3) 働くマインド/観 Feed

2014年1月 7日 (火)

働く動機の5段階~「人はパンのみに生きるのか」を考える



◆「働く理由」として大事なもの3つを挙げよ
私がやっている研修プログラムのなかで『「働く理由」自問ワーク』 というのがある。なぜ自分は働くのか、日々この仕事をやるのはどうしてか、をあらためて見つめる作業である。あまりにも単純で使い古された問いのように思 えるが、日常の雑多な業務処理に追われる仕事現場では、この問いにじっくりと真正面から考える機会は少ないし、ましてや互いの「働く理由」について真面目 に話し合う場もほとんどないように思える。

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実際、研修でこれをやってみると、各自がなにかずっと胸の奥底にくすぶらせていた固まりが一気に噴き出す感じで、皆が実に熱く語り出す。「人はパンのみに生きるのか?」という問いは、いまもって大きく深いテーマなのだ。

このワークに用いる自問シートは次のようになっている。まず左側に働く理由の選択候補をいくつか挙げてある。たとえば、

□ この仕事を行うことによって、生計が立てられるから
□ この仕事を行うことによって、裕福になり、財を成したいから
□ この仕事を行うことによって、自分は尊敬されたり、頼りにされたりするから
□ この仕事を行うことによって、成功し、有名になりたいから
□ この仕事を行うこと自体が楽しいから
□ この仕事を行うことによって、自分を成長させることができるから
□ この仕事は、家族に誇れたり、家族が応援してくれているものであるから¥@r
□ この仕事を行うことによって、さまざまな人との出会いが生まれるから
□ この仕事を行うことによって、社会に影響を与えることができるから
□ この仕事を通じて、自分の生き方を表明したいから
□ この仕事を通じて、世の中に残したい何かがあるから
□ その他(              )


これらの理由リストのなかで当てはまるものにチェックを付けていき、それぞれの理由の大事さについて1~5の数値で重み付けをしていく。そして最後に、最も大事だと思う理由の上位3つを順に自分の言葉で書き出す。

1■この仕事(働くこと)は、〈          〉ために大事である。
2■この仕事(働くこと)は、〈          〉ために大事である。
3■この仕事(働くこと)は、〈          〉ために大事である。


さて、働く理由としてこの上位3つに入るものにどんなものがあるだろうか。私がさまざまな研修現場できいてみると、まずもって「生計を立てるため」、そして 「自己を成長させていくため」「いろいろな人と出会うため」などが上位の常連となる。すなわち、「お金」「成長」「人とのつながり」が働くことの大事な理 由として感じられているようだ。

ではもっと限定して、受講者が働く理由のトップ1に挙げるものは何なのか。これは実施する研修の対象企業、受講者の年次によって多少差が出るが、おおよそ、「お金」を挙げる人が50%、そして「非お金」(=成長や出会いや志の実現など)を挙げる人が50%となっている。働く理由のトップ1に「非お金」を挙げる人は、実は少なからずいるのだ。

私が実施するのはほとんどが企業内研修なので、受講者は同じ会社の同じ年次の集まりになる。しかし、働く理由のトップ1については、「お金」と「非お金」の 真っ二つに割れるところが面白い。もとより、働く理由のトップ1に「お金」を挙げるのが低次であるとか、「非お金」を挙げるから高尚であるという話ではな い。お金は大事であるし、不当に安い給料で満足するものでもない。今の時代、経済難はさまざまな形で自分に起こってくるものだから、お金を第一に考えるの は当然のことだ。

ただ研修で受講者とのやりとりを観察していると、トップ1に「お金」を挙げる人の一部には、「しょせん、仕事は生きてい くために我慢してやるもの」といった労役感や、「もっと買いたいものがあるのに、いまの年収じゃ足りないよね」といった物欲ベースの不足感が見え隠れする ところもある。その一方で、トップ1に「非お金」を挙げる人の多くは、今の仕事に何かしらのやりがいを見出していて、そこにおおかたの意識が向かっている 様子である。没頭できる仕事テーマがあり、そこに没頭した結果、振り返ると月末に給料が振り込まれていた、そんな感じの仕事生活になっている。


◆「お金を得ることは働く目的か?」にどう答えるか
生きていくうえで、もちろんお金は大事である。だがそのとき、お金を得ることを働く目的に据えるのか、それとも、目的は他にあってお金は手段もしくは結果的に得られればよいものなのか、この両者の意識の差は、実は大きい。

そこで私はさらに下の問いを受講者に投げかけ、討論してもらう。

【問い】
あなたにとって、お金を得ることは働く目的か?
あなたの担当事業(あるいは会社)にとって、利益獲得は事業の目的か?


もちろんこの問いに対する唯一無二の正解はない。働くことは算数の世界ではなく、芸術(アート)の世界に近いともいえる。だからその人なりの意味や価値の尺 度が当然ある。実際、研修ではさまざまな意見が飛び交う。その多様な尺度による考え方を共有することで、受講者は自分の考え方の偏り具合や熱い/冷たいを 相対的に知る。そして互いに刺激しあうなかで、自分の考えを強める人は強め、修正する人は修正し、冷めていた人は少し熱くなる。そうして意味や価値をはか る尺度もできてくるのだ。私が請け負うキャリア形成に関するマインド醸成研修は、こうした「ピア・ラーニング」(仲間相互による学び合い)こそが一番有益 なものになる。

さて研修では、各グループでのディスカッション内容を発表してもらった後、私のほうからもある種の考え方を提示する。まず1つめ。ピーター・ドラッカーは次のように言う。

「事業体とは何かを問われると、たいていの企業人は利益を得るための組織と答える。たいていの経済学者も同じように答える。この答えは間違いだけではない。的外れである。利益が重要でないということではない。利益は企業や事業の目的ではなく、条件である」。       ───『現代の経営』より


ドラッカーは、企業や事業の真の目的は社会貢献であると他の箇所で述べている。その真の目的を成すための「条件」として利益が必要だと、ここで言及しているのである。

金(カネ)は経済の世界では言ってみれば血液のようなものである。人間の体は、血液が常に良好に流れてこそ健康を維持でき、さまざまな活動が可能になる。血 の流れが止まれば、人体は死を迎える。それと同じように、経済活動の血である金の流れが止まれば、その経済活動や事業体は死に直面する。ただ、だからと いって、血のために私たち人間は生きるのだろうか? 「血をつくるために、日夜がんばって生きています!」という生き方はどこかヘンだ。やはり人間の活動として大事なことは、その身体を使って何を成すかである。血は、肉体を維持するための条件であって、目的にはならない。そう考えると、利益追求が企業にとっての目的ではなく、条件であるとするドラッカーの指摘は説得力がある。
私たち職業人の一人一人の生活にあっても、金を得ることは、目的というより、自分が仕事をするために必要な基礎条件である───これが1つのとらえ方である。


◆お金は結果的に生まれる「恵み」である
次はこの2人の言葉である。

「本質的には利益というものは企業の使命達成に対する報酬としてこれをみなくてはならない」。    ───松下幸之助『実践経営哲学』

「徳は本なり、財は末なり」。「成功や失敗のごときは、ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである」。   ───渋沢栄一『論語と算盤』


松下幸之助は、事業家・産業人として『水道哲学』というものを強く心に抱いていた。それは、蛇口をひねれば安価な水が豊富に出てくるように、世の中に良質で 安価な物資・製品を潤沢に送り出したいという想いである。松下にとって事業の主目的は、物資を通して人びとの暮らしを豊かにさせることであり、副次的な目 的は雇用の創出だった。そして、そうした目的(松下は“使命”と言っているが)を果たした結果、残ったものが利益であり、それを報酬としていただくという 考え方だった。

一方、明治・大正期の事業家で日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は、財は末に来るもの、あるいは糟粕のようなものである と言った。仁義道徳に基づく行為こそが目的であり、その過程における努力が大事であって、そこからもたらされる財には固執するな、無頓着なくらいでよろし いというのが、渋沢の思想である。渋沢は、第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、そし て一橋大学や日本赤十字社などに至るまで、多種多様の企業・学校・団体の設立に関わった。その活躍ぶりからすれば、「渋沢財閥」をつくり巨万の富を得るこ ともできたのだろうが、「私利を追わず公益を図る」という信念のもと、蓄財には生涯興味を持たなかった。いずれにせよ、お金・利益を「結果的に生まれる恵 み」とするのも一つのとらえ方である。


◆「建物と地盤」
私もこれら3人が指摘したよ うに、「条件」あるいは「結果的な恵み」としてのお金・利益を強く意識している。その解釈イメージを促すために、私は受講者に「建物と地盤」のメタファー を提示する。すなわち、自分たちが働く目的はあくまで何かの建物をこしらえて、さまざまな人に使ってもらうことである。だが、その建物は地盤がしっかりし ていないと建たない。お金を得ること、利益を獲得することは、言ってみれば地盤づくりに当たる。
もしその建物が多くの人に利用してもらい役に立て ば、その結果の恵みとして、お金が得られることになる。その利益でさらに地盤を固め、土地を大きくしていけば、さらに複雑で大きな建物が建てられる。自己 の能力を証明し、人に役立っていくのはあくまで建物を通じてであり、どんなものを建造していくかこそが働く目的となる。地盤づくり自体は目的にはならない (なったとしても、副次的な目的に留まる)。

私は、仕事とは突き詰めれば、能力と想いを掛け合わせて行う「表現活動」だと考えている。お金や利益はその「表現活動」を可能にしたり、発展させたりする機能として効いてくるものだ。だから、お金は血液であり、地盤であるのだ。


◆働く動機の5段階
さて、働く理由・目的についてさらに考察を深めたい。私は、自律的に働くことの意識醸成を目的とした研修をやってきて、さまざまな観察や分析から「働く動機」を5段階に整理している。それを表したのが下図である。

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[段階Ⅰ]金銭的動機
動 機の一番土台にくるのが「金銭的」動機である。そこには「生きていかねばという自分」がいて、誰しも懸命に働こうとするのである。金銭を動機として働くこ とが必ずしも卑しいということではない。「食っていくためにはお金がいる。だからきちんと働いてお金を得、生活を立てていこう」とする姿はむしろ尊い。金 銭的動機は、個人を労働に向かわせ、社会の規律や秩序を守るための土台として機能する大事なものだ。ただ、金銭的動機は、「外発的」であり、「利己的」で ある。

[段階Ⅱ]承認的動機
誰 しも他から自分の能力や存在を認められたいと願う。そこにはたらくのが「承認的」動機である。仕事でうれしかったことをアンケートすると、「上司から褒め られた/難しい仕事を任された」「お客様からありがとうを言われた」「ネットに発表した記事が多くに読まれた」など、承認にかかわることが多く出てくる。 ソーシャルメディア『フェースブック』の「いいね!」ボタンも、いわばこの承認的動機を刺激するものの一つである。ただし、この動機もどちらかというと 「外発的」「利己的」の部類である。

[段階Ⅲ]成長的動機
仕事をやるほどに自分の能力が伸びていく、深まっていく、となればもっとその仕事をやってみたくなる。それはその仕事が「成長的」動機を喚起しているからだ。この場合、仕事そのもののなかに動機を見出しているので、「内発的動機」となる。だが、いまだ「利己的」ではある。

[段階Ⅳ]共感的動機
仕事や働くことは、一人では完結しない。何かしら他者や社会とつながりを持つものである。Ⅱ段階目の「承認」より、もっと相互に、積極的に、質的に他者と結びつくことで、やる気が起こってくるのが「共感的」動機である。
自分のやっていることが他者と共感できる、他者に影響を与えることができる、社会に共鳴の渦をつくることができる、そうした手応えは強力な力を内面から湧き起こす。この段階から「利他的」な動機へと変容してくる。

[段階Ⅴ]使命的動機
自分が見出した「おおいなる意味」を満たすために、文字通り、“命を使って”まで没頭したい何かがあるとき、それは「使命的」動機を抱いている状態であるといえる。夢や志、究めたい道、社会的な意義をもったライフワークなどに一途に向かっている人はこの段階にある。

ちなみに、これら5つの動機を性格づける「外発的/内発的」「利己的/利他的」という二元的な分類について、内発的だから優れ/外発的は劣るとか、利己的は ダメで/利他的はよい、ということではない。これらは本来、優劣や善悪で差別するものではない。「内発的」と「利他的」の掛け合わせである使命的動機が段 階Ⅴとして一番上に置かれているのは、その動機を抱くことが最も難しいからである。動機を抱く難度が階段の高さを示していると考えてほしい。逆に言えば、 金銭的動機(段階Ⅰ)は生存欲求からの動機で、最も容易に起こることから一番下に来ているのだ。


◆動機を重層的に持つこと
ここから最後の重要な点に入っていく。5つの動機自体には、優劣がつけられないものの、「動機の持ち方」としては、望ましい持ち方と望ましくない持ち方がある。

動機の持ち方として望ましいのは、これら5段階ある動機を重層的に持つことである。動機を重層的に持っていれば、仮に一つの動機が失われても、他の動機がカバーしてくれることとなり、働く意欲は持続される。また、動機どうしが相互に影響し合い、統合的に動機が深まりを増すことも起こるからだ。

お金を儲けたいという動機は抱いてもいっこうにかまわない。ただその動機の層だけにどっぷり浸かって、過度に利己的にやるとすれば、いずれ問題を引き起こす ことになるだろう。また、この段階Ⅰの動機だけに終始して働くことは、先も述べたように、「地盤づくり」だけをやって、結局は「建物」を生涯建てなかった ことに等しい。自分の仕事人生を振り返って、何の建造物もこしらえず、世の中に何の貢献も機能も果たさなかったというのは、どこかさみしくはないだろう か。

だから、お金を儲けたいという動機と同時に、他の動機も重層的に持つことだ。そうすることで、手にするお金は真に生かされるし、また 複合的に湧いてくるエネルギーで長く強く働くことができる。段階Ⅱ以降の動機こそ、「建物」を立てようという意志を内面に湧き起こさせるものである。つま り───

動機Ⅱ)何か自分なりの「建物」を建てて人に知ってもらいたい
動機Ⅲ)その「建物」をつくることはいろいろな知識・技術が身について楽しい
動機Ⅳ)その「建物」に共感してもらえる人びととつながることでワクワクする
動機Ⅴ)その「建物」が多くの人に役立ってうれしい

これを読んでいる人のなかには、「ともかく自分は正社員の職を得て、生活をやりくりしていくのに精一杯だ。夢や志を描くなど程遠い」と漏らす状況があるかも しれない。しかし、志を立てるのに何のコストがかかるというのだろう。想い描くことは、誰でも、いま、この場で、タダでできることなのだ。想い描くことをしないかぎり、「食うためだけの仕事」という重力圏から抜け出せない。
ウォルト・ディズニーはこう言った───「夢見ることができれば、成し遂げることもできる」。キング牧師は「アイ・ハブ・ア・ドリーム」と叫んだ。「心構えした者に、チャンスは微笑む」とパスツールは残した。このように偉人・賢人たちは一様に想い描くことの重要性を説いてきた。


◆使命的動機の「シャワー効果」
もちろん私は、働く動機を重層的に持つための内省ワークを研修のなかでやる。そのときに方向は2つある。

1つは動機の段階を上げていく方向。つまり動機難度の低いほうから高いほうへと内省を促していくやり方だ。たとえば、「その仕事によってどんな成長が得られ ますか? あるいは、現状の仕事をどんなふうに変えていけば、自分の成長が起こるようになりますか?」といった段階Ⅲの動機を喚起させる問いを投げる。次 に、「その仕事を通じてどんな人たちとつながることができるのでしょう?」や「あなたは一職業人として何の価値を世の中に提供する存在ですか?」といった 具合に段階Ⅳ、段階Ⅴの問いに上げていく。こうした自問を通して、自分の担当仕事に「非お金」的な動機を重層的に持たせていくわけである。

もう1つの方向は、いきなり段階Ⅴの動機を見つめさせるやり方である。これは具体的には、段階Ⅴの使命的動機に生きた特定の人物をロールモデルとして取り上 げ、「おおいなる意味」のもとに仕事を成し遂げる人間がいかに自己を強く開いていけるかを学び取るものである。考察していけばわかるのだが、ひとたび使命 的なテーマを見出し、そこに没入していくとどうなるか───

・そのテーマに共鳴する同志との出会いが生まれ深いつながりができる。
 (→動機Ⅳが喚起され、満たされる)
・そのテーマを成し遂げるための能力発揮・能力習得・能力再編成が起こる。
 (→動機Ⅲが喚起され、満たされる)
・そのテーマの仕事がやがて人びとの耳目を集め出す。
 (→動機Ⅱが喚起され、満たされる)
・気がつくと必要なお金が得られていた。あるいは回り出していた。
 (→動機Ⅰが満たされる)


そう、つまり、段階Ⅴの動機をしっかり抱いて懸命に動けば、他の動機は自然と上から順に喚起され、満たされるのだ。私はこれを、使命的動機の「シャワー効果」と呼んでいる。

と はいえ、20代にせよ、40代にせよ、私の主要顧客であるサラリーパーソンに「夢を描け、志を立てよ」といっても敬遠されるばかりである。たいていの大人 は、「いまさらプロサッカー選手や宇宙飛行士になれるわけでもないさ」と心のなかで苦笑いをする。だから私は、彼らのなかにある夢や志の概念を変えさせな ければだめだと思っている。
限られた少数の人間しか成しえない壮大で特別なことをやるのが夢や志ではない。みずからの本分で、何か世の中に役立っ ていこうと自分なりの目標を決める。あるいは一つの道に肚を据える。そしてその成就に向かって自己を開き、越えていこうと持続的に挑戦をする。あるいは、 道から逃げないで一歩一歩進む。そのプロセスこそが、すでに夢や志に生きている状態なのだ。

さて最後に。「人はパンのみに生きるのか?」という問いに対し、私はこう答えるようにしている。───

「人は志にこそ生きる。
おおいにもがくことになるが、そこでパンを食いそびれることはない」。







2013年8月 7日 (水)

「働くマインド」のエクササイズをしよう

 

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先週の土曜日、知人が代表理事を務めるNPOのイベントでミニワークショップをやりました。参加者は若きビジネスパーソンたち。NPOのスタッフ含め20名弱が夏真っ盛りの土曜の午後に集まり、会議室にこもって3時間、ワイワイガヤガヤと熱くワークを楽しんだのでした。


ワークショップのテーマは、

「機会をみずからつくり出し、
その機会によってみずからを変える」。

ワークは2つ。「働く理由」を探っていく個人作業と、「仕事の報酬」を考えていくグループ作業と。特段、高い料金を設定してやるセミナーでもなく、私も手弁当的に参加している会なんですが、それでも出す内容・課題に関しては手加減しません。企業内研修でやっているものとほぼ同じものをぶつけます。

私はヨガを少しやっていますが、ヨガは「正しく深くやる」ことが大事です。正しく深くやってこそ、よい鍛えとよい休息が得られ、さらにその後のよい活動につながっていきます。「適当にやんわりと」では、中途半端でさしたる効果も出ません。

意識や心の鍛錬もそうだと思います。「適当にやんわりと」では効果がありません。だから、こうしたワークショップも手加減なく、大きな問いを投げかけ、討論し、意見を共有してもらったほうがよいのです。「正しく深く」考えた後は、心が元気になるんです。「明日から何か違う気持ちで踏み出せそう」という快活なリフレッシュ感や充電感があります。

この日集まってきた人たちは、仕事に対する意識の高い人たちばかりでしたので、とても深いやりとりができ、時間があっという間に過ぎました。はたから見れば、「何を夏の土曜の午後に3時間も密室で(今夕は花火大会もあるのに)……」と思われる向きもあるかもしれません。ですが、やっている私たちからすれば、それは楽しみでやっていることであり、ある意味、「ちょっとみんなで集まって草野球やろうよ」とか、「花火見に行こうよ」という“リクレーション”となんら変わるものではありません。

むしろ、単なる「リクレーション(recreation)=気晴らし・娯楽」というより、本来の字義である「リ・クリエイション(re-creation)=再創造」に近いかもしれません。つまり、働くことの根っこを問うワークをすることによって、「働くマインド・仕事への意識」を “つくり直し=再創造し”、明日からの仕事生活に向かう。そしてキャリアをよりよく開いていく。

私たちは、身体の健やかさを保つために運動が大事なことを知っています。ですから、スポーツをしたり、散歩をしたり、ジムでエクササイズをしたりします。さて、それと同じように、どれくらいの人が「マインド・心の面での運動」をしているでしょうか?
意味の見出せない仕事に日々忙殺されて働く心が虚弱になっている場合もあるでしょう。また逆に、事なかれ主義で会社にぶら下がる意識が強くなり働くマインドがメタボになっている場合もあるでしょう。「マインド・心」にも運動が必要です。

思ってみれば、私たちは土曜日、そうしたマインド・心のレベルでのエクササイズ(運動)を存分に楽しんだのでした。




Fukei02 今回のワークショップの主催:特定非営利活動法人SIP


2013年1月 8日 (火)

学校の先生と自律を考える~『21世紀教育セミナー』より


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平成24年度第3回 『21世紀教育セミナー』
「まずは自分から ~自律的に振る舞える職業人になるには」

◇主催:広島県立教育センター
◇日時:平成24(2012)年12月26日
◇場所:東区民文化センター
◇参加者:県内公立の小中高校の校長、教頭、教諭はじめ約230名
(*写真提供:広島県立教育センター)



過日、広島県立教育センターからの依頼を受け、講演を行いました。きょうはその内容の一部を要約して紹介します。

* * * * *

「自律的である」とはどういうことか───。自律の「律」とは、ある価値観や信条にもとづく規範やルールのこと。さまざまな事柄を判断し行動する基準(羅針盤)となるもの。このことから「自律的」とは、自分自身で律を設け、それに従って判断・行動する状態。その反意である「他律的」とは、(自分で律を設けることはせず・できず)他者が設けた律に従って、判断・行動する状態をいう。


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なぜ、いま、職業人の人材育成の観点から、「自律性」を重要視する声が大きくなっているのか───。1つには、経営者や上司から見て、一人一人の社員が受け身的である、仕事をつくり出せない、目の前の物事に対し独自の価値判断ができないなど、他律的な傾向が強まっているという実感があり、そこから要請が出ていること。これは、直接的・ミクロ的な見方で、私は、もう1つ間接的・マクロ的な見方から、「自律性」を鍛えることの重要性を指摘したい。

日本人は、よく言えば「和をもって尊し」、わるく言えば「長いものに巻かれろ」の精神風土のなかで生きている。日本人の傾向性として、

   1)「フワフワと立ち上がってくる他律」に寄っていき協調的に(角を立てずに)やりたい
   2)「権威が決めて下ろす他律」のもとで能動的に(ただ真面目に)やる

という面がある。基本的に日本人は「他律」ベースでやりたい、できるだけ「自律」を押し出さずに事を済ませたいと思っている。「他律的真面目な民族」といってもよい。

戦後の高度成長期の日本は、「フワフワと立ち上がってくる他律」にせよ「権威が決めて下ろす他律」にせよ、その律にはあまり間違いはなかったし、迷いもなかった。向いている先は、個も組織も、地域も国も、欧米キャッチアップであり、貿易・技術立国によって豊かになろうというような価値観だった。だから、「他律的・真面目さ」でどんどん突き進めばよかった。そして、ある程度、皆がハッピーになったという事実がある。
だが、昨今、身を取り巻く他律は漂流を始めた。他律をベースにしていた個々も、当然、方向感を失っている。権威もまた明快な答えを示せないばかりか、さまざまな失策や不祥事などが明るみに出た。

いままさに、他者の律をあてにしていては、どこにも進めない状況になってきた。「自らの律」を押し出すことをおっくうがっていた個々が、いよいよそれをやらねば、物事が展開しない状況になってきている。そうした背景から「自律的になる」ということが重要になってきた。


さて、話をもう少し根っこのところに移して、次の問いを発してみたい───「そもそも、自律的は望ましくて、他律的は望ましくないのか?」。スライドに示したような4つの空欄を考えたときどうだろう。これは私が企業内研修で行っているディスカッションテーマだが、よくよく考えると、自律的にも望ましくない点があるし、他律的にも望ましい点はある。

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たとえば自律的な行動はそれが行き過ぎると、独善的、自己中心的になる危うさがある。俺様流に事を進めことは、自律というより「我律」と言っていいものだ。しかし、そういった欠点があるものの、自律的に振る舞うことは、創造性を生み、責任感を養い、リスクを負う勇気を湧かせるなどという点で、はるかに大きなメリットがある。

他方、他律的のよい点は、他者が営々と築いてくれた知恵を敬い、協調的にそれを使うところだ。私たちは遭遇する1つ1つの出来事に対し、すべてに独自の評価や判断をしていたらキリがないし、効率的ではない。多くのことは他律に従って処理していくことのほうが賢明だ。しかし、すべてのことを他律に依っていたら、物事に向き合う意識や観は脆弱化していく。他律的な個、他律的な個が多く溜まる組織は、環境変化のなかで生き延びていくことが難しくなる。いわゆる“ゆでガエル”になってしまう。


自律にも他律にも一長一短がある。他者の律も、自分の律も完璧ではない。重要なのは、両者の律を「合して」、つねに「よりよい律」を生み出していこうとする運動を起こすこと。

「止揚(アウフヘーベン)」という概念がある。「正」と「反」がぶつかって、より高次な「合」が生まれる。それと同じように、自律と他律を超えたところに、「合律」を生み出していくことが大事。


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自律はともすると「我律」ともいうべきワガママに陥る危険性があると指摘したが、「よい自律」というのは、本来的に、他律を受容しつつ、合律を目指す志向性をもっている。


律というものは、個人の内に、組織の中に、世の中に、流動的に変容しながら存在し、人の判断や行動に影響を与える。律が進化するためには、他律と自律の2つのぶつかり合いが要る。どちらか一方のみでは、決して高次に上がっていく進化は起きない。

強い組織を観察すると、必ずそこかしこに自律的な個がいて、常に組織の既存のやり方・考え方・規範(=他律)に対し、「現状のやり方でいいのか」「ここを改善しよう」「もっと違う考え方ができるはずだ」というふうに自律の目線を入れている。そこから個と組織の協働による止揚によって新しい「合律」が生まれ、律は一段進化する。そしてその律は新しい他律として組織に流布するが、今度もまた、自律の目線にさらされ、そこでまた合律がなされ……というふうに、止揚サイクルが力強く回っていく。こういうサイクルを学校の職場でも起こす必要があるのだろう。


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ともあれ、「自律した強い個」をつくることがすべての起点となる。「自律した強い個」は
「自律した強い集団」をつくる。「自律した強い集団」は個人の「自律心」をますます強くするようにはたらく。この好循環が組織における人材育成の理想である。
教師も一人の職業人として、「自律した強い個」であらねばならない。「他律的に真面目で熱心」という状態を超えて。学校の先生方は、「一クラス・一科目の主」として独立性が強く、教師同士互いに干渉しあわない空気が強いと聞く。であるならば、学校という職場において、もう少し、一人一人の職業人として啓発し合い、「自律した強い個」という観点の人材育成意識も必要ではないかと思う。


個と組織の関係性において、個(主体)が変われば組織(環境)が変わるし、逆に、組織(環境)が変わることで個(主体)が変わることもある。両者は相互に影響を与えあっている。

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他律的な意識の人間が多い組織は、個々が「環境が変わらなければ自分は変われない」という空気になってしまう。そのときに組織側はショック療法として制度改革(成果主義導入など)をしたり、トップを交代させたりするが、あくまでそれらは外側からの一時的な刺激である。根本的に大事なことは、個々の働くマインド・仕事観に迫っていき、自律心を育むことである。内側からの持続的なはたらきかけが(これこそがまさに教育であるが!)、真の解決になる。

松下幸之助も次のように言っている。───

「私は一人がまず、めざめることが必要であると思います。一人がめざめることによって、全体が感化され、その団体は立派なものに変わっていき、その成果も非常に偉大なものになると思います」。




私自身、20代から30代はメーカーと出版社で働き、そのころによもや自分が将来、教育の分野で生業を立てるとは夢にも思わなかった。41歳で独立を決意したとき、自分を後押ししたのが次の中国の古い言葉である。―――「一年の繁栄を願わば穀物を育てよ。十年の繁栄を願わば樹を育てよ。百年の繁栄を願わば人を育てよ」。
皆様は人を育てる部分の根っこのところをやっていらっしゃる。まさに百年の繁栄の基盤をつくる尊い仕事。まずはお身体を大事にされ、自らの自律と子どもたちの自律を育むすばらしき職業人としてご活躍されんことをお祈り申し上げる。

* * * * *

その他、この日の講演では、
・「自立」と「自律」の違い
・「自立」と「自律」、そして「自導」へ
・「小さな自律」と「大きな自律」
・広島県福山市立山野中学校でのキャリア教育特別授業(平成24年7月実施)の紹介
なども盛り込みました。


【講演を終えて】
   昨今、民間企業における人材育成では、重要観点として「自律」ということが頻繁に取り上げられています。このことは、実は公務員の世界も同じです。行政業務を行う役所の職員から、学校で教育を行う教諭まで、「自律的に働く意識」の醸成は重要度の高い課題となっています。
   一般市民・子を学校に預ける立場からすれば、「えっ、学校の先生ともあろう人たちが、自律的に働いていないの……?」と感じてしまいますが、考えてみれば、学校の先生の働く環境は、民間企業社員のそれに比べ、はるかに強く自律を封じ、他律に従わせるものです。教育現場は、法律や規制、「○○に準拠」といった枠や重しでがんじがらめです。一人一人の教諭が、ヘタに自律的に判断・行動をし、事故や間違いでも起こそうものなら、社会的制裁は容赦がありません。ですから、どうしても「他律的に無難に」という意識への傾斜が強まります。もちろん勇気を持って自律的に働く先生は大勢いるでしょう。しかし、教育仕事に「真面目で熱心である」ことと「自律的である」ことは必ずしも同じではありません。「真面目で熱心だが他律的」という先生が実は多く存在しているとも考えられます。少なからずの教諭たちが他律に留まる意識が慢性化しているとすれば、それを放置してよいわけはありません。
   学校の先生方は2つの側面から「自律」を考える必要があります。1つは自らが自律した職業人になるために、そしてもう1つは生徒たちの自律心を涵養するために、です。

  Kouen 02  そうした意味で、広島県内の教育関係者の皆様とともに、今回、「自律」について考える時間を共有できたことはとてもよい機会でした。私自身も日頃から、民間企業の従業員を対象に「キャリアの自律マインド」を醸成する教育プログラムを実施している身であり、一度その内容を異なった分野の方々にぶつけてみたかったというのもあります。

   ともかくも、お集まりいただいた先生方のこれからのご活躍をお祈りするとともに、このような機会を設けてくださった広島県立教育センターの藤本秀穂副所長、重岡伸治部長、宮崎喜郎指導主事に厚く御礼申し上げます。





2012年8月13日 (月)

「火の心」と「水の心」~五輪の感動を消費しないために


Nadeshiko1208r


   この2週間、居間のテレビからはいつもオリンピック中継の熱い映像と音声が流れていたのだが、それも終わり、お盆休みの静けさを取り戻した庭先では、いつの間にか、セミが生命力いっぱいに鳴いている。

   3・11以降最初のオリンピックとあって、試合後の街の声は「感動をありがとう」、「勇気をもらえた」というのが多かった。
   さて、選手たちはがんばった。4年間の辛く厳しい準備過程を経て、晴れの舞台で精一杯表現した。では、そこから感動・勇気をもらった私たちは、きょうから何にそのエネルギーを生かすか───? それを自分の生活・人生・仕事にうまく生かしてこそ、選手たちへのほんとうの「ありがとう返し」になるのではないか。

   興奮や高揚による感動は、ある意味、火のようなものである。
   ぼっと燃えあがって、すぅっと消えていく。

   誰しも感動したときは、おれもがんばろう!と思う。しかし、それはいわば“火の心”であって、長く保持することは難しい。
   生活・人生にはそうした一時(いっとき)の刺激も大事だが、それ以上に大事なのは、そのとき決めたことを持続していく習慣である。習慣は、“水の心”によってなされる。絶え間なく滔々と流れる川の水のように、きのうもきょうも、昨年も今年も、そして5年後も同じように流れてこそ、川は澄み、自分の形となり、海を豊かにしていく。

 


「人格は繰り返す行動の総計である。
それゆえに優秀さは、単発的な行動にあらず、習慣である」


                                             ───スティーブン・R・コヴィー 『7つの習慣』

 


「同じ情熱、同じ気力、同じモチベーションで持続することができる人が、一番才能がある人じゃないかと思っているのです。奨励会の若い人たちを見ていると、手が見えると言うのですが、一つの場面でパッと発想が閃く人がたくさんいるのです。しかし、だからといって、そういう人たちが全員プロになれるかというと、意外にそうでもないのです。
逆に、そういう一瞬の閃きとかきらめきのある人よりも、見た目にはゆっくりしていて、シャープさはさほど感じられないが、でも確実にステップを上げていく人、ずっと同じスタンスで将棋に取り組むことができる人のほうが結果として上に来ている」。


                                                      ───羽生善治・今北純一著 『定跡からビジョンへ』



   今回、五輪選手たちからもらった感動が単なる興奮だった人は、おそらく、次の興奮を求めて、また別の強い刺激を追いかけるだろう。彼らは退屈が嫌いなのだ。
   逆に、この感動を自分をつくるためのものに変換しようと思った人は、何か挑戦の準備をしたり、何か習慣を始めたりするだろう。準備や習慣といったものは、元来、退屈なものである。しかし、この退屈ではあるが、中身を詰めていくプロセスこそが、よりよく生きることの本体である。それは、バートランド・ラッセルが「偉大な本は、おしなべて退屈な部分を含んでいるし、古来、偉大な生涯は、おしなべて退屈な期間を含んでいた」(『ラッセル幸福論』)と書いたとおりである。

   人は刺激ばかりを追っていると疲れる。退屈さの中の“耕し”がないと、心身は決して満ちてこない。ロマン・ロランは次のように警告する───「魂の致命的な敵は、毎日の消耗である」(『ジャン・クリストフ(一)』)と。

   「水の心」を持って、自分が掲げた目的のもとに、日々の行動を積み重ねていくこと───文章で書けば、これもまた退屈な表現だが、これがなかなかできないのが私たち凡人なのだろう。しかし、考えてみれば、五輪という舞台に立ったアスリートたちは、みな、こうしてきたのだ。あらためて敬服。
   祭りは終わった。されど、個々の人生は続く。

 


「どんなにゲームで活躍しようが、自分の中では、どこにも、何にも到達していないという感じです……人生と同じで、死ぬまでの間は通過点なんです」。


                                                                                     ───三浦知良 『カズ語録』

 


「一日は一年の縮図である。夜は冬、朝と夕方は春と秋、そして昼は夏である」。


                                                         ───ヘンリー・ディビッド・ソロー『森の生活』



さて、きょう一日、何をしようか。
一日即一年、一日即一生である。




*(引き続き行われるパラリンピック出場の選手のみなさんのご活躍も期待します)







2012年2月29日 (水)

概念の工作~「成功」の反対は?「失敗」ではない


私は最近、「概念工作家」という肩書きを付けるようになりました。

英語表記では
「コンセプチュアル・クラフツパーソン(conceptual craftsperson)」と勝手に造語をしています。

私は、子どものころから工作が好きで、
木工やねんど細工、紙工作、電気回路のハンダ付けなど時間を忘れてやっていました。
大人になるにつれ、職人の手仕事に関心が湧いてきて、
「クラフツマンシップ」というような精神性にあこがれも抱くようになりました。
私が最初、メーカーに就職したのもそんな流れでした。

ところが私は、いつごろからか、モノの切り貼り・組み立て・造形よりも、
概念・観念といったコトの切り貼り・組み立て・造形といった表現のほうに
魅力を感じるようになりました。

なぜかというと、仕事に対する動機が変わっていったからです。
最初、メーカーに入り、希望どおり商品開発部門で働いていたときは、
「何か新規性のあるモノをつくって、世の中を驚かせてやろう」のような、
言ってみれば、
「モノを通して新しいスタイルを提案すること」に面白みを感じていたように思います。

ちなみに、“ように思います”という表現になるのは、
働く動機というのは、往々にして、
進行形で動いているときには見えにくいものだからです。

そうして20代の月日は流れ、30代前半くらいに、あるアート作品本に出会いました。
オノ・ヨーコの『グレープフルーツ・ジュース』です。
ページをめくるたび次のような文が並んでいます。

「地球が回る音を聴きなさい。」

「空っぽのバッグを持ちなさい。
丘の頂上に行きなさい。
できるかぎりたくさんの光を
バッグにつめこみなさい。
暗くなったら家に帰りなさい。
あなたの部屋の電球のある場所に
バッグをつるしなさい。」

「想像しなさい。
あなたの身体がうすいティッシューのようになって
急速に
世界中に広がっていくところを。
想像しなさい。
そのティッシューからちぎりとった一片を。
同じサイズのゴムを
切りなさい。
そしてそれを、あなたのベッドの横の
壁につるしなさい。」

「月に匂いを送りなさい。」

「録音しなさい。
石が年をとっていく音を。」

「雲を数えなさい。
雲に名前をつけなさい。」

「ある金額のドルを選びなさい。
そして想像しなさい。
a その金額で買える
すべての物のことを。

想像しなさい。
b その金額で買えない
すべての物のことを。
一枚の紙にそれを書き出しなさい。」

                                           ───(南風椎訳・講談社文庫より)


これは、「インストラクション・アート(指示する芸術)」と呼ばれる分野のアートです。

彼女のこの作品が、ジョン・レノンにおおいにインスパイアを与え、
名曲『イマジン』につながっていくという話は有名です。

ちなみに、この本の最後に示されたインストラクションは、

「この本を燃やしなさい。
読み終えたら。」


……そして、本の末尾にはこんな言葉が付記されています。
「This is the greatest book I've ever burned.  ───John」



さて本題に戻り、私はこの本に触れて、
「ほほー、そうか。人の内にアート作品をこしらえさせるアート作品なんや」───
と、感心しきりでした。

自分の最終創造物は、人の外に創り出すものではなく、人の内に創り出されるもの。
つまり、創造の場は、人の心の内。
さらにその創造の主は、自分が半分、それを受けた人が半分。
そして出来上がった作品は、その人の内側に留まり、
その人のその後に影響を与えていくかもしれない。

消費財というモノ作りが、人の外側に創り出して、
人を外側から影響を与えていくのとはまったく正反対のアプローチです。

「モノを通して新しいスタイルを提案すること」に面白みを感じていた私は、次第に、
「概念や観念というコトを通して人の内側に何かを響かせてみたい」───
そんな気持ちが強くなっていきました。

* * * * *

さて、その後の経緯も話せばいろいろありますが、それは別の機会に書くとして、
きょうの概念工作です。

まず、次の問いです。

Sko 01


「成功」の反意語は、はたして「失敗」でしょうか。
そんなとき、エジソンのこの言葉はとても重要なことを教えてくれます。

     「私は失敗したことがない。うまくいかない1万通りの方法を見つけたのだ」。

失敗は成功までの一つの過程であって、
それによって得た経験知は、成功までの土台になりますから大切な「資産」です。
成功によって得る獲得物も、もちろん「資産」。
だから、成功も失敗も資産側に計上すべきプラス価値のものです。

では、対置するマイナス価値のものは何か?
───それは、「何もしなかったこと」
臆病心か怠慢心から、座してその機会を見送ったことです。


Sko 02


なぜ、私たちは「跳ぶ」(=何か行動で仕掛ける)ことに抵抗があるのでしょうか。
それはリスクが怖いからでしょう。
しかし、跳ぶことにリスクはもちろんありますが、
同時に、跳ばないことにもリスクはあります。



Sko 03


「跳ぶリスク」と「跳ばないリスク」、どちらが大きいでしょう?
そしてどちらが負うに値するリスクでしょう?
私が考えるのは次の図です。



Sko 04



成功にせよ、失敗にせよ、勇気をもって行動を起こせば、

何らかの資産(獲得物、経験知、感動、自信、人とのつながり等)が必ず蓄積される。
そして、その中に必ず次の行動の「種」が見つかる。
そしてもっと「跳ぼう」と思える循環が出来上がってくる。
これが「勇者の上り階段」。

逆に、何もしないことに安住すると、どんどん機会損失は増え、後悔は蓄積され、
さらに臆病癖、怠慢癖が自分に染みつく。
「臆病者の下り階段」が知らずのうちに出来上がる。

「跳ぶリスク」と「跳ばないリスク」。
どちらが大きいか、どちらが負うに値するリスクか、答えは自明です。



……こうした概念の工作を、企業内研修のプログラムに展開し、
受講者のみなさんと一緒に「仕事・働くこととは何か?」について演習や討論をする。
それもまた、私にとって楽しい作業です。





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