4) 組織と個人・人とのつながり Feed

2014年1月16日 (木)

「組織人」と「仕事人」~働く忠誠心はどこにあるか


あなたの働く忠誠心は、組織(会社)にあるだろうか? それとも職業・仕事にあるだろうか? その忠誠心の置き方によって「組織人」の意識と「仕事人」の意識とに分かれる。

【組織人(会社人)の意識】
・雇用される組織(会社)に忠誠を尽くす
・組織(会社)とはタテ(主従)の関係
・組織(会社)が要求する能力を身につけ、会社が要求する成果を出す
・組織(会社)の信頼で仕事ができる
・組織(会社)の目的の下で働く
・組織(会社)は船。沈没したら困る。下船させられても困る
・組織(会社)内での居場所・存在意義を見つけることに敏感
・みずからの人材価値についてあまり考えない
・組織(会社)ローカル的な世界観
・「一社懸命」

【仕事人の意識】
・自分の職業・仕事に忠誠を尽くす
・組織(会社)とはヨコ(パートナー:協働者)の関係
・仕事が要求する能力を身につけ、仕事を通じて自分を表現する
・自分の能力・人脈で仕事を取ってくる
・自分の目的に向かって働く
・組織(会社)は舞台。自分が一番輝ける舞台を求める。舞台に感謝する
・世に出る、業界で一目置かれることを志向する
・自分が労働市場でどれほどの人材価値を持つかについてよく考える
・コスモポリタン(世界市民)的な世界観
・「一職懸命」



私のように個人で独立して事業を行っている場合は、依って立つ組織はないので当然、「仕事人意識」100%で働くことになる。一方、会社員や公務員のように 組織から雇われている場合は、この2つの意識の混合になる。たいていの人は、やはり組織人意識の割合が大きくなるだろう。だが、なかには仕事人意識が勝っ ている人もいる。



◆自分を勤務先で紹介するか・仕事内容で紹介するか
自分のなかでどちらの意識が強いかは、たとえば下のような自問をしてみるとよい。自分が一職業人として社外で自己紹介するとき、XとYのどちらのニュアンスにより近いだろうか。

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【Xタイプ】
〇「私は〈 勤務会社 〉 に勤めており、
 〈  職種・仕事内容  〉を担当しております」。

【Yタイプ】
〇「私は〈 職種・仕事内容 〉の仕事をしており、(今はたまたま)
 〈 勤務会社 〉に勤めております」。

Xは「組織人」の自己紹介ニュアンスである。組織人であるあなたを言い表すものとして、まず勤務先があり、次に任された職種・仕事内容が来る。他方、Yは「仕事人」のものである。仕事人はまず職種・仕事内容で自己を言い表す。そしてその次に勤めている組織が来る。

仕事人の典型としてプロスポーツ選手の場合で考えてみよう。たとえば、米メジャーリーガーのイチロー選手の場合、どうなるかといえば、「私は〈プロ野球選 手〉の仕事をしており、今はたまたま〈ニューヨーク・ヤンキーズ〉に勤めております」だ。数年前であれば、後半部分は「今はたまたま〈シアトル・マリナー ズ〉に勤めております」であった。

野球にせよ、サッカーにせよ、プロスポーツ選手たちは、仕事の内容によって自己を定義する。彼らは「組織のなかで食っている」のではなく、「自らの仕事を直接社会に売って生きている」からだ。彼らにとっての仕事上の目的は、野球なり、サッカーなり、その道 を究めること、その世界のトップレベルで勝負事に挑むことであって、組織はそのための舞台、手段になる。そういう意識だから、世話になったチームを出て、 他のチームに移っていくことも当然のプロセスとしてとらえる。ただ、それは組織への裏切りではない。“卒業”であり、“全体プロセスの一部”なのだ。


◆「組織人×依存心」=「雇われ根性」が生む諸問題
さて、ひるがえって日本の働き手で圧倒的多数を占める組織人に話を移そう。言うまでもなく、戦後の日本は、組織が「終身雇用によるヒトの抱え込み×年功ヒエ ラルキー型」を強力に実行し、そのなかで労働者が忠誠心を組織に捧げて、与えられる仕事を真面目にこなしてきた。労使を挙げて、コテコテの組織人が大量に 生産された時代だった。

ここで組織人やその意識を悪く言うのではない。私自身もサラリーマンとして働いた17年間の蓄積があればこそ独立 ができた。会社が過去から蓄えたノウハウを伝授してもらい、会社の信頼度で仕事を広げ、人脈をつくり、会社のお金で研修もさまざまに受けた。組織人である ことのメリットを感じながら、それを最大限活かし成長していく意識は、むしろ奨励されるべきことである。

問題なのは、組織人意識が依存心と結びついた場合である。「組織人×依存心」は、いわば「雇われ根性」を働き手に染みつかせ、さまざまな問題を誘発する。下は組織人と仕事人の仕事意識を図化したものである。

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組織人の図式において着目すべき点は、仕事が組織のなかに囲われているということだ。これは、組織が雇用や人事権、業務命令権などを通して仕事を実際的に握っていることもあるが、本質的には、働く個が、「自分はその仕事分野で独立しているわけでもなく(するつもりもなく)、仕事は組織のなかにあり、組織から受けるものである。突き詰めれば今のこの仕事は自分のものではない」という意識を表している。必然的に、働く個は、組織との関係を「タテの主従」関係ととらえる。組織人はそのタテ関係を前提にしたうえで、頑張ろうとする。

他方、仕事人の意識はまったく異なる。仕事人は、たとえ組織に雇われの身であっても、「今のこの仕事は自分のものである」と強く認識し、仕事を自分のなかに収めている。そして「組織は自分に機会と場を提供してくれる存在であり、この組織でずっと働くかもしれないし、将来独立することだってあるかもしれない」と考えている。そこには担当仕事を一つの職業として抱く、プロフェッショナルとしての矜恃がある。

ともかく組織人は、仕事は組織から発生し、組織から言い渡されるものだという心の姿勢に傾きやすい。そこに依存心が混じるとどうなるか───自律性が脆弱化する。

個々の働き手の自律性の弱まりは、さまざまな症状になって現われる。言われたことはやるが言われた以上の仕事はしない、先回りした行動ができない、仕事をつく り出せない、自身の役割を広げることをしない……などだ。また、そこで問題が根深いのは、本人は仕事をそれなりにこなしているという自覚でいることであ る。ともかく、いろいろと“お膳立て”をしてやらなければ、十分な仕事をやれない状態になる。


◆組織の不正・不祥事の温床
もう1つ、組織人の意識が潜在的に抱える問題について指摘しておこう。それは、顧客目線が組織都合になりがちであることだ。組織人は自分が雇ってもらっている組織を船とみる。当然、その船が沈没したり、自分が下船を命じられたりすることを極端に怖れる。そのために、組織の自己保存ための方策には寛容的にならざるをえない。

たとえば、顧客に対して、ある売り方や取引条件が組織に都合よすぎるという状況があったとしよう。あなたが一消費者の立場からみたときに、それは理不尽であ り、あきらかに売り手のわがままだと感じている。さて、そのときに、あなたは組織に向かって「そのやり方は改めるべきです」と言い切り、変革の行動に出ら れるだろうか。

わかりやすい例を出してみよう。あなたは、ある中堅食品メーカーに勤めて10年になる。ここ最近、会社の業績がかんばしく ない。従業員減らしが始まるという噂も耳にする。そんななか、ある商品の売れ行きが好調で、それがかろうじて会社の売り上げを支えている。社長からの命令 で、あなたの部署もその商品の拡販をやることになった。が、その商品は食材偽装まがいのもので、法律の網をくぐったきわどいものであることを知った。その とき、あなたは組織に対し、どう行動できるだろう。

もちろん、いまこれを読んでいるあなたは、頭のなかで「そんな犯罪じみたことはやりた くない。会社に反対意見を言う」となるだろう。しかし、現実に目の前に会社の倒産が見え隠れし、あるいは、自分の解雇の脅威があったなら、ほんとうにそこ で組織に背けるだろうか。仕事人意識を強く持って働いている人間であれば、仕事は自分のなかにあり、他で雇われうる力も保持しているだろうから、そこを去 ることは十分できるのだが。

実際、企業や官公庁でさまざまな不正・不祥事が起こる。そのときの要因を探っていくと、組織の自己保存・そこ で働く者たちの自己保存が至上目的化して生じるケースが後を絶たない。いずれにせよ、組織人の意識に依存心が加わると、顧客目線が組織都合になったり、組 織の自浄作用が弱まったりする害が起こる。


◆「出世」とは何か?
ところで、「出世」とはどういうことだろう。組織人のとらえ方としては、部長に上がったとか、役員になったとか、そういう社内の階段を上っていく話になる。

電通の元プロデューサーとして有名な藤岡和賀夫さんは、『オフィスプレーヤーへの道』の中の「“出世”の正体」という章でこう書いている。

「自分の会社以外の世界からも尊敬される、愛される、
それは間違いなく『世に出る』ことであり、『出世』なのです。
そこで肝心なことは、『世に出る』と言ったときの『世』は、
自分の勤めている会社ではないということです。
(中略)
自分の選んだ会社を“寄留地”として、
そこを足場として初めて『世に出る』のです。
(中略)
“寄留地”を仕事の足場として、ビジネスマンという仕事のやりかたで、
もっともっと広い社会と関わっていくということが『世に出る』ということなのです」。



以前、韓国のあるIT会社のマネジャーから面白い話を聞いた。その会社では、マネジャークラス以上の人間は、少なくとも年に1回、業界のカンファレンスやビ ジネスエキスポなどで講演やセミナーをしなければいけない、というルールがある。実行できなければ、降格評価の材料となるそうだ。「社内の管理業務だけに 閉じこもっているな。社外に開いて、『この分野に○○社あり』『この分野に“誰々”あり』とアピールしてこい」というもので、これは、いわば、「組織内“仕事人”」をつくり出す方針として注目に値する。


◆ほんとうの「愛社精神」とは
元プロ野球選手の松井秀喜さんは、読売巨人軍を去って、ニューヨーク・ヤンキーズに入団した。だが、松井さんの巨人を愛する心はいまもって深いだろう。でき るかぎりの恩返しはしたいにちがいない。仕事人であっても、かつて所属した組織への愛情を注ぎ、恩に報いることはできるのである。逆に、組織人であって も、組織に愛情や恩情を注がない人もいる。そのくせ、組織への「ぶら下がり意識」は強いことさえある。

ほんとうの「愛社精神」とは、組織 に雇用され続けたいという下心から起こるものではない。世の中にどんな価値を届ける事業が望ましいか、顧客のためにどんな商品・やり方が理想であるか、な どの共通の目的のもとに、組織と個人が対等な立場で言い合える関係のなかで生まれるものである。だから、ほんとうの愛社精神を持った個人は、ときに組織に 対して苦言を呈することもあるのだ。

また、次のような愛社精神の表れもある。IBMやアクセンチュア、リクルートといった企業は、仕事人意識の強い人たちが多く集まる。したがって彼らは転職で出て行くケースが多い。しかし、社外に巣立った人たちは、元の会社と継続的に関係を保持しながら、 場合によっては、競合しながら業界を育て盛り上げていくことをしている。彼らは元の会社での武勇伝をそこかしこで披露し、いかに自分がそこで育てられたか を語る。そういった話が業界に流布すると、その会社に人財が流入しだすということが起こる。つまり、人財をよく輩出する組織は、人財をよく取り込めるという循環が生まれるのだ。巣立った人びとの武勇伝が、元の会社への強力な恩返しになっているわけである。

繰り返して言うが、組織人の意識自体が悪いわけではない。ただ、組織人の意識は、本質的に、依存心と結びつきやすく、保身的、閉鎖的な姿勢に陥りやすい。だ からこそ、仕事人の意識を意図的に取り込む努力をしなければならない。仕事人の意識は、自律心を呼び起こし、革新的、開放的な姿勢を強める。ともかく日本 の会社・官公庁は、「組織ローカルな人間」を育てすぎるし、働き手本人たちもそこに安住したいと望む傾向がある。私はみずからが行う人財育成プログラム で、「仕事コスモポリタン」を増やしたいと思っている。その仕事分野において、境界を越えていく世界市民的な人間が日本の仕事現場には少ないからだ。




2011年1月14日 (金)

上司と部下の健全な関係


Stoyok100115 いま発売中の『週刊東洋経済』(1月15日号)の特集記事は「管理職超入門」。
昨年末にその一部分の取材を受けました。記者の方といろいろ話す中で、ひとつ盛り上がったのが、上司と部下の健全な関係性について。
きょうは雑誌にも掲載された1つの図を使ってそれにつき触れます。



* * * * *

◆上司/部下の関係タイプ分け

世の中には、それこそ数え切れないほどの上司と部下がいます。
そしてそれらの関係状況も実にさまざまです。
上司と部下の関係は、業務を遂行するためだけの機能的で淡白な状況もあれば、
個人レベルで双方が親しくなる状況もあります。
あるいは、上司が半ば恐怖政治のような環境をつくり、
部下を服従させている状況もしばしば見受けられます。
そんな上司と部下の関係を、関係の深さと健全性の二軸でタイプ分けしてみると
こんなようになるでしょうか。

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おそらく現在のあなたの上司と部下の関係も、
これらのうちのいくつかをブレンドした形だと思います。

上司と部下の関係でもっとも基本的でシンプルなものが「監督者/作業者」型です。
これは職務遂行のために「私監督する人/私作業する人」という関係で、
給料をもらうためには各々がきちんと責任をまっとうする―――
それ以上でもそれ以下でもありません。

そしてここを中心に右上方向に位置していくのが健全で関係性の深いタイプです。
逆に左下に位置していくほど不健全で関係性の浅いタイプになります。

組織内で目指すべき健全な関係は、
「指導者(よきリーダー)/賢従者(よきフォロワー)」型です。
この関係性においては、上司も部下も、無機質な「監督者/作業者」よりも
相互に信頼感を持ち、より高いレベルの職務遂行に向かって進んでいく姿勢があります。

上の図で、「サポーター/ドリーマー」型や
「師匠/弟子」型が最も右上に位置づけされている理由は、
上司も部下ももはや一組織人という立場を超えて(ときに利害を超え)、
夢や志を追い、道を究めようとする一人間同士の啓発的な関係になっている点です。

他方、健全な関係といえないのが、
「王様/家来」、「カリスマ/信奉者」、「キツネ/タヌキ」、「暴君/弱衆・下僕」
といったものです。これはいわずもがなです。

さて、ここでひとつトリッキーなタイプが指摘されます。
それは「親分/子分」関係です。

親分/子分の関係は独自の信頼関係から成り立ち、ある意味団結が強く、
実際に多くの会社では組織を動かす原動力にもなっています。
個人的にもある上司とウマが合って、その上司から寵愛を受け、
引き抜き昇進に授かれば部下にとっても悪い話ではありません。

◆親分/子分関係の問題点
しかし、この関係には問題も多くあります。
親分の言ったことになかなか子分は逆らえない。
子分の昇進は、親分の社内での政治力や
親分への取り入り方のうまさで左右されるところから、
子分はやがて太鼓持ちかイエスマンになってしまう。
また、派閥めいた固まりは組織に硬直性を持たせることにつながる。
そして何より、「親亀こけたら皆こける」の状況が生じることです。

上司/部下の目指すべきタイプは「指導者/賢従者」だと言いましたが、
そこでは、双方の意識はまず「よい仕事を行う」ことに向けられています。
したがって、部下にしても、もし上司が仕事達成のために不適切な指示を出したら、
意見を遠慮なく言うことができます。
つまり「仕事」が上位で、「上司」が下位だからです。
ところが、親分/子分関係では、これが逆の順位になってしまいます。
仕事の達成を互いが最優先と認識して、それを媒介にしながら、
上司と部下が能力を出し合う協力関係が健全な姿といえます。

◆最終的に上司と部下は呼び寄せ合っている
「サラリーマンでいるかぎり、上司は選べない」―――
多くの会社員はこう思って(悟って? あきらめて?)います。

……しかし、はたしてそうでしょうか。
私がいろいろな組織の、いろいろな上司-部下関係を観察するに、
上司と部下は最終的に呼び寄せあっているように思えます。
人は、3年、5年、10年、20年という時間をかけ、
その人の内面的な境涯に応じた環境にみずからはまり込んでいくものです。

志を掲げて高い意識で働いている部下は、
優柔不断で明快な意志を持たない上司から次第に離れていき、
やがて同じような目的観を強く持った上司をつかまえ、その下に行きます。

保身でなぁなぁにやりたいと思っている部下は、
やはり保身で適当にやればいいと思っている上司の下で
馴れ合い関係を保とうとします。
(タヌキとキツネで互いを利し合っている関係性は意外と長続きする)

何かに怯えるように働く部下には、
サディスティック(加虐的)な上司がますますサディスティックになります。
意気軒昂な部下なら、さっさとそんな上司の下から抜け出してしまいますが、
それができない部下も(第三者から見れば不思議ですが)世の中には多いのも事実です。

さらに言えば、上司がいやな部下は、ついには自営業を始めてしまうのです。

いずれにしても、部下と上司の人間関係は、
仕事上の「おおいなる目的」があって、それを実現するための手段でしかない。
手段に振り回されるのも、手段をうまく用いるのも、
すべては自分自身の目的観・意志の強さ、勇気ある行動による。


 

2010年11月21日 (日)

「人材」と「人財」の違いを考える


Kyoto2869r 
京都にて(1)


◇ ◇ ◇ 考える材料 =1= ダイヤモンドの2つの価値 ◇ ◇ ◇

ダイヤモンドには2つの「価値」側面がある。
つまり、ダイヤモンドは高価な宝石として取り引きされる一方、
研磨材市場においても日々大量に取り引きされているのだ。
前者は「財」(たから)としての価値が扱われ、
後者は「材」としての価値が扱われている。
1粒1粒のダイヤモンドは、産出されるやいなや、
「財」商品に回されるか、
「材」商品に回されるか決められてしまう。

では、この両者の境界線はどこにあるのか。
それを一言で表せば「代替がきく」か「きかない」かである。

「財」はその希少性・独自性から代替がきかない。
だから大粒のダイヤモンドは宝飾品として重宝され、高い値段がつく。
石によっては、家宝として代々受け継がれるものもある。
一方、研磨材として利用されるダイヤモンドは、
その1粒1粒の大きさや品質に特出したものがなく、その採掘量は多い。
その硬いという性質から研磨材に回されるわけだが、使い減ってくれば、
やがて新しいものに取り替えられる運命にある。
消耗品としてのダイヤモンドの姿がそこにはある。

◆代替されるから「材」/代替されないから「財」
ダイヤモンドにみる「財」と「材」の価値差は、
私たち一人一人の働き手にもまったく同じことが当てはまる。
「その仕事はあなたでしかできないね!」と言われる人は、
代替がきかないゆえに「人財」である。
逆に、「その仕事はあなたがやっても、他の人がやっても同じ」と言われてしまう人は、
代替がきくゆえに「人材」なのだ。

景気に左右されず、いつの時代にも「財」としてのヒトは足りないものだ。
ピーター・ドラッカーは『プロフェッショナルの条件』の中で医療機関を例に出し、
病院には技術機器が多く投入されているが、ヒトは減っていない。
逆にそれを使いこなす高度で高給なヒトが余計に必要になっている旨を書いている。

労働力はいま、はっきりと二極化していく流れになっている。
人「材」は若くて安い労働力、もしくは機械に取って代わられ、飽和していく。
その一方、人「財」はかけがえのない価値を持つがゆえに、
ますます尊ばれ、逼迫していく。
自分が「材」に留まるのか、それとも「財」に昇華していくのか、
ここは人生・キャリアの重大な分かれ目となる。

 “Always be a first-rate version of yourself,
instead of a second-rate version of somebady else. ”

「他人の物真似で二流でいるより、自分らしくあることで一流でありたい」。
                                 ―――ジュディ・ガーランド(米国女優)



◇ ◇ ◇ 考える材料 =2= ヒトを資源とみるか資本とみるか ◇ ◇ ◇

最近、名刺交換をすると、「人財開発部」とか「人財育成担当」とか、
“人材”という表記ではなくて、
“人財”という漢字を当てる会社が増えてきたように思う。
これは、それだけヒトが重要だと認識する組織が増えてきた流れであるのだろう。

私たちの家の中には、火事などで消失してしまいたくない物がたくさんある。
成長と共に使い慣れてきた箪笥、思い出の詰まった写真アルバム、
海外で買ってきたお気に入りの食器、プレゼントでもらった置時計、
新品のスーツ、最新機種の大型液晶テレビ、データを蓄積したパソコン……
これらはみんな「家財」である。財(たから)の価値がある。

同様に、組織で働くヒトは、大事な「財」である。
だから「人財」と書きたい。
「人財」という表記は、ヒトを大切に思いたいという意思表明なのだ。

◆Human ResourceかHuman Capitalか
これは英語表記でも同じことが言える。
日本でも一般化している「HR」とは“Human Resource”のことだ。
これは、ヒトを“資源”とみている
このとらえ方の下では、ヒトは使い減ったり、
適性がよくなかったりすれば取り替えればよいという発想になる。
そして経営者は、ヒト資源を他の資源(モノ・カネ・情報)とどう組み合わせて、
最大の成果を出すかをひたすら考える。
ヒトは「材」という考え方に近い。

その一方で、“Human Capital”という表記も増えてきた。
これは、ヒトを“資本”とみる
この場合、ヒトは長期にわたって価値を生み出すものであり、
生産のための貴重な元手ととらえる。
したがって、経営者は一人一人に能力をつけさせ、
そのリターンをさまざまに期待する発想をする。
すなわち、「人財」の考え方だ。

ヒトを大切に考えるかどうかは、
実はこうした些細な表記文字によって推しはかることができる。



◇ ◇ ◇ 考える材料 =3= 石組みとブロック積み ◇ ◇ ◇

武田信玄は「人は石垣、人は城」と言った。
1人1人違った個性が心をひとつにして石垣、城となれば、
難攻不落の基地ができあがるとの意味だろう。

さて、石垣を造るのに、1個1個形の違う石を組み合わせて完成させるのは、
技術的に難しいし、手間や時間がかかる。
しかし、いったん巧みに組んでしまえば、なかなか崩れない。
それに比べ、レンガブロックを積み上げる建造法は、
形状と質を規格化し均一化したブロックを扱うため、技術的には容易で、
スピーディーに柔軟的に建造ができる。しかし石垣ほどの頑強さは出ない。

事業組織は、実に多様な個性をもつヒトの集まりである。
1人1人の働き手を、1個1個形の違う石として活かし、
事業という建造物を組み立てていくのは、
経営者にとって、人事担当者にとって、上司にとって、
とても手間がかかるし、煩わしいし、忍耐と根気の要る作業となる。
しかし、そうして成就させた事業というのはとても強いものになる。

その一方、働き手を組織の要求する
人材スペックの枠にはめ込み、技能・資格を習得させ、ある価値基準に従わせる
―――
つまりヒトを規格化し、均質化したブロックにすることで、
事業目標をスピーディーに効率よく達成させるという方法もある。
経営者にとって、人事担当者にとって、上司にとって、
働き手をブロックにしたほうが何かと扱いがラクになるのだ。
しかし、人びとの関係性は粘りのあるものでなくなり、失うものも多い。

もちろんこの2つは両極の姿であって、実際の組織はこの両極の間のどこかで
ヒトをある割合「石」ととらえ、ある割合「ブロック」ととらえながら用いていく。
組織にとって大事なことは、
1人1人の働き手を極力個性ある「石」として活かすことだ。
ヒトをいたずらに「ブロック」化して、取っ換え引っ換えやればいいと考える組織は、
早晩、ヒトが遠ざかっていく。
また、働き手にとって大事なことは、
他と代替のきかない「石・岩」となって輝くことである。
決して没個性な「ブロック」になってはいけない。
組織にとってブロックは使い勝手がよく、同時に取り換え勝手もいいのだ。



◇ ◇ ◇ 考える材料 =4= 宮大工棟梁の言葉 ◇ ◇ ◇

西岡常一さんは、
法隆寺の昭和の大修理(1300年ぶりといわれる)を行った宮大工の棟梁である。
『木のいのち木のこころ〈天〉』(草思社)から、彼の言葉を少し長いが引き出してみる。

  「口伝に『堂塔建立の用材は木を買わず山を買え』というのがあります。飛鳥建築や白鳳の建築は、棟梁が山に入って木を自分で選定してくるんです。それと『木は生育の方位のままに使え』というのがあります。山の南側の木は細いが強い、北側の木は太いけれども柔らかい、陰で育った木は弱いというように、成育の場所によって木にも性質があるんですな。山で木を見ながら、これはこういう木やからあそこに使おう、これは右に捻(ねじ)れているから左捻れのあの木と組み合わせたらいい、というようなことを見わけるんですな。これは棟梁の大事な仕事でした。
  今はこの仕事は材木屋まかせですわ。ですから木を寸法で注文することになります。材質で使うということはなかなか難しくなりましたな。材質を見る目があれば、この木がどんな木か見わけられますが、なかなか難しいですな」。

  「この大事なことを分業にしてしまったのは、やっぱりこうしたほうが便利で早いからですな。早くていいものを作るというのは悪いことではないんです。しかし、早さだけが求められたら、弊害が出ますな。

  製材の技術は大変に進歩しています。捻れた木でもまっすぐに挽(ひ)いてしまうことができます。(中略)木の癖(くせ)を隠して製材してしまいますから、見わけるのによっぽど力が必要ですわ。製材の段階で性質が隠されても、そのまま捻れがなくなるわけではありませんからな。必ず木の性質は後で出るんです。それを見越さならんというのは難しいでっせ」。

  「そうした木の性格を知るために、木を見に山に入っていったんです。それをやめてどないするかといいましたら、一つは木の性格が出んように合板にしてしまったんですな。合板にして木の癖がどうのこうのといわないようにしてしまったんですわ。木の性質、個性を消してしまったんです

  ところが癖というのはなにも悪いもんやない、使い方なんです。癖のあるものを使うのはやっかいなもんですけど、うまく使ったらそのほうがいいということもありますのや。人間と同じですわ。癖の強いやつほど命も強いという感じですな。癖のない素直な木は弱い。力も弱いし、耐用年数も短いですな。
  ほんとなら個性を見抜いて使ってやるほうが強いし長持ちするんですが、個性を大事にするより平均化してしまったほうが仕事はずっと早い。性格を見抜く力もいらん」。

  「曲がった木はいらん。捻れた木はいらん。使えないんですからな。そうすると自然に使える木というのが少なくなってきますな。使えない木は悪い木や、必要のない木やというて捨ててしまいますな。これではいくら資源があっても足りなくなりますわ」。

  「依頼主が早よう、安うといいますやろ。あと二割ほどかけたら二百年は持ちまっせというても、その二割を惜しむ。その二割引いた値段で「うちは結構です」というんですな。二百年も持たなくて結構ですっていうんですな。千年の木は材にしても千年持つんです。百年やったら百年は少なくても持つ。それを持たんでもいいというんですな。ものを長く持たせる、長く生かすということを忘れてしまっているんですな。

  昔はおじいさんが家を建てたらそのとき木を植えましたな。この家は二百年は持つやろ、いま木を植えておいたら二百年後に家を建てるときに、ちょうどいいやろといいましてな。二百年、三百年という時間の感覚がありましたのや」。


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Kyoto2860rr 
京都にて(2): 関西出張に合わせ、1日延泊して京都の紅葉見物へと思うのですが、京都市内の
ホテルは平日でもどこも満室で取れない状況です。不景気どこ吹く風という感じです。
古都の魅力は、同じ場所に来ても、前回気づかなかったことがいろいろと見えてくることでしょうか。
それは「変わらず高くある」ものの大きさゆえでもあり、
年齢を重ねるごとに自らの未熟さを知る自分の小ささゆえでもあります。





2010年8月23日 (月)

部課長の対話力〈4〉~自分は何によって憶えられたいか?



◆部課長が引き受けるべき5つの役割
中間管理職である部長・課長の役割とは何でしょうか? 
もちろん部や課という任された組織単位を管理・監督することは当然です。
しかし実際は一役職者のみならず、一職業人、一人間として多くの役割を担っています。
私は次の5つの役割があると思っています。

 〈1〉 担当組織(部や課)の管理監督者として
 〈2〉 価値の翻訳者として
 〈3〉 才能の孵化親として
 〈4〉 職業人のロールモデルとして
 〈5〉 良識・見識ある一人間として

1つめは自明ですので、2つめの「価値の翻訳者」としての役割からみていきます。
これは部下とのコミュニケーション上、とても大事なものです。
すなわち会社組織においは、経営者(層)からいろいろなメッセージが発信されたり、
全社的な方向性やら目標が現場に下されたりしますが、
たいていそれらはエッセンスの部分だけであったり、ときとしてあいまいな表現だったり、
飛躍のある結論であったりして、周辺の細かな説明は省かれています。
ですから、それを中間にいる部課長が、経営者の意図する価値を損なわないまま、
きちんと翻訳して現場に下さねばなりません。

経営者の言ったことを言ったまま現場に落とすなら、それは「伝書鳩」にすぎません。
経営者の言うことは、ビジョンや理念、方針、目的、全体目標であって、
そこにはどうしてもいろいろな矛盾や無理、非合理、夢物語が混じってきます。
しかし、役割分担から言えばそれでいいのです。経営者はリーダーであって、
それを現場で具体的に動かすのが部課長=マネジャーの仕事だからです。
部課長は、経営者の発信をみずからの部署の状況に合わせ、部下の個人状況に合わせ、
柔軟的に解釈を施してコミュニケーションすることが求められます。


◆人を育てることは自分の裾野を広くすること
次に3つめの役割が「才能の孵化親」です。
これは言うまでもなく一人一人の部下の内の才能を育み、
よき人財として成長させてやるという役割です。

ときに業務能力に長けた部課長は、自分で仕事を片付けてしまった方が手っ取り早いため、
大事な部分の仕事を部下に任せず、彼らの成長機会を奪っているということが起こります。
また、プレーイング・マネジャーは部下育成のための時間が思うように取れないのが現状です。
こうして部課長の中では「才能の孵化親」としての役割をほとんど果たさないケースが増えています。
しかしこれは、部下にとっても、組織にとっても損失であるばかりでなく、
その部課長本人にとっても大きな損失となります。

というのは、キャリアは10年、20年単位で展開されるもので、
目先の上司/部下関係というのは仮の関係でしかないからです。
10年後、20年後、部下や後輩たちが自分の配下から社内外に巣立っていき、
仕事のパートナーとなったり、同志となったり、
あるいは逆転して上司になったりすることは普通に起こりえます。
実に 「後生畏る可し」 (こうせいおそるべし)なのです。
自分が育てた人財たちは、将来、自分を押し上げてくれる存在に十分になるのです。

人をさまざまに育てた部課長であればあるほど、自身のキャリアは裾野が広くなると考えてください。
裾野の広い山は高い峰を形成することができます。
「情けは人のためならず」ということわざがありますが、
同様に「育成は人のためならず」と言えるでしょう。
人を育てたことは、巡り巡ってすべて自分に返ってくるのです。


◆結局、一人間としてどんな姿を見せるか
そして4つめに部課長は、「職業人のロールモデル」として
部下たちから模範とされる働き様、生き様を体現する役割を負っています。
私たちは知識や技能は書物や自己の経験から学ぶことができます。
しかし、「いかによりよき職業人となるか」については、人を通してしか学ぶことができません。
その場合、最も大きな影響力を持つのが日常の職場で身近に接する部課長なのです。

部下や若年層社員から「ああいうマネジャーになりたいな」、「あんな存在になれればいいな」、
「本当のプロフェッショナルって、ああいう働き方のことなんだろうな」
と思われる部課長が多くいる組織は、人財輩出組織になるでしょう。

逆に、若手から「ああはなりたくないね」、「給料泥棒の管理職が多いんじゃないの」、
「この会社で働き続けても先が見えてるな」といった視線で見られる部課長が多い組織は、
早晩、人財流出組織になってしまいます。

最後5つめは「良識・見識ある一人間」としての役割です。
上司と部下の付き合いは、最終的には一人間同士の付き合いに帰結します。
世間話や趣味話といった雑談のときにでも、部下は、
自分の上司がどのような観で物事をみているか、どのような視点で評価しているか
をきちんと観察しています。

また部下は同時に、上司が一私人・一生活人として
どのような価値を軸にして人生を送ろうとしているのかも鋭く見ています。
つまり一人間としての良識・見識は信頼に足るものか、生き方の基軸は魅力的か
などを感じ取ることにより、最終的に上司との付き合うレベルを決めているのです。

部課長がどれだけ一役職人として巧みに指示命令を出そうと、
どれだけ一能力人として優れて仕事を処理しようと、
一人間として良識・見識を欠いていては部下からの本当の信頼は築かれません。
例えば、取引先との電話を切るや否や、あるいは、役員との社内電話を切るや否や、
「いやぁ、あいつらはまったく話の通じない連中だ」とばかり、
丁寧だった口調がいきなり変わり業者や経営層批判を言い出す部課長がいます。
こうした裏と表のある言動をする部課長は絶対に信頼されません。
部下たちも、自分だって陰でこの上司に何と言われているかわからないもんだと猜疑心が募るばかりです。

部とか課といった顔の見える範囲での組織においては、
人をまとめていくベースは、やはり良識・見識に基づいた一人間同士の人間関係になります。


◆「自分は何によって憶えられたいか」~人生の目的を言葉に落とす
さて、部課長は管理監督者として毎期毎期、部下に業務上の目標を立てさせます。
これはこれで組織にとって必要なことではあります。
しかし、この目標設定が、義務感による習慣であったり、
機械的な達成数値の割り当てになったりしていないでしょうか。
そうした惰性の目標設定になっている場合、上司と部下の気持ちはどうなるかといえば、
―――「結局、給料をもらうためには目標立てなきゃダメだろ」(上司)、
「そうですね、給料のためにはしょうがないですね」(部下)となりがちです。

部課長はこれまで述べたように、管理監督者よりももっと多面的でふくらみのある存在です。
部下を一職業人、一人間としてもっと大きく見守ってやらねばなりません。
そのときに部下の将来をどう慮ってやれるのか?―――
そんな角度で私が考えることは、ピーター・ドラッカーの次の言葉です。

  「私が一三歳のとき、宗教のすばらしい先生がいた。
  教室の中を歩きながら、『何によって憶えられたいかね』と聞いた。
  誰も答えられなかった。先生は笑いながらこういった。
  『今答えられるとは思わない。でも、五〇歳になっても答えられなければ、
  人生を無駄にしたことになるよ』」。
                                
(『プロフェッショナルの条件』より)


これはズシンとくるエピソードです。
漫然と生きることを自省させてくれる問いかけです。
これと同様のことを内村鑑三も言っています―――

  「私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、
  このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も残さずには死んでしまいたくない、
  との希望が起こってくる。何を置いて逝こう、金か、事業か、思想か。
  誰にも遺すことのできる最大遺物、それは勇ましい高尚なる生涯であると思います」。
                                                 (『後世への最大遺物』より)


こうした、自分が生涯を通し「何によって憶えられたいか?」、「何を遺したいか?」との設問を、
部課長は若い部下たちにどんどん投げかけてやってください。
期ごとの業務目標ばかりに意識を縛るのではなく、
中長期の人生・キャリアといったもっと大きな方向性に思考を広げてやることが上司の務めです。

この設問に答えることは、人生の目的を凝縮して言葉に表現する作業です。
もちろん当座はうまく表現できない部下が多いでしょう。
また、一人の人間の中でも、最初に表した言葉よりもだんだん言葉が明確になっていったり、
言葉が変わったりする場合が出てきます。それはそれでよいのです。
時の経過、行動の蓄積とともに、目的が成熟してくるからです。
いずれにせよ、人生の早いうちに投げかけられたほうが、
本人は早くからそういうことを胸の内に意識します。


◆職場でやりたい「ミッション・ステートメント」ワーク
私が研修で使っているのが次の「ミッションステートメントシート」です。
職場では、例えばこのシートを年末に配り、
年明けの部課のミーティングで各自が披露しあうといった形でやるのはどうでしょうか。


Mission sts


もちろん部課長自身も披露してください。できれば毎年恒例にすればいいと思います。
目的観の進化・深化に合わせて、言葉表現も変わってくるはずで、互いにいい刺激になります。

業務目標だけが圧迫し続ける仕事生活は、いつしか「目標疲れ」を生み、個と組織を疲弊させます。
しかし、人生と仕事にはやはり目標が必要です。
部課長が留意すべきは、
目標を立てるアプローチやプロセスにおいて、きちんと部下と付き合うということです。
そして部下一人一人が大きな目的(夢や志、想いといった意味を含むもの)を描く手助けをしてやることです。
なぜなら、本来、目標立てというのは、ベースになる想いや願いからにじみ出てきて、
かつ、未来の先にイメージする理想から引っ張り上げられるのが最良の形だからです。
また目的はその内に意味的なものを含んでいますから、健全なエネルギーも湧いてきます。
部下のそうしたメンタルな掘り起こしなしに、彼らを芯から燃やすことはできません。

部課長が5つの役割を全うすることはとても大変です。
そしてその役割を全うするために、こつこつと対話を重ねる。これも大変です。
しかし、それこそが部課長としての真の喜びですし、
部下のためにやったことは、最後は巡り巡ってすべて自分に還ってきます。
そうした意味で、部課長のみなさん、いま一度、
「対話する」というコミュニケーションにつき見つめ直しをしてみてください。


2010年8月16日 (月)

部課長の対話力〈3〉~貢献意欲を湧かせる

Syoten01 
●『部課長の対話力』平積み中!

東京・神田駅前の啓文堂書店様にて。
版元のディスカヴァーさんの積極的な営業でなんと110冊も平積み展開していただいた!
著者にとって平積みはウレシイものであると同時に、不安なもの。
1冊1冊はかわいい我が子。
その子の内には自分が世に伝えたいメッセージを込めてある。
これらが1人1人のお客様にお金を頂戴して引き取っていただけるか―――
ブームでどかんと売れる類の本ではないだけに、
私は自著の平積みをいつも祈る気持ちで眺めている。




◆指示・命令に劣らず大事なコミュニケーションがある
上司が部下とやりとりするもろもろのコミュニケーションは何のためのものか?
―――こう問われたとき、みなさんはどうお答えになるでしょうか。
おおかたは「そりゃ決まっている、事業組織においては、指示・命令の伝達が生命線なんだから、
そのためにコミュニケーションをしている」・・・そんな答えになるでしょう。

確かに「伝達のコミュニケーション」は第一に重要なことです。
では、ほかに何があるでしょうか。
このことを考えておくことはとても有意義ですので整理してみましょう。

事業組織において、上司・部下間のコミュニケーションは次の3つに分けられます。

 1) 「情報伝達」 のためのコミュニケーション
 2) 「貢献意欲喚起」 のためのコミュニケーション
 3) 「関係性融和」 のためのコミュニケーション


1番目は冒頭に述べたとおりです。
上司は指示や命令、経営側の意思など諸情報を伝達するためにコミュニケーションを行います。
ひとつ飛んで3番目、上司は部下とスムーズな人間関係をつくるために私語や雑談をします。
これが関係性融和のためのコミュニケーションです。

そして忘れてならないのが、2番目の「貢献意欲喚起」です。
つまり、上司は
部下の1人1人が「事業目的に向かって貢献したい」という気持ちを呼び覚ますために
コミュニケーションをしなくてはならないのです。

経営学者であるチェスター・I・バーナードは『新訳 経営者の役割』の中で、
組織を成立させる3要素として「コミュニケーション・貢献意欲・共通目的」 を挙げています。
この3要素は深読みするといろいろあるのですが、
ともかくこれらのうちどれを欠いても組織たりえないと彼は論じました。

なるほどバーナードの示すとおり、組織は単に人の集まりではなく、
その集団が掲げる目的完遂のために貢献したいという「意欲の集まり」「やる気の束」ととらえるのは
ひとつのうまい定義です。企業とは、文字通り「業を企てる」です。
事業目的を完遂させようという意欲を持たぬ人間の集まりは、烏合の衆であって、
そもそも存続すら危ういでしょう。

◆部下を自分に従わせるのではなく、目的に従わせる
往々にして、部課長というものは、1番目の情報伝達のコミュニケーションに偏りがちですし、
そこに自分の存在意義を込めようとします。
指示・命令の正確な伝達と徹底こそ部課長の役目として、
権力の上下関係を後ろ盾に、部下を自分に従わせようと躍起になります。
そして、部下が従順に従えば従うほど(あるいは従うふりをしたとしても)、
部課長はそこにある種の安堵感を覚えるものです。

しかし本当のところ、部下は仕事上の家来でも子分でもありません。
意欲喚起のコミュニケーションを十分に知っている部課長は、
部下を自分に従わせようとするのではなく、目的に従わせようとします。
つまり目的完遂のために彼らをどう貢献させようか、
その貢献過程で彼ら自身が成長を得られるにはどうはたらきかけをすればよいか、

について頭を巡らせます。

そうした部課長は、
部下に対し「なぜ、あいつは俺の言うことをきかないんだ」とイライラはしません。
「あいつは俺の言うことをきかないが、反骨エネルギーは持っている。
そのエネルギーを目的に結び付けるにはどういう刺激を与えればいいのか」、
そういう発想になるのです。

ある意味、情報伝達のためのコミュニケーションは簡単かもしれません。
「何を・どうやるか」について、職権を土台にして伝達すればよいからです。
一方、2番目の貢献意欲喚起のためのコミュニケーションは、職権パワーはあまり効力がなく、
その上司の語る力、想う力、人間的な包容力、根気が問われることになってきます。
部下を一人の人財として慮り、彼(彼女)の意欲を目的につなげ、
会社を働く舞台とし、仕事を成長機会にしてやる、そうしたことは大変なことですが、
それこそが部課長が行うコミュニケーションのチャレンジングな部分であり、
深い喜びの部分でもあります。

◆好かれる上司が「よい組織」をつくれるわけではない
よい組織における上司と部下の人間関係とはどのようなものか?
―――ピーター・ドラッカーは次のように指摘しています。

  「人間関係に優れた才能をもつからといって、よい人間関係がもてるわけではない。
  貢献に焦点を合わせることにより、初めてよい人間関係がもてるのである。
  生産的であることが、よい人間関係の唯一の定義である。
  仕事に焦点を合わせた関係において成果が何もなければ、温かな会話や感情も無意味である。
  とりつくろいにすぎない」。
                                          (『プロフェッショナルの条件』より)

ここでドラッカーは2つの重要なことを指摘しています。
1つめに、よい人間関係を「生産的であること」と定義したこと。
よい人間関係というと、「掛け値のない相互信頼」とか
「反りが合う」「気楽に付き合える」などと考えてしまいがちですが、
事業組織という中でのよい人間関係とはまさにこのとおり
――皆が目的を共有し、各自がそこに貢献しようと生産的になれる関係――です。

反りが合う、気楽な人間関係はそれに越したことはありませんが、
組織の中ではそれが往々にして派閥や親分子分の連れ添いを生み、弊害となる場合も多いものです。

2つめとして、よい人間関係を持つことは能力・テクニックではないこと。
これはハッとする指摘です。私たちは往々にして、
人間関係の構築を「対人コミュニケーション法」という技術で何とかしようとしますが、
いくらそうした技術を身につけたところで、互いが目的を共有せず、
心がバラバラな状態では決して良好な関係は生まれません。
組織に属する人間たちがさまざまな違いや対立を乗り越えてよい関係が構築できるのは、
技術のあるなしではなく、「共通の想い」のあるなしです。

ですから、部課長が組織を引っ張っていくために最も重要なことは、
目的を皆でしっかり持ち合うようはたらきかけをすることなのです。
上司は部下に好かれなくてはならない、役員に取り入らなければならない、
チームは和気あいあいとしていなければならない、などとやきもき考えだす必要はありません。
自分の想いを真正面から語り、共通目的の下にメンバーが貢献意欲を湧かせ、
生産的になる―――それに専念することです。

1番目の伝達のコミュニケーションに長けた部課長が、
あるいは三番目の関係性融和のコミュニケーションがうまく人気のある部課長が、
必ずしも「よい組織」をつくれるとはかぎりません。

◆至難の旅への男子求む。報酬わずか…
英国の探検家アーネスト・シャクルトン卿は、
1914年、世界初の南極横断をするための冒険隊員募集の広告を新聞に出しました。
その有名な文面はこうです。

  「至難の旅への男子求む。報酬わずか。極寒。暗黒の長い月日。
  絶えざる危険。生還の保証無し。成功の暁には名誉と賞賛を得る」。

―――結果、この広告に5000人もの人が応募したといいます。
シャクルトン卿はリーダーシップ研究の材料にされるほどその後伝説的な冒険をしましたが、
彼が荒くれ男たちを見事に統率できたのは、
「なぜこの冒険をやるのか」「お前たちは歴史をつくりに来たんじゃないのか」
という問いを隊員たちにかけ続け、貢献意欲を湧かし続けたからです。

人間の真のやる気は、意味を感じられる目的の下に生じるものです。
そして意味や目的といったものは、対話によってこそ共有されうるものです。

「なぜ多くの社員がやる気をなくしているのか」、
「なぜ組織の空気がどんよりしているのか」を考える根っこは、
果たして、うちの組織は目的(事業の意義であったり理念であったり)を明確に設定して、
それを皆で共有しているだろうか? そしてそのための対話があるだろうか?
との自問から始めねばなりません。
目的がない、そのための対話もない。そして日々、目標だけが覆いかぶさる組織―――
それでは皆が疲れるはずです。

組織の中には、
「さぁ、うちの部も伝説をつくろうじゃないか」と言ってのける部課長がそこかしこにいてほしいものです。



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