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2013年5月22日 (水)

どっしりと静かだが激しい土の造形───樂茶碗

Rakuyaki


私たちは常に何かしら“表現”したいと望んでいる。きょうはどんな服を着ていこうか、どんなことを話そうか・どんな言葉で話そうか、どんな写真を撮ってネットに上げようか、どんなプレゼントをしようか……現代人はいったい1日のうちにいくつの表現を行っているのだろう。

考えてみれば「職業・仕事」にしても、それは自分の能力と価値観を、意見やアイデア、商品やサービスといった形に表現する行為だと言っていい。それら一人の人間が行う大小あまたの表現は、人に見られたり見られなかったり、評価されたりされなかったり。でも、たいていのものは悠久の時間の波のなかへ泡のようにすっと消えていく。

しかし、なかには、とてつもなく強靭な表現があって、たとえば、聖書や仏典、コーランのように千年単位の時を超えて私たちに影響を与える深遠な物語がある。また、モーツァルトやベートーベンは華麗で荘厳な音の織物を書き上げた。ガンジーやキング牧師は崇高で不屈の生きざまによって、21世紀の私たちに正義とは何かを問いかける。ピカソは油絵という表現によって、ガウディは建築物という表現によって、世阿弥は猿楽という表現によって、いまだに私たちを魅了する。

長い時間の風雪をもろともしない強靭な表現に接することはとても楽しい。その表現を前に、心身が引き締まる楽しさ、咀嚼する楽しさ、圧倒される楽しさ、畏れ敬う楽しさ、インスピレーションをもらう楽しさがある。

そんな強靭な表現のひとつに対面してきた。
過日、関西出張の合間に『樂美術館』(京都市)を訪ねた。折しも「樂歴代名品展」を開催中だった。

「一樂二萩三唐津」(いちらく・にはぎ・さんからつ)という言葉があるように、お茶の世界で好まれる焼きものの一番めにくるのが京都の樂焼である。樂焼はロクロを使わずに手づくねで成形し、一品ずつ小炉に入れて焼くところに特徴がある。約400年前、千利休が樂長次郎に焼かせたときに始まる。樂焼の美と技は、初代・樂長次郎から連綿と継承され、現在、十五代目の樂吉左衛門に至っている。

1枚のガラスを隔てて展示台には、初代・長次郎作の茶碗をはじめ、二代・常慶、三代・道入、四代・一入、五代・宗入らの作品が並んでいる。武骨だけれども流麗、粗に見えて繊細、素ながら綿密。単色のなかの無限の奥行き。目で撫でれば撫でるほどに鈍重な快楽を呼び起こす造形。油断をすればその小さな土の塊にからだ全部が吸い込まれてしまうのではないかと思える強い存在感。一つ一つの器を眺めていると、時間がいくらでも経ってしまう(手のひらで触れることができれば、さらに魅了されてしまうところだが)。「なんで、こんな造形をつくってしまえるのか!」───私は心のなかでそんな感嘆の声を何度も上げながら、ただただ見入るだけ。

長次郎の茶碗は初代にして後の誰をも黙らせるほどの完成度を誇っている。だから、二代目以降の樂家当主は、長次郎を超えることが宿命であるかのように、それぞれが独自の作風を必死になって生み出していくという歴史が生まれた。

樂家十五代・樂吉左衛門さんは、NHKのテレビ番組で、初代・長次郎の茶碗についてこう語っていた───

「動かざる岩みたいにどかんとしていて、だけど静かだっていう」、
「美という範疇からも醜いという概念からも逸脱しているし、両方におさまらない激しさをもっている。そんなものを世の中にぬっと差し出してくる鋭さ、激しさ、意志力」。


……吉左衛門さんもまた、長次郎の遺した器そして長次郎という人間の巨大な壁を目の前に「こんなものをどう乗り越えたものか」と戦う一人の陶工である。

ちなみに吉左衛門さんは、樂焼なるものをしっかりと受け継ぎながら前衛的な試みをする人である。彼が先のテレビ番組のなかで、「言葉なんかにとらえられないところにいきたい」と言っていたのが印象的である。

“どっしりと静かだが激しいもの”───そういう表現を私も遺していきたいと思う。私の場合は著作という形で。たとえば、いま私の机にはマルクス・アウレーリウスの『自省録』(神谷美恵子訳、岩波文庫)がある。マルクス・アウレーリウスは2世紀に生きたローマの哲人皇帝である。彼の書いたものが1900年の時を超えて、いまだ私たちに大きな啓発を与える。どっしりとして静かだが激しい巌(いわお)のごとき内容だから朽ちないのだ。

私は独立して11年目を迎え、その間に8冊の著作を刊行することができた。しかし、どこか時流に乗って売りたい、評価されたい、自分の知見をひけらかしたい、のような下心が排せなかったようにも思う。
そんなとき、美醜を超え、世間の評価など眼中に入れず、ただひたすらに土と炎に向き合い、おのれの造形を突き出し続けた長次郎の生きざまには、はっと気づかされるものがある。

“動かざる岩みたいにどかんとしていて、だけど静かだっていう”書物を著すには、まず、自分という人間がそうなってなくてはいけない。人生は短く、芸の道は長い。想い描く表現を手にするまでの修業はまだまだ続く───。








2013年1月19日 (土)

一を投げかけ十を考えさせる哲学絵本


   1月もすでに半ばを過ぎました。プロ野球の選手たちは自主トレーニングを始め、身体づくりを本格化させています。2月からのキャンプに、ダレた身体でいくことはできません。私も研修仕事が少なくなる1~3月は、大事な春キャンプのシーズンです。ここでの仕込みが1年のよしあしを決めるといってもいいでしょう。スポーツ選手にとっての筋力トレーニングが、私にとっては読書。


   私はもはや多読主義ではありません。「選読」「深読」を重んじます。良質のものを選んで、深く読む。この歳になってくるとそうしたやり方がいいのでしょう。ベテランの選手も、若い頃のように量にまかせてがむしゃらにやる段階から、質を考え量を絞り込む段階に進むのと同じです。

   幸いなるかな、ものを考える作業においては、歳とともに「結晶化」能力というものが発達を続けるので、若い頃に得た断片的な知識が、いまになってさまざまに再編成・再構築され、自分の認識世界が広がっていく、それが面白いところです。昔さっぱり読めなかった古典が、ふぅーっと読めるようになる。難しかった書物の書き手の伝えたいことが、行間から鮮明に立ち上がってくるようになる。良書とは、ある意味、読み手の力量に応じていかようにでも「解釈の発見」を与えてくれるものと言っていいかもしれません。

   また、読むことが成熟化してくると、本の内容の理解というより、その本の書き手がどこまでの懐の深さで書いているかもみえてくるようになります。「この著者は、ここをやさしく書いているけれども、この書き方は、実はその奥のことを深く知っていないと書けない書き方である」とわかるようになるのです。そのようにして、成熟化した読み手は、書き手の「人の器」を同時に読み取ります。ですから、書を読むとは、人を読むことでもあります。

   本を通して人を読むことをしはじめると、その著者がどんな動機で本を書きたかったのか、その文章に結実するまでにどんな思いを内面で繰り広げたのか、などを感じ取ることに面白さを見出すようになります。ですから、ほんとうに読書とは、人格との出会い、思想との出会い、熱との出会いになるわけです。

   さて、そんななかで、きょう紹介したいのは、フランスの哲学博士であるオスカー・ブルニフィエの哲学絵本シリーズです。彼の絵本はいくつかが翻訳書として出版されていますが、そのどれもが、グラフィック・アーティストたちとのコラボレーションで制作されたユニークなものとなっています。グラフィックのテイストに関しては、個人の好みもあるでしょうが、哲学的教育書が新しい表現に挑戦するという意味では、すばらしい成果であると思います。ブルニフィエ博士による文面は、彼の内面に湛えるものを鋭く凝縮した一行一行になっていて、「やさしいけどふかい」ものになっています。


Brenif 01
こども哲学 『いっしょにいきるってなに?』
オスカー・ブルニフィエ(文)
フレデリック・ベナグリア(絵)
西宮かおり(訳)
朝日出版社







「ぼくたち、みんな平等?」───

ちがう。運のいい子と
わるい子がいるもん。

そうだね、でも……

運って、自分でそだてるもの?
それとも、空からふってくるもの?

ツキがあっても、にがしちゃう
ってこと、ない?

運のいいやつ!って、思っちゃうのは、
やきもちのせいじゃない?

ほんとに運だけ?
努力や才能は、関係ないの?



Brenif 02
こども哲学 『よいこととわるいことってなに?』
オスカー・ブルニフィエ(文)
クレマン・ドゥヴォー(絵)
西宮かおり(訳)
朝日出版社







「おもったことはなんでも口にすべきだろうか?」───

ううん、だって、ほんとのこと
言ったら、けんかになること
だってあるでしょ。

そうだね、でも……

それがほんとうのことなら、
けんかくらいしてもいいんじゃない?

うそをついたり、だまっていたりしても、
けんかになることだってあるよね?

どうして、ほんとうのこと言われて、
いやな気持ちになったりするんだろう?


Brenif 03
こども哲学 『よいこととわるいことってなに?』
オスカー・ブルニフィエ(文)
クレマン・ドゥヴォー(絵)
西宮かおり(訳)
朝日出版社







「ひとにやさしくしようとおもう?」───

しなきゃ。でないと、
みんなにきらわれちゃう。

そうだね、でも……

きみがだれかにやさしくするのは、
きらわれるのがこわいから?

好きなのに、
やさしくできないことってあるよね?

みんなに好かれなきゃ
いけないのかな?

きらわれないためなら、
なんでもする?



Brenif 04
はじめての哲学 『生きる意味』
オスカー・ブルニフィエ(文)
ジャック・デプレ(イラスト)
藤田尊潮(訳)
世界文化社





生きる意味は
やりたいことをやり
自分にとっていいと思えるところに行くことだ
と考えるひとがいます

他のひとは
生きることは
決まりに従い
責任をもつことだと思っています

生きることは退屈で
なにも変わったことがなく
ひとはいつも同じことばかりしている
と考えるひとがいます

他のひとは
生きることは刺激的で
おどろきにあふれ
ひとはなんでも創り出すことができる
と思っています。

人生とは 仕事をして収入を得て
社会的な地位をもつことだ
と考えるひとがいます

他のひとは
がんばりすぎて ひとは自分の人生を無駄にしている
働くことで 自分の時間を失っている
と思っています

生きる意味は
どんなにばかげたことであっても
自分の夢を実現しようと努力することにある
と考えるひとがいます

他のひとは
生きる意味は 現実をそのまま受け入れ
毎日をあるがままに生きることだと思っています

Brenif 05



   これらブルニフィエ博士の一言一言は、「一を投げかけて、十を考えさせる」問いとして優れたものだと思います。そしてこの本のどこを読んでも、これらの問いに対する答えはありません。「えっ、これだけの本?」と思ってしまう読者は、答え(あるいは答えの出し方)を与えられることにあまりに慣れてしまった人でしょう。しかし、これこそが哲学なのです。

   哲学とは、そもそも「philosophy=智を愛する」の訳語です。「学」の文字が体系的な学問を思わせる部分がありますが、何か根源的なことを考える、そのプロセス自体がphilosophyです。その意味で、この本は立派に哲学本なのです。

   私が掲げる次の出版プロジェクトは、こうした哲学の絵本を大人向きにつくること。仕事・働くことについて、ほんとうに大事なことの「一を投げかけて、十を考えさせる」絵本を構想中です。表現もこれまで世の中になかったものを考え出すつもりです。そのためのたっぷり刺激と滋養を得る2013年の春キャンプ。一日一日の仕込みがやがて大きく実を結ぶことを楽しみにして。






2012年4月18日 (水)

100年後、自分のヴァイオリンに会ってみたい

 

「私が生み落としたのはまだヴァイオリンの赤ちゃん。
それこそタイムマシンがあれば、
100年後、これがどんなふうになっているか会いにいってみたい」。



先日、あるテレビ番組でヴァイオリン製作職人が紹介されていた。
現在、イタリアに工房を構えるその方は、菊田浩さん。
菊田さんは、NHKのエンジニアを辞めて、
突然、ヴァイオリン製作の世界に飛び込んだという異色の経歴である。

それまで楽器や音楽にはまったく縁がなかったという。
それで食っていけるとも何ともわからない状況で、
大きなリスクを負い、職人の道に入ってしまう、その潔さには共感が持てる。

しかしながら、菊田さんはその後修業を積み重ね、見事、
「ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン製作コンクール」(ポーランド)や
「チャイコフスキー国際コンクール・ヴァイオリン製作部門」(ロシア)など、
その世界最高峰のコンクールで優勝を飾るほどの実力者になってしまった。

冒頭は、(正確ではないかもしれないが)番組中に菊田さんが語った言葉だ。
「100年後、自作のヴァイオリンに会ってみたい」とは、
何とも想いが豊かに滲み出ている表現である。

名器「ストラディバリウス」がそうであるように、
ヴァイオリンは製作者の手を離れ、
幾世代にも渡り、人の手で奏でられ手直しをされてこそ成熟が始まる。
(「ストラディバリウス」はおおよそ300年もの)

ヴァイオリン製作の名職人といえども、
みずから手を施せるのは形をつくるまで。
どれだけ精緻につくろうと、出来たては音色も若く、未完成品なのだ。
長い時間と人の手がなければ、名器にはなれないのである。
だからこそ、我が子を100年の旅に出す親の気持ちが菊池さんに湧いてくるのだろう。


───100年の時間単位で自分の仕事を考えられる。
これは何と素晴らしいことだろう! なおかつ、
───自分の創造物が100年の時間単位で人の手と耳と目を楽しませる。
これほどの仕事の喜びがあるだろうか。


私は、菊田さんを世界最高峰のコンクールで優勝したからといって「成功者」と呼びたくない
自分が死んでも、自分のつくりあげたものが生き残って人びとを喜ばせていく。
そしてそのことを想い浮かべることができる。
その意味で、彼を最高の「幸せ者」と呼びたい
きっとご本人もそうであるにちがいない。



2012年2月24日 (金)

溢れるイメージ、涸れるイマジネーション

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絵本を一冊手にとって読みました。

『スーホの白い馬』(大塚勇三再話、赤羽末吉画、福音館書店)という絵本です。


スーホは、モンゴルの草原に住む羊飼いの少年である。
歳をとったおばあさんと二人暮らしで、大人に負けないくらいよく働いた。
ある日、スーホは白い仔馬を拾って帰り、大事に育てはじめる。
月日は過ぎ、ある年の春に競馬大会が行われるという知らせがあった。
その大会で一等になった者を殿様の娘と結婚させるというのだ。
スーホは出場のため町に出て行く。
そしてスーホと白い馬は見事一等を取った。
ところが殿様は、スーホが貧しい羊飼いであることを知ると、
態度を一変させ、スーホから馬を取り上げる……


この絵本は、モンゴルに伝わる楽器「馬頭琴(ばとうきん)」の由来を題材にした
悲しくせつない物語です。

絵本ですから、大人にとってみればあっという間に読めてしまいます。
見開き2ページで1つの場面が描写され、全部で23場面です。
各場面とも最小限の文字数。ストーリーも単純です。

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しかし、この絵本を読んだ1日は、ずーっと、
まぶたにモンゴルの景色と、スーホと白い馬の姿が浮かんで消えませんでした。
そして「馬頭琴」という楽器の音色も知らないのですが、
自分勝手にそれを想像して、頭のなかで爪弾いて聴いていました。

これほど簡素なイメージと簡素な文字で、
これだけふくよかなイマジネーションを起こさせる絵本の力───
いまさらながらすごいものだと感じました。


モンゴルと馬いえば、私は、
現代中国の詩人、牛漢(ニウハン)の「汗血馬」を思い出します。


「汗血馬」

千里のゴビを駆けてこそ河は流れ
千里の砂漠を駆けてこそ草原は広がる

風の吹かない七月と八月
ゴビは火の領土だ
ただ疾駆しないかぎり
四本の脚で宙を踊るように疾駆しないかぎり
胸先に風の生ずるのを感じることはなく
数百里の蒸し暑い土埃(つちぼこり)を通過できもしない

汗はすっかり乾ききった砂埃に吸い取られ
汗は馬の体の白い斑(まだら)模様と結晶する


                              ───『牛漢詩集』秋吉久紀夫訳編より一部を抜粋


この詩を読むと、さらにまた、モンゴルの茫漠とした風景が目の奥に広がってきます。

ちなみに、牛漢は「私は詩を、おのれの骨で書く」と表現したそうです。
(詩人、新川和江がそう紹介していました)
彼はいまでこそ名誉を回復して著名な詩人として活躍していますが、
彼の半生は、政府の思想弾圧による投獄、幽閉、強制労働生活の日々でした。
詩をもって権力に抵抗したその精神のありさまが、作品にこびり付いています。
まさに“おのれの骨”で書いたような詩がたくさんあります。


さて、絵本や詩というのは、
きわめて少ない情報量で、きわめてふくよかな世界を与えるものです。
しかし、どこまでふくよかであるかは、
ひとえに読み手のイマジネーション(想像力)によります。

日常生活にイメージは溢れています。

テレビからはありとあらゆる映像が、
雑誌には流行をつくりだす写真が、
映画からはヴァーチャルな三次元の視覚世界が、
街には広告のポスターやら看板やらが、
店頭には買い気を誘うデザインが、
ネットには「きょうはこんなランチ食べてます」のようなデジカメ撮りの料理写真が、
ビジネスの資料には分析を行った数値表や図面やらが……

これらのイメージは、ある種、香辛料のような刺激物ではあるものの、
にじみやぼかしをもつふくよかなものではないので、
イマジネーションの滋養にはならない。

「詩心」を取り戻す時間、普段の生活に大事だなと、あらためて───。


* * * * * * *

【補足】
このブログ記事を書いた後、
『絵本の力』(河合隼雄・松居直・柳田邦男、岩波書店)を読んでいたら、
本の中の鼎談で柳田さんがどきっとすることを本の中で発言されていました───

「私はノンフィクションの作品や評論をずっと書いてきたのですが、ノンフィクションの作品を書いていると言葉数がやたら多くなって、一所懸命理屈をつけたり解釈したり、考えれば考えるほど字数が多くなって何万語という言葉を費やすのですが、時折ふっと、それによって人生のほんとうにいちばん大事なものや魂の部分にどこまで触れえたのかと思ってしまうんです。人間の魂のレベルのコミュニケーションにどこまで関わり合えるかということになると、自分でぎょっとするほど反省するところが多い。

それに比べて、絵本というのは本当に少ない言葉や絵の数、標準的に言えば、十数枚から二十枚ちょっとぐらいの絵の数、そこに添えられたほんのわずかな言葉で、なにかいちばん大事なこと、人生について、命について、生きることについて、喜びや感動について、それがズンズン伝わってくる表現ができる。これはすごい表現手段だしコミュニケーション手段だと思います。そのあたりのことを私は今もういっぺん根源的に考え直しているところなんです」。


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   柳田邦男さんは、よい絵本は「人生に三度読むべきときがある」とおしゃっています。
   まず自分が子どものとき、次に自分が子どもを育てるとき、そして自分が人生の後半に入ったとき。


2012年2月14日 (火)

生命は「動的な奇跡」!~きょう1日を生きることの再考


   「良い本」というのは、その本が扱うテーマをよく理解させてくれるのは当然ながら、そこで展開される観点を1つのレンズとして世界全体を見つめ直してみるとき、より深い認識を与えてくれるものでもあります。


  Sh fk bks  その意味で、この2冊───『生命を捉えなおす』(清水博)、『動的平衡』(福岡伸一)はとても「良い本」です。両書とも、これまでの科学が邁進してきた機械還元論的な生命観を超えて、全体論的な視座から生命を見つめ直し、生命を「動的な秩序」として定義します。と同時に、そしてそれを基にして、仕事のこと、生活のことに新しい気づきを与えてくれます。

   私が特に面白かったのは、清水先生が、極力、西洋的な思考アプローチと形而下の分析を行いながら、かつ、東洋の叡智が過去から直観的に捉えていた生命観を慎重に取り込みつつ、新しい生命科学を打ち立てようとする論理過程です。また、清水先生は、生命という切り口から、「場」という概念に新しい光を与えます。私の場合は、組織論が仕事に関連していますから、これを事業組織の「場」に敷衍して考えることはとても有意義でした。
   他方、福岡先生の本は、新しい生命観を基に、昨今のダイエットブームやサプリメントブームの危うさを知ることができます。また、歴史上のいろいろな科学者たちを紹介してくれており、そうした群像物語から刺激をもらうこともできます。


◆生命は瞬時も休みなく「定規立て」をやり続けている
   きょうはこの2冊にインスパイアされ、「生命・生きること」について私が再認識したことをまとめます。さて、下図をみてください───

Heikou

   みなさんは、子どものころ、手のひらに長い定規を立てて、それが倒れないように手のひらを前後左右に素早く動かすという遊びをやりませんでしたか。別バージョンとして、足の甲に傘を立てたり、額(ひたい)にほうきを立てたりするのもあります。

   ───いずれにしても、このせわしなく立たせている状態が「動的平衡」です。

   定規には常に重力がはたらいているので、手のひらの動きを止めたとたん、定規は倒れます。動的平衡が失われるからです。生命とは簡単に言えば、この動的平衡の状態です。私たちは、生きている間じゅう、ずっと、四六時中、休みなしにこの「定規立て」を自律的にやっているのです! なんと不思議なことでしょうか。

   もう1つ、図をこしらえました。

Heikou22


   私たち生物の身体は一つの“器(うつわ)”と考えられます。この器は、開放系と呼ばれるシステムで、常に外部と内部とでエネルギーの交換をしてその状態を維持しています。

   ゾウリムシのような簡素な器(簡素といっても、現在の人類の科学をもってしてもそれをつくり出すことはできない)から、ヒトのような複雑巧妙な器まで、生物という器は驚くほどに千差万別です。そしてまた同じヒトの間でも身体の個性がさまざまありますから、器はこれまた千差万別です。
   しかも、その器は単なるハードウエアではなく、環境情報を処理するソフトウエアまで組み込んでいます。さらに言えば、霊性までをも宿している。こんなものがなぜ暗黒の宇宙空間から自然に生じてきたのか───この解を求める科学が、やがて哲学・宗教の扉の前に行き着くという感覚が、一凡人の私にも容易に想像ができます。


   福岡先生はこう表現しています───


「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。
だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数か月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。

つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや「通り抜けている」という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が「通り過ぎる」べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たち身体自体も「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。

つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている」。


   生物とは、流れの中に生じる“淀み”であり、“容れ物”である。福岡先生は、この後、生命は構造というより「効果」であるとも言っていますが、いずれにしても、生命を捉えるはっと息を呑む定義です。次に、少し難しくなりますが、清水先生の表現はこうです───


生命とは(生物的)秩序を自己形成する能力である」。

「この内部世界を支配している自己意識には、時間的な継続性をともなう統合的な一体感がありますが、この継時的一体感は、その世界の内部の諸情報が、さまざまなホロニックループのネットワークによって過去から現在に至る時間を繰り込みながら連続的に統合されていることから来ているのです。意識は内なる意味秩序(セマンティックス)の絶え間ないフィードバックとフィードフォワードに複雑なネットワークの上に成立しているのです」。


   生命はそれ単独では出現も進化もせず、環境や他の生命との協働によってそれをなしていく。一つの生命(個々の細胞も、全体の生命も)は、生きることを実行していくために独自の“意味秩序”(=これが及ぶ範囲をその生命にとっての「場」と名づける)を持っていて、そのもとに自律的かつ他律的に進んでいくという言及です。これは、仏教哲学が洞察した「空」(くう)や「仮」(け)、「縁起」(えんぎ)といった観念に通底していると思います。


◆人は坂に立つ
   いずれにしても生命の出現、そして生きているという状態は、なんとも素晴らしい奇跡です。私たちは、知らずのうちに生まれてきて、知らずのうちに息をして、知らずのうちに身体が成長して、食べて、笑って、ものを考えて、愛して、感動して、刻々と生きています。そのことの不可思議さについて、ついつい鈍感になってしまいがちですが、実はとてつもなく難度の高い営みを細胞1つの次元から瞬時も休まることなく進行させているのが生命です。

   生命の哲学者、アンリ・ベルグソンは『創造的進化』の中でこう言いました───


「生命には物質のくだる坂をさかのぼろうとする努力がある」。


   たとえば丸い石ころを傾斜面に置いたとき、それはただ傾斜をすべり落ちるだけです。なぜなら、石ころはエントロピーの増大する方へ、すなわち、高い緊張状態から低い緊張状態へと移行するほかに術をもたない惰性体だからです。
   ところが、唯一、生命のみがそのエントロピー増大の傾斜に抗うように自己形成していく努力を発します。坂に置いた石が、勝手に傾斜を上っていくことがあればさぞ驚きでしょうが、それをやっているのが生命なのです。

   私は先のベルグソンの言葉と出合って以来、人は常に坂に立っており、その傾斜を上ることがすなわち「生きる」ことだと考えています。
   生命の本質は坂を上ろうとする作用です。本質にかなうことは必然的に幸福感を呼び起こします。ですから私は、人間は本来、進歩や成長を求め、勤勉の中に真の喜びを得る生き物だと思っています。逆に、本質にかなわない滞留や衰退、怠惰からは、不幸や不安感を味わいます。アランが『幸福論』で言った「人は意欲し創造することによってのみ幸福である」というのもここにつながってきます。



Saka zu


   仕事や人生はいろいろな出来事を通して、私たちに傾斜の負荷を与えてきます。私たちはその傾斜に対し、知恵と勇気をもって一歩一歩上がっていくこともできるし、負荷に降伏をし、下り傾斜に身を放り出すこともできる。一人一人の人間が、生き物として強いかどうかは、結局のところ、身体の強さでもなく、ましてや社会的な状況(経済力や立場など)の優位さでもなく、各々が背負う坂に抗っていこうとする意欲の強さであると私は思います。


◆この一生は「期限付き」の営みである
   そんな尊い生命は、とても“か弱い器”でもあります。仏教では、人の命を草の葉の上の朝露に喩えます。少しの風がきて葉っぱが揺れれば、朝露はいとも簡単に地面に落ちてしまいますし、そうでなくとも、昇ってきた陽に当たればすぐに蒸発してしまいます。それほどはかないものであると。

   スティーブ・ジョブズは伝説のスピーチで「きょうで命が終わるとすれば、きょうやることは本当にやりたいことか」と問いました。私はこのスピーチを聞くと、吉田兼好の『徒然草』第四十一段を思い出します。第四十一段は「賀茂の競馬」と題された一話です。

   京都の賀茂で競馬が行なわれていた場でのことである。大勢が見物に来ていて競馬がよく見えないので、ある坊さんは木によじ登って見ることにした。その坊さんは、


「取り付きながらいたう眠(ねぶ)りて、落ちぬべき時に目を覚ますことたびたびなり。これを見る人、あざけりあさみて、『世のしれ者かな。かくあやふき枝の上にて、安き心ありて眠(ねぶ)らんよ』と言ふに・・・」


   つまり、坊さんは木にへばり付いて見ているのだが、次第に眠気が誘ってきて、こっくりこっくり始める。そして、ガクンと木から落ちそうになると、はっと目を覚まして、またへばり付くというようなことを繰り返している。それをそばで見ていた人たちは、あざけりあきれて、「まったく馬鹿な坊主だ、あんな危なっかしい木の上で寝ながら見物しているなんて」と口々に言う。そこで兼好は一言。


「我等が生死(しゃうじ)の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて物見て日を暮らす、愚かなることはなほまさりたるものを」。


   人の死は誰とて、いまこの一瞬にやってくるかもしれない(死の到来の切迫さは、実は、木の上の坊主も傍で見ている人々もそうかわりがない)。それを忘れて、物見に興じている愚かさは坊主以上である、と。

   医療技術の発達によって人の「死」が身近でなくなりました。逆説的ですが、死ぬことの感覚が鈍れば鈍るほど、「生きる」ことの感覚も鈍ります。
   仮に現代医学が不老不死の妙薬をつくり、命のはかなさの問題を消し去ったとしても、人の生きる問題を本質的に解決はしないでしょう。なぜなら、よく生きるというのは、どれだけ長く生きたかではなく、どれだけ多くを感じ、どれだけ多くを成したか、で決まるものだからです。

   この一生は「期限付き」の営みです。その期限を意識すればするほど、きょう1日をどう生きるかが鮮明に浮き立ってきます。
   哲学や宗教は「死の演習問題を通して、生を考えること」とも言われます。それほど生死(しょうじ)の問題は、人間にとっての一大テーマであり続けてきました。若いうちは、誰しも老いることも、ましてや死ぬことも考えられません。ですが、仕事や日常生活で悩みや停滞があればあるほど、こうした大きなテーマ――生きていることの驚きや有難さ、そして必ずやってくる命の終わりのこと――に考えを巡らせる時間をとることで、逆に卑近な問題やイライラは和らぎ、消えていくことでしょう。

   私は毎朝、散歩を欠かしません。近所の雑木林で見る日々の植物の変化や、日差しの移り変わり、野鳥たちの移動、気温の上がり下がり……それら生と死、盛と衰、陽と陰の「大きな波の往復」・「大きな変化の環」を感じることは、「大きな力」を得ることでもあります。みなさんも是非、そういう暇(いとま)をつくってみてください。知らずのうちにホコリや油分で曇っていた眼鏡レンズを拭き取ったときのように、世界が鮮やかに生き生きと見えてくると思います。


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