は信じられないといった口調で尋ねた。
「だって、家の中よりここのほうが明るいじゃありませんか」。

            ―――(『人を動かす50の物語』M.パーキン著より抜粋)



ナスルディンはなんともトンチンカンな人間のように思える。しかし、これはサラリーマンのひとつの姿をよく表している。

自分が求める解は、たぶん向こうの「暗い・未知の・想定外の展開を覚悟しなければならない・リスクのある所」にあるかもしれない―――こう思いつつも、サラリーマン組織にいると、「適当に見えている範囲で・既知の・想定の範囲内で済む(予定調和の)・リスクのない所」で、仕事をやろう(やり過ごそう)とする。

サラリーマン鈍化病の3つめは「リスクテイクして何かをつかみ取る」ことをしなくなることだ。

その暗い未知のゾーンで、もがけば何かつかめるかもしれないことはわかっていても、混乱や葛藤や迷路を背負い込みたくない。傷つくことの怖さ、見えないことの不安、もがくことの煩わしさ、やっても所詮ムダという冷めた達観、などがあるのだろう。

そのくせ、酒の場では、「ここは俺のいる場所じゃない!」と見得を切ったりもする。しかし、翌日には、また、街灯の下で鍵を探す(探すふりをして忙しく振舞う)……。

何事も見えている範囲で、リスクを負わず、
組織が求める想定内の結果を出すことで、
身を忙しくし、仕事をやっている気になる。
しかし、永遠に真に自分が求めているものを見出すことはない。
・・・それでも、給料は毎月きちんと振り込まれ、生活は回っていく。
だから、余計にサラリーマンはリスクを取らなくなる・・・。(沈黙)


* * * * *

【後記】
少しサラリーマン業を揶揄しすぎかもしれませんが、サラリーマンのみなさんの奮起を願うところです。私自身、脱サラで個人自営業として独立してはっきりわかったのですが、会社員として安定的に雇用されながら、組織の信用を使い、組織の技術やカネで、自分のしたいことをする、それがこの世で最も幸せな働き人ではないでしょうか。ただ、現実そうできる人はごく限られています。

おおかたは、「仕事量はキツイし、ストレスも溜まるから、抜くところは抜いて“鈍”になってなきゃ、やってられないよ」というのが正直なところかもしれません。しかし、私が本記事で伝えたいのは、そうやって“鈍”でだましだまし長いキャリアを送っていくのが、自分の生き方として納得がいくのか、美しいと思うのか、そこをぐっと自問してみてください、ということです。


人は「無視・賞賛・非難」の3段階で試される

5.1.5



「毀誉褒貶」(きよほうへん)という言葉がある。「ほめたり、けなしたりすること」の意味だ。私がかつて勤めたメディアの世界はまさに毀誉褒貶の世界である。

メディアは常に自分たちの関心を集める事件やキャラクターを欲している。政治家にしろ、芸能人、文化人、スポーツ選手にしろ、ヒーローやスター、アイドル、ヒール(悪役)を何かしら生み続け、そして同時に、消費し続ける。メディアが煽(あお)るから大衆心理が騒ぐのか、大衆心理が煽るからメディアが騒ぐのか。たぶんその両輪だが、いずれにせよ時代から毀誉褒貶はなくならない。

一般人である私たち一人一人も、長い人生途上にあって、メディアに騒がれるかどうかは別にして、ときに周囲からちやほやされ、実力以上に持ち上げられるときがある。また同時に、少し頭角を現すや否や、周囲の嫉妬などによってつぶされそうになるときがある。
そんなとき、私たちが留意しておきたい大事なことをプロ野球選手・監督して活躍された野村克也さんは、こう表現している。

「人間は、“無視・賞賛・非難”という段階で試されている」。

                                                                    (『野村の流儀』より)



◆段階1:「無視」によって試される
誰しも無視されることは辛いものだ。自分なりに一生懸命やっても、誰も振り向いてくれない、誰も関心を持ってくれない、話題にも上らない、評価もされない。組織の中の一歯車として働いていると、こうした感覚をよく覚える。

またプライベート生活でも、個人でブログやツイッターを開設し、自分の意見や作品をネット発信して叫ぶのだけれど、まったく反応が来ない。あるいは、就職活動中の学生が、志望企業にエントリーをしてもしても、応募は空を切るばかりで、自分という存在が何十回も否定される。これらはすべて、「無視」という試練にさらされている状況だ。

「無視」という名の試練は本人の何を試しているかといえば、それは「負けじ根性」だ。

偉大すぎる芸術家などは、その作品があまりに万人の理解を超えているので、ときに本人の生きている間には誰もが評価できない場合が起こりえるが、一般人の場合であれば、たいてい自分の身の周りには目利きの人が多少いるものだ。
だから、もし「無視」によって、自分にやる気が起こらないという状況にあれば、そのときの答えは、負けじ根性を出して「人を振り向かせてやる!」という奮起である。その心持ちをしぶとく持ってやっていれば、ひょんなところから理解者、評価者は現れてくるものである。


◆段階2:「賞賛」によって試される
いまはネットでの情報発信、情報交換が発達している時代なので、仕事の世界でも、趣味の世界でも、「シンデレラボーイ/ガール」があちこちに誕生する。
ネットの口コミで話題になったラーメン屋が一躍「時の店」になることは珍しくないし、『You Tube』でネタ芸を披露した人(ペット動物さえも)が、1週間後にはテレビに出演し、人生のコースが大きく変わることはよくある話である。人生のいろいろな場面で、こうした「賞賛」という名の“持ち上げ”が起こる。

「賞賛」は、受けないよりは受けたほうがいいに決まっているが、これもひとつの試練である。「賞賛」によって、人は「謙虚さ」を試される。

芸能人ではよく目にすることだが、賞賛によってテング(天狗)になってしまい、その後人生を持ち崩してしまう人がいる。賞賛は、わがままを引き出し、高慢さを増長させるはたらきがあるからだ。

このことを古くから仏法では「八風におかされるな」と教えてきた。「八風」とは、仏道修行を妨げる8つの要素で、「利・誉・称・楽・衰・毀・譏・苦」を言う。このうち前半4つは「四順(しじゅん)」と呼ばれ、

利い(うるおい):目先の利益
誉れ(ほまれ):名誉をうける
称え(たたえ):称賛される
楽しみ(たのしみ):様々な楽しみ


で、どちらかというとポジティブな要素である。まさに称賛という試しは、この四順の中にある。ちなみに後半の4つは「四違(しい)」と呼ばれ、

衰え(おとろえ):肉体的な衰え、金銭・物の損失
毀れ(やぶれ):不名誉を受ける
譏り(そしり):中傷される
苦しみ(くるしみ):様々な苦しみ


といったネガティブな要素になる。これらは次の試しの段階にかかってくる。


◆段階3:「非難」によって試される
野村さんが3番目にあげる試練は「非難」である。その人のやっていることが大きくなればなるほど、妬む人間が増えたり、脅威を感じる人間が増えたりして、いろいろなところから非難や中傷、批判、謀略が降りかかってくる。野村さんは

「賞賛されている間はプロじゃない。
周りから非難ごうごう浴びるようになってこそプロだ」 と言う。

自分を落としにかかる力を撥ね除けて、しぶとく高さを維持できるか、ここが一流になれるか否かの重大な分岐点となる。この分岐点は、いわば篩(ふるい)と言ってもいいものである。この篩は、その人の技量や才覚について一流か否かの選別を行うのではなく、その人が抱く信念の強さについての選別を行う。結局、自分のやっていることに「覚悟」のある人が、非難に負けない人である。

芸術家として思想家として政治家として、生涯、数多くの非難中傷を受けたゲーテは書く(『ゲーテ格言集』高橋健二訳より)―――

「批評に対して自分を防衛することはできない。
これを物ともせずに行動すべきである。
そうすれば、次第に批評も気にならなくなる」。


以上、「無視・賞賛・非難」という3つの段階で試されることを図にしてみた。

51501



◆毀誉褒貶を乗り越えて
さて、さらに発展して考えると、歴史上の偉人たちはもうひとつ4段階目のプロセスを経ているように思える。つまり、下図に示したように、さらなる困難や妨害といった強力な下向きの力を受けながらも、しかし、同時に、それを凌駕する上向きの力を得ながら高みに上がっていく、それが偉大な人の生きざまであろう。

このとき受ける上向きの力は、2段階目のときの「持ち上げ」とはまったく異なり、これは共鳴や同志という名の堅固なエネルギーの力である。偉大な仕事には、必ずそれを支える偉大な共鳴者や同志の力があったはずである。

51502


私は4段階目にあって大きなことを成し遂げようとする人の姿を、広野に一本立つ大樹のイメージでとらえる。

その大樹は、高く立っているがゆえに、かつ、枝葉を大きく広げているがゆえに風の抵抗をいっそう強く受ける。しかしその大樹は、人びとの目印となり、勇気づけとなり、暑い夏の日には広い木陰を与え、冷たい冬の雨の日には雨をしのぐ場所を与えてくれる。そしていつごろからか、そこにつながる蹊(こみち)もできる。春や秋には、樹の下で唄や踊りもはじまる。

もはや、その大樹にとって、世間の毀誉褒貶はどうでもいいことになる。




「人生行き当たりばっ旅」理論

1.6.2


「キャリアは予測できるものだという迷信に苦しむ人は少なくありません。“唯一無二の正しい仕事”を見つけなくてはならないと考え、それをあらかじめ知る術があるはずだと考えるから、先が見えないことへの不安にうちのめされてしまうのです」。

                ―――ジョン・クランボルツ、アル・レヴィン『その幸運は偶然ではないんです!』



◆人生・キャリアは偶発とともにある
私はキャリア開発研修を生業としてやっている身だが、キャリアや人生を計画的にきちんとやるべきだ、などとは言わない。むしろその逆である。キャリア・人生は、ある意味、“行き当たりばっ旅”でいいと言っている。

それを理論化した教授がいる。偶発性をキャリア形成と結び付け、論を展開したのが、米スタンフォード大学のジョン・クランボルツ教授である。彼は偶発の出来事こそキャリア形成に重要な影響を与えていることを発見し、「プランド・ハプンスタンス理論」(Planned Happenstance Theory:計画された偶発性理論)を世に提唱した。

つまり、キャリアはすべて自分の意のまま、計画どおりにつくれるものではなく、人生のなかで偶然に起こる予期せぬさまざまな出来事によって決定されている事実がある。むしろ大事なことは、その偶発的な出来事を、主体性や努力によって最大限に活用し、チャンスに変えること。また、偶発的な出来事を意図的に生み出すよう積極的に行動することだと、教授は説いている。
そのために、各人は好奇心、持続性、柔軟性、楽観性、冒険心を持つことが大切だと言う。


◆「10年後のあなたはどうなっていたいですか?」
人事の世界では社員面談における古典的な質問がある───「10年後のあなたはどうなっていたいですか?」。そしてそこまでのキャリアプランを立てましょうと。

社員を管理する立場としてはそうした質問をしたくなる気持ちはわかる。しかし、本人の働く意識を呼び起こし、行動を変えるという観点からは、あまり有益な問いではない。何事も計画的に成果を狙って進めていくべき、というのは事業利益管理の思想であって、生ものの人や人生に押しつけるには限界がある。

どれだけていねいに5年後・10年後のキャリア設計図を練ってみたところで、どれだけ精緻な自己の適正診断をしたところで、すんなりそのとおりに事は動かない。状況は刻々と移り変わり、想定外の方向に動いていくことは普通に起こる。そうしたなかでも、自分の望みの仕事に出合い、満足のいく職業人生を送っていくためには、10年後のキャリア計画を紙に書くこととはまったく別の力が必要になってくるのだ。

人生とは奥深きかな、初速度と打ち出し角度の数値さえ与えれば、着地場所と着地時間が確実に算出できる物理運動とは違う。仮に、すべてのことが想定どおりにいったとして、「そんな想定の範囲内」の人生などどこが面白か、である。


◆プロの将棋士が読むのはせいぜい10手先
ところで、将棋のプロたちは、いったい何手先の局面までを読んで対戦しているのだろうか。将棋界で驚異的な強さを誇る羽生義治さんによれば、おおよそ10手先くらいということだ。素人からすれば意外と少ないと感じるが、彼はこう言っている───

「あるところまでは決まった航路(定跡)があって行けることもあります。しかし、そこから先は未知の海なのですね。理想は航路が一本の線になることですが、実際には、どんな波が来るかわからないのです。
そこで、しばらくは北に行ってみようかと。方向を決めて進んでも、また違う波が押し寄せてきます。今度はどうしようか?それで今度は西に針路をとってみようかと。そういう感じでやっています」。  (『定跡からビジョンへ』より)



時間をかけて何百手先まで読むことは実戦的ではないらしい。それよりも、やってきた流れのなかで一番自然な手は何かを考えることに集中する。1つの局面ではおおよそ100通りほどの差し手の可能性があるが、自分の頭のなかの自然な流れを考えると、2、3通りの手が直感的に浮かび上がってきて、残り90%以上の手は捨ててしまえるのだという。そして、そうこうしているうちに、「これはこうなって、最後はこういう形で終わるのだ」と、ぱっと道筋がわかるときがくる。勝つときはそういうものらしいのだ。


キャリアを計画すること、適正を分析することが無意味だと言っているのではない。ゆらぎながら、もがきながら状況をつくり出していく、そうしたたくましさこそ、机上の設計や自己分析よりもはるかに大事だといいたい。

人生の選択にあらかじめの正解値などない。
その後の奮闘でそれを「正解」にできるかどうかだ。




<Keep in Mind>
計画や分析より、状況をつくるたくましさを持て









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