2) 知識/能力 Feed

2013年10月26日 (土)

能力をひらく能力~「メタ能力」を考える

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◆ある能力には長けていても……
組織のなかには、特定分野の知識が豊富な人、ある技能に長けた人、修士号や博士号を修めた人、利発的でIQの高い人などがいる。しかし、そうした人たちが必ずしも仕事で高い成果を上げるわけではないことを、私たちはいろいろと見聞きしている。

「タコ壺(ツボ)的に深い知識があるがそれを他に展開できない」
「才能に恵まれているのに、配属に不満があって本気を出さない」
「言われた作業は器用に処理できるが、何か新しい仕事を創造することは苦手である」

……本項では、こうした「能力がありながら、能力がひらけない/ひらこうとしない」状態に陥る理由を考えていきたい。そこで私が持ち出したいのが、「メタ能力」という概念である。なお、メタ能力はここだけの新規の概念であり、一般に言及されているものではない。

メタ能力の「メタ(meta)」とは「高次の」という意味である。たとえば心理学の世界では、「メタ認知」という概念がある。メタ認知とは、認知(知覚、記憶、学習、思考など)する自分を、より高い視点から認知するということである。
たとえば、会議や商談の場を想像してほしい。私たちはまず、その場でやりとりされる内容や流れを自分なりに把握する。そこでもし自分が何か発言しようとするならば、私たちは考えていることをそのままはき出してしまうのではなく、その場の空気を読み、相手の考えを読み、自分がこう発言すればどう反応があるだろうか、こう言った方がいいかな、ああ言った方がいいかなと、頭のなかに一段俯瞰して考えるもう一人の自分を置いてシミュレーションする。これがまさに「メタ認知」している状態である。

それと同じように、本項では「能力をひらく能力」として「メタ能力」というものを考えてみたい。

【Ⅰ次元能力】 能力をもろもろ保持し、単体的に発揮する
「〇〇語がしゃべれる」「数学ができる」「記憶力が強い」「幅広い教養がある」、
「文章力が優れている」「表計算ソフト『エクセル』の達人である」、
「〇〇の資格を持っている」「運動神経が鋭い」「論理的思考に長けている」───
これらは単体的な能力、素養としての能力である。これらを発揮することをⅠ次元の能力ととらえる。

【Ⅱ次元能力】 能力を“場”にひらく能力
私たちは仕事をするうえで、能力を発揮する「場」というものが必ずある。たとえば、家電メーカーの営業部で働いているとすれば、その営業チームという職場、営業という職種の世界、そして家電という市場環境。一般社員であるかリーダーであるかという立場。これらが「場」である。そして場はそれぞれに目標や目的を持っている。
私たちは、もろもろに習得した知識や技能(=Ⅰ次元能力)を、さまざまに編成して「場」に成果を出そうと努める。このⅠ次元能力の一段上からもろもろの能力を司る能力が、言ってみればⅡ次元能力であり、ここで「メタ能力Ⅱ」と名付けるものである。この「メタ能力Ⅱ」についての理解を促すための演習を1つやってみよう。


◆演習「モザイク作文」~自分の意図のもとに要素を編成する

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〈ワーク指示〉
□ワークシート〈P〉の右上にある四角枠の中に、いまあなたが全く適当に思いついた単語(名詞)を書き入れてください。
□次に、ワークシート〈P〉の他の空欄に次の言葉を埋めてください。
・要素A→「海」 ・要素B→「幸福」 ・要素C→「夏の日」 ・要素D→「中華料理」 ・要素E→「甘い」
□現在、ワークシート〈Q〉のような状態になりました。では課題です。要素A~Eまでの5つの要素を盛り込んで、あなたが先に記入した単語に帰結するよう物語を作ってください。(時間は10分間)

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さて、この課題に対し、どんな物語をこしらえることができただろうか? 実際の研修で出てきた回答例を紹介しよう。

【作例:Kさん・女性】
○記入単語=「机」
○桜の花が「甘い」香りを放つ4月、私たちは入学した。みんなで「海」に行き、大騒ぎをした後、横浜に立ち寄って本格的な「中華料理」に舌鼓を打った。そんな「夏の日」もまるで昨日のよう。そして秋が過ぎ、冬が過ぎた。「幸福」な思い出をいっぱい詰め込んで、きょう、私はこの教室、この「机」ともお別れだ。

【作例:Tさん・男性】
○記入単語=「クルマ」
「中華料理」の丸テーブルを囲みながら、きょうは我が家の家族会議だ。今年の「夏の日」の旅行は何処に行こうか。「海」にも行きたい、山にも行きたい。温泉にも浸かりたい、キャンプもしたい。そんな「幸福」プランはいろいろ出てくる。しかし、現実はそんなに「甘い」ものではない。なぜなら我が家は先月、「クルマ」を売っ払ったばかりだった。



要素AからEは、まったく脈絡のないばらばらなものである。しかし、ひとたび、「机」なり「クルマ」なり、帰結点を定めるとどうだろう。その瞬間から、これら単体的な要素に意味合いや流れを持たせようと意志的な努力がはたらく。そして、何かしら物語が完成すると、各要素はあたかも最初からその物語のために用意されていたかのように思えてくる。つまり、5つの要素は、当初、単体として分断されていたのだが、私たちは物語をつくる意図のもとで、それらをあるまとまりとして機能させ、つながるように完成させたのだ。


◆「単に~ができる」と「成果が出せる」は別物

これを実際の仕事上のことに引き戻して考えてみよう。
私たちは日ごろ、業務処理や仕事体験を通して、さまざまにⅠ次元能力を身につけていく。だが、俗に言う「仕事ができる人」というのは、そうした単体の能力要素をたくさん持っている人ではない。どんなプロジェクト、どんな職場、どんな立場を任せられても、内面に蓄えたⅠ次元能力を自在に組み合わせて、着実に成果を出すという人間である。上の演習で言えば、どんな帰結ワードを振られたとしても、見事な作文を仕上げられるということだ。これがまさに「メタ能力Ⅱ」に優れている状態である。


つまりⅠ次元能力は、単に「~を知っている」「~ができる」というレベルであるのに対し、Ⅱ次元能力はもろもろの能力を組み合わせて、何か目的にかなった成果を出すレベルを言うのだ。

私自身これまで、メーカー、出版社、IT企業と渡り歩き、業種・職種を超えて仕事をしてきた。メーカー時代にはマーケティングや商品開発、生産管理などの知識を蓄えたし、出版社に入ってからはコンテンツ制作やデザインの技能を身につけた。IT企業ではプロジェクトマネジメントやビジネスモデル構築に関わる知識を得た。その意味では、Ⅰ次元能力をさまざま蓄積してきた。
そして現在、職業人教育という場において働いている。いま何かのサービス開発をするときに頭がどう動くかと言えば、「以前の会社でのあのプロジェクトで習得したマーケティング知識は形を変えれば応用できそうだ」とか、「そういえば、元部長のKさんのコネクションを使えば道が開けるかもしれない」とか、「ああ、あのときの失敗経験がこんなところで役に立つ!」といった具合だ。「メタ能力Ⅱ」とは、このように、過去から蓄えたもろもろの能力を「場」にひらく能力なのである。

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◆「異動に納得がいかない」という若手社員に対して

ところで、私が受託する研修の対象は、主に20代・30代前半の会社員・公務員である。彼らがやる気をなくす原因として、不本意な異動というのが少なからずある。「本人の適正を考えないこんなミスマッチな配置転換があっていいのか」とか「会社は一貫性のない異動を強要して、これでどうして一貫性のあるキャリアが築けるのか」といった声を研修現場でもよく耳にする。そんなときに私が伝えるのは次のようなメッセージだ───

・異動というのはサラリーマンの宿命である。
 (その宿命から逃れたいなら、どうぞ思い切って独立起業なさい)
・異動はチャンスである。
 (思いがけない才能を発見したり、出会いがあったり、世界が広がったり)
・優れた「組織内プロフェッショナル」とは、
 次々に命じられる「場・ミッション」を楽しみにでき、
 かつ、きちんと成果を出せる人財である。


3番目が、言うまでもなく「メタ能力Ⅱ」を発揮せよということである。では、その次々に命じられる「場・ミッション」をどうやったら楽しみにできるようになるのか、それについては最後に触れる。

【Ⅲ次元能力】能力と場を“意味”にひらく能力
能力の高次元への移行はこれで終わりではない。もう一段高い移行がⅢ次元能力だ。これは自分が持つ諸能力とそれが発揮される場を、意味のもとにひらいていく能力である。具体例で示そう。


◆新幹線の清掃員たちが能力の次元をどう上げていったか

手元に、遠藤功著『新幹線お掃除の天使たち』(あさ出版)がある。この本は、新幹線の車両清掃をするJR東日本のグループ会社、鉄道整備株式会社(通称:テッセイ)の清掃員たちが、いかに3K(きつい・汚い・危険)仕事を、誇り高き「おもてなしサービス」に転換したかを紹介している。以下、同著の内容を参考にしながら、メタ能力の観点から清掃員たちの意識変化を考察してみたい。

テッセイの清掃員が1日に清掃を行う車両本数は110本。車両数は1300両に及ぶ。ホームに入ってきた新幹線車両の清掃にさける時間はわずか7分。その間に、車両清掃、トイレ掃除、ゴミ出し、座席カバーの交換、忘れ物のチェックなどを終えなくてはならない。したがって、清掃員たちに求められるのは、何よりもまず車両をきれいにする基本的なスキルだ。窓の拭き方や掃除機のかけ方から、床にくっ付いたチューイングガムの取り除き方、トイレのパイプ詰まりの直し方などまで、雑多な作業技術を身につける。

会社が今日のように生まれ変わる以前の清掃員たちは、これら基本技術を習得し、それを繰り返すだけの日々だった。言わばⅠ次元能力の発揮レベルに留まる状態である。おそらく彼らの働く意識としては、車両の汚れを落とせば賃金が得られるといっただけのものではなかっただろうか。その意識を変えたのが、同社の矢部輝夫専務取締役である。

矢部専務はJR東日本東京支社からテッセイに移り、試行錯誤するなかで、一つのメッセージを社内外に発信する。それは、テッセイは単に清掃作業をする会社から、快適空間を創造する会社になりたいという宣言だった。そして同社が提供する価値として「さわやか・あんしん・あったか」というキーワードを前面に出した。そのためにまず、制服を一新したり、清掃員の技術コンクールを実施したり、従業員の休憩所を整備したりと、快適空間創造サービス会社のサービスパーソンにふさわしい待遇改善を目に見える形でどんどん行っていった。

その結果、清掃員たちのなかで何が起こったかと言えば、快適な新幹線空間を創造することが仕事の目的としてあり、その手段として各種の掃除技術がある、という意識転換だ。そしてまた、自分たちが提供する「さわやか・あんしん・あったか」に応じて、お客様から評価され、信頼を受け、それが給料につながってくるという意識変革である。とりあえず目の前の汚れを落とせば給料がもらえる。チューイングガムをきれいに除去する技術を覚えるだけで事足れりというレベルからはとても大きな変化だ。まさに雑多に持つ能力を一段上から司り、場にひらくⅡ次元能力が開花した瞬間である。


◆やがて能力も場も手段になった

矢部専務がテッセイに着任して8年。同社が行うサービスは、地味で隠れた清掃から「魅せる清掃」へ、利用客とは遮断された清掃から「接客業としての清掃」へと変わっていき、清掃員たちは新幹線という鉄道輸送の場・旅の場を盛り立てる存在になった。現在では清掃員たちは誰もが、自分の仕事・自社の事業を「おもてなしサービス」だと認識している。そしてついにはⅢ次元能力を発揮する段階に移っていく。

その変化の鍵は、彼らがみずからの仕事に大きく意味を見出すようなったことだ。自分たちのやっていることがお客様の旅の一部になっている。だからこそ「さわやか・あんしん・あったか」という価値提供をもっと高めたいという思い。また、彼らの活躍がメディアで紹介されるほどに、3K仕事だって劇的に転換できるというメッセージを自分たちの姿を通してもっと世に広げていきたいという使命感。そうした働くことの意味から来る内発的エネルギーが次々と彼らの行動変容を促したのである。

その具体例は「エンジェル・レポート」に数々紹介されている。「エンジェル・レポート」とは、日ごろの現場でコツコツとがんばっている人たちを上司や仲間が褒めるための社内の仕組みで、清掃員たちのさまざまな仕事エピソードが報告され、紹介されていく。『新幹線お掃除の天使たち』にいくつも掲載されているので、ここでは割愛するが、それらの事例を読むと、もはや彼らは自分の仕事「場」を自律的に変えていく、新たにつくり出していく主体となっていることがうかがえる。

メタ能力Ⅱは、もろもろの能力を場にひらく能力であった。テッセイの清掃員の場合、当初、その場というものは、経営側から与えられたものであったし、清掃員たちはそこにまだ十分な意味を見出し切れていなかった。ところが、いまでは一人一人が自分なりに意味を見出し、その意味(理念と言ってもいい)のもとに、場をどう変えていこうか、つくり出していこうか、そのために能力をどう総動員しようか、新しいスキルが必要なら進んで学びにいこうというモードになった。これは能力を司る次元がさらに一段上がったことであり、メタ能力Ⅲを発揮している状態といえる。

以上みてきたように、Ⅰ次元能力からⅢ次元能力までを簡潔にまとめるとこうなる。

【Ⅰ次元能力】
・能力をもろもろ保持し、単体的に発揮する
・単に「~できる」「~を知っている」ことに満足する
・その単体的な能力を磨くことが自己目的化する

【Ⅱ次元能力】 メタ能力Ⅱ
・能力を“場”にひらく能力
=場が求める目的に合わせて諸能力を寄せてきて自在に編成し、成果を出す力。
 そして、その場に応じた能力が新たに身についていく。
・能力を使って成果を上げることにおもしろさを感じる

【Ⅲ次元能力】 メタ能力Ⅲ
・能力と場を“意味”にひらく能力
=意味のもとに諸能力を寄せてきて自在に編成し、
 場をみずからつくり出し/つくり変え、実現したい価値を生み出す力。
 そして、その意味に応じた価値観が強まっていく。
・能力と場を使って意味を満たすことに喜びを感じる



◆能力の成熟化~「進化・深化」と「高次元化」
さて最後に、能力の成熟化について触れておきたい。能力の成熟化には2つの方向があるように思う。

 1)その次元内での能力の「進化・深化」
 2)能力をⅠ次元からⅡ次元へ、Ⅱ次元からⅢ次元へと上げていく「高次元化」

たとえばここでロシア語が話せるAさんを例にとってみよう。Aさんにはいま、Ⅰ次元能力として「ロシア語を話す力」というものがある。Aさんは今後も時間と労力をかけてロシア語につきあっていけば、文法や聞き取り力、表現力が増していく。これが語学力単体でみた場合の、つまりⅠ次元能力内での成熟化である。

そんなAさんは総合商社に就職し、ロシアに自動車を輸出する部署に配属になった。そうした場を与えられたAさんにとって必要になるのは、ロシア語だけでなく、貿易知識、交渉術、人脈構築力、異文化理解などさまざまな能力だ。これらもろもろの能力を養い引き寄せて、自動車販売の成果を出していく。これがいわばⅡ次元への能力高次元化だ。
そしてAさんは自動車輸出部門での活躍が買われ、その後ロシア駐在となり、ロシアでのエネルギー開発部門に異動となった。そこでも語学力とともに、さまざまな能力を組み合わせて着実に成果を出していった。これはある場からある場へと移り、同様に成果を出すべく能力をひらいていくことで、Ⅱ次元内での能力成熟である。

さて、ロシアでの仕事が長く続いたAさんはやがて支社長となり、次第に日本とロシアの文化交流に貢献したいと思うようになった。彼はビジネスで築いた人脈と立場を活用し、いろいろなイベントを企画・推進することに汗を流した。「民間外交・文化交流こそ平和を築く礎」という信念のもとにこれまでのキャリア・人生で培った能力を惜しみなくそこに発揮した。これは能力と場を意味にひらいている状態であり、Ⅱ次元からⅢ次元へ能力を高次元化した姿である。


◆メタ能力を開発する鍵は「意味」創造
このように能力の成熟化には、「次元内の進化・深化」と「高次元化」がある。「次元内の進化・深化」については、一所に集中して取り組んだり、経験量を増していったりすることで実現していく。ところが「高次元化」については、どれだけ時間をかけてその分野の仕事を真面目に繰り返していっても次元は上がっていかないことが多い。Ⅱ次元への移行は、「場」が求めるものを自覚し、場のもとに能力を司る意識にならないと駄目である。また、Ⅲ次元への移行は、意味(実現したい理念や価値、使命、志といったもの)を創造し、その意味のもとに能力と場を司る意識になることが不可欠である。

個々が、能力の発揮を全体として強く大きくさせていくためには、やはり、1つめと2つめの成熟化を同時にしていくことが理想である。

たとえば私は執筆業を生業のひとつにしているが、文章表現技術を巧みにしていくためには、それを単体的に鍛えていても限界がある。優れた文章表現を生むには、歴史観を醸成したり、音楽の技法を勉強したり、あるいは絵画の技法からヒントを得たり、そうした他の知識・能力との化学的な融合反応が必要である。また、読み手がどこにいて、どんな欲求をもっているかという需要の場を想定することで、よりいっそう感覚が鋭くなる。さらに、自分は何のために執筆業をやり、何のためにこの文章を発信するのかという意味を強く抱いているほど、文章を究めようという想いが強くなる。そうすることで、結果的にⅠ次元の能力である文章表現力がいやがうえにも強化されていくのである。

ビジネスの現場を見渡したとき、Ⅰ次元やⅡ次元で仕事をする人は多い。だが、Ⅲ次元のレベルにまで引き上げて仕事をやる人は限定的である。それだけ「意味」を最上位に置いて働くことが難しいということだ。しかし、それは生涯をかけて取り組むに値する課題ではないだろうか。能力をひらくことは大事である。だが、能力をひらく能力を持つことはもっと大事である。「メタ能力」開発のための鍵は、最終的には「意味」創造にある。







2013年9月 5日 (木)

「成長とは何か」を自分の言葉で定義せよ


◆研修の現場から~成長体験から成長の本質を導き出す演習
私は研修で「成長するとは何か?を自分の言葉で定義せよ」という演習を行っている。
具体的には、各自にこれまでの仕事のなかで「いちばん成長できた経験」をあげてもらい、グループで共有する。そして、そうした自他のさまざまな経験エピソードを踏まえたうえで、「成長すること」の本質は何かを抽出し言語化する作業を行う。
こうした演習を通し、受講者のなかに「ああ、結局、成長するって大本はそういうことなんだな」「多様な機会が成長に通じているんだな」「どんな業務にも自分が成長できる芽は隠れているんだな」という気づきが起こる。


「成長」についての本質を自分の言葉で腹に据えさせることで、日々の苦しかったり、つまらなかったりする仕事のなかにも、自分を成長させてくれる要素というものが何かしら発見できるはずだという意識を育むのがこの演習の狙いである。

ちなみに、下にあげるのは実際の研修で出てきた「成長」の定義の一例である(受講者はおおよそ新卒入社3~5年目の20代社員)───

・成長とは、限界の幅が広がり、他に認められること
・成長とは、得た知識や技術、経験に自信と信頼を持つことである。
 それらが他者に認められた時、成長したと強く実感することができる。
・成長は、自分に負荷をかけて、それを乗り切った時に起きる

・努力している時に、後から自然についてくるもの

・成長とは、物事を見る際の観点が増える事である
・成長とは、新たなステージへ進むための武器。

・受動から能動になること

・継続して能力の“筋トレ”をすること
・成長とは、できなかった事が自然とできるようになるまで身につくこと

・成長とは、自分に対する対価が増えることである

・成長とは、挑戦するこころを忘れないこと!
・自分の存在意義を実感すること

・経験を積み重ねることが成長である。

・自分の中の多様性を増やすこと
・昨日できなかったことが、今日できるようになること

・成長とは、課題を解決する力が大きくなることであり、

 より大きな課題を解決できるようになったときには、成長しているといえる。
・振り返りながら全力で走ること



これら受講者が書き出した言葉は、いずれも具体的な成長経験から引き出したという点がこの演習のミソである。私が拙著『キレの思考・コクの思考』でも述べたとおり、具体と抽象の2つの次元を往復することによって納得感のある力強い答えを導き出すことができる。抽象だけの思考は脆弱になるし、具体だけの見聞で終わっては広く応用展開できない。抽象と具体の両輪を回すという意味でも効果のある演習になっている。


◆「成長」をさまざまに考える
ちなみに、私が受講者に紹介している成長の定義をいくつかあげる。

○〈成長を考えるヒント1〉

成長とは、

「長けた仕事」を超え、
「豊かな仕事」をするようになることである。



成長には、「技術的な成長」と「精神的な成長」がある。技術的な成長は、いわば「長けた仕事」を生み出す。技術的な成長の観点では、ものごとの処理の「巧拙(上手か/下手か)」が問題になる。だが、人は技術的な成長だけではほんとうに次元の高い仕事はできない。もう一方の精神的な成長が不可欠なのだ。その点をピーター・ドラッカーは次のように書く───

「指揮者に勧められて、客席から演奏を聴いたクラリネット奏者がいる。
そのとき彼は、初めて音楽を聴いた。
その後は上手に吹くことを超えて、音楽を創造するようになった。
これが成長である。
仕事のやり方を変えたのではない。意味を加えたのだった」。



精神的成長で問題になるのは「意味」である。意味を見出したときに、その仕事人は「長けた仕事」を超え、その人でなければ創造できない「豊かな仕事」を生み出す。

誰しも入社3年くらいまでの間や、新しい業務を任された当初は、技術が伸びる「喜び」がある。しかし、仕事慣れしてくるにしたがって惰性が生じてくる。仕事に対するモチベーションの低下やキャリアの停滞感もそうしたところから始まる。組織はそうした状態に対し、ジョブローテーションによる異動や新しい役割を与えるなどして従業員の意識をリフレッシュさせようとする。それはそれで有効的な“外科的”な方法ではある。

しかし、その人がほんとうに次の成長ステージに上がっていくためには、“内からの”変化が要る。それがすなわち、みずからの仕事に対し、意味を満たす「喜び」を見出せるかどうかだ。真の成長は「内的変革」にあり、これがなされてこそ次の技術的成長も起こる。そしてそこからさらに精神的な成長があり、内的変化が起こる。この絶え間ない循環がキャリアを無限に開いていく。

また、精神的な成長を得ている人は、仕事に対し気分的な「楽しい」ではなく、意志的な「楽しい」になっているので、多少のしんどさや苦労に耐える粘りを持つことができる。つまり、「しんどいけど、楽しい」「厳しいけど、やりがいがある」という意識で仕事に向かえるのだ。

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* * * * *

○〈成長を考えるヒント2〉

成長とは、

リスクを負って殻を破ったときに得られる収穫物である。



日本の伝統芸能の世界では「守・破・離」という言葉が使われる。その道を究めるための成長段階を表したものである。

「守」:
 師からの教えを忠実に学び、型や作法、知識の基本を
 習得する第一段階。「修」の字を置く場合もある。

「破」:
 経験と鍛錬を重ね、師の教えを土台としながらも、
 それを打ち破るように自分なりの真意を会得する第二段階。

「離」:
 これまで教わった型や知識にいっさいとらわれることなく、
 思うがままに至芸の境地に飛躍する第三段階。


これを「枠をめぐる3種類の人間」として、現代風に焼き直したものが下図である。


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1番目に『枠の中の「優秀者」』。
2番目に『枠を変える「変革者」』。
3番目に『新たな枠をつくる「創造者」』。
後にいくほど難度・リスク度は高くなり、その分、成長度も大きくなる。

あなたは、そして、あなたの組織は、どのレベルで満足しているだろうか?───と自問してほしい。


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○〈成長を考えるヒント3〉

挑戦して失敗することも立派な成長である。

成功の反意語は失敗ではない。「挑戦しなかった」ことである。



何かに挑戦する。その時点で、あなたは成長を手に入れている。
成功すればもちろん技術の習得や経験知、自信、人とのつながりなどを得ることができたはずだし、仮に失敗したとしても、やはり経験知を得ている。発明王トーマス・エジソンがこう言い切ったように───「私は失敗したことがない。うまくいかない 1万通りの方法を見つけたのだ」

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成功するにせよ、失敗するにせよ、いったん挑戦すれば、いろいろなものが内的資産として貯まる。そこには同時に次の挑戦の「種」が宿される。そしてまた挑戦に向かう。すると、また新しい内的資産が貯まり、次の「種」が宿される。そしてまた挑戦する……この繰り返しが、成長という名の「勇者の上り階段」となる。

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挑戦は、成長を約束する。
成功の反意語は失敗ではない。「挑戦しなかったこと」である。







2013年6月10日 (月)

日本人は教えられすぎている


「日本人は教えられすぎています」。───こう語るのは、キング・カズことプロサッカーの三浦知良選手だ。彼は加えてこうも言う。「教えられたこと以外の、自分の発想でやるというところがブラジルよりも遅れています」(いずれも『カズ語録』より)。


米メジャーリーグ野球では、コーチのほうから選手にあれこれ指導しないと聞く。選手のほうからコーチに具体的にはたらきかけてはじめて、コーチが技術やメンタルを改善するためのヒントを与えるのだという。このことは米国の大学院に留学経験のある私もじゅうぶんに理解できる。
授業内容は研ぎ澄まされてはいるものの、どちらかというと淡々としている部分も多い。短い在学期間のなかで、ほんとうに自分の研究したいこと、成就したいことのために、大学教官の知見を引き出したり、協力を仰いだりするのはなんといっても授業外だ。授業外でどれだけ彼らを活用できるかが学生の優秀さでもある。教官に教えてもらうのを待つというより、こちらから能動的に引き出す、活用するというスタンスが強い。


ひるがえって日本の企業研修の現場。研修を行った後に、受講者からの事後アンケートを見せてもらう。どこの企業でも少なからず見受けられるのが、「もっと方法を教えてほしかった」「技術論が少なかった」「具体的にどうすればよいのでしょう」といったハウツー要求の意見だ。
私の行っている研修が「知識・スキル習得型」のものであれば当然、そのあたりのことは伝授しなければいけない。しかし私の分野は「仕事観・働く自律マインド醸成型」研修である。自分の仕事の意味をどうすれば見つけることができるか、自律的な人間になるための術は何か、幸せに働くための方法はどうかなどを教えることなどできない。もちろん、そうしたテーマに対し、どう心を構えていくか、どう内省・思索するか、どう行動で仕掛けていくかのヒントは研修内でいくつも与えたつもりである。しかしそれでも技術的なハウツーにまで落として教えてほしいという(不満ともとれる)声は必ず出る。

困ったことに、人財育成担当者のなかには、そうした不満の声による研修の低評価をそのまま受け入れ、「では来年度はもっと方法・技術論を教えてくれる先生に任せよう」と考え違いする場合があることだ。「そんな処世術めいたことを安易に欲しがる社員をうちは増やしたくない!」くらいの毅然とした親心の評価眼で、そうしたアンケート回答になびかない担当者が増えてほしいものだ。

いずれにせよ、「よりよく働くこと・自律的に職業人生を切り拓くこと」のやり方は、自分自身が見出さねばならない。その方法・プロセスこそ、その人の人生そのものだし、自らが抱く価値の体現だからだ。そこの部分は、時間がかかろうが、不器用だろうが、まわり道をしようが、自分でもがいて築いていくしかない。
書店に行けば、「3日間で人生を変える魔法の●●」式の指南本がたくさん出ている。確かに、その中には有益なことも書かれているだろうが、そうしたものに頼っても“Easy build, easy fall”(お手軽に出来て・容易に崩れる)の域を出ない。人生の成功を即効的に刈り取りたいという考えに疑いを持つ人でないかぎり、深い生き方には入り込んでいけないと思う。


芸術品や工芸品を観るとき、作品という成果のみに目がいきがちだが、私はつくり手の創作プロセスや方法に興味がわく。そこを知ることによって作品の味わいが格段に深まるのは言うまでもないが、「生きる・働く」うえでの力をもらえるからだ。すごい作品というのは、技術や発想がすごいというより、そこに達するまでの自己との戦いや鍛錬、執念の物語がすごいのだと思う。そのプロセスの一切合財がいやおうなしに作品や技術に宿るからこそ緊迫感のある名品が誕生する。

Mujinzo いま濱田庄司の『無盡蔵』(むじんぞう)を手元に置いて読んでいる。濱田庄司といえば、ありふれた日用雑器の焼きものだった益子焼(栃木県)を、世界にその名を知らしめるレベルにまで高めた陶芸家である。

濱田は陶芸を英国で始め、沖縄で学んだ。36歳のときに益子に移り住み、以降40年以上そこで作陶人生を送る。実は益子の土は粗く、焼きものに最上のものとはいえない。それを知った上で濱田はそこに窯を築いた。なぜか。濱田はこう書いている───「私はいい土を使って原料負けがしたものより、それほどよくない土でも、性(しょう)に合った原料を生かしきった仕事をしたい」と。

窯にくべる薪は近所の山から伐ってくる。釉薬(ゆうやく・うわぐすり)は隣村から出る石材の粉末で間に合わせる。鉄粉は鍛冶屋の鋸くずをもらってくる。銅粉は古い鍋から取る。用筆は飼っている犬の毛から自分で作る───その考え方・やり方こそが濱田そのものなのだ。

真の創造家は、創造する方法を生み出すことにおいてさえ創造的である。今日の益子焼を代表する色といえば、柿色の深い味わいをもつ茶褐色である。これは“柿釉”(かきぐすり)と呼ばれる釉薬を使用することによって生まれるのだが、その柿釉をつくり出したのは、ほかでもない濱田だ。気の遠くなるような材料の組み合わせや方法のなかから、思考錯誤を繰り返し、ついにこの柿色にたどり着いた。しかも釉薬の原料は先ほど触れたように、隣村からもらってくるのだ。

また、濱田の代表的な技法のひとつとして「流し掛け」というのがある。濱田は成形した大皿を左手に持ち、右手にはひしゃくを持つ。ひしゃくにたっぷりと釉薬を汲み、大皿の上にすっと縦に釉薬を走らせる。そして左に持つ大皿を手の平でひょいひょいと90度回転させるやいなや、再び釉薬を縦に無為に走らせる。すると大皿に十字にしたたる線が描きあがる。これを焼き上げると、躍動的で面白みある表情が出る。これが流し掛けだ。この潔く堂々とした方法こそ濱田そのものだと私は感じる。そしてまた、一見、無造作に流し掛けた線であっても、それがきちんと濱田庄司という人間の器にかなった線が出る。そこが芸術の面白いところだ。

ちなみに流し掛けを巡って、濱田は「一瞬プラス六十年」というエピソードを書き残している。ある訪問客が、これだけの大皿に対して、たった15秒ほどの模様づけではあまりに速すぎて物足りないのではないかとたずねたそうだ。そのときの濱田の返答───


「これは15秒プラス60年と見たらどうか」。

 ……60年とは言うまでもなく、濱田が土と戦ってきた歳月の長さだ。

方法やプロセスはその人そのものを写す。方法やプロセスにかけた厚みこそ、その人の厚みになる。だから、私たちは安易に教わりすぎてはいけないのだ。



2013年1月 7日 (月)

「よく生きろ。それが最大の復讐だ」を超えて

 

“Live well. It is the greatest revenge.”
  (よく生きろ。それが最大の復讐だ)

 

   ───どこで書き留めたか、誰が言ったかは忘れてしまったが、かなり昔の手帳に記して以来、私の心のなかにどすんと居座っている言葉の一つである。

   人間の行動エネルギーで、復讐心や怨念、もっと言い方を和らげれば、見返し心や反骨心から出るエネルギーは馬鹿にならないほどの大きさで持続する。このエネルギーは、ときに人を暴走させるし、ときに成長させもする。

   私自身、これまでの人生を振り返ってみると、実はこの「リベンジ心」によるエネルギーを主たる源泉にしてやってきたのかとも思える。
   幼少期から実家は経済苦の連続で、夜中に借金取りが怒鳴り声を立てて来るような状態だったので、お金持ちの家庭から「あそことはあまり付き合わないように」と言われ、子ども心に「なにクソ!」と思って勉強したのを思い出す。また、生来ひどく痩せているために身体コンプレックスがあり、それを打ち消すために自分が秀でたものを何か見つけようと懸命だった。20代終わりには過酷な大失恋をし、その悔しさを晴らすためにがむしゃらに仕事をした。41歳で独立起業をしてからは、米粒のような事業に対し、外側だけの判断で無視や軽視があり、あるいは少し成功でもしようものなら嫉妬も妨害も受ける。それによって「いまに見ていろ!」の反骨心でここまで頑張ってきたように思う。

   そんな過程において、冒頭の「よく生きることが最大のリベンジである」という言葉は、ある意味、私を正しく鼓舞してくれた。だから、この言葉には感謝している。

   ……ところが昨年あたりだろうか、この言葉を読み返したときに、以前ほどの力強さを感じないことに気がついた。「リベンジ(復讐)」という語彙が、自分の気持ちにしっくりこないのだ。そして、今年の元旦を迎え、なにげなく岡本太郎さんの本を再読していたら、こんな一文に目が止まった。なるほどそうかと、自分の気持ちの変化に合点(がてん)がいった。

「人生は、他人を負かすなんてケチくさい卑小なものじゃない」。

                                               ───岡本太郎『強く生きる言葉』



   いや、まさにそのとおり! すでに私のなかには、過去の些細な出来事のわだかまりやら引っ掛かりやらはすっかり削げてしまっているのだ。岡本流に表現すれば、もはや自分は「他人に復讐しようなんてケチくさいちっぽけな」理由で、日々の仕事に打ち込んでいるわけではない。私は見返し・復讐といった次元から解放され、もっと大きな開いた理由を持って働いている。そう合点がいったとき、なにかすっと抜けた気持ちになり、これも何か一つの成長なのだなと思った。

   喩えて言うなら、石炭という復讐心を燃やして、黒煙を上げながら地べたをズリズリと進んでいた小さな機関車が、いまや、太陽からの光(=大きな開いた目的)を燦々(さんさん)と受け、それを無尽蔵のエネルギーに変えて自由に大空を飛ぶ飛行機に変身したかの成長だ。

   「成長」を考えるとき、人にはいろいろな成長がある。できなかったことができるようになる。これは腕前(技術)が上がった成長である。見えなかったものが見えてくる。これは観(もののとらえ方)が深まった成長である。そして、不自由だった自分を自由にできる。これは境涯(自分がいる次元)が高まった成長である。私もこの歳になると、2番目、3番目の成長を感じられることが特にうれしい。




2012年12月18日 (火)

モラルジレンマ ~「Aは正しい/Bも正しい」の間で


Kirekoku cover   きょうは、先月刊行した『キレの思考・コクの思考』から、モラルジレンマについての演習を紹介する。


◆演習:ボックス・ティッシュ開発
   次にあげるケース(事例)は、私が研修で使用しているもので、実際の市場で起きていることを一部取り込みながら創作したものである。ケースを読んで、後の問いについて考えてほしい。


   ===〈ケース〉===

   あなたは製紙会社A社に勤めていて、ボックス(箱入り)・ティッシュの商品開発を担当しています。A社は、スーパーやドラッグストアなどでよく見かけるボックス・ティッシュ「5箱パック」製品で業界トップシェアの位置を確保しています。ところが、最近B社が急速に売り上げを伸ばし、A社を追い抜く勢いになってきました。
   なぜかというと、B社の低価格戦略品が消費者の支持を集め、急速にシェアを拡大しているからです。現在、店頭では次のような状況で2社の製品が並んでいます。

     A社製品=5箱パック:358円
     B社製品=5箱パック:298円

   両社の製品は外箱のデザインこそ違え、5個パックの大きさはほぼ同じ。消費者はティッシュ自体の品質に大きな差を感じていません。となれば、そこに付けられた値札の差額は、デフレ・不景気下の消費者にとってみれば、歴然と大きなものです。「5箱パックが300円を切った!」ということで、消費者は一気にB社製品に手を伸ばしているわけです。


Morale d 01



   しかし、ここにはからくりがあります。B社が投入してきた戦略品は、同じ「5箱パック」としながら、1箱に詰めるティッシュの枚数を減らし、紙の品質をわずかに落とし、そこで低価格を実現させているのです。
   従来、業界では標準として、2枚を1組のティッシュとして、1箱に200組400枚を詰めていました。それをB社は、160組320枚にしたのです。1箱に何枚のティッシュが入っているかという表示は、箱の裏面に小さく表示があるだけで、多くの消費者はその点に気づかないのが現実です。つまり、実際はこういう比較数値になります───

     A社=5箱パック:358円
      (1箱400枚入り×5箱=総計2000枚:1枚あたり0.1790円)

     B社=5箱パック:298円
     (1箱320枚入り×5箱=総計1600枚:1枚あたり0.1863円)・紙品質やや劣

   そうこうしているうちに、B社は次の策を打ってきました。今月発売した新商品のパッケージには「エコ×エコ」とデザインされた目立つシールが貼ってあります。説明表示を読むと、「箱の高さを数ミリ小さくし、外箱に使う紙資源を少なくしました!」とあります。
   さて、客観的に考えて、ほんとうに「エコ×エコ」=経済的で省資源なのはどちらでしょうか? 確かに店頭価格はB社のほうが安い。しかし、ティッシュ1枚あたりで考えると、A社のほうが安いのです。しかも品質的にも上です。経済的なのはA社です。

   次に、ほんとうに省資源なのはどちらでしょうか。B社が小さくしたという箱の高さはわずか数ミリです。その分の資源の節約は実際に効果的なものなのでしょうか。
   A社が調査したところ、外箱を数ミリ薄くしただけでは、箱用紙、印刷インク、物流コストについて大きな節約効果は出ません。もし、同じ1600枚の販売で考えるなら、「1箱320枚×5箱」より「1箱400枚×4箱」で販売するほうが、節約効果が大きいとの結果です。
   結局、B社がやっていることは、1箱に400枚詰められる技術があるにもかかわらず320枚に留め、A社と見た目のボリューム感はほぼ同じにしながら、分かりにくいように中身の質と量を落とし、低価格で訴える戦術です。しかも、そこにもっともらしい社会性のある宣伝文句を加えるというしたたかさ。

   こうしたB社の猛追を受けて、A社の1位陥落は時間の問題となってきました。もちろん、A社内では盛んに議論が交わされています。「うちも枚数と品質を落とした低価格品で対抗すべきだ」という声もあれば、「業界のトップ企業として、そしてもっとも信頼される上位ブランドとして、安易に見せかけのエコ競争・低価格競争に走ってはならない。多少の割高感が出たとしても、何がほんとうに経済的か、省資源的かを訴え、自分たちの理念を軸にした商品開発を堅持すべきだ」という声もあります。
   また、ネット上の口コミサイトを探ると、ほんとうに経済的で省資源的であるのは、「1箱400枚入り」のものだという消費者の意見が少しずつではあるが増えている気配もあります。しかし、おおかたの口コミは、「5箱パックで298円!」だとか「無名ブランド品で198円ものが出た!」など、もっぱら安売り情報が主となっています。

□問1:
自社(A社)は、ボックス・ティッシュ5箱パック分野において、B社と同じような仕様(枚数減・品質低)で競合品を出すべきでしょうか? 

□問2:
問1についての判断をした理由は何ですか?
(自分がどんな視点・価値的判断軸を持って考えたか、もしそれが複数あった場合は、どんな優先順位で考えたかなどを説明してください)

□問3:
もしあなたが、製紙業界とはまったく関係のない一消費者・一市民だとしたら、問1の判断を支持しますか?


◆私たちは「マルチロール」な存在である
   このケースを考えるとき、個人の頭のなかでも、そして組織内の議論においても、さまざまな視点・価値的判断軸が出てくるだろう。たとえば、「安さを追求した商品を出すことが消費者のためである」「シェアを取る=数量を押さえることが事業の根幹である。シェアトップの座を奪われることは、組織の士気に影響する」「数量の論理・利益至上主義のみで進める事業は長続きしない」「地球環境を守ることは一地球市民としての義務である」「目先の競争のためにブランドイメージをゆがめてはならない」など。こうした多様にある価値的判断によって、「正しいこと」はいくつも存在する。
   私たちはこうした正解値のない問題に対し、具体的な事実やデータを把握し、論理的に分析をし、客観的に対応法を考える。しかし、そうやって追いこんでいっても、切れ味よい答えがなかなか出てこない。それは、私たち個人が、「マルチロールな(複合的な役割を持つ)」人間だからだ。

   たとえば、自分がどこかの会社に勤め、何か事業を企てている場合、私たちは「一企業人」としての側面を持つ。一企業人であるかぎり、事業の拡大を狙うし、組織が永続するために利益を追求する。競合会社を蹴落とすために手段を尽くすし、より多くの消費者を取り込もうとするだろう。一企業人としての自分は、行政・法律の制限、消費者団体の意見、メディアの批評、株主の圧力、取引先との関係性、地域・社会の動き、社内の目など、いろいろなものに囲まれている。これら外部の力と複雑にやりとりをしながら物事を動かしていく。
   と同時に、私たちは「一人間」としても存在する。つまり、家に帰れば、誰かの親であり、あるいは子であり、市民であり、地球人であり、消費者であり、良識人である(図2)。


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   ボックス・ティッシュのケースにおいて、もしあなたが「安さで太刀打ちできる製品を出して、何が何でもトップシェアを維持すべきだ」と考えるのは、一企業人としての価値的判断だ。しかし同時に、一人間としてのあなたの心の奥からはこのような声が聞こえてくるかもしれない───「資源のムダを知りながら、それを脇に置いて価格競争に明け暮れていいのか。子どもたちの世代に少しでもきれいで豊かな地球を引き渡してあげるのが、大人の責務ではないのか」と。ここにモラルジレンマ(道徳的価値の葛藤)が生じる。
   チェスター・バーナードが『経営者の役割』のなかで、「組織のすべての参加者は、二重人格――組織人格と個人人格――をもつ」と記述したように、事業現場におけるモラルジレンマはこの二つの人格の間の揺れ動きにほかならない。組織の目的を優先させるのか、個人の動機に根ざすのか、その力学が複雑になればなるほど私たちは悩み悶える。

◆現実の自分を高台から見つめる「もう一人の自分」をつくれ
   では、この「組織人格」と「個人人格」の葛藤を超えて答えを出すためにどうすればよいのか。それには、高台から現実の自分を見つめる「もう一人の自分」をつくることだ。その「もう一人の自分」は、単なる客観を超えたところで、「自分は何者であるか/ありたいか」という根源的な主観を持っている存在である。モラルジレンマに遭遇したとき、その彼(彼女)が現実の自分を導いていく───これが最善の形である(図3)。


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   ちなみに、その自己超越的な「もう一人の自分」について、能楽の大成者である世阿弥は、『風姿花伝』のなかで「目前心後」という言葉で表している。世阿弥によれば、達者の舞いというのは、舞っている自分を別の視点から冷静に見つめてこそ可能になる。そのために、「目は前を見ていても、心は後ろにおいておけ」と。つまり、前を向いている実際の目と、後ろにつけている心の目、この両方を巧みに使いこなすことが重要であるとの教えである。なお、世阿弥は同様のことを「離見の見」とも言い表している。

   もちろん、「もう一人の自分」の導いた判断が、ビジネス的成功の観点からまずい結果に終わり、一企業人としては失敗者の烙印を押されることもあるかもしれない。だが、その判断は「自分は何者であるか/ありたいか」という根源的な次元から出てきたものだから、本人に悔いはないはずである。心身へのダメージは比較的軽く済むだろう。むしろ恐れるべきは、「高台のもう一人の自分」をつくることができず、二つの人格の間で、自己喪失したり、自己欺瞞に苦しんだりする日々を送ることだ。

   バーナードが著した『経営者の役割』はすでに経営の古典的教科書の一つになっているもので、1938年の刊行である。同書が、経営者が直面すべき道徳性について少なからずの紙幅を割いているのは、担当する業務が経営のレベルに上がっていけばいくほど、個人は道徳的緊張と価値観の乱立にさらされることとなり、人格の崩壊や道徳観念の破滅が起こるリスクが高まるからだ。実際、当時から経営現場ではそれが数多く起こっていた。
   昨今の職場でも、メンタルを病む人間が増えていることが社会問題化している。実は、「キレの思考」ができる人間ほどそのリスクが高くなる。物事が客観的に見えすぎるがゆえに、自分の論理が、事態収拾のためにどんどん捻じ曲げられ、破綻していくことに精神が耐えられなくなるのだ。
   また、企業の不正事件もあとを絶たない。高度な専門能力をもった担当者が、巧妙な手口で組織に利益を誘い込む。その担当者は、自分のなかの「組織人格」が肥大化し、組織の論理・組織の都合だけで違法な手段を実行してしまう。それはもはや一市民・一良識人としての「個人人格」の制御が失われ、組織の僕(しもべ)と化した知能ロボットのように見える。

   私たちはマルチロールな(複合的な役割の)存在である。もし、モノロールな(単一的な役割の)存在であれば、物事の思考はラクになる。が、その分、判断も経験も人生も薄っぺらになるだろう。幸いなるかな、私たちは多重的に複雑な役割を担った存在である。そのときに大事なことは、「自分は何者であるか/ありたいか」の主観的意志を持つことである。ただ、この主観的意志は客観を超えたところの主観である。世阿弥が言うところの「我見」ではなく「離見の見」である。さて、あなたはこのボックス・ティッシュ開発においてどんな意思決定をするだろうか───?




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