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2012年4月14日 (土)

抽象的に考える力~喩え話をどう現実に展開するか



THINK2012 Spr 4th雑誌『THINK!』(東洋経済新報社)に連載中の

「抽象度を上げて本質をつかむ~曖昧さ思考トレーニング」も第4回を迎えました。

今回のテーマは「比喩化」です。
比喩について思考の流れは2種類あります。
1つは、「比喩の凝結」=ものごとを比喩表現に落とし込む流れ。
もう1つは、「比喩の展開」=比喩表現を他のものごとへ応用する流れ。

『THINK!』誌面では、その2つにつきいろいろな角度から例を出して解説します。
きょうのブログでは、その一部、「比喩の展開」について少し書きましょう。

* * * * *

◆共通性を見出して括る…それが抽象作業

   まず、「抽象的に考える」とはどういうことかを改めて押さえることから始めたい。抽象とは、物事のある性質を引き抜いて把握することをいう。抽象の「抽」は「抜く・引く」という意味で、「象」は「ようす・ありさま」のことだ。

   図1を見てほしい。横に「ヒト」「キリン」「カエル」「ミジンコ」「サクラ」と並んでいる。そこでまず「ヒト」と「キリン」を括る〈共通性①〉は何だろうか。次に「ヒト」と「カエル」を括る〈共通性②〉は何だろうか。そういう具合に〈共通性③〉〈共通性④〉に入る言葉を考えてほしい。
……正解の一例をあげると、順に「哺乳動物」「脊椎動物」「動物」「生き物」となる。このように複数の物事の間に何かしらの共通性を考えるとは、簡単に言えば、グループ分けをしてそこにラベル張りをする作業でもある。その作業をするとき、私たちは必然的に、そこに並んでいる物事の外観や性質から特徴的な要素を引き抜き、どんな括りで分類できそうかを考える。これがまさに抽象的に考えることにほかならない。


Aimaisa01


   より多くの物事、より関係性の弱い物事を括ろうとするほど、そこに付けられるラベルはより多くの曖昧さを含むようになる。共通性①の「哺乳動物」と、共通性④の「生き物」とを比べてみてもわかるとおり、後者のほうが概念の範囲が広く、その分だけ曖昧さが増す。抽象度を上げて考えることは曖昧さを伴うのだ。

◆「魔法使いの弟子」から何を学びとるか

   では、「比喩の展開」を考えていこう。「比喩の展開」とは、「比喩表現を他のものごとへ応用する」思考のことである。
   「魔法使いの弟子」という寓話(教訓や諷刺を含んだ喩え話)をご存じだろうか? ドイツの文豪ゲーテは、この古い寓話を詩文に取り込み、それをフランスの作曲家ポール・デュカスは、1897年に交響詩として楽曲化した。そしてこの寓話は1940年、ディズニー製作のアニメーション映画『ファンタジア』によって幅広く知られることとなる。映像化されたシーンはこんな感じだ。

───ミッキーマウス扮する魔法使いの弟子は、師匠から水汲みを命ぜられ、両手に木桶を持って家の外と中を往復している。折しも師匠が出かけていなくなり、ミッキーはここぞとばかり、見よう見まねの呪文を箒(ほうき)にかける。すると箒は木桶を両手に持って歩き出し、自分の代わりに水汲みを始める。しめしめとミッキーは居眠りをする。しかしその間にも水はどんどん溜まり続け、ついには溢れ出す。

ミッキーは目を覚まし、あわてて箒を止めようとするが、箒にストップをかける呪文がわからない。ミッキーは斧を持ち出して、箒を切り刻んでしまう。ところが切られた破片がそれぞれ1本の箒となって蘇り、水汲みを始める始末。箒の数は幾何級数的に増えていき、ミッキーは洪水状態の家の中であっぷあっぷと溺れる……。


   さて、この寓話からあなたは何を学び取るだろう。ある人は「怠け心は結局得にならない」と日常生活への知恵にするかもしれない。また、ある人は「技術は中途半端に用いると危険だ」と自分の仕事のことに当てはめて考えるかもしれない。さらには、これを現代文明への警鐘として受け止める人もいるかもしれない。

   米国の評論家・歴史家であるルイス・マンフォードは、『現代文明を考える』(講談社、生田勉・山下泉訳)の中で、この寓話を取り上げ、こう書く。

───「大量生産は過酷な新しい負担、すなわち絶えず消費し続ける義務を課します。(中略)『魔法使いの弟子』のそらおそろしい寓話は、写真から美術作品の複製、自動車から原子爆弾にいたる私たちのあらゆる活動にあてはまります。それはまるで、ブレーキもハンドルもなくアクセルしかついていない自動車を発明したようなもので、唯一の操作方式は機械を速く働かせることにあるのです」。


◆抽象的な物語に触れよ

   1つの寓話から引き出す内容、当てはめる先は、人それぞれに異なる。それを描いたのが図2だ。このように、ある比喩を生活や仕事、社会といった他の物事に広げ応用していくのが「比喩の展開」である。
   比喩の展開プロセスは、図に描いたとおり3ステップになる。───①抽象度を上げて考え、②そこから共通性を見出し、③当てはめる。この一連の流れを私は、その形から「π(パイ)の字」プロセスと呼んでいる。

Aimaisa02


   「アリとキリギリス」「ウサギとカメ」「北風と太陽」など、世の中にはさまざまな寓話がある。寓話は子ども向けの話と済ませてはいけない。古典的な寓話は、人生のいつの時期に読んでも、そのときどきのとらえ方ができる。抽象度を高く上げて、その寓話が内包するエッセンスをつかみ、遠くのものごとに敷衍(ふえん)することは、大人の成熟した思考の姿でもあるのだ。
   具体的な情報ばかり摂取していてもこうした思考力は鍛えられない。抽象的な物語に触れ、それを咀嚼し展開する思考機会を自分で設けなくてはならない。それはさほど難しいことではない。例えば、文学にせよ絵画にせよ、芸術作品に接し、作者が曖昧さの奥に潜ませた本質は何だろうと、感性を開き、思考を巡らせていくことで養われる。



Msakura
桜の盛りも過ぎ、いよいよ初夏を彩る新葉のまぶしい季節に

2012年3月14日 (水)

言葉という感性の「メッシュ」


Ksmesh


中学校のときのことだ。

詳しくは思い出せないのだが、何か作文の宿題が出されていたと記憶する。
冬の夕暮れ。
部活を終えての帰り道。
田んぼのなかの無舗装の一本道を歩いていくときの、
空の色の変化をその作文で描写したいと思っていた。

私は西の空の夕焼け色も素晴らしいと思うが、
それ以上に、
すでに闇が覆いかぶさりはじめている中天から東にかけての
無限のグラデーションで広がっていく紫から紺、黒の世界が好きだ。

で、その色をうまく表したいのだが、自分の知っている語彙は、紫、紺、黒しかない。
しかし、目に映っているのは、紫ではあるが紫ではない。
紺といえば紺だが、紺では物足りない。
黒なんだけれど、単純に黒と書いては気持ちが落ち着かない。

多分、紫、紺、黒と書いて作文しても、人には通じるだろうとは思った。
しかし、何だか自分の気が済まない。
「このモヤモヤした表現欲求を鎮めてくれる言葉はないのか」───
そんな思いにかられていたのだろう。
私は、翌日、市の図書館に行って「色の事典」を手にしていた。

「日本の伝統色」の事典だったと思うが、そこには目くるめく言葉の世界があった。

私が言いたかったのは、
二藍(ふたあい)であり、
瑠璃紺(るりこん)であり、
鉄紺色(てっこんいろ)であり、
褐色(かちいろ)であったのだ。

私はこうした語彙を手にしたとき、
胸のつかえが下りたというか、
ピンボケ景色を見ていたのが、
すっとレンズの焦点が合って画像がシャープに見えたというか、そんな気分だった。

* * * * *

松居直さんは、児童文学者、絵本編集者、元福音館書店社長として知られる方だ。
著書『絵本のよろこび』に次のような素敵なくだりがある。

まったくの個人的な体験ですが、十歳のころ、ちょうど梅雨のさなかで、学校から帰宅しても外へ出られず、縁側に座ってただぼんやりとガラス戸越しに庭を見るともなしに眺めていました。放心状態でした。外には見えるか見えないかほどの霧雨、小糠雨が降っていました。そのとき背後から不意に母のひとり言が聞こえました。

「絹漉しの雨やネ」

母の声にびっくりすると同時に、我にかえった私は「キヌゴシノアメか?」と思いました。私は“絹漉し”という言葉は意識して聴いた覚えがありません。わが家では父親の好みで、豆腐は木綿漉ししか食べません。しかし私には眼の前の雨の降る様と“絹漉し”という言葉がぴたっと結びついて、その言葉が感じとれたのです。


……「絹漉しの雨」。
松居さんもこの後に言及されているが、この表現は一般的ではなく、辞書にも載っていない。
おそらくお母様の独自の言い回しだったのだろう。
けれど、多感な少年は何ともすばらしい言葉を授かったものだし、
こうした「絹漉しの雨」が降るたびに、それを言葉で噛みしめられる感性も得た。

私たちは一人一人同じ景色を見ていても、感じ方はそれぞれに異なる。
その差は、持っている言葉の差でもある。

雨を見るとき、
「大雨」「小雨」「通り雨」「夕立」「冷たい雨」「どしゃ降り」───
程度の語彙しか持ち合わせていない人は、
景色を受け取る感性のメッシュ(網の目)もその程度に粗い。

他方、自分のなかに、
  「霧雨(きりさめ)」
  「小糠雨(こぬかあめ)」
  「時雨(しぐれ)」
  「涙雨(なみだあめ)」
  「五月雨(さみだれ)」
  「狐の嫁入り(きつねのよめいり)」
  「氷雨(ひさめ)」
  「翠雨(すいう)」
  「卯の花腐し(うのはなくたし)」
  「地雨(じあめ)」
  「外待雨(ほまちあめ)」
  「篠突く雨(しのつくあめ)」……
などの語彙を持っている人は、

感性のメッシュが細かで、その分、豊かに景色を受け取ることができる。

ただし、これらの語彙を受験勉強のように覚えれば感性が鋭敏になるということでもない。
実際、言葉を持たなかった古代人の感性が鈍いかといえば、まったくその逆である。

結局のところ、見えているものを、
もっと感じ入りたい、もっとシャープに像を結んで外に押し出したい、
そういった詩心が溢れてくると、
人はいやがうえにも言葉という道具を探したくなる。

古代人のなかには、
言葉がなく、自分の詩心を表現できずに苦悶した人もたくさんいたにちがいない。
そういった意味で、現代の私たちは何とも幸せだ。
日本語という美しい道具があり、
自分の表現を分かち合えるメディアを持っているのだから。


 

2012年1月22日 (日)

「モデル化」して考えるとはどういうことか?



   THINK 40a季刊ビジネス雑誌『THINK!』(東洋経済新報社)で連載中の「抽象度を上げて本質をつかむ『曖昧さ思考』トレーニング」も、今号で3回目を迎えました。今回は、「概念をモデル化してとらえること」について書いています。


  「モデル(model)」という言葉は、最近いろいろな場面で使われる言葉です。大本の意味は「型」ということですが、そこから派生して、プラモデルやファッションモデル、ビジネスモデル、ロールモデルなどに広がり、すでに日本語の中に溶け込んでいます。今回の記事は、そんな中でも「概念モデル」を扱っています。

  概念モデルとは、
  「物事の仕組みを単純化して表したもの」、
  「概念のとらえ方を示すひな型」と言っていいでしょう。

  概念モデルとして秀逸なものは世の中にいろいろありますが、私は次の2つを挙げたいと思います。まず1つめに、エッセイスト・画家・ワイナリーオーナーとして活躍される玉村豊男さんの「料理の四面体」図。


Simentai



  料理という概念を理解するのに、「煮る」とか「焼く」とかいった加工方法で分類するアプローチは、特段独創性のあるものではありません。
  玉村さんの発想の優れた点は、加工方法の観点からさらに一段抽象度を上げて、その根源となる4つの要素「火・空気・水・油」を“発見した”ことです。そしてさらにもう一段の抽象化、それら4要素の関係性を三角錐(四面体)の構造で表現したことです。

  玉村さんは火を頂点にして、空気・水・油へと伸びる稜線をそれぞれ「焼きものライン=火に空気の働きが介在してできる料理」「煮ものライン=火に水の働きが介在してできる料理」「揚げものライン=火に油の働きが介在してできる料理」と名づけました。こうすることで、煮物とか、炒めものとか、グリル、くんせい、干物、生ものがすべて意味をもって構造の中に配置されます。

  このモデル図をいったん見てしまえば、私たちは「あぁ、ナルホド、ナルホド。確かに料理ってこういうとらえ方ができるな」と思える。もちろん、これは1つの切り口からの整理にすぎませんが、それでも直観的に料理という概念の全体構造を把握できます。

  もう1つ紹介しましょう。哲学者・九鬼周造が1930(昭和5)年に著した『「いき」の構造』(岩波文庫)で提示したモデルです。「粋」などという、まさに曖昧きわまりない概念をよくぞこのような姿で示せたものだと感服します。九鬼は図化を積極的にやる哲学者で、他にも、偶然性と必然性の論理を図に表して分析しています。


Iki



  九鬼は、粋の構成要素として8つの趣味(渋味・野暮・甘味・意気・地味・下品・派手・上品)を抽出し、「対自的/対他的」「有価値的/反価値的」「積極的/消極的」など彼独自の対立項を用いて、直六面体の構造に表現しました。九鬼は、8つの頂点に配置された趣味以外のものも、この直六面体のなかで捉えられると説明しています。

  例えば───「“さび”とは、O、上品、地味のつくる三角形と、P、意気、渋味のつくる三角形とを両端面に有する三角柱の名称である」「“雅”は、上品と地味と渋味との作る三角形を底面とし、Oを頂点とする四面体のうちに求むべきものである」「“きざ”は、派手と下品とを結び付ける直線上に位している」といった具合です。


  九鬼の場合、こうした風流をめぐる美的価値を1つ1つ言葉上で定義するのではなく、直六面体のモデル上に相対的な位置関係で示すというアイデア自体が、優れて独創的であると思います。概念モデルを図に落とし込む作業は、ある意味、アート作品をこしらえる作業にも通じるところがあります。モデル図は、もちろん理解しやすいということが必須要件ですが、美しいことも大事な要件です。

* * * * *

  ところで、私たちはなぜ物事をモデル化してとらえることが大事なのでしょうか。

  ───それは、物事を個別具体的にとらえるレベルに留まっていると、
  永遠に個別具体的に処置することに追われるからです。

  それを簡単なモデルを使って説明しましょう。次に並べたのは英語の問題です。それぞれのカッコ内には前置詞が入りますが、それは何でしょう。1つ1つ答えてください。


・a fly (     ) the ceiling  ───天井に止まったハエ
・a crack (     )  the wall ───壁に入ったひび割れ
・a village (      )  the border ───国境沿いの町
・a ring (      ) one’s little finger ───小指にはめた指輪
・a dog (      ) a leash ───紐につながれた犬



  ……どうでしょう、各問に答えられましたか。 正解は、すべて「on」です。

  ところで、私たちは前置詞「on」を「~の上に」と習ってきました。習ってきたというか、暗記してきました。そうした暗記的なやり方で英語と接してきた人は、「天井にさかさまに止まった」とか「壁に入った」とか、「国境沿いの」などの言い表しに思考が発展しないので、それぞれの問題に戸惑ったことでしょう。そうして正解を見て、また1つ1つ、「on」の使い方を丸暗記していくことになる。

  これに対し、いま私の手元にある一冊の英和辞典『Eゲイト英和辞典』(ベネッセコーポレーション)の帯には、こんなコピーが記載されています───「on=『上に』ではない」と。さっそく、この辞書で「on」を引いてみる。すると、そこに載っていたのは、下のような図でした。


Egate


  「on」は本来、縦横・上下を問わず「何かに接触している」ことを示す前置詞だというのです。確かにこの図をイメージとして持っておくと、さまざまに「on」使いの展開がききます。

  この辞典は、その単語の持つ中核的な意味や機能を「コア」と呼び、それをイラストに書き起こして紙面に多数掲載しています。10個の末梢の意味を覚えるより、1つの「コア・イメージ」を頭に定着させたほうがよいというのが、この辞書づくりのコンセプトなのです。

  まさにここで出てきた「コア・イメージ」に基づく学習が、概念をモデル化して押さえることにほかなりません。

  私たちは、物事の抽象度を上げて大本の「一(いち)」をイメージなりモデルなりでとらえることができれば、それを10個にも100種類にも具体的に展開応用することができます。
  逆に言えば、モデル化によって「一」をとらえなければ、いつまでたっても末梢の10個を丸暗記することに努力し、100種類に振り回されることになります。1000にも種類が広がったら、もうお手上げでしょう。


  「一」をつかんだ者は、1000個だろうが、1000種類だろうが、原理原則を押さえているのでそれに対応がききます。そして、その「一」から落とし込んだ1000種類の応用は、具体的な末梢を必死になって丸暗記したときの1000種類とはまったく異なったものになるでしょう。真に新しい発想というのは、必ずと言っていいほど、抽象思考の川をさかのぼり、本質の「一」に触れて、再度、具体思考の川を下るというプロセスを経ているものです。


  “抽象的”という言葉は、いまでは何かネガティブなニュアンスで使われることが増えました。しかし本当は、抽象的に考えることはとても大事なことで、物事の余計な部分をそぎ落とし、その奥にある本質は何か、原理原則は何かと考えるのが抽象化能力なのです。したがって、概念をモデル化するには、この抽象化能力をフル稼働させることになります。

  私たちは、日ごろから意識して、モデル化して考えることに努めることが大事です。物を売ることを超えて、物を売る仕組み(ビジネスモデル)をつくることが重要になってきているように、物事の知識量を増やすことを超えて、物事の仕組みをつかむ能力が重要性を増しているからです。


2011年12月22日 (木)

「セレンディピティ」とは


Legowk 01


◆「レゴ」を大人向け研修に持ち込む

私が行っている研修でお客様から強く支持をいただいているのが『キャリアダイナミクスゲーム』(通称:レゴブロックゲーム)です。

これは「仕事を成すとは何か」「キャリアを形づくっていくとはどういうことか」を比喩(メタファー)を用いて学んでいくゲームプログラムです。自分の能力資産(知識、技能、人脈、コンピテンシーなど:これをレゴブロックで置き換える)を増やしながら、時には減らしながら(自己研鑽を怠って、一度習得した能力資産を陳腐化させ死なせてしまうこともある)、それで何を作品づくり(=仕事・プロジェクト)していくかを、20代から50代までのステージを経ながら、動的・自律的にキャリアをシミュレーションしていくものです。

Legowk 02職業人向けのキャリア開発研修にレゴを使うという発想はどこから得たか───それはまったく偶然のことでした。

子どもの環境教育を行っているとあるNPOが、チームワーク力を養成するための演習としてレゴを使っている場にたまたま居合わせたのです。そのときは単に「あぁ、玩具もそういう使い方ができるんだなー」程度の受け止めだったのですが、その日以来、大人向けにも何か展開が可能なんじゃないかという考えがどんどん膨らみ、8年前に新規開発のプログラムとして完成させました。毎年、改良を重ねて現在に至っています。


あのときのNPOでのレゴとの出合いは、偶然だったのか、それとも必然だったのか……。

いま振り返ると、それは「必然」だったように思えます。まさに自分にとって、大きな「セレンディピティ」でした。




◆執念がチャンス感度を鋭くする。


「チャンスは心構えした者の下に微笑む」。
“Chance favors the prepared mind.”

                                  ――――ルイ・パスツール(細菌学者)


科学の世界での偉大な発明・発見というのは、偶発の出来事がきっかけとなることが多いといいます。例えば、A液をあろうことかまったく実験に関係のないB液のビーカーに偶然落としてしまった。すると、そこで思わぬ物質が発見された!とか、そんなような偶発です。

ですが、それは本当に偶発なのでしょうか? 「いや違う。そういったチャンスは自分が呼び込んだものなのだ!」―――こう主張するのが細菌学者パスツールです。ノーベル賞を受賞する科学者たちの多くは、この言葉を身で読んでいます。

2002年にノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊先生も自著『物理屋になりたかったんだよ』の中でこう書いています。


「たしかにわたしたちは幸運だった。でも、あまり幸運だ、幸運だ、とばかり言われると、それはちがうだろう、と言いたくなる。幸運はみんなのところに同じように降り注いでいたではないか、それを捕まえるか捕まえられないかは、ちゃんと準備をしていたかいなかったの差ではないか、と」。


私はこれを次のように解釈しています。
世の中には、実はチャンスがいっぱい溢れている。目に見えないだけで、そこにもあるしここにもある。それは例えば、この空間に無数に行き交う電波のようなものです。電波は目に見えませんが、ひとたび、ラジオのスイッチを入れれば、いろいろな放送局からの音声が受信できる。感度のよいラジオなら、少しチューニングダイヤルを回しただけでいろいろと音が入ってくる。逆に感度の悪いラジオだと、ほとんど何も受信できないか、不明瞭な音声でしか聴くことができない。

一つの仕事に執念を持って取り組んでいる人は、その仕事課題に対する感度がいやおうなしに鋭敏になってきます。すると、チャンスをさまざまに受信しやすい状態になる。逆に、漫然と過ごしている人は、いっこうに感度が上がらない。だから、チャンスはそこかしこにありながら、それらを素通りさせるだけで何も起こらない。性質(たち)の悪い人になると、「自分にはいっこうに運がないのさ」と天を恨んだりする。


◆偶然をとらえて幸福に変える力は鍛えられる
こうしたチャンスを鋭くつかみ取る能力を表す単語が「セレンディピティ(serendipity)」です。「セレンディピティ」は、オックスフォード『現代英英辞典』にも載っている単語ですが、まだ簡潔に言い表す訳語がありません。

東京理科大学の宮永博史教授は、『成功者の絶対法則 セレンディピティ』の中で、セレンディピティを「偶然をとらえて幸福に変える力」としています。「ただの偶然」をどう幸福に導き、「単なる思いつき」をどう「優れたひらめき」に変えることができたのか、古今東西の科学研究の現場や事業の現場での事例を集めて説明してくれています。

また、セレンディピティを「偶察力」(=偶然に際しての察知力で何かを発見する能力)と紹介しているのは、セレンディピティ研究者の澤泉重一さんです。澤泉さんは、人生には「やってくる偶然」だけではなく、「迎えに行く偶然」があるといいます。

後者は意図的に変化をつくり出して、そこで偶然に出会おうとする場合のものです。その際、事前に仮説をいろいろと持っておけば、何かに気づく確率が高くなる。基本的に有能な科学者たちは、こうした習慣を身につけ、歴史上の成果を出してきたのではないかと、彼は分析しています。

さらに、パデュー大学のラルフ・ブレイ教授によれば、セレンディピティに遭遇するチャンスを増やす心構えとして、「心の準備ができている状態、探究意欲が強く・異常なことを認識してそれを追求できる心、独立心が強くかつ容易に落胆させられない心、どちらかというとある目的を達成することに熱中できる心」といいます(澤泉重一著『セレンディピティの探究』より)。

いずれにしても大事なことは、セレンディピティは「能力」という意味合いを含んでいることです。これは、能力だから強めることができるという発想にもつながります。単に「棚からボタ餅」でぼーっと幸運を待っている状態ではないのです。


Xmas illm 11
Have a Happy Holiday Week  2011 !                              (兵庫県・神戸にて)




2011年10月16日 (日)

目的と手段を考える〈下〉~金儲けは目的か手段か?


  目的と手段の理解を深めるために考察問題を出しましょう。 「金儲け(利益追求)は、仕事(あるいは会社)の目的か?それとも手段か?」 という問いです。これに対し、あなたはどんな答えを持つでしょうか。


  ところで、金を儲けることは、人類が貨幣を考案したとき以来、社会に多くの考える題材を与えてきました。お金は欲望に直結しており、変幻自在で強大な力を持っていますし、それを考え扱うには倫理観や価値観もありますから、非常にとらえようが難しいものだからです。

  「金持ちが天国の門を通り抜けるのは、駱駝(ラクダ)が針の穴を通るより難しい」とは聖書の言葉です。金儲けは罪である、金欲は悪だという意識は、現代の資本主義社会ではかなり薄らいできた感はありますが、それでも、例えば過度の利殖行為、つまり金儲けのための金儲けに対して、多くの人は何か眉をひそめます。また同様に、企業にとって利益追求は至上の目的であるとする考え方にも、多くの議論が残るところです。

  さて、考察の問いに戻り、あなたの人生において、金儲けはどんな位置づけでしょうか。生計を立てていくにはお金が不可欠なので、金儲けは「目的」と考えられます。しかし同時に、金を儲けることが、ある別の目的達成のために役立つことがありますので、「手段」ともなりえるでしょう。もしくは、その他の何かであるかもしれません。

◆利益は事業の目的ではなく「条件」である
  この考察問題を解くためには、目的と手段以外に新たに2つの要素を考え起こす必要があります。それが、 「条件」と「成果・報酬・恵み」 です。
  私たちは、そもそも、目的の達成・手段の行使をするために基本的な支えや環境が必要になります。それが「条件」です。条件は間接的に目的や手段利に利く要素となります。

  さて、ピーター・ドラッカーは次のように言います。─── 「事業体とは何かを問われると、たいていの企業人は利益を得るための組織と答える。たいていの経済学者も同じように答える。この答えは間違いだけではない。的外れである。利益が重要でないということではない。利益は企業や事業の目的ではなく、条件である」 (『現代の経営』より)
  ドラッカーは、企業や事業の真の目的は社会貢献であると他で述べています。その真の目的を成すための基本「条件」として利益が必要だと、ここで言及しているのです。

  金は経済の世界では言ってみれば血液のようなものです。人間の体は、血液が常に良好に流れてこそ健康を維持でき、さまざまな活動が可能になります。そして血の流れが止まれば、人体は死を迎える。それと同じように、経済活動の血である金の流れが止まったときには、その経済活動や事業体は死に直面します。ただ、だからといって、血のために私たち人間は生きるのでしょうか? 
「サラサラの血をつくるために、日夜がんばって生きています!」と生き方はどこかヘンです。やはり人間の活動として大事なことは、その身体を使って何を成したかです。血は、肉体を維持するための条件であって、目的にはなりません。そう考えると、利益追求が企業にとっての目的ではなく、条件であるとするドラッカーの指摘は明快な力強さを帯びてきます。
  私たち職業人の一人一人の生活にあっても、金を儲けることは、目的というより、自分がよい仕事をするために必要な基礎条件である───これが1つのとらえ方です。

◆利益は結果的に生まれる「恵み」である
  次に、もう1つの要素である「成果・報酬・恵み」について考えてみましょう。手段を尽くして目的を成就させると、結果的に何かしらの産物が出ます。産物とは、具体的なモノかもしれませんし、目に見えないコトかもしれません。経済的な利益をここに位置づけることもできます。

  
○「本質的には利益というものは
   企業の使命達成に対する報酬としてこれをみなくてはならない」。
                           ───松下幸之助『実践経営哲学』)

  ○「徳は本なり、財は末なり」。
   「成功や失敗のごときは、ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである」。
                                             ───渋沢栄一『論語と算盤』

  松下幸之助は、事業家・産業人として 『水道哲学』 というものを強く抱いていました。それは、蛇口をひねれば安価な水が豊富に出てくるように、世の中に良質で安価な物資・製品を潤沢に送り出したいという想いです。松下にとって事業の主目的は、物資を通して人びとの暮らしを豊かにさせることであり、副次的な目的は、雇用を創出し、税金を納めるということでした。そして、そうした目的(松下は“使命”と言っていますが)を果たした結果、残ったものが利益であり、それを報酬としていただくという考え方でした。

  一方、明治・大正期の事業家で日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は、財は末に来るもの、あるいは糟粕のようなものであると言いました。仁義道徳に基づいた目的や、その過程における努力こそが大事であって、その結果もたらされる財には固執するな、無頓着なくらいでよろしいというのが、渋沢の思想です。

  渋沢は、第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、そして一橋大学や日本赤十字社などに至るまで、多種多様の企業・学校・団体の設立に関わりました。その活躍ぶりからすれば、「渋沢財閥」 をつくり巨万の富を得ることもできたのでしょうが、「私利を追わず公益を図る」という信念のもと、蓄財には生涯興味を持ちませんでした。
  このように、お金や利益を儲けようとか追求しようとか、それを主たる動機にするのではなく、主たる動機は別にあって、お金や利益はそのための“前提”として大事である、“結果的”に授かるものである、というのがドラッカーや松下、渋沢のとらえ方です。


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◆金儲けをどう位置づけるかは自分の意思
  とはいえ、やはり、お金や利益を目的にする人たちはいます。金融商品で投機的に利益を出そうとする行為はその典型です。また、儲けることが効果的な手段になる場合もあります。深刻な経営危機から再生を図る企業にとって、四の五を言わず、利益を出すことは重要な手段です。大幅な赤字決算、大規模なリストラから立ち直る途上において、「利益が出た!=黒字に戻った!」というのは、何よりの社内活気づけの材料になるからです。

  以上、金儲けは目的か手段かについて考察してきましたが、結論から言えば、それは目的にもなりえるし、手段にもなりえる。あるいは、条件や成果・報酬・恵みにもなりえます。より正確には、これら4つの要素の複雑微妙な混ざり合いとなるでしょう。どの要素の比重が大きくなるかは、その人の意思によって決まります。───こういうふうに結論付けると、読者は「何か平凡な結びだなぁ」と感じるかもしれません。しかし、平凡ではありますが、経済を営む私たち1人1人はよくよくこのことを真面目に受け取らねばなりません。この世で、金を魔物にするも天使にするも、それは人間次第。金に振り回される社会になってしまうのも、金をうまく使える社会にするのも、結局、人間の意思に任されているのですから。

 

→ 目的と手段を考える〈上〉を読む

Haramura rf
長野県諏訪郡原村にて



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