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2009年1月 4日 (日)

「ぎっこんばったん化」する社会

最近、いつごろからか、
さまざまな社会の動きが「大振れ」することに気づくのは私だけでしょうか?


例えば、平均株価の動き。
数年前までなら、特別な出来事が起こらないかぎり、
1日の日経平均株価が100円とか200円動くのは珍しいことで、
きょうはやけに荒れたなと誰しも感じたものです。

ところが、昨今の市場は、1日の変動が上がるにせよ下がるにせよ
300円やら500円動くのは珍しくない。
もちろん、昨年後半来の金融危機の影響はあるにしても、
それ以前から、株価がぎっこんばったんと大振れするのが恒常化する気配がありました。

これはつまり、
(個人であれ機関であれ)投資家たちが、より短期の売買に傾いているのが
ひとつ大きな理由としてあると思います。

特に個人投資家の場合、
投資先の決定は、いわゆる「美人コンテスト」化し、
他人が買う(=上がる)から買う、他人が売る(=下がる)から売るといった現象を
加速するため、株価の一方的な流れを形成してしまう。

飛び交う材料をめぐって(それが真実情報であれ、ガセ情報・風評であれ)、
ひとつの銘柄が
今日はストップ高、1日明けてストップ安なんていう現象は日常の光景となりました。

いずれにしても、
その企業のファンダメンタルズをみて、中長期に安定的に株を保有する投資家が
数の上でも、額の上でも、
相対的に低くなってきている現状から
株価はぎっこんばったん動くことになる。

◆政治もワンフレーズ・ワンイシューにぎっこんばったん
さて、同様に、ぎっこんばったんと動くのは国民の政党支持も同じです。
ついこないだまでは、小泉劇場を熱く支持し、
衆議院選挙を自民党の圧勝に導いた国民の心はいまやすっかり移ろい、
今度の衆議院選挙では、民主党の圧勝が確実視される状況。

支持政党なしが最大多数の日本において、
浮動票のゆくえが政治の流れを決めるのは是としても、
問題は、その浮動票を握る人びとがどんな意識で票を投じるかです。

前回の衆議院選挙の教訓は、
小泉さんの魅惑的な「ワンフレーズ・ポリティクス」、
「ワンイシュー選挙戦略」
(郵政民営化:○か×か!?)に
国民が短絡思考に陥ってしまったということです。

もし、次の衆議院選挙を
「とりあえず民主党に政権もたせてみるか選挙」
「いまの与党は無能だ。懲らしめ選挙」という
やはり短絡化した意識での投票なら、中長期にいい結果にはならないと思います。

*ちなみに、
一流の国民の下には、一流の政治家が輩出し
二流の国民の下には、三流の政治家が巣食う

という言い回しを以前どこかで聞きました。至言!

ともあれ、政治を取り巻く状況も
ぎっこんばったんと大振れする世の中になりつつある。

◆メディアもぎっこんばったん
もうひとつ大振れするものを加えておくなら、それは「メディア」です。

本来、メディアは(それがマスであればあるほど)その世の中への影響力から
力強い良識というバランス感覚が求められるものですが、
どうも、ここもぎっこんばったんしている。

私は、20代から30代にかけて7年間、
あるマスメディアで経済記者として働きました。

入社時はおりしもバブル経済まっさかりの1989年。
いろいろと景気のいい話をバンバン書きました。
何が売れてる、これが売れてる、ヒットの秘訣はどうだこうだと記事を量産しました。

ところが、バブルがはじけて、一転、
今度は誰が悪い、彼が悪い、失敗の研究などを記事化しました。

・・・そうこうしているうちに、気づいたのです。
「あぁ、俺のやっていることは、所詮、世の中の表層を文字にしているにすぎない」。
「ましてや、それを強調して書かないことには記事として読まれない。
だから大げさに書かねばならない。俺の職業は、中身のない拡声器だ
と。
そして、会社側もそれをいっこうに省みようとしない。

私は自分がやっていることの無意味さ加減に辟易して、そこをすっぱり退職しました。
(その後、教育系の出版社に転職して道を変えました)

2005年のライブドア事件の前後においても、
当初、ホリエモン(堀江氏)をさんざん持ち上げておいて、
次にはさんざんこき下ろすということが起こったとき、
「あぁ、メディア業界は変わってないのだなぁ」と改めて思いました。

そして、現況の金融危機問題、そして派遣切り問題などをみても、
メディアの伝え方は明らかにバランスを欠き、
正義感っぽいセンチメンタリズムに浸って報道するだけで、
本質を浮き彫りにできないでいる。
おそらく、次の展開になったときに、メディアはそっち方面を偏った形でどーっと報じ、
さらには全く別の大事件が起きたら、
もうこっちの問題は置き去りにして、以降は何も触れなくなる。
たぶん、そんな動きになるのでしょう。

◆雪崩的に感情世論を形成するネットメディア
さらに、メディアの中で危うい力を持ってきたのが、
「ネット書き込み」という名のメディアです。

これはひとつのメディア機関・企業というより、個々の声の集合体としてのメディア。
「2ちゃんねる」などをはじめとする書き込みサイトは
いまや世論形成のメディアとして無視できないほどの力を持ちはじめています。

中国政府は、国民(特に若者や政府への不満分子)を扇動するメディアとして
ネットの書き込みサイトを厳しく監視・統制しています。
中国の現況をみるに、それらを放置しておけば、雪崩的に国民感情が形成され、
どこかで暴動が起きるくらいのことは容易に想像できます。

「ネット書き込み」というメディアは、
音もなく、一方的に、あっちへこっちへ、
人びとの感情(←やがて一部の世論にもなりうる)を振り回します。

とはいえ、
「私はネット書き込みを行き交う情報なんて信憑性が低くて信じない」という人が、
この記事を読んでいただいている中には多いと思います。
しかし、世の中には、
情報リテラシーが未熟なまま20代、30代を迎える人がどんどん増えていて、
「えっ、こんな情報にそそのかされちゃうの?」といったことが
ますます増えているのです。

◆ぎっこんばったんの要因
これら、世の中がぎっこんばったんと大振れする状態は、
もちろんよい状態ではありません。
(人によっては、「2・26事件」前の様相に似てきたとの指摘もあります)

私は、その大きな要因として、一個一個の人間が脆弱化していることを挙げます。
そして、それを危惧し、なんとかしたいと思いもします。

私は強い社会と弱い社会を2つのモデルで考えます。
強い社会は、一個一個の人間が「粘土粒」化している状態です。
弱い社会は、一個一個の人間が「砂粒」化した状態です。


粘土と水を容器に入れ、シーソーの中央に置き、ぎっこんばったんとやる。
(ここで「水」とは、世の中を行き交う情報のメタファーとお考えください)
粘土の固まりは保持力があり、そうは簡単に動かない。
水だけがあっちに行きこっちに行きしている。

次に砂と水を容器に入れ、同じようにシーソーでぎっこんばったんとやる。
砂は水と混じり合い、あっちにとっぷん、こっちにとっぷん、簡単に動く。

社会を構成する一個一個の人間が、「粘土粒」なのか、「砂粒」なのか、
これは重大な分かれ目になります。

◆しなやかな粘りを持ってきた日本人の民族特性
私が、「粘土粒」に込める要素はいろいろあります。
ひとつには、粘土の粘りとは「中庸をつくりだす力」です。
これは古来、日本人が得意としてきた力で、
さまざまなものを吸収し、最終的にそれらを融合させて包摂しようという力です。
日本人には、そうした思考・受容の粘りが民族DNAにはあるのです。

心理学者・河合隼雄先生の名著に『中空構造日本の深層』があります。
日本人の心理の器は、
「中空」=「中が空(くう)になっている
との目の覚める分析です。

これは、「中が空(カラ)っぽになっている」と読んではいけません。
空を「カラ」ではなく「くう」と読むことが決定的に重要なのですが、
つまり、
日本人の心理構造は、その中心に
母性があるのでもなく、父性があるのでもなく、
同時に、母性がありながら、父性もある特質をもってきた。

また、その中心に
神道があるのでもなく、仏教があるのでもなく、儒教があるのでもない。
神道がありながら、仏教もあり、儒教もある。

これは、東洋哲学でいう「空(くう)」の概念を理解していないと
なかなかすっきりと説明できないことですが、
余裕のある方は、空の概念を押さえた上で、河合先生の同著を読んでみてください。

ともあれ、日本人の心理や思考の器は、民族的に、「空」という状態でさまざまなものを
融合して受け入れる、すなわち創造的な中庸をつくりだす
しなやかな粘りの強さがあったといえます。


ところが、ここへきて、どうも日本人の心理・思考の器が
ほんとうに「中が空(カラ)っぽ」になってきたような気がします。

中が「空(くう)」なのか、「空(カラ)」なのかは天地雲泥の差です。

心理・思考の器が単に空っぽであることは、
外界でいろいろ起こる現象に、ただ「反応的・感情的」に振舞うだけで
行動が極端から極端に移ろう危険性が出てきます。

いままさに、一個一個の日本人が、
「くう」のしなやかな粘り強さを保持し続けるのか、
「カラ」になってぎっこんばったん翻弄されるのかということを
問われる時代になってきているのだと思います。

科学技術が人間の欲望を容易に増大する環境にありますから、
個々人間の心理・思考構造が「カラ」になると、
社会はいとも簡単にカタストロフ的な極端に振れることにもなりかねません。

そういったことから、最近の状況を「2・26事件」前になぞらえる人もいるのでしょう。
確かに、
ドイツの社会心理学者エーリヒ・フロムが『自由からの逃走』で分析してみせたのも、
個々のドイツ国民が思考を停止させ、自由であることから逃げ、
やがてはナチ・ファシズム容認という極端に流された歴史的事実でした。

「虎は虎であることをやめること、
すなわち非虎化されることができないのに対し、
人間はたえず非人間化される危険性のなかに生きているのである」 
(『人と人びと』より)
―――とは、スペインの哲学者オルテガの言葉です。

◆意志的な楽観主義
2009年が歴史的に大きな意味をもつ1年になることは確かです。
もちろん、国内・国際問わず、政治や経済の指導者たちの英断と行動を求めるものですが、
最も根本で大事なのは、
一個一個の人間が、しなやかに強くなることだと思います。

そのためには、野暮な言い方ですが、
一個一個の人間に「まっとうな観」を涵養していく以外にないと思います。

思索を促す、
信条を姿として見せる、
倫理を示す、
徳を育む、
生き様の対話をする、
古典書物へと導く、
美へと誘う、
夢や志を語る・・・などのことを
親がやらなくなった、学校もやらなくなった、
ましてや会社や社会はやらない。宗教界もほとんど期待できない。
(もちろん、立派な親や先生、学校、上司、経営者、政治家、宗教家が少なからず
いることを知っていますが)


私が脱サラして独立した動機は、
一人一人の働き手に「働き観」を醸成するお手伝いをしようということです。
働き観を通して、人生観やら社会観を堅固にもてるようになるための
啓育プログラムを実施していく
―――それを今年もひとつひとつやっていこうと思います。

その関連で、今年は春に2冊著書を刊行する予定です。
大手メディアは、世の中の不安をいたずらにあおるだけの情報発信ですが、
私は、個々の読者にしなやかな強さを持てというメッセージで貫きます。

「楽観は意志に属し、悲観は感情に属する」

とは、哲学者アランの有名な言葉(『幸福論』)ですが、
まさに、いまの日本人(というか全世界の人びと)に必要なのが、
意志的な楽観主義、「粘土性の強さ」、「空(くう)の心理構造」だと思うのです。

世の中のぎっこんばったんは、悪い予兆です。
カタストロフを招かぬために、個々の人間が強くなければなりません。

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