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2011年8月21日 (日)

「知っている」が学ぶ心を妨げる

Nyudokumo 


企業で研修を行うと、

たいてい主催の人事部(人材育成担当)は受講者(社員)に事後アンケートを取ります。
そのアンケート結果は、研修プログラムの開発者であり講師である私にとっては、
いわば成績表のようなもので、高い評価であれば励みにし、
意見やクレーム・批評のようなものがあれば改善要求書ととらえて参考にします。
いずれも見るのは楽しみです。

しかし、そんな中で、残念な感想というのがあります。
それは例えば───

「わかりきった内容のことが多かった」
「どこかで聞いたような話だった」
「1日拘束されてやるほどの情報量がなかった」
「理論的に目新しいものではない」
「実際の業務には使えない」 ……といった類のものです。

もちろん私も、このような声が出ないように一生懸命プログラム改良をして
努力を重ねるわけですが、このような類の感想はどうしても出てしまうのです。
その理由は「知識が学ぶ心を妨げている」からです。
きょうはそのことについて書いていきましょう。

私が行う『プロフェッショナルシップ(一個のプロであるための基盤意識醸成)研修』は
仕事やキャリア形成に関わるマインド・観を涵養する内容ですので、
いわゆる知識習得・実務スキル習得ではありません。
マインド・観といった基盤意識をつくるために
働く上での原理原則の観念をさまざまに肚に植え付けていただくこと、
そして大いに思索・内省の脳を動かしていただくことが内容です。

私は「観念が仕事をつくり、観念が人をつくる」と確信しています。
さらには、観念は価値を生み出す基となるものであり、
観念は人を結びつけるものであるとも確信しています。
例えば私が紹介する観念は───

「心が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる」。 (星稜高校野球部・山下智茂監督の指導書き)

あるいは、
「悲観は感情に属し、楽観は意志に属する」。 (アラン:仏哲学者)

または、
「チャンスは心構えをした者に微笑む」。 (パスツール:科学者)


これらわずか一文に表された観念を肚に落としてもらうために、

ワークをやり、ゲームをやり、ディスカッションをやり、
1日とか2日とかの研修プログラムをこしらえます。

原理原則を含んだ観念というのは、古典的な言い回しです。
当然それらは一読して当たり前の内容であり、
新規性のある情報や理論は含んでおらず、地味で説教じみたものです。

そんなとき、
「心が変われば運命が変わる? まぁ、教訓としてはそうだよね」、
「ああ、その言葉、聞いたことある、知ってる。(で、それが何?)」、
「チャンスは努力しないと来ないってことでしょ。はいはい、わかってます。
(で、明日から使えそうな具体的ハウツーは何か教えてくれるの?)」
……受講者の中で「知識狩り」「ハウツー情報狩り」の人の感想はこうなりがちです。

知識を狩るにしても、ハウツー情報を狩るにしても、
それはひとつの好奇心の表れでもありますから、
まったく悪いというつもりはありません。
しかし、自分の外側にある新奇のものばかりの収集・消費に忙しく、
自分が既に持っている内側のものの耕作・醸成を放置していることが
私は残念だと言いたいのです。

私たちはあまりに知識所有教育を受け、情報優位社会に生きているので、
「ああ、それなら知ってるよ」と思ったとたん、
それ以降の「考えること」をしなくなります。
そして、もっと知らない知識・もっと目新しい情報を欲しがるのです。

ここで、小林秀雄を引用しましょう。
下の箇所は小林が小中学生に語った『美を求める心』に出てきます。


「言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。(中略)言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、皆そういう風に花を見ているのです」。


小林は、言葉が美を見る心を奪ってしまうと言います。

それと同じように、私は、知識が学ぶ心を奪ってしまうと思います。
つまり、「ああ、アランのその言葉なら知ってるよ。『幸福論』に出てくるやつでしょ」と、
自分がそれを知識としてすでに持っていると認識するや、
その人はもうその言葉に興味をなくします。
その言葉の深い含蓄を掘り起こし、自分の生きる観念の一部にしようという心を閉じるのです。

知識狩りに忙しい人は、新奇のものを知ることに興奮を得ていて、
ほんとうの学び方を学ばない。
ハウツー情報狩りに忙しい人は、要領よく事を処理することに功利心が満たされ、
物事とのほんとうの向き合い方を学ばない。

しかし、人生とはよくできているもので、
こうした情報狩りに忙しい人も、ハウツー情報に忙しい人も、
いつかのタイミングで古典的な言葉に目を向けるときが必ず来ます。
誰しも、悩みや惑い、苦しみに陥るときがあるからです。
人は何か深みに落ちたときに、
断片の知識や要領のいい即効ワザだけでは自分を立て直せないと自覚します。
そんなとき、自分に力を与えてくれるのが古典的な言葉です。
その言葉を身で読んで、強い観念に変えて、その人は苦境から脱しようとします。

そういうことがあるから、
私は古典的な言葉を通して、大事な観念を研修で発し続けます。
いまはピンとこないかもしれないけれど、
その人の耳に触れさせておくということが決定的に大事です。

自分の外側には、無限の知識空間があり、そこを狩猟して回るのは興奮です。
他方、自分の内側には、無限の観念空間があり、そこを耕作することは快濶です。
狩猟の興奮を与えるコンテンツ・サービスは世の中に溢れていますが、
耕作することの快濶さを与えるものは圧倒的に少ない。
私はその圧倒的に少ないほうに自分の仕事の場を置きました。

お客様に買っていただくことが難しい商売ですが、
私自身にとっては、その仕事こそが自らの観念空間を耕作することでもあり、
そこから無上の快濶さを得ることができるので、今後も喜んで続けようと思っています。

〈追記〉
3・11以降の日本がどうなるかを考えるとき、
日本人がこの耕作にどれだけの振り返りをみせるかはひとつの重要なポイントになると感じます。
人を強くするのは多量の知識ではなく、健やかな観念です。
興奮は一時的な刺激反応ですが、快濶は持続的な意志活動です。
日本人の1人1人が、「知ること」を超えて、「掘り起こすこと」に喜びを見出していくなら、
日本はひとつ強くなれると思います。

 



 

コメント

興味深いお話しをありがとうございました。
私は、企業で人財育成を担当しており、この「残念な感想」に良く出会います。
残念な感想を見るたびに、心がざわめき、どんな風にすればもっと満足してもらえるのだろうと考えてしまいます。(全員が満足することはないと思いながらも)

今までは、一つでもおみやげになること(新しい知識)を持って帰ってもらえば良いと考えいましたが、受け取る姿勢を持ってもらうことが重要なのですね。
受け取る姿勢を持ってもらうために、事前に受講者に研修の企画の意図を伝えたり、研修の中でも受講者の閉じた姿勢を開かせる取り組みが必要なのかなと感じました。

agoさん

投稿有難うございます。

> 受け取る姿勢を持ってもらうことが重要なのですね。

はい、まさにその通りだと思います。例えば私は、特に海外旅行へ行くときなどは、訪問先の歴史の事前勉強などをして好奇心の口を大きく開けておきます。それをするのとしないのとでは、旅の味わいが随分違ってくるものですね。

> 受け取る姿勢を持ってもらうために、事前に受講者に研修の企画の意図を伝えたり、研修の中でも受講者の閉じた姿勢を開かせる取り組みが必要なのかなと感じました。

ええ、そうした事前や周辺からの仕掛けって大事だと思います。私は研修の前と後に、受講者と講師と人事部の3者のネットコミュニティをつくって、1つのテーマのもとにいろいろとやりとりをしながら興味関心・理解を高めていくという仕掛けをやることがありますが、なかなかの効果を上げています。やはり「学び」というのは、点ではなく、線や面で交流する機会を設けてやることがよいと思います。

人財育成の仕事も深みを出そうと思えばそれこそやることにきりがありませんね。agoさんのますますのご活躍をお祈りいたします。

娘が 知ってる わかってると 主人に質問し それに答えてる主人の話の途中で そういうので 注意されています。
そんなに 簡単にわかるなんて言うなと おこる主人の気持ちが よくわかります。途上国で仕事をし 思い通りにならないことが多い主人に 知ってる わかるは 禁句です。
娘も 日本人のお友達がいない インドネシア人の中に ただ一人教室で
勉強し 少しずつ わかるというまえに ちょっと かんがえる間が 作れるようになってきました。
村山さんの 本日のブログ いつか むすめに 読んでもらいたいなとおもいます。
 

U子さん、コメント有難うございます。

ご主人様の娘さんに対する接し方、厳しいようですが、考える子に育ってほしいという愛情が感じられますね。考えることは、子どものころからの習慣で随分変わりますから大事な躾けだと思いますよ。

ただ今回の記事で誤解がありそうですが、私は「知識を狩猟する」ことが悪いとは言っていないのです。断片的な知識の獲得を“超えて”、掘り起こして考えることをしてくださいね、と言いたいのです。

はじめまして。
残念な感想・・・まさに、私のことです。先日講座があり、80%知っている内容でした。私の心を客観的に文章にして見せていただいたようで、ショックでした。そこを超えて学び成長したい、心からそう思いました。
ショックですが、何度も読み返しています。何かが不完全燃焼のまま残っているのはこれか!と納得しています。講座に限らずきっと人に対してもしていると思います。成長の種を蒔いていただいてありがとうございます。

知恵の実さん

投稿有難うございます。いやや、スバラシイ! そんなに素直に自分のことが反省できるなんて。これを書いた私が言うのも何なんですが、私個人もいろいろセミナーや講義を受け、本を読みますが、既知のことばかりだと「なーんだ、つまんない」と思うことしばしですよ。既知の中からも学べることはいくらでもあるぞと心構えを切り替えることは本当は難しいことです。

私は研修の講師側としても、この「なーんだ、つまんない」という声を少しでもなくそうと日々精進しようと思っています。

小林秀雄の言う「黙って物を見る」経験がつい最近ありました。山梨の山裾のあるひまわり畑をふと見た瞬間、「うわ、何てきれいな色なんだ。皆上を向いて生き生きしている」と心の中で呟いていました。知識もまた然りで自然体(これが一番難しいんですが)で向き合うことが大切なのだとこの記事を読んで再認識しました。既知と言っても、知っていると思い込んでいるだけで、大切なのはその言葉の奥底にあるエッセンスを掴み、自分の血肉に変えて、歩みを進めることなんだと思います。

grasshopperさんのその体験は貴重なものですね。既知のものにどれだけ好奇心を湧かせることができるかもひとつの才能なんだと思います。

世間では、一年に何冊本を読んだかという「多読」が何かと自慢になるようですが、私は、一冊の本を生涯のうちに何度も何度も読み返し、自分の成長ごとに新たな気づきを発見する、いわば「重読」も同じように大事だと思います。

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