7) 私の『ハイブリッド・ライフ』 ~暮らすように働く Feed

2008年5月22日 (木)

創造拠点としての田舎

【信州・小淵沢発】


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八ヶ岳中央農業実践学校から初夏の八ヶ岳を望む

5月の連休明けから、高原は本格的な緑の季節に入る。

このころになると私は山に行きたくなってしようがない。

山の空気に身を浸して、そのまま身も心も溶かしてしまいたいと思うのです。


去年は軽井沢に滞在して、いくつかの仕事を片付けましたが、

今年は小淵沢と蓼科に拠点を押さえました。

春の沖縄で仕込んだ単行本の企画が進み、

今回はその本文の執筆に勤しみたいと思います。


滞在宿の窓を開けると、新緑薫る爽やかな風と音が遠慮がちに

部屋の中にあふれてくる。

BGMは特に必要ありませんが、私は時々、

PCのハードディスクに落としてあるヨーヨー・マのバッハを流します。

旧ソビエトの指揮者・ロストロポーヴィチは、

「バッハの音楽は、まるで草木をみるようだ」と語りましたが、

まさに今、そのことがよくわかります。


◆「複眼」を持った生活

私も会社勤め時代の最後は、

東京の湾岸エリア・豊洲の高層ビルで働いていました。

オフィスフロアからは遠くにレインボーブリッジを見渡すことができ、

また業界特性から最新のIT情報に囲まれながら、

戦略を練り、交渉ゲームをし、数々のパーティーにも顔を出し、

さも、カッコヨク、ビジネスパーソンをしていました。


しかし、そんな会社人生活をやめ、独立して5年。

今では、そんなカッコイイ仕事場環境ではなくなりました。


自宅オフィスのある東京・調布は、田んぼの中にあり、

ちょうど今時期は、カエルの鳴き声とともに仕事をしていますし、

今回のように山に仕事キャンプに出れば、

山の陽射しや雨、枝葉のざわめきとともに仕事をしています。


しかし、仕事の分野が特段変わったわけではありません。

豊洲にいたころも人財育成分野の仕事ですし、今もその分野の仕事です。

こうして郊外や田舎に仕事場を移してやっているものの

顧客のほとんどは首都圏にいて、営業や研修実施があればそこに出向きます。

仕事の意識も競争の中心地である東京に向いています。

それはそれで、私にとって、緊張感のある気持ちのいいものです。


ただ、それが常態化すると、気持ち悪くなるんでしょうね。

息が詰まってくる。


東京(都会)は、「刺戟と効率のスピード」・「処理と競争」の世界です。

一方、田舎(地方)は、

「退屈と自然のリズム」・「思索と耕作」の世界です。

(退屈とはポジティブな意味で使っています)


今の私は、この2つを適宜組み合わせながら働くことで

カッコヨクはないけれど、

平静で快活な生活を手にすることができています。

(完成型にはまだほど遠いですが)


「東京で仕事を発散し、田舎で仕事を仕込む」――――この2種類の生活が、

私に「複眼」を持たせ、ものが立体的によく観えてくるんだと思います。


東京だけの生活は単眼的で見失うものが多い。

だから、山や島にこもって、仕事の思索と耕作をする機会を持つ。


◆田舎こそ「鍛錬・創造・攻めの場」

一般的に田舎は、都会で疲れた心身の癒しの場、消費レジャーの場、

あるいはリタイヤ後の安住の場としてみられることが多い。

しかし、私にとっての田舎は、

思考鍛錬の場であり、創造の場であり、

現役の仕事をバリバリやる攻めの拠点でもあります。


喧騒とした都会に縛られることなく、

田舎のたおやかさ、おおらかさを取り込む生活。

また、田舎の保守風土に引き込まれることなく、

都会の変化刺戟を受け取る生活。

私のハイブリッド・ライフはまだまだ始まったばかりです。

2008年4月 6日 (日)

散歩のリズム・自転車の風

【沖縄・石垣島発】

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島キャンプ5日め。

ここに来て、朝夕の散歩が楽しみです。

川平湾という観光スポット付近に滞在していますが、

観光用の駐車場付近を除けば、

そこには素朴な町のたたずまいがあちらこちらにあります。

散歩に出て小路を行けば、

その両脇に組まれる石塀とフクギの並木、

そしてハイビスカスの花々に蝶々が舞う景色が目にやさしく映る。

風に乗ってくる海のにおいと、山のにおい。

どこからともなく聞こえてくる南国鳥のさえずり、

そして飼い犬の遠吠え。

昨日の夕暮れの散歩では、

どこからか三線の演奏と唄が聞こえ、

別のどこからから、巨人-中日戦のナイター中継のテレビ音声が聞こえるなど、

窓を開け放つ縁側からの漏れ音が

とても“昭和な感じ”で、

「あ、そうそう、こんな感じだったよなぁ」という懐かしさでいっぱいになりました。

ところで、

その人の生活が、

時間に支配されているか、それとも時間を支配しているか――――

これは人生にとって重大な問題ですが、

それを判定するたったひとつの簡単な質問をお教えしましょう。

○その質問:

「あなたは、日ごろ、散歩をしますか? しませんか?」

おそらく、

散歩をする人は、時間を支配下においている生活でしょう。

散歩をしない人は、時間の支配下におかれる生活でしょう。

ま、これには多くの異論も出るでしょうが、

少なくとも、散歩を楽しむ人は、心のどこかに余裕を保ち、

忙しさに振り回されないゾという意志のある人にちがいありません。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

◆職選びを「乗り物」でたとえる
きょうは、「散歩」で思いついた話をします。

私は、普段から散歩好きです。そしてまた自転車好きです。

多摩川沿いに住むようになって、その頻度は格段に増えました。

朝な夕なに、川沿いを散歩や自転車で走ってみるのですが、

これがとても楽しいことに気がついたからです。

歩き、もしくは自転車のあの速度でしか観察できないものが

さまざま見えてきますし、

自分の力加減で動くリズム心地、風の音、季節の薫り等々、

いつしかクルマの移動ばかりで退化していた五感が呼び覚まされる思いです。

私はそのとき、

「あ、この感覚って、いまの自分の(自営業主としての)仕事感覚に近いな」と、

ふと思いました。

◆大企業は「電車・クルマ・飛行機」

そこで、職選びを雇用形態によって乗り物にたとえてみようと思います。

まず、大企業勤めは「電車・クルマ・飛行機」です。

パワフルなエンジンを装備し、多くの人数を高速で、

しかも遠くまで運んでいくことができます。

屋根や窓がしっかり付いているので、外界で多少雨が降っても、

風が吹いても中の人間は平気です(空調がきいているので快適ですらある)。

その上、自分ひとりが多少居眠りをしても、

その乗り物自体は運行を止めず、目的地に向かっていってくれます。

ただ、難点もあります。

その乗り物の座席は、旅客機のエコノミー席のように窮屈で、

手足を伸ばすことのできるスペースが限られています。

(中には、ファーストクラス席でラクチンの人々もいますが)

場合によっては、満員電車のようにぎゅうぎゅう詰めで、

あっちに押されこっちに戻され、へとへとになる状況も出てきます。

個人はそんな制限のある中で、せっせと仕事をこなしていきますが、

その乗り物がどこに向かうかは、

多くの場合、個人では決めることができません

◆ベンチャー・起業はオートバイ

その一方、ベンチャー会社や起業は、「オートバイ(自動二輪車)」です。

細い道や多少の悪路もなんのその。

エンジン音を高鳴らせながらグイグイと突き進んでいきます。

ハンドルさばきは自分次第。

風を切りながら走り、自分の一挙手一投足がマシンに直下に伝わる快感は

応えられないものがあります。

しかし、雨が降ればズブ濡れ覚悟、

ちょっとのハンドルミスは大きな事故につながるといった危険性と

常に隣り合わせにいます。

つまり、バイクはハイリスク・ハイリターンな乗り物というわけです。

中小企業はさしずめ、「小さな帆船」といった感じでしょう。

その日その日の風向きを常に気にしながら、

帆の位置を変えてゆっくり進む。

確かに出せるスピードは限られていますし、遠くへも行けない。

景気といった波の影響も大きく受けます。

しかし、自分たちしか知らない穴場の漁場があって、

そこで高級魚の一本釣りの醍醐味を味わうことができるかもしれません。

帆船はエンジンで走る高速の乗り物では味わえない「何か」を得る

ことができる可能性を持っています。

◆自営業は自転車か徒歩

そして、最後に自営業ですが、

これは「自転車」(あるいは徒歩)ではないでしょうか。

こぐこと、歩くことをやめたらそこでストップ。

動く早さ、動く距離はすべて自分の意志と脚次第。

そして行き先はすべて自分で決める。

道草は自由。途中で道を変えるのも自由。

ただし、雨が降り、風が吹けば自分でよける道具や工夫が必要になる。

◆職選びに正解・不正解はない

乗り物の好みは人さまざまです。

目的地までひとっ飛びで連れて行ってくれるジャンボジェット機がいい

という人もいれば、

目の前の岩山を、オフロードバイクでケガを承知で駆け上がりたいと

衝動が走る人もいます。

また、乗り物など使わず自分の脚で山に登って、

道端の草花に目をやり、景色のいい場所を適当に見つけて

手作り弁当を広げるほうがいいと思う人もいます。

これらは志向性、価値観の差であって、

どれが正解か不正解かという問題ではありません。

職選びもこれに共通したところがあります。

大企業で海外をまたに掛けるもよし、

ベンチャー企業で一攫千金を狙うもよし、

はたまた個人事業で好きを仕事にするもよし、、、。

スピードの中で戦う仕事もよし、のんびりとした仕事もよし、

人が寄り付かない仕事もよし、、、。

要は、自分の内なる声に正直に従い、

それにマッチした職やワークスタイルを選び、生計が立てられれば、

それは「幸せのキャリア」です。

何かと獲得年収の高低ばかりがキャリアの成功軸として騒がれますが、

経済的に「成功のキャリア」ではなく、

精神的に「幸せのキャリア」という観点も長いキャリア人生においては

大事であるように思います。

2008年4月 5日 (土)

広がる「働く場」の概念

【沖縄・石垣島発】

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◆田舎の音は耳にやさしい
島キャンプ4日め。

ようやく雲がとれて、南国の青い空が出ました!

やはり高い位置から太陽が照りつけると、景色がすべて変わります。

きょうはどこを歩いても、絵葉書に出てくるあの期待通りの島の景色が

目に飛び込んできます。ここは、もう完全に夏です。


ここで仕事をしていると、“耳がラク”なことに気がつきます。

島にしても、山にしても、

田舎に来れば来るほど嫌な雑音がない。


都会は、耳に聴こえる範囲の雑多な音はもちろん、

耳に聴こえない範囲の雑音もかなりあるそうです。

特に不可聴域のクルマの音や機械の音などは、

知らずのうちに人間にストレスを与え、

場合によってはよからぬ症状を発現させるといいます。


田舎には、そうした人工物の出す雑音がない。

もちろん田舎にも、不可聴域の雑音はさまざまあるでしょう。

でも、それは、自然が出す雑音であって、人工物が出すものとは異なる。


田舎に来て、この“耳がラク”という状態を、

私はミネラルウォーターがおいしいという感覚に近いなと感じます。


つまり、水道水にしても、天然水にしても、

目に見えない含有物がありますが、

天然水は天然のミネラル分、

水道水はカルキやら管のサビ・カビやらを含んでいる。


―――――その差は、とても大きい


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


◆場が熱を帯びるのは:共振価値

さて、私はいま、新聞のあるスクラップ記事を見ています。


08
年3月23日付、日本経済新聞朝刊

米IBMが、統合コミュニケーションソフトに10億ドルを投資する

という記事です。


このソフトは、遠隔地にいる人たち同士をテレビ会議でつなぎ、

全員が、画像や書類、音声などのデータを一括して共有のシステム上で

使えるというものです。


こういったソフトがいよいよ普及を始め、

機能的にも使い勝手が向上してくれば、

「働く場」の概念はますます広がってくるでしょう。


すでに、システムエンジニアやコールセンターのオペレータなどの職種では

在宅勤務がそこかしこで行われています。

これは、個人の業務が、ある程度、自己完結して分離が可能だったので、

やりやすかった面があります。


しかし、今度の統合コミュニケーションソフトは、

複数の人間が本来、一つの場に集って、共創・協働せねばならない業務に

新しいスタイルを起せるかどうか――――そこが注目されます。


画面上で顔を見合わせる参加者たちが、

ネット空間のバーチャルな会議の場で、

意識を合わせ、アイデアを出し合い、熱を伝播し合えるのか・・・・


私は、至極、可能だと確信します。


結局、リアルな集合場であろうと、バーチャルな集合場であろうと、

その「場」を有意義にさせるもの――――

それは、「共振価値」だと思います。


参加者が真剣になる、真摯になる、夢中になる、面白がる、

つまり心に触れて共振する価値がそこに通っているからこそ

参加者は主体的にかかわろうとする。


ただ、それだけの問題だと思います。


もちろん、肌感覚をもった人間ですから、

実際に対面することも、ときに欠かせません。



◆ネット会議が主になる時代

これまでも言われてきたように、要は、

リアルとバーチャルのうまい組み合わせが問題なんでしょうが、

これまでは、どちらかというと「リアルが主」で「バーチャルが従」

という意識がありました。


しかし、私は技術の進歩と人間の順応化に伴って、

今後は、バーチャルがいかにリアルに迫り、

ついには、リアル以上に成果を出すことで、

「バーチャルが主」で、「リアルが従」という構図もありうると思っています。


そのためには、主導者(たいていは経営者・監督者とか企業)が

「ヒトのマネジメント」と同様、

「場のマネジメント」に関しても、有能であることが求められます。


「場のマネジメント」とは、その新ツールのテクニカルな取り扱いではなく、

いかなる「共振価値」の軸をそこに突き刺すかということが生命線です。


そうなれば、働き方の多様化はますます促進され、

たくさんの働き手が、

みずからに合ったワークスタイルを選択しやすくなる社会が

早足でやってきてくれるでしょう。


そうすれば私も、いよいよ山か島に本宅を構えて、

顧客とバーチャルで有意義な企画会議やら事前ミーティングやらをし、

いざ本番の研修実施のために、都会に出ていきたいと思います。

2008年4月 4日 (金)

身の丈ビジネス・百倍丈ビジョン

【沖縄・石垣島発】

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島でのキャンプも3日め。

きょうは薄く陽射しのある1日で、気温は25度を超え、

Tシャツ1枚で心地よく過ごせました。


昼間は、底地(すくじ)ビーチに出て、書きものの仕事をしました。

木陰にピクニックシートを敷き、

ペンと白紙を持って、手書きでいろいろと考える。

たいてい私は、図を書いて、自分の伝えたいメッセージを精錬します。

そして、外から戻って、パソコン上で一気に文章化する。

それが私の思考→アウトプットの習慣です。


あと私は、外で考え事をするときは、たいてい

キャンプで使っている携帯用ガスコンロとケトルを持参します。

それでお湯を沸かし、ドリップコーヒーを入れて、ブレイクします。

きょうのコーヒーのお供は、島名物のマンゴーケーキ。


* * * * * * * * * * *


◆それ以上は受託しないぞという決断

さて、きょうの本題です。


私の生業の主たる売上は、

企業を顧客とする従業員向けの人財研修実施によって立てています。

しかし、私は不敵にも、年間で請け負う研修日数に関し、

「40日間を超えない」という方針で臨んでいます。


研修以外の40日は、

こうして島でキャンプを張って執筆仕事をしたり、

人事コンサルティングの仕事をしたり、

あるいは

社会的意義のあるボランティア(に近い)仕事などに充てています。


研修請け負いの日数に上限を設けるのはなぜか?―――――


その理由は、おおむね次のようなものです。

1)創作・思索のための時間を確保するため

2)私の行うビジネスは量の拡大を必ずしも志向しない。

  質の深掘りで勝負するため

3)身体のことを考えて


◆「思索する時間」という宝もの

忙しさに身を置くことは、ある種「俺は働いてんだゾ」という快感をもたらします。


また、私のように自営業の場合は、

仕事予定が入っていないと、すごく不安になります。

「ダイアリーが仕事で埋まる=売上が立つ」ということですから。


しかし、人は、忙しさで仕事をやったような気になりますが、

冷静に振り返ると、

その仕事を通して、

自分がどれだけ成長・進化できたか、

世の中にどれだけ新しい価値を生み出したかという点で、

非常に心もとない結論がみえてくることが多々あります。


例えば、私は

20代後半から30代初めの7年間、ビジネス雑誌の編集をやりました。

非常に忙しく働きましたが、

その忙しさの割りに、何が自分の中で積みあがったのだろう?

何を世の中に提供できていたのだろう・・・? と考えると、


・・・もちろん、面白く働いた仕事ですから、

自信を持って答えられるものはいくつかあります。


しかし、結局は、「消費される仕事」を繰り返していたんだな、と

いま振り返ってつくづく思います。

「消費されない仕事」を自らつくり出すためには、

きちんと立ち止まって、時間をとって、もっと思索をせねばならなかった。


だから私は、いまの仕事で、その轍を踏まないように、

仕事に関する思索の暇(いとま)をとるようにしたいのです。


既存に開発した研修サービスのプログラムは、

お客様から高い評価をいただいてはいるものの、

まだまだ改良・改善の余地は無限大にありますし、

他の新しい分野の教育プログラム開発も創造していきたいと思っています。


それは、ミュージシャンがよく言う

コンサートツアーで忙しくすればするほど

新曲・新アルバムの創作ができなくなることと同じです。


私にとって、研修の受託量をいたずらに増やすことは、

必ずしも賢明なことではないのです。


◆一軒の頑固な寿司店商売でいい

私は、いわゆる「インディペンデント・コントラクター」(独立請負業者)

として働いています。

つまり、「雇われず・雇わない」働き方です。


であるがゆえに、先に書いたように、

売上の拡大をいたずらに追わなくてもすみます。

だから、私は「身の丈ビジネス」でいいと思っています。


量を追うだけのビジネスや

功利主義が支配するビジネスは、私はごめんです。

そういう“量志向マッチョ”な土俵では、ビジネスをやりたくありません。


私のライフワークテーマは、

「働くとは何か?」「よりよく働くとはどういうことか?」を

万人が腹でわかるための教育プログラムをこしらえることです。

このテーマの深さは無限に広がっています。

だからこそ、質の深掘りに向かいたい。


私の事業を応援くださっている方々から、

「なぜ、村山さんは、その研修プログラムを標準化して

量販できるようにしないのですか?」とよく聞かれます。


そのときに答えているのは、こうです・・・


外食ビジネスに2通りあって、

1つは、同じメニューを多数の店で量産・量販できる体制を敷いてやる

ファミリーレストランチェーン。

もう1つは、頑固でこだわりをもった腕の利く板前がいて、

対面カウンターでしか出さない一軒の寿司店。


私は、「寿司屋がいいんですよ」と。



◆職の“持続可能性”を考えよ

私は、生来、身体がどちらかというと弱い部類です。

これまで、大きな病気やケガこそありませんが、

いろいろな面で常時、気をつかわないと、体調がダメになります。


40代を過ぎてからのキャリアを考えるとき、

「長く働き続けるために」という目線がとても大きくなってきます。

私はこれを「職のサスティナビリティ意識」と呼んでいます。


“サスティナビリティ”(sustainability)とは、「持続可能性」という意味です。

温暖化問題で、「地球環境のサスティナビリティが脅かされている」などといいますが、

生涯を通じたキャリアにもその発想が大切です。


医療の発達によって、人生が延びています。

ですが、仕事なしのリタイヤ人生や、病床に伏しての人生が延びることを

私は望みません。


自分の就労期間を延ばすこと(=働くことの持続可能性を高める)は、

ほかならぬ、自分自身の責任でやらねばならないことです。


* * * * * * * * * * *


このように私が志向する私自身の仕事・キャリアの方向性は、

「身の丈ビジネス」「身の丈キャリア」といっていいかもしれません。

しかし、それは、こじんまりうまく自己完結して渡世していけばいい

という意志ではありません。


身の丈というのは、側・外形がそのサイズでいいといっているのであって、

中身・内の心は、高く・深く・大きく理想を描いています。

その意味では、ビジョンは百倍丈ほども膨らませています。


夢や志については、他のところで詳しく触れたいと思います。

2008年4月 3日 (木)

「W/Lバランス」の人・「W/Lブレンド」な人

【沖縄・石垣島発】

Photo1

「仕事の春キャンプ」で石垣島入りしてから2日め。

あいにく、きのう、きょうと鈍曇りの天気が続きます。

せっかく名勝・川平湾がすぐそこに望めるのに、

あのキラキラ透き通る青い海は、まだおあずけ状態。

東京からのメールで「こちらは晴天」と聞くと、なぜか悔しい気持ちです。


ですが、朝夕の散歩やら、

昼間の海辺での読書・企画構想作業やらは楽しいものです。

気を晴らすために、昼食後、観光スポットに足を運んで、

カメラでスナップを何枚か撮るのもアタマが活性化していいです。


さて、こうしたリゾート地に来ての仕事キャンプは、

私にとって、もちろん真剣な「仕事」であり、

また、観光要素をもった「遊び」でもあります。

そして、自炊を行いながら滞在する「生活」でもあります。

(家具・食器・寝具付きのウイークリーマンションはこの点で便利です)


* * * * * * * * * * * * *


◆ゆるゆる・だらだらの「仕事/生活」境界線

私は、東京にいる普段もそんな感じです。

自宅の一室をオフィスにしていることもあって、

仕事と生活と遊びの境界線はとてもあいまいです。


仕事机のPCの前で企画作りに集中していたかと思えば、

その後はソファでごろごろしたり、

図書館に行って仕事をしてみたり、

(でも、仕事に直接関係のない本で半日を費やしたり)

また、天気がよければ多摩川にひょいと散歩に出たり。。。


外見からの行動は、ばらばらですが、

私の頭の中は、四六時中、仕事のことを考えています。

仕事というか、ライフワークといったほうがいいかもしれません。


私のライフワークは、

「働くとは何か?」「よりよく働くとはどういうことか?」を

万人が腹でわかるための教育プログラムをこしらえることです。


私は、常に手帳を傍に持ち歩いていますが、

(寝るときも枕元に)

アイデアメモは、休暇中であろうと、仕事中であろうと、

散歩中であろうと、入浴中であろうと、就寝中であろうと、

電車の移動中であろうと、

それらに関係なく書き留めていきます。


そうした次々と湧いてくるラフアイデア、着想・構想、

およびそれらを深掘りする作業で

実はアタマは常に「仕事」をしています。


* * * * * * * * * * * * *


◆「仕事バカ」ではない「仕事好き」

・・・・これは、いわゆる「仕事バカ」な状態なのでしょうか?

あるいは「仕事中毒症」「仕事依存症」なのでしょうか?


いや、私にとって、もちろん非日常の場所での時間はおおいに楽しいものです。

家族との時間も楽しんでいます。

仕事の犠牲として、何かを切り捨てている現実はありません。

私生活も楽しい、仕事も楽しい。

(苦労や心配事は絶えませんが)


私生活・人生の活動の中で、仕事を想い、

仕事の活動の中で、私生活・人生を想う。


私にとって、「仕事」と「私生活・人生」は、2分法で分割し、

「ON/OFF」でとらえられるものでないと感じています。

東洋哲学の概念で当てはめれば「空」(くう)です。


つまり、私にとって、仕事と私生活・人生は、空の状態で渾然一体化していて、

たまたま今のこの活動や思考は、仕事のことが顕在化している状態だとか、

私生活のことが潜伏化している状態だというふうなとらえ方です。

両者の間に明確な境界線も引けませんし、引く必要もありません。


だから、“現在の私”にとって、

「ワーク/ライフバランス」といった概念は、

少し遠い感覚のものになります。


* * * * * * * * * * * * *


◆悩み深き「組織人格と個人人格の乖離」問題

ただ、「ワーク/ライフバランス」という概念は、

現代のビジネス社会にあって、とても重要で必要なものではあります。


私も“過去の私”においては、本当に、この「ワーク/ライフバランス」が

必要なサラリーマン時代がありました。


組織の中で、自由に権限を持って多少なりとも楽しく働いていた

サラリーマン時代でしたが、

やはり、年次が経つにつれ、

自分の想うところと組織の命令・任務とは乖離するところが大きくなり

違和感を抱きながら、「仕事に働かされていた」日々でした。

物理的に休日も仕事にとられることが多かったものです。


ましてや、管理職となり、

組織側の考えることに異論を持ちながらも、

部下には組織側の意思決定を正当化して伝え、実行させなければならないとなると

もう、精神がキリキリしてきます。


まさに、バーナードが触れた経営者の苦渋の重荷は、

組織人格と個人人格の乖離(『新訳・経営者の役割』に詳しい)である

ことがよくわかりました。


こうなると、仕事と私生活・人生を「分離」して考えることが必要になり、

両者のバランスを保たねば、カラダとアタマが続かなくなってくる。


* * * * * * * * * * * * *


◆生活と仕事を「ブレンドする妙」

しかし、現在の私は、はれて個人事業主の道を選び、

みずからの想いを具体的にサービス化して、

直接、世の中に問う働き様となりました。


私の行なう事業は、

私個人の仕事観・人生観による価値や意志の表明そのものであります


組織の中で働かなくなった今、

組織人格と個人人格の間で葛藤することもありません。

私の考えに制限を与えるのは、顧客の要望のみです。


もはや私にとっては、仕事と私生活・人生は、無境界に「融合」して、

両者をいかに掛け合わせて、

納得する仕事、満足する生活・人生をつむぎ出していくかという

「ワーク/ライフブレンド」な状態になっています。


この記事の表題とした

「ワーク/ライフバランス」と「ワーク/ライフブレンド」は

必ずしも適切な対比でないかもしれませんが、

2つの考え方を図化したものが下です。

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* * * * * * * * * * * * *

◆「仕事に“遊ぶ”人は幸福である」

「ワーク/ライフバランス」の人と

「ワーク/ライフブレンド」な人の境界線はどこにあるかといえば、

つまりは、

仕事に働かされるのか、

仕事を創造するのか、です。


または、仕事に使われるのか、

仕事を使って、もっと大きな何かを成そうとしているのか、でしょう。


そして、さらには、その仕事に対し、

全人的に健全的に没頭できるか、できないか、です。

たとえ組織の中で、能動・快活的に働いている場合にも、

やはり先に述べた組織人格と個人人格の乖離の問題は少なからず起きるもので、

最終的には全人的かつ健全的な没頭は難しくなります。


その点で、

「ワーク/ライフブレンド」という状態は、

個人単位に近い形で働いている人のほうが

よりなりやすいのではないでしょうか。


「仕事に“働く”人は不幸であり、

仕事に“遊ぶ”人は幸福である」・・・

詳細の出所は忘れましたが、かの美食家にして芸術家の北大路魯山人が

こんなようなことを言っていたと記憶しています。


『遊ぶように働く』とは、私の独立後のモットーでもあります。


もちろん、“遊ぶ”とは、

消費的な遊興ということではなく、

自らの事業に真剣に夢中になり、

自分の想った価値を世の中にぶつけて、その反応を楽しむ、

そしてライバル他社とは競争ではなく、競創と共創を楽しむ、

そして最終的に、お客様から「払ってもいいよ」というお金をいただく、

という遊びです。


1日や1年のうちに、休みたいときに休み、仕事をやりたいときに仕事をやる。

そうしたワーク/ライフが無境界にクロスオーバーする働き様、生き様を

私は志向しています。(誰もがやれるスタイルではありませんが)


なお、私はここで

「W/Lバランス」と「W/Lブレンド」の双方を比較しましたが、

どちらが良い・悪いという問題ではありません。

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