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ゆらぎと偶発のなかでのキャリア形成

1.6.1



◆キャリアは「ゆらぎ」の軌跡
イギリスの植物学者ブラウンは、1827年、思いがけないことを発見した。水に浮かべた花粉は、しばらくすると水を吸って破裂する。花粉のなかから飛び出した微粒子を顕微鏡で観察すると、いつまでも不規則でジグザグした乱雑な動きを続けたのである。この動きが世に言う「ブラウン運動」である。
この動きは、微粒子を取り巻く他の粒子がさまざまな方向から、さまざまな速さで微粒子に衝突するために起こることが後に解明された。

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さて、この原理は、まさに私たち一人一人の仕事人生にも当てはまるように思える。

つまり、私たち一個の職業人という粒は、外側から日々刻々、仕事の選択、人生の選択に影響を及ぼす実にさまざまな力を受けている。やれ能力がどうだ、やれ人間関係がどうだ、経済(家計)状態がどうだ、あっちでトラブルが起こった、こっちで転職情報に遭遇したなど、四方八方から押しの力、引きの力、勇気づけの力、幻惑の力がかかってくる。そして、そんな外部の力によって、自分内部の気持ちや志向、意欲もどんどん変化してくる。

そのように私たちは、複雑に交錯する力学の中で、日々ゆらぎながら、内と外で押し合いへし合いしながら、何かの選択をし(選択させられ)、仕事人生を進めていく。その歩んだ軌跡を一般にキャリアと呼ぶわけだが、その軌跡はまさに「ブラウン運動」とも言うべき、不規則で乱雑な動きをみせるのだ。

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◆意志は漂流を防ぐ船のエンジン
ブラウン運動する粒子は、外部からの無数の粒子の衝突によって動くため、次にどんな動きをするかは予想できない。それはただ乱雑な運動を続けるだけだ。これと同じように、私たちも、雑多な外からの力に翻弄されて、行方知れずのキャリアになってしまう危険性が常にある。

しかし、私たちは、花粉の微粒子とは決定的に異なっている点がある。
───それは内面からの力、すなわち「意志」を持っていることだ。

だから、もし一職業人として、何かしらの意志や目標があれば、多少はゆらぎつつも、中長期ではある範囲のどこかに自分をたどり着かせることができる。言ってみれば、推進力をもたない単なるゴムボートは海で漂流するだけになるが、もしエンジンを積んだボートであれば、波風、潮の影響を受けつつも、意図する方向へ何とか進んでいける。

人生には、予想できない出来事、不規則で乱雑な力がさまざま身に降りかかってくる。それはもう当然のこととして受け入れねばならない。大事なことは、そうした外部からの力を凌駕する、あるいはまた、それを逆に利用する意志の力を湧き起こすことだ。そうした内面からの推進力は、キャリアの漂流を防ぐだけでなく、乱雑、不測の状態を楽しむことも可能にしてくれる。


◆楕円球が生む偶発がラグビーを面白くする
ラグビーが球技の中でいっそうハラハラするのはなぜだろう。それはあの楕円球のせいではないか。高く蹴り上げられたボール、それは地面に落ちたときの予測がきかない。これこそがゲームをドラマチックに演出している偶発の作用である。

不規則な変化をする楕円のボールを巡って、刻々と変化するゲーム状況に、1人1人のプレーヤーが瞬時に判断をし、プレーをする。あるポジションにボールが転がったとき、その状況から瞬間的にいくつもの選択肢を思い浮かべねばならない。そしてそのなかから1つの選択肢を決定して正確にプレーに移す。すると次の状況が生まれる。そこでまた、瞬間的に自分が行わねばならない選択肢を思い浮かべ、プレーに移す。ボールに触れていようがいまいが、フィールドのなかの15人のプレーヤーたちはこれを80分間繰り返し、勝つ流れを形成しようとするわけである。

ラグビーでいう強いチームというのは、結局、偶発に振り回される幅をどんどん小さくしていき、自分たちの意図の下に局面を組み立てることのできるチームといえるのではないだろうか。偶発的に転がる楕円球の方向は100%コントロールできないが、偶発がどちらに起こったとしても、自分の強みとする型にもっていて、最終的には勝利を勝ち取るゲーム、それがラグビーだ。


◆キャリアを拓く力=状況をつくる力
ラグビー元日本代表監督の平尾誠二さんと編集工学研究所所長の松岡正剛さんの対談本『イメージとマネージ』(集英社文庫版)の「あとがき」部分で、平尾さんが現代ラグビーについて興味深く語っている。それを要約すると───

①ラグビーではゲームの流れの中で「マルチ・ファセット」(多様なる局面)をできるかぎり同時に思考していかなければならない。

②ラグビーは「コンテスト」(競い合う)のスポーツから、「コンテュニティ」(継続させる)のスポーツへと変貌があり、また、「コンテスト」から「コンテキスト」(文脈をつくる)へと変貌を遂げようとしている。

③日本が国際舞台でゲームをしていくには、ゲームのコンセプトをあらかじめ提示して、そのアイデンティティをつくりつつ、多様な変化の局面に対応していく実力をつけなくてはならない。



……これはまさにキャリア形成にも同じことが当てはまる。自己の仕事能力を開き、職業の可能性を開いて、たくましくキャリアを拓くとは、ラグビーと同じく、

自分の意志(=コンセプト)を持って、
どう跳ねるか予測しがたい楕円のボールを追いながら、
多数の選択肢の中から判断をし、最適の手を打っていく、
その絶え間ない状況創出に力を尽くす

ことにほかならない。キャリアを拓いていくには、確かに技能や知識は重要な部分を占めるが、それはラグビーで言えばパスがうまい、キックが正確、足が速いということだ。それらはゲームに勝つための手段ではあるが、勝つこととイコールではない。それらの能力をフルに活用して、多様な局面に対応し、状況をつくりだす延長線上にこそ勝利はやって来る。

「自分は十全に働ききったなと思える人生を送ること」がキャリア上の勝利だとすれば、それを得るために必要なものは、刻々と変化して身に降りかかってくる状況に技能や知識を総動員して対応し、みずからの意志の下に状況をつくりだす力である。

そして、他人のキャリアと自分のを見比べて「勝ち組/負け組」を判定するような比較相対の目線ではなく、いかに仕事を通じて健やかに自己を発展し続けられるかという内省の目線も必要になってくる(平尾さんの言葉でいう「コンテスト」から「コンテュニティ」への移行だ)。

自分らしく楕円のボールと葛藤して、おおいにもがいていく。そして、もがいて、状況をつくり出した先が自分の居場所であり、愛すべき自分のキャリアになるのだ。


◆人間は偶発や失望を必然や希望に変換することができる
偶発に身をゆだねながら、それでも偶発に翻弄されない。そして最後には自分の意図する形に持っていく。これは、その道の達人のみが可能な仕業だろうか───私はそうは思わない。

普通のビジネスパーソンが、きちんと能力を磨いて、きちんと自分の意志を持つ。それを不断に続けていけば、途中段階では意図しないあるいは望まない結果になることがあるかもしれないが、中長期では自分の思う方向へ、思う形へ収束していくものである。

紆余曲折を経て、ある地点にたどり着いたとき、来し方を振り返ってみると、「ああ、あのときの失敗はこういう意味があったのか」、「あのときの出来事は起こるべくして起こったのだ」などという思いにふけるときがある。それはつまり、自分が偶発を必然に変えることができたということでもある。

哲学者の三木清は「人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である」(『人生論ノート』)と書いた。そして、「生きることは“形成”すること」であるがゆえに、人間は偶発や失望を、必然や希望に変換することができると言った。

私たちは、確かに一個の小さい存在で、ゆらぎながら、日々偶発と格闘してブラウン運動する粒である。しかし、最後にもう一度確認したいこと───

私たちは意志という力を内面に持っている一点において、花粉の微粒子とは決定的に異なっている。



「七放五落十二達」の法則~試す勇気と状況をつくりだす力

3.6.4



◆人はリスクと引き換えに何かを得る
リスクに対する「危機」という訳語は実に奥深いものだ。そこには、危険(デンジャー)と機会(チャンス)が同居している。

飛行機が飛ぼうとするとき、抵抗する風を浮揚力に変え、機体は地を離れる。サーファーにとって荒ぶる高波は命を奪いかねないものだが、いったんその波を捕まえるや、このうえなく爽快な瞬間を獲得することができる。考えてみれば、人はリスクをコントロールし、リスクと引き換えに何かを成し遂げるものである。

仕事やキャリアにおいても、ひとたび何か試してみよう、変化を仕掛けてみようとすれば、リスクが伴う。リスクとは、事態が悪化したり不安定になったりする可能性、体力や経済力を失う可能性、信用を落とす可能性、周囲から非難される可能性などだ。

これらリスクを挙げていけばきりがないが、リスクも考えようだ。平成ニッポンにおいての仕事上のリスクである。命を取られるわけでも、収入がゼロになるわけでもない。自分が決めた建設的な目的を持って、変化を仕掛けて、可能性を試す。そこでたとえ失敗したとしても、何か取り返しのつかない惨劇が待っているだろうか。おそらく、そこで得られる心境は、「これで、またひとつ状況が進んだぞ。得たものは大きい」―――ではないだろうか。目的に向かう意志の下では、自分を試すことに失敗はないのだ。

発明王エジソンは、1万回実験に失敗しても、「私は1万通りのうまくいかない方法を発見したのだ」と言った。

また、米国の人気経営コンサルタント、トム・ピーターズは、「Ready-Fire-Aim」ドクトリンを提唱している。それはつまり、

    「構え・狙え・撃て!」―――ではない。
    「構え・撃て!狙え!」―――である。

ともかく「撃て!」と。撃った後に狙えばいいのだと。彼はこうも加える。

    「ころべ、まえに、はやく」。

ともかく、自分の望む道をつかむためには、行動と修正、そしてまた行動と修正の繰り返ししかないのだ。


◆7で放ち、5まで落ちて、12に上がる
この複雑な社会、複雑な人生において、どんな行動プランであれ、10割読み切るということは不可能である。たとえ読んだとしても、世の中がそのプランどおりに展開してくれる保証はどこにもない。

だから、7割レベルまで状況が読めるなら、サイを投げよ!

私はこれを「七放」(しちほう)と名づけている。ただ、「七で放った」後、そこからは、混乱、困惑、不測の出来事のオンパレードである。未知の連続に、「こんなはずじゃなかった!」という場面も多々出現してくる。自分が描いていたプランのそこかしこにひび割れが生じ、あるいは崩れ落ち、変色し、縮小していくだろう。そうして当初掲げていたプランは5割レベルまで落ち込む状況になる。

―――これが「五落」(ごらく)である。

ただし、これは落ち込んだように見えるだけだ。「五落」という背丈まで生い茂る草むらのなか、素手で草を掻き分け、投げ倒し、道を探っていく。どれほどの長さかわからないが、そうした混沌をくぐり、修羅場をくぐると、やがて広い丘に出る。

その丘には、さわやかな風が吹いていて、ふと足元を見ると花も咲いている。そんな足元の花に気づくくらいに心に余裕ができたとき、振り返ってみてほしい。おそらく事を起こす前までの自分を、冷静に眼下に見下ろせるはずである。

その到達した丘は、当初自分が計画した以上の高みになっていることが多く、12割レベルというのが実感値となる。―――それが「十二達」(じゅうにたつ)ともいうべき境地である。


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◆過去のことがすべてつながる「十二達の丘」
満足のいく仕事人生を築いていくにはさまざまな能力が必要だが、私はそのなかで最も重要なものは「自分を試す勇気」と「状況をつくりだす力」ではないかと思っている。

行動で仕掛ければ仕掛けるほど、自分の視界はどんどん開けてくる。Aという山を目指していたが、状況をつくりだすうちにBの山にたどり着くこともあるかもしれない。だが、そのときあなたはBの山頂に立ってこう思うだろう―――「あぁ、Bの山こそ自分の山だったのかもしれない。いい山だ」と。そして遠く向こうに見えるAの山頂をなつかしく眺めるだろう。

仕事の成就やキャリアの進路に唯一無二の正解はない。人はゆらぎながら成長していく動物である。ひとたび何か事を起こすと、自分を取り巻くいろいろな条件、制約、都合などが複雑な力学を伴って、自分に向かってくる。その状況のなかでもがきながら、キャリアの道筋はつくられ、選択肢が固まってくる。

動けば動くだけ新しい不安も起こってくるが、「何かが見えつつある」という確かな実感が、そのもがきプロセスを楽しいものにする。座して何もせずにいる不安のほうが、はるかに不健全な不安だ。

リスクを怖がらずに仕掛け、不測の状況と葛藤して、自分がほんとうに納得できる居場所を見つけられたなら、それこそが「キャリアの勝利」というものである。


◆ゼロをイチにさえすれば、やがて百にも千にも道が広がる
勇気と夢を持って自分試しを敢行した人たちの経験によると、「十二達」の丘に到達したとき、過去のことがすべて必然性を持ってつながると言う。過去に何気ないところで得ていた技術や知識、人脈、そして雑多な経験や失敗などが、あたかも、いま進んでいる道を行くためにあったのかと思えるのだ。

    「先が読めないから行動できない」というのは言い訳にすぎない。
    まずは行動してみないから、先が見えてこないだけの話である。

ヒルティは『幸福論』で次のように書いている。

「まず何よりも肝心なのは、思い切ってやり始めることである。
仕事の机にすわって、心を仕事に向けるという決心が、結局一番むずかしいことなのだ。
一度ペンをとって最初の一線を引くか、あるいは鍬を握って一打ちするかすれば、
それでもう事柄はずっと容易になっているのである。
……だから、大切なのは、事をのばさないこと」。



同様に、ノーベル化学賞受賞の福井謙一博士は、『哲学の創造』の中で、まったく新しい学問というのは、論理によらない直観的選択から始まる場合が多い。だから着想を持ったら、ともかく荒っぽくてもいいから実験を始めること。そうすれば試行錯誤の中で正しい結論が裏付けられていくと語っている。

何かの状況を前に、グズグズ、ウジウジ躊躇して、「ああなったらどうしよう、こうなったらどうしよう」と悩んでいる状態は気持ちが悪い。どうせ悩むんだったら、何か事を行って、その展開のうえでどうしようかと悩むほうが、悩みがいもあるし、第一気持ちがすっきりする。

本田宗一郎は―――「やりもせんに」と言った。
鳥井信治郎は―――「やってみなはれ」と言った。
そして、ナイキのブランドメッセージは―――Just Do It





〈Keep in Mind〉
サイを投げよ! すると腹が据わる。先が見えてくる。



「3つの自」 ~自立・自律・自導 

3.1.2


人生・キャリアを航海に喩えるとするなら、
あなたの船はどんな船だろうか?
(非力なゴムボートだろうか、それとも強力なエンジン付きの鋼鉄船だろうか)
ぶれないコンパス(羅針盤)を持っているだろうか?
地図を持ち、そこには目的地が描かれているだろうか?



◆3つの自~働く意識の成長フェーズ
「自立」と「自律」については、「自立と自律の違いを考える(3.1.1)」で詳しく触れた。私はその2つに「自導」を加え、働く意識の3つの成長フェーズとしている。では、それらを概括してみてみよう。

〈1〉「自立」フェーズ
まず、自らを職業人として「立たせる」段階。
知識や技能、人脈を得、独り立ちして業務が処理できるようになる。
そして自分の稼ぎで生計を立てられるようになるというのがこのフェーズである。
このときに養うのはともかく働く主体となるべき基本的能力である。
自分が何の能力を身につけたか/身につけていないか(have or have not)が
中心課題となる。
このフェーズの基本動詞は、能力を「持つ」、生活を「保つ」である。
反意語は「依存」。

〈2〉「自律」フェーズ
次は、自分なりの律を持って、自分を「方向づけ」できる段階。
律とは、倫理・道徳観、信条・哲学、美学・型(スタイル)のようなもので、
それをしっかり醸成することで、仕事に独自の判断や個性を与えられるようになる。
養うべきは、どんな状況に置かれても、沈着冷静に正気を失わず、
物事の善い/悪い(right or wrong)を判別して選択する主観である。
基本動詞は、「決める」「動く」。
反意語は「他律」。

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〈3〉「自導」フェーズ
最後は、目的を設定し、その成就に向けて自らを「導く」ことのできる段階である。
なお、目的とは「成すべき状態や理想像+それを目指す意味」のことで、
端的に表すと想いとか夢/志、使命、大義など、
中長期の職業人生にわたる「大いなる目的」をいう。
このフェーズの特徴は、大いなる目的を覚知したもう1人の自分がいて、
それが現実の自分を導くという構図である。
必要なのは、「大いなる目的」に向かう「勇気」であり「覚悟」。
このフェーズで関心となるのは、
それは意味があるか/ないか(meaningful or meaningless)。
基本動詞は、「描く」「リスクを負って踏み出す」「拓く」。
反意語は「漂流・停滞」となる。

なお、自律と自導はどちらも方向性に関するもので、その点では共通するところがあり、相互に影響しあってもいる。自律はどちらかというと、直面している状況に対し、自分の律でどの方向に決めるかという現実思考である一方、自導は将来の目的から逆算して、自分をどこに導いていくかという未来志向のものになる。また、自律的であるためには冷静さが求められるのに対し、自導的であるには、抗し難く湧き起こってくる“内なる声”、“心の叫び”が必要であり、その意味では熱さを帯びるという性質のものである。

また、航海のアナロジーを用いるとすれば「3つの自」は次のように考えることができる。

・自立=「船」;知識・能力を存分につけて自分を性能のいい船にする
・自律=「コンパス」;どんな状況でも、自らの判断を下せる羅針盤を持つ
・自導=「(目的地を描いた)地図」;自分はどこに向かうかを腹決めする




*   * * * * * * *
【研修現場からの気づき】

◆「自律的」止まりでは不十分である!
昨今、企業が掲げる人材育成の方向性として、「自律的なキャリア形成意識を育む」「自律的に仕事をつくり出せる人材を育てる」といった流れが大きい。確かに、「自律性」を育むことはとても重要だし、それを遂行することもかなり難度が高い。しかし本当を言えば、「自律的」止まりでは不十分なのである。

企業の研修の現場に立つと(とくに大企業の場合はそうだが)、5年目以上の社員の中には、自律心がある程度確立されていて、自律的にちゃんと働ける人が少なからず見受けられる。彼らは、自らの判断基準で状況を判断し、主体的に行動を起こすことができる。上司に対しても、組織に対しても意見を言うことができるし、担当仕事の目標設定や納期、品質もきちんと自己管理ができる。すでに部下を持って、彼らを動かしたり後輩の面倒をみたりするなど、協働意識も強い。

しかし、彼らは漠然とした不安にかられていることが多い。なぜなら、中長期の自分をどこへ導いていっていいか分からないからだ。ともかく仕事はきちんとこなしていくものの、さりとて腹の底から出てくる叫びを呼び起こすこともできず、夢や志、ライフワーク的なものを抱くこともできず、やりがいに満ちている状態ではないのである。

つまり、
自分という船をしっかり造って(=自立ができ)、
羅針盤もきちんと持っているが(=自律もできているが)、
さて、自分という船をどこに導いていっていいのかが分からない、見えない。
地図上には目的地が入っておらず、
ある種の漂流感や停滞感に包まれているのだ(=自導でない)。

そんなときに、たまたまの人事異動やネガティブな出来事などに遭遇し、ストレスが過剰にかかったりすると、心身を病むケースがいろいろと出てくる。真面目で自立・自律的に仕事ができる人ほど、何かで調子が狂ったときに弱いものである。

30代後半以降、ほんとうに大事になるのは「自導」である。ひとたび、キャリア上の「大いなる目的」を持ち、そこに自分をたくましく導いていく状態ができれば、自分の内に湧いてくるエネルギーは相当に力強いもので、多少のストレスはものともしなくなる。また、その目的地に合わせて、船体はこれで大丈夫かとか、もっと精度のいいコンパスを持ったほうがいいぞとか、自立や自律を補強する意識も生まれてくる。

結局、自導的でない人は、真の活気が湧いてこない、働く発露がない、漂流感がいつまでもつきまとう。逆に自導的な人は、状況がどうであれ喜びを持つ。しんどくても快活になれる。迷いがない。自導できるか否かは、何十年と続くキャリアにおいて重要な分岐点となる。


◆たくましきキャリア形成の要は「空想力」
「自導」フェーズに自分をもっていくために不可欠なことは、「己を空想(妄想でもいい)すること」である。その空想が、現実の自分をいかようにでも引っ張り上げてくれる。その空想を実現しようとするとき、既得の知識・技能の再構築が起こり、新規の知識・技能の獲得に向けてもりもりと意欲が湧き起こる。

たとえば私自身、この人財教育分野の仕事は新参者である。私のコアスキルは何かと問われれば、それまでの仕事経験から、マーケティングや情報の編集といった分野だった。しかし、教育分野で独立しようと腹を括った瞬間から、すべてが変わった。

過去に培った知識・技能は、教育の角度で再構築され、不足している知識・技能を新たにどんどん吸収していった。新しい目的の下に、新たな自立と自律の回転が自分の中で起こったのである。そしていま、日々の仕事をするにあたって、自分の描いた理想とする教育サービス像、理想とする研修事業者像が自分を導いてくれているという実感である。困難やストレスも多いが、それを凌駕するエネルギーはいくらでも湧いてくる。

評論家の小林秀雄は『文科の学生諸君へ』の中でこう述べている───

「人間は自己を視る事から決して始めやしない。
自己を空想する処から始めるものだ」。


また、ウォルト・ディズニーの言葉はこうだ───

「夢見ることができれば、成し遂げることもできる」。


夢を描く人は、自己をリードできる。
しかし、夢を描かない人は、自己をリードできない。
自己をリードできないから、どこにもたどり着けない。
「少年よ、大志を抱け」とクラーク博士は言ったが、
十分に大人になった人間たちにも、やはり志は大事である。
でなければ、せっかくの人生が“もったいない”。



【『働くこと原論』関連記事】
 ・「自立」と「自律」の違いを考える   
 ・「自導」についての補足~2つのリーダーシップ   
 ・自律と他律 そして“合律的”働き方




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