7) 私の『ハイブリッド・ライフ』 ~暮らすように働く Feed

2009年5月30日 (土)

本を著すことについて

【軽井沢発】
軽井沢で仕事キャンプを張って4日目。
2日目から雨、雨、雨。きょうも雨。
観光で来たのなら空をうらめしく思うところでしょうが、
私の場合、集中仕事なので、外への誘惑がなくむしろ踏ん切りがつきます。

窓を少し開けると、雨しずくが葉っぱやら地面に当たる音、
そしてときどき聞こえる野鳥の声が、心地よく仕事への集中力を増してくれます。

さて、今年の秋か冬ごろに1冊本を出せればと思い、まとまった読書をしています。
まず、本を書くには、切り口が必要ですが、
その切り口のスタートは、自分自身に「よい問い」を発することです。

書き手にとって、「よい問い」をすることが、本づくりの3分の1。
そして、「よい答え」を持つことが3分の1。
最後に、「よく書き上げる」ことが3分の1だと思います。
(出版社さんにとっては、並行して、よいパッケージに作りこむ、
よいマーケティング&セールスをするという仕事があります)

で、その「よい問い」を発するために、
現状のことをさまざまな視点から見つめなくてはなりません。
そのために、INPUTのための読書をします。
(もちろん、INPUTは読書だけでなく、仕事現場での直接的な情報感受・獲得が欠かせませんが)

ここ1週間で読んだ本といえば、
『なぜ社員はやる気をなくしているのか』、『「雇用断層」の研究』、
『人間らしい「働き方」・「働かせ方」』、『他人を見下す若者たち』、『オレ様化するこどもたち』、
『働きすぎの時代』、『職場はなぜ壊れるのか』、『不機嫌な職場-なぜ社員同士で協力できないのか』、
『その上司、大迷惑です。困った上司とかしこく付き合う傾向と対策』、
『ギスギスした職場はなぜ変わらないのか』などなど。

・・・いや、ほんとうに、いまの職場は壊れかけています。
ヒトも壊れかけています。
その嫌な流れが拡大することはあれ、健全なほうに転換していかない要因は何なのか?


もちろん、企業側(雇用側)の問題もあるでしょうし、
働き手側(上司にも、部下にも)の問題もあるでしょう。
社会や家庭にも問題となるものもあるでしょう。

私は、これらの問題の要因を論(あげつら)うだけの本にはしたくない。
その一番根っこにあるところの要因は何かを特定した上で、
この嫌な流れが改善に向かうためには何が必要なのかこそを書きたいと思っています。
そのための「よい問い」を見つけることが、現時点で最重要のことです。

* * * * *

さて、そんな中、腹応えのある本を読んでいます。
「よい問い」があり、「よい答え」が展開され、
「よく書き上げ」られている著作です。

ロバート・B・ライシュ著『暴走する資本主義』 (東洋経済新報社)がそれです。

「1970年代以降、資本主義が暴走を始めたのはなぜか?」
―――著者はこの「問い」を置くことからスタートしています。
この問いは、読み進めていくと解るのですが、
表面的な問いではありません。人間の根本を見つめようとする問いです。
その意味で、「よい問い」なのです。

そして、「よい答え」が解き明かされていきます。
著者は、資本主義を暴走させたのは、
強欲な企業・経営者、巨額の資金を運用する数々のファンドやマネーディーラーたち
ではない(根本的な意味で)と言います。

それは、「消費者」「投資家」として力を持った私たち一人一人なのだ―――
一人一人の力は小さいかもしれないが、
「もっと安いものを!」「もっとリターンの高い投資を!」という欲望が束となって
巨大な力を生み、資本主義の箍(たが)をはずすほどのプレッシャーをかけている。

しかし、その「消費者・投資家」としての欲望が増せば増すほど、
「労働者」「市民」としての私たち一人一人は、逆に富を享受できない方向へと
押しやられていく皮肉な現象を起こしている。


これがライシュ氏の答えです。
まえがきにこうあります。

「私たちは、“消費者”や“投資家”だけでいられるのではない。
日々の生活の糧を得るために汗する“労働者”でもあり、そして、
よりよき社会を作っていく責務を担う“市民”でもある。
現在進行している超資本主義では、
市民や労働者がないがしろにされ、民主主義が機能しなくなっていることが問題である。

私たちは、この超資本主義のもたらす社会的な負の面を克服し、
民主主義をより強いものにしていかなくてはならない。
個別の企業をやり玉に上げるような運動で満足するのではなく、
現在の資本主義のルールそのものを変えていく必要がある。
そして“消費者としての私たち”、“投資家としての私たち”の利益が減ずることになろうとも、
それを決断していかねばならない。
その方法でしか、真の一歩を踏み出すことはできない」。


この「よい問い」に対する「よい答え」を、
300ページ超にわたり事実を積み上げながら「書き上げて」いきます。
文章というのはいやおうなしにその人の人格やら思考の性質を顕してしまうもので、
ここにはロバート・ライシュという人物の高いレベルの良識さ・明晰さと、
そしてこのことを社会に発せずにはいられないという使命にも似た強い意志を感じることができます。
その意味で、「よく書き上げられた」本です。

実際のところ、ライシュ氏は、ハーバード大学の教授であり、
クリントン政権下では労働長官を務めた人物です。さらには、
ウォールストリートジャーナル誌で「最も影響力のある経営思想家20人」の1人に選ばれるほどですから、
よい本を著して、こういった論点を世に問うというのは、
当たり前といえば、当たり前なのですが、
日本において、こうした立場にある人が、どれだけこうした論議を押し出せるのか
と考えてみると、非常に残念に思います。

(本書についての感想は改めてアップしたいと思います)

* * * * *

私が起業したとき以来の問題意識は、
一人一人の働き手の「仕事観・働き観」をしっかりまっとうにつくることが
個々人のよりよいキャリア・人生をつくることにつながる、
そしてそれは、よりよい組織・社会をつくることにつながる
―――
というものです。

その点で、今のこの暴走する資本主義の進路コースを修正し、
世界が継続的に維持発展できるようにするためには、
一人一人の欲望に関する意識を変えねばならないというライシュ氏の主張には
私は大いに賛同します。

次に著す本は、この本のように、
大きな「よい問い」を発し、
根っこに横たわる「よい答え」を見出し、
力強く説得力をもって「書き上げる」ことを自分に課したいと思います。

Baob

2009年1月29日 (木)

「勝ち・負け」のキャリアから「自分なりをひらく」キャリアへ

【沖縄発】
杜甫の詩『春望』の有名な一節・・・

国破れて山河在り、城春にして草木深し

(争いによって国はなくなってしまったが、山や河は変わらずそこにある。
城内では春が訪れ草木が青く茂っている)

春の陽光にキラキラ輝く沖縄の海をみていると、
百年に一度といわれる金融危機などどこにいったものやら
自然は悠久の昔と変わらぬ穏やかな姿をとどめている。

この金融危機がほんとうに百年に一度の難局であるならば、
人びとは同時に、百年に一度の価値観の転換をはからなければならないと思います。

量的な多寡で、人の生き方までをも「勝ち負け」で判定するやり方は
見直さなければならない。
量的な「競争」はいつしか「狂走」へと変貌してしまいました。

次の時代は、個々の人間・個々の組織・個々の国が「自分なりをひらく」ことを、
互いが尊重し合い、刺激し合い、そしていい意味で競い合うといった
質的な「共創・競創」の価値観が醸成されることを願います。

「自分なりをひらく」といった場合の、“ひらく”とは、

・個々が自らの才能を嬉々として“啓く”
・個々が生きる目的意識を(共通善=common good)へと“開く”
・個々が己の進む道をたくましく“拓く”


といった意味です。

「自分なり」を突き詰めることは、ややもすると利己主義に陥る危険性があります。
ですから、私は「自分なり」を“ひらく”ことが大事な観点だと思っています。
“ひらく”という意識と行動は、賢者のものです。

以下は、
2つの価値観:「勝ち負け」VS「自分なりをひらく」の目線からみた対比です。
さて、これをご覧のみなさんは、現状どちらに近いでしょうか?

= = = = = = = = = =
□「勝ち・負け」キャリアの目線
●「自分なりをひらく」キャリアの目線
= = = = = = = = = =

□仕事=「効率・効果・規模」重視の成果を出すこと
●仕事=「自分なりの表現」をすること

□ともかく常に右肩上がり志向
●揺らぎながらでよい。ときに高みを目指し、ときに深掘りをする

□それは、組織から降って来る「ミッション」   
●それは、自分の中から湧き起こる「パッション」

□勝ち負け・競争   
●やりがい・ユニークさ・共創

□「ナンバー・ワン」目指してがむしゃらに 
●「オンリー・ワン」になりたいと悠然と

□瞬間の「熱い/冷たい」  
●持続する「程よい温かさ/ぬるさ」

□その仕事は成功か、失敗か    
●その仕事は納得か、妥協か

□私は戦士(四六時中、緊張)   
●私は釣り人(時に緊張:餌にかかったときは一心不乱)

□書類!会議!書類!会議!プレゼン!交渉!会議!・・・  
●ものを考え、ものを書き、人に語り、夢に想いを馳せ

□モーレツに、あれもこれも 
●熱心に、そこをていねいに

□年収:もっと高く、高くなければ(脅迫観念) 
●年収:それなりであれば有難や(感謝の念)

□スケールアップ/スケールダウン
●等身大

□ハードワークをこなす自分の姿がカッコイイ!   
●多少不器用な自分を許してやろう(^o^)

□休日はジム。そして栄養ドリンク
●休日は自然態

□心身を痛める過度のストレス
●程々のストレスは成長の母

□業務目標:量的目標を決めて、明日上司と面談
●人生目標:たぶんこっちの方向

□会社の色に染まる
●仕事に自分の色を着ける

□朝起きるのがツライ   
●あー、よく寝た。さ、朝メシ!

□上昇は善、下降は悪
●青でもよし、赤でもよし

□隣の芝生(他人の成功具合)が気になる  
●我が家の芝生(自分の成長具合)をかわいがる

□頑張らねばと思う自分   
●遠くを見つめる自分

□激流の中を泳ぎ切る体力   
●強風の中でも折れない竹のしなやかさ

□外からの評価が大事   
●自分への意味づけが大事

□プロセスは管理され、結果を評価され   
●プロセスを楽しもう。結果は天命

□燃焼、そして脱力
●マイペース、時に没頭

□年収アップの転職 
●自分の使命を見つける転職

□成功の連続こそ実力の証。失敗は恥  
●勝っておごらず、負けてクサらず

□激流下りのラフティング(ボートから落ちないように必死)   
●湖のカヌー(のんびり。でもオールをこぐ力はしっかり)

Oki_hana

“自由”であることの負荷

Img_0166_2【沖縄発】
先週末から沖縄・本島に短期滞在しています。

昨年3月末に「春の仕事キャンプ」を張って以来、10か月ぶりの沖縄です。
今回も休み半分、仕事半分・・・といいますか、
私の場合、
「仕事と遊び」、あるいは「働くことと休むこと」の境目はなく、両者が和合している『ライフワーク・ブレンド』の状態なので、
まぁ、気が向けば仕事をするし、
ときに気が向けば観光するし、
また、その出かけた足で、移住場所の土地探しもやるといった
“行き当たりばっ旅”な過ごし方をしています。

先週末から、沖縄は数日間、寒い日が続きました。
ですが、月曜日からようやく気温が上がり始め、
昨日、今日は20度Cを超えてきて、
薄着でもいいような陽気になっています。

そしてすでに始まった「桜祭り」。
写真は、本島北部にある今帰仁城址で撮った1枚です。

* * * * * * *

さて、日本人にとって、沖縄といえば、今では観光地としての顔が濃くなっていますが、
忘れてならないのは、沖縄が“祈りの地”であることでしょう。
沖縄平和記念公園、ひめゆりの塔に出向くたびに
戦争に駆り出され、命を散らしていった若い男女のことが想い出されます。
(合掌)

狂気の中で狂気を強要された時代、
当時の青年たちに「自由」などというものはなかった。

さて、それから、約60年以上が経ち、世は平成ニッポンの時代。
現在の私たちには、自由が溢れるほどあります。
これは過去の人びとが苦労して獲得してくれた賜物なのですが、
そんな歴史的認識や恩などは、ほとんどの人の頭から抜け、
「自由であること」が空っぽになり、重荷にすらなっているように思えます。

「やりたいことがわからない」、
「どう生きたいか特に希望はない」、
「とりあえずこの会社に入ったが、あとは何となく生きている」
・・・などなど、
目の前には自由という大海原があるにもかかわらず、
漕ぎ出すことができない(しない)で、浜辺でうろちょろしている場合が多いのです。

ピーター・ドラッカーは次のように言います。
「自由は楽しいものではない。それは選択の責任である。楽しいどころか重荷である」。
(『ドラッカー365の金言』より)

また、エーリッヒ・フロムもこう指摘しました。
「(近代人は)個人を束縛していた前個人的社会の絆からは自由になったが、
個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、感覚的な諸能力の表現という
積極的な意味における自由は、まだ獲得していない。
・・・かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、
あるいは、人間の独自性と個性にもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの
二者択一に迫られる」。

(『自由からの逃走』より)

学びたいものは何でも学ぶことができる、
なりたいものには何でもなることができる
(もちろん、そうなる努力と運をつかんでのことですが)
――――こういう自由な環境下にありながら、
なぜ、私たちはそれを敬遠してしまうのでしょうか。

その大きな理由の一つは、自由には危険やら責任やら判断やらが伴うので、
そのために大きなエネルギーを湧かせる必要があるからでしょう。
人は、自由そのものを敬遠しているのではなく、
それに付随する危険や責任、判断、エネルギーを湧かすことに対して、
面倒がり、怖がっていると考えられます。

選ばなくてすむといった状況のほうが、基本的にラクなのです。
確かに、日常生活や仕事生活で、大小のあらゆることに対して、
事細かに判断をしなくてはならないとしたら、面倒でたまりません。
多くのことが、自動的に制限的に決められて流れていくことも場合により望ましくあります。

しかし、人生に決定的な影響を与える職業選択において、
その自由を敬遠するのは、一つの怠慢や臆病にほかならないでしょう。

今の日本は、平和と経済的繁栄の代償として、
個々の人間の生きる力の脆弱さを招いてきました。
この脆弱化の進行は決して見過ごすことのできない問題です。

また、この脆弱化の別の現れ方として、
昨今のマネーゲーム的資本主義の暴走もあります。
「市場は自由の下でこそ最善に機能する」という黄金律を誰もが安易に信じ込んだ結果、
市場は実物経済を離れ、マネーがマネーを膨らませるという野放図に陥った。

こうした自由の履き違えが起こるのも
根源的には、欲望を自制できない個々の人間の脆弱さにあります。

「~からの自由」に甘えることは簡単ですが、
「~への自由」を獲得することは何とむずかしいことか。

フロムの指摘が、いまなお鮮明に私たちに投げかけられています。

私は人財教育という分野をライフワークにしようと決めましたが、
私が目指す教育は、一般によく言われる
「キャリアデザイン研修」とか「就労意識教育」などという
薄っぺらいものでありたくはない。

働く観や生きる力を、どのようにしてたくましくできるかという
人間づくり(ひいてはそれが国づくり・世界づくりにつながる)の視点にもぐって
やりたいと考えています。

---こういう心持ちに自分をリセットできることが、
沖縄の地で得ることの最大のものかもしれません。

Img_0269

*沖縄平和記念公園の高台から春の海を望む

2008年10月 5日 (日)

芯のある「これでいい」という行き方

<秋・小淵沢発>
A

今年も初秋の小淵沢に来て、仕事をしています。
(難航している次の著作原稿もいよいよ仕上げ段階です)
先週は秋雨前線の停滞と台風の影響で雨模様が続いていましたが、
台風の通過以降、すばらしい晴天が続き、空の高さを感じます。
陽が指すと、俄然、小金色に輝く田んぼの風景が雄大に迫ってきます。

◆「テコ」が肥大化し、その逆利き力によって振り回される
さて、私が滞在している部屋のテレビは、先週から、
米国議会の金融安定化法案否決を発端とする金融市場の混乱のニュースを
しきりに報じています。

『メディア論』を著したマクルーハンは、メディアを「身体の拡張」と言い表しました。
例えば新聞やラジオは耳の拡張であり
テレビは目の拡張といった具合です。
この論を敷衍して言えば、
科学技術は人間の諸機能を拡張する。
そして欲望も拡張する
――――そう考えられます。

そして、ついに人間は禁断の果実である
「カネがカネを生むシステム」に手をつけ、
膨張する金欲をみずから統御できなくなってしまっているように思えます。

確かに「テコ」は便利な道具ですが、
その蜜の味をしめると、「テコ」を用いることが中毒になり、
「テコ」をどんどん肥大させていく回路に入る。
そして、今度は逆利きしたテコの力によって人間が振り回されることになる。

◆「効率的な人生」・・・とは何か気持ち悪い
私が企業勤めを辞めたのは5年前。
最後の会社は国内最大手の一角のIT企業でしたが、
そこでは、日々、管理職として、
利益追求、生産性向上、効率性追求、シナジー、レバレッジ、スピードなどを
一種、信仰のように「是」であり、「善」であると思い込み、
自身でも行動し、もちろん部下にも推奨していました。

ところが、自分個人の仕事を始めてからは、あの日々のことを
「なーんだかなー・・・」と思い出す心境に変わりました。

今の私は、
利益追求?・・・んんー、利益は“ツイキュー”するもの?
そう思うと仕事がギスギスする。利益は一生懸命やった後のゴホウビと思えばいい。

生産性?効率性?・・・今の自分は働くことと生きることがかなり重なっているので、
「生産性の高い人生」・「効率的な人生」って何か気持ち悪い。

シナジー?レバレッジ?スピード?・・・今の自分の仕事は、
1本1本、手作り醸造のワインを売っているのと同じ。
シナジーを生かしたワイン製造、レバレッジの利いたワイン製造、
スピード製造のワインなどを目指そうとは思わない。

Photo 私は今、作家の司馬遼太郎さんが生前におっしゃっていた
「知足」(足るを知る)という言葉をしみじみ感じています。
私は世に言う成功者でもありませんし、
羽振りよく儲けているわけでもありませんが、
自分の働き様、生き様に対し、「これでいい」という腹の据わりがあります。

過剰にテコを用いずとも、今の等身大の行き方の中から、
十分に成長や納得、自信を得ることができると感じています。

◆「無印良品」的行き方
「これでいい」という行き方に関し、少し唐突な材料を引き合いに出します。
それは「無印良品」です。

私は「無印良品」的な行き方に非常に共感を覚えます。
なぜかといえば、 「無印良品」こそ、
「これでいい」を意志をもって体現しているブランドだからです。

その見方は、グラフィックデザイナー・原研哉さんの
著書『デザインのデザイン』(岩波書店)で得ました。

原さんの論旨をかいつまむと、

・突出した個性や美意識を主張するブランドでは
 「これがいい」「これじゃなきゃいけない」というような強い嗜好性を誘発する。

・しかし、無印良品は逆の方向を目指している。
 すなわち、「これがいい」ではなく「これでいい」という満足感のうちで
 最高レベルのものをユーザーに与えること。


・「これがいい」という嗜好を鮮明に示す態度は「個性」という価値観とともに
 いつしか必要以上に尊ばれるようになった。
 しかし、「が」は時として執着を生み、不協和音を発生させる。
 結局のところ人類は「が」で走ってきて行き詰まりをみせている。

・僕らは今日、「で」の中にはたらいている「抑制」や「譲歩」、あるいは
 「一歩引いた理性」を評価すべきである。
 「で」は「が」よりも一歩高度な自由の形態ではないだろうか。

そういう「で」の次元を創造し、明晰で自信に満ちた「これでいい」を実現すること
 それが無印良品のヴィジョンである。


・無印良品は、「素」あるいは「簡素さ」の中に新しい価値観や美意識を生み出す。
 それは「省略」というより、「究極のデザイン」を志向している。

・また、無印良品の思想は、いわゆる「安価」に帰するものではない。
 それゆえ、最低価格ではなく、豊かな低コスト、
 最も賢い低価格帯を実現していくことを目指す。

◆マッチョゲーム・チキンレースからの離脱
私自身は厭世家でもありませんし、自由資本主義の否定者でもありません。
むしろ、ビジネスを楽しむ人種です。
そして、こと創造性に関しては貪欲です。
常に自分の事業のサービス開発には情熱を燃やしています。

ただ、何でもカネとモノの量的尺度に還元するゲームからは
おさらばしようとしているだけです。
そして実際、カネやモノを追うマッチョゲーム、チキンレースから離れて
すごく気がラクになりました。

保有株をすべて売り払ってからは、株価に気をもむことはありません。
年収がサラリーマン時代に比べてどうだとか、
去年と比べてどうだとかはいっさい考えません。
仕事が1ヶ月なかったとしても、焦ることもしません。
他人の成功話や儲け話を聞いても、嫉妬することもありません。
自家用車が12年目を迎えても、まだ乗り続けようと思います・・・などなど

もっぱら考えるのは、
もっと顧客に満足してもらえる教育プログラムは何なのか、
もっと意味のある啓発コンテンツを著せないか、
もっとサービス自体がよきメッセージ性を発することはできないか、
などです。

そして、それらが、ある値段で世の中のどなたかに買っていただける。
そして、値段ではなく、コンテンツやサービスの内容自体で顧客とつながり合い、
その輪が広がっていく。
そして、その輪の一人一人に自分が助けてもらいながら事業を続けることができる。
お客様から「ありがとう」を言っていただき、
私も「ありがとうございます」と言える。

――――そんな「これでいい」という行き方が今の私です。

芯のある「これでいい」という行き方を
人類の一人一人が自覚をもって実践すれば、
世の中の随分のことが解決するように思います。

それにしても、八ヶ岳の南麓に広がる黄金の絨毯は、
全世界を巡る金融危機などどこ吹く風で、
頭を垂れた稲穂がカサカサと音を立てながら揺れています。

B

2008年7月22日 (火)

情報少なにして知恵豊か(less information, more wisdom)

07007 ◆情報を取らないという静寂さ
昨日、10日ぶりに東京に戻りました。
この10日間、共同プロジェクトのディスカッションと諸々の仕事片付け、
そして夏の小旅行を加え、
長野県の白馬と山梨県の小淵沢に滞在しました。
東京で猛暑日・熱帯夜が続く中、
私は標高1000mに身を置き、エアコンなしの昼夜がとても快適でした。

私が東京から身を離して、山か島に拠点を設けて仕事をするとき、
快適なのは、自然環境だけではありません。

「情報が極端に少なくなることの快適さ」も忘れてならない要素です。

新聞も読まない、
テレビのニュースも見ない、
メールチェックも朝晩2回、
携帯電話は出ない(というか、かかってもこない)・・・・
これだけで、どれほど生活が快適になることか。

10日ぶりに帰った自宅オフィスの玄関には、
留守中の新聞(朝日と日経の2紙)がどっさり溜まっている。
私は、一切読まず、そのまま縄でくくってゴミ出ししてしまいます。
・・・一種の快感です。

◆情報量が増えて人は幸せになったか?
情報建築家のリチャード・S・ワーマンが著した
『情報選択の時代』(松岡正剛訳)には、次のような書き出しがある。

 毎週発行される一冊の『ニューヨーク・タイムズ』には、
 一七世紀の英国を生きた平均的な人が、
 一生のあいだに出会うよりもたくさんの情報がつまっている。

私たち現代人は、かくも情報を膨大に、しかもたやすく摂取できる時代を生きている。
しかし、私たちは、その情報摂取量によって幸福になれたかといえば、
どうもそうではない。

単に情報を量的に摂取することが無意味であることを、賢人たちはいろいろな言葉で語っています。

 ・「他人の知識で物知りにはなれるが、他人の知恵で賢くなることはできない」
  (モンテーニュ)

 「記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけなのだろう」
  (小林秀雄)

 「知識より想像力が大事である」
  (アインシュタイン)

先のワーマンの著書『情報選択の時代』の原題は、
“Information Anxiety”(情報不安症)です。
つまり、情報をいつも十分に摂取していないと不安にかられるという
現代病を表しています。

私もかつてはこの情報欠乏不安症でした。
しかし、状況が変わったのは、1年間の米国留学でした。
シカゴに住んでいるとき、日本の情報は、
ケーブルテレビで見る毎晩の7時のNHKニュース30分のみでした。

それだけの情報でも、生きていくのに全く問題はありません。
むしろ心地よくさえありました。
それ以来、今では、情報を遮断してもなんてことはありません。不安も感じません。
(しかし、情報に無関心でいるということではありません)

情報・知識は何かの目的のための手段です。
その目的を考えるのは、英知や意志、人生観の範疇の問題です。
これは必ずしも、情報摂取量に比例して強くなるものではありません。

私は、この10日間の山滞在で、世間の情報はほとんど摂取しませんでしたが、
生きる方向性を堅固にする出会いや見聞、内省の時間をたくさん得ました。
そういった意味では、とても中味のある10日間でした。

変化の時代であればこそ、
「情報少なにして、知恵豊か」(less information, more wisdom) となる時間
あえて設ける必要があるのだと思います。

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