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2011年10月15日 (土)

目的と手段を考える〈上〉


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  私たちは日々の仕事をしていく中で、また中長期に仕事人生を歩んでいく中で、自分のやっていることが袋小路に入ってしまうことがよくあります。そんなとき、冷静に原因を分析してみると、いつしか当初の目的がどこかに消えてしまっていて、手段が目的にすり替わり、それに振り回されていたことに気づく───そんな経験はみなさんお持ちでしょう。何かを成し遂げようとするとき、目的と手段をきちんと理解しているか否かは、事の結果に大きく影響します。本稿ではその目的と手段について改めて考えます。

◆目的と手段の基本的な形
  「目的」とは目指す事柄をいいます。そして、その事柄を実現する行為・方法・要素が「手段」です。何かを成し遂げようとするとき、目的と手段は1セットになっていて、平たく言えば、 「~のために〈=目的〉」+「~する/~がある〈=手段〉」 という形になります。例えば、「平和を守るために、署名活動をする」、「平和を守るために、法律がある」といったような形です。その関係を図に示すとこうなります。


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◆目的と手段は相対的に決まる
  さて、冒頭の疑問のように、私たちはときとして、何が目的で何が手段であったか混乱してしまう、気がつけば手段が目的に入れ替わっていたなどという経験をよくします。これはなぜでしょうか───。それは、目的と手段は目線を置くレベルによって「相対的」に決まるものだからです。つまり、あるレベルでは目的であったものが、違うレベルでは手段になりうるということが起こるのです。それを図で考えてみましょう。

  
図2は、ある一般的な人の人生の流れを例として描いたものです。レベル1は、小学校低学年のときのことを思い出してください。このころは、「テストでいい点を取る」ために、「しっかり算数を習う・きちんと漢字を覚える」という目的・手段の組み合わせがあります。ところが、レベル2の高校生くらいになると状況が変わってきます。レベル1では目的だった「テストでいい点を取る」は、レベル2では手段となります。その手段の先には、「希望の大学に入り、好きな研究をするため」という目的が新たに生じたのです。しかし、人生が進み、就職段階のレベル3にくると、レベル2で目的だった「希望の大学に入り、好きな研究をする」は、新たな目的である「専門を生かした就職をするため」の手段となります。


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  このように、ある1つの目的は、より大きな目的の下では手段となります。つまり、自分がどのレベルに目線を置くかによって、何が目的か、何が手段かが、相対的に決まってくるわけです。自分が常に意欲的になって、ある1つの目的を達成した後、次の新たな目的を掲げ続ける限り、この目的・手段の入れ替わりはどこまでも続いていくことになります。このことは逆方向もまた真なりで、何を成したいかという目線が下がってしまっても、やはり目的・手段の入れ替わりが起こります。

◆目的=目標+意味
  目的について、もう1点重要なことを加えておきましょう。目的と目標の違いは何でしょうか───。目標とは、単に目指すべき状態(定量的・定性的に表される)や目指すべき具体的なもの(例えば、模範的な人物や特定の資格など)をいいます。そして、そこに意味や意義が付加されて目的となります。したがって、両者の関係を簡潔に表すと、 「目的=目標+意味」 となります。

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  実際のところ、何か事を成すにあたって、目的の代わりに目標を置くことはできます。しかし、この場合、意味が欠如しているので、実行者にとっては「目標疲れ」が生じることがあります。昨今の職場に疲弊感が溜まっているというのは、実は、向かう先に意味を感じていないがための目標疲れであることが要因の1つです。ですから、私たちは目標に意味を加え、目的に変えなければ、強く長く働いていけません。
  いずれにせよ、目的は「目標+意味」、この2つの要素がそろってはじめて目的と呼べるようになります。目標なき目的は、単なる理想論・絵空事となるおそれがあります。また、意味なき目的は、単なる割り当て(ノルマ)となるおそれがあります。

 ではここで、目的と手段について、先達たちの言葉を拾ってみましょう。

 ○「知識の大きな目的は、知識そのものではなく、行為である」。
          ───トマス・ヘンリー・ハクスリー(イギリスの生物学者)

 ○「私の哲学は技術そのものより、思想が大切だというところにある。
  思想を具現化するための手段として技術があり、
  また、よき技術のないところからは、よき思想も生まれえない。
  人間の幸福を技術によって具現化するという技術者の使命が私の哲学であり、
  誇りである」。
 

                                      ───本田宗一郎『私の手が語る』

 ○「最も満足すべき目的とは、一つの成功から次の成功へと無限に続いて、
  決して行き詰ることのない目的である」。 

                                ───ラッセル『ラッセル幸福論』

 ○「組織は、自らのために存在するのではない。組織は手段である。
  組織の目的は、人と社会に対する貢献である。
  あらゆる組織が、自らの目的とするものを明確にするほど力を持つ」。 

                            ───ピーター・F・ドラッカー『断絶の時代』

◆自問リスト
  さて、今の自分の仕事の目的と手段について振り返るとどうなるでしょうか。次の問いを自分に投げかけてみてください。

  〈Ask Yourself〉
  □あなたの今担当している仕事の
    ・目標は何ですか?
    ・意味(自分なりに見出した価値・やりがい・理由・使命・大義)は何ですか?
  □あなたの今得ている知識や技能は、何を成すためのものですか? 
   その知識や技能の習得自体が目的になっていませんか?

  □今の仕事において、目的は手段を強め、また同時に手段は目的を強めているでしょうか?
  □今の目的の先に、もう一つ大きな目的を想像することができますか?
  □あなたの所属している組織(課や部、会社)の事業目的、存在目的は何ですか?
   また、それら目的をメンバーで共有していますか?



【補足:目的と手段の特殊な形】
  以下、補足として目的と手段の特殊な形を3つ書き添えます。
1つめに、目的と手段が一体化するという形。手段という行為がそのまま目的化するもので、これを「自己目的的」と呼びます。例えば、芸術家の創作がそうです。画家は絵を描くために、絵を描きます。美の創造はそれ自体目的であり、手段ともなるのです。岡本太郎はこう言っています。

  ○「芸術というのは認められるとか、売れるとか、そんなことはどうでもいいんだよ。
   無条件で、自分ひとりで、宇宙にひらけばいいんだ」。

                                     ───岡本太郎『壁を破る言葉』

 次に、目的がなく(またはその意識がなく)、ただその行為に没頭する形です。これは、ポジティブな「無目的的」行為で、例えば、子どもの遊びが当てはまるでしょう。『エクセレント・カンパニー』の著者であるトム・ピーターズは、砂で遊ぶ子どもの様子をこう書いています。私たちも子どもの遊びのように、一心不乱に仕事に没頭できたら幸せですね。

 
○「遊びはいい加減にやるものではない。真剣にやるものだ。
  ウソだと思うなら海辺で砂のお城を作っている子供を見てみるといい。
  まさに一心不乱、無我夢中・・・。作り、壊し、また作り、また壊し・・・。
  何度でも作り直し、何度でも修正する。ほかの物は目に入らない。
  ぼんやりよそ見をしていれば、お城は波にさらわれてしまう。失敗は気にしない。
  計画はいくら壊してもいい。壊していけないのは夢だけだ」。 

                       ───トム・ピーターズ『セクシープロジェクトで差をつけろ!』

 
そして、3番めは、目的がなく(またはその意識がなく)、ただその行為に漂流する形です。これはネガティブな「無目的的」行為であり、例えば、絶望者の行動が当てはまるでしょう。社会学者のクルト・レヴィンは、絶望者の行動を次のように表現しています。

 
○「人は希望を放棄したときはじめて「積極的に手を伸ばす」ことをやめる。
  かれはエネルギーを喪失し、計画することをやめ、
  遂には、よりよき未来を望むことすらやめてしまう。
  そうなったときはじめて、かれはプリミティヴな受身の生活に閉じこもる」。

                              ───クルト・レヴィン『社会的葛藤の解決』


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  → 「目的と手段を考える〈下〉~金儲け目的か手段か?」に続く


 

2011年2月14日 (月)

類推できる人はよく学べる人

 
Tanigawass 


◆1冊の本の「再読・再々読」は栄養吸収がよい
2月はプロ野球の世界ではキャンプシーズン。
選手は身体をいろいろいじめて鍛えたり、基本の動作を改めて念入りに練習します。
私も毎年2月は春キャンプという位置づけで、仕事の基本である読書を集中的にやります。
ここでいう読書とは、情報収集のための“軽い”読書ではありません。
プロ野球選手が身体をいじめるのと同様、
私もアタマをいじめて鍛えるために、分野違いの、内容の詰まった本を読みます。
図書館に行って、哲学書や詩集、学術書、芸術書、歴史書、絵本などを借りてきます。
中には途中でやめてしまう本もありますが、
読んでいくうちに付箋のチェックが何十箇所にもなり、結局買ってしまう本も多く出ます。
(やはり自費購入して、がんがん線を引いた本のほうが身に入ります)

もちろん読書は、新しく開拓する読書ばかりではありません。
実際のところ、最も自分の身になるのは、再読、再々読する本です。

再び紙面を開く本は、
たいていの内容が頭に入っていますから、
先に何が書いてあるんだろうという“せかされ感”が起こらず、
ゆったりとした気持ちで文字を追えます。
以前読んだ時に引いたマーカーのところを中心に読んでいき、
「なぜこのとき自分はここをマークしたんだろう」といったようなことを思い返しながら
内容を反芻します。
その反芻で染みてくることこそが自分にとって大事な内容になります。

たいていの場合、以前読んだ時より、どの箇所も読みやすくなっています。
それはそれだけ自分が成長したということの証でもあります。
そして今度は、その読み返す箇所に新しい意味を付加する余裕も出てきます。

◆『谷川俊太郎 詩選集』を再読する
例えば、
私はきょう本棚から『谷川俊太郎 詩選集1~3』(集英社文庫:3巻)を取り出して、
2年ぶりに再読しました。
私はそこで再読する詩に新しい解釈を与えてみたり、
自分の仕事に引き当てて考えてみたりすることで、
いろいろな知恵やエネルギーを湧かせることができます。


  ◇いちばのうた (部分の抜粋)

  うるんならいちえんでもたかくうる
  かうんならいちえんでもやすくかう
  けちでずるくてぬけめがなくて
  じぶんでじぶんにあきれてる
  だけどじぶんがいちばんだいじ
  よくばりよくぼけがりがりもうじゃ
  たにんをふんづけつきとばし
  いちばはきょうもひとのうず

……谷川さんの目はたぶん市場の高いところにあって、
下々(しもじも)の人間の売り買いを神の目で眺めているような気がします。
ビジネス社会の現場にいると、
しゃかりきになって、ギスギス、キリキリと戦わねばならない。
しかし、そんなときにも、この詩のように、どこか高台に上がって
人間のやっていることは“可笑しい”ものだと達観できる心持ちになれればと思います。


  ◇大人の時間

  子供は一週間たてば
  一週間分利口になる
  子供は一週間のうちに
  新しいことばを五十おぼえる
  子供は一週間で
  自分を変えることができる
  大人は一週間たっても
  もとのまま
  大人は一週間のあいだ
  同じ週刊誌をひっくり返し
  大人は一週間かかって
  子供を叱ることができるだけ

……これも再読してどきっとしました。
相変わらず自分は1週間という時間単位をぞんざいに使っていないか、と。
1週間という時間単位はこわいものです。
私たちは1日1日を忙しく過ごしています。
ダイヤリーも時間刻みでスケジュールが埋まっています。
電車が5分遅れただけでもイライラします。
しかし、1週間という単位で、いったい自分は何が変わったのでしょう……?


  ◇六十二のソネット (41より部分を抜粋)

  陽は絶えず豪華に捨てている

  夜になっても私達は拾うのに忙しい
  人はすべていやしい生まれなので
  樹のように豊かに休むことがない

……「拾うだけに忙しい」人生は避けたいと思う。
「太陽のように豪華に捨てる」ことを仕事でしたいと思う。
豪華に捨てるとは、give & takeなどというケチくさいことではなくて、
give & give、give & forgotということでしょう。
大いに与えて、そして、悠然と休む。
それが苦もなくできる状態になったとき、自分は今よりずっと違った仕事景色を見ているでしょう。


  ◇夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった (7より部分を抜粋)

  真相はつまりその中間
  言いかえれば普通なんだがそれが曲者(くせもの)さ
  普通ってのは真綿みたいな絶望の大量と
  鉛みたいな希望の微量とが釣合ってる状態で

……「フツウに妥協したくない!」と見得を切って、
普通のサラリーマン生活から独立してはみたものの、
才覚は普通より多少上くらいに過ぎなかったことを悟り、稼業への苦労は絶えない。
しかし、鉛の希望が黄金の希望に変わったことは確かです。
(埋蔵場所がいまだはっきり探せていませんが)
「フツウの生活がよかった」と思い返るのは、現状に負けている証拠。
フツウに埋没しないために、もっともがこうと決意を新たに。


  ◇質問集続 (部分の抜粋)

  金管楽器群の和声に支えられた一本のフルートの旋律、その音はどこから来るのですか、笛の内部の空気から、奏者の肺と口腔から、すでに死んだ作曲者の魂から、それともそれらすべてを遠く距(へだた)ったどこかから?

……これはとても含意に富んだ詩です。
この詩にぴんと響いた人は、“大いなる何か”と感応して仕事をした経験のある人でしょう。
ほんとうに深い仕事をしたとき、
人はよく「何かが降りてきた」とか「何か大きな力に動かされた」と口にします。
物理的には、道具によって、自分の身体・技術によってそれがなされるわけですが、
ほんとうのところは“大いなる何か”と自分との協働なのです。
仕事をするうえで、道具は大事です、身体・技術も大事です。
しかしその次元から突き抜けて“大いなる何か”とつながれるかどうか、
ここは実に重大な一点です。


  ◇夢の中の設計図 (部分の抜粋)

  祈りもなく
  何を夢見ることができよう
  どんなに固い
  石の道も
  私たちの夢の迷路から
  生まれるのだ
  どんなに高い
  尖塔も
  私たちの夢の闇に
  試されるのだ

……私たちは、日常、ありとあらゆる工業製品や建造物に囲まれています。
例えば、コップや鉛筆、パソコン、自転車、家屋、ビル、道路、看板など。
これらはもれなく、誰かが製造の意図を持ち、誰かが形や寸法・デザインを起こし、
誰かがつくったものです。
そして、これらのものは明らかに出来不出来の差が生じます。
陳腐な椅子と、いつまでも使い続けたい椅子。
せわしなく変わってきた貧相な街並みと、
時の風雪にも耐えてきた味わい深い街並み。
この差はどこから生じるのでしょうか?
コストでしょうか、作り手の技術でしょうか。
―――私はそれこそが、祈りであり、夢であると思うのです。

世の中に次々と出回ってくるものの多くは、
あまりに機械的に、功利的に、短縮期間でつくられてくるために、
そして何よりカイシャインたちによる“流し仕事”の気持ちでつくられてくるために、
祈りをくぐらせていない製品、
夢の迷路のふるいにかかっていない事業、
夢の闇の試練を経ていない建造物ばかりになる。
だから、陳腐で貧相で、次々と消えてゆく。
サラリーマンであれ、私のような自営業であれ、
一人でも多くのものの作り手が、
せめて自分の仕事は、自分の祈りや夢の“ろ過”を経て、世に送り出してやる!
ということになれば、世の中のものはガラっと変わってくるに違いない。


  ◇メランコリーの川下り (部分を抜粋)

  子等(こら)の合唱の声は日なたの匂いがして
  あっという間に空気に溶けてしまう

  残っているのは旋律ではない

  ……なまあたたかい息だ
  おとなたちの目の前に浮かび上がる
  決して触れることの出来ない感情のホログラム……

……私が事業として売っているのは企業研修で、例えば、1日間研修を終えたときに、
受講者の前で締めの一礼をして、一応拍手をいただいて退場するわけですが、
そのときに、上のような「手に触れることのできないホログラム」的な何かを残すこと
ができているのだろうか―――この詩の一節を読んでふと考えました。

ビジネスパーソンへの研修プログラム(セミナーや講演含む)という商品は、もちろん
仕事に関する知識や技能、考え方、在り方を学習体験に変換して売っているわけですが、
終了直後の受講者に対し、それ以上の何かを差し上げられているのかが、
私にとって一番気になるところです。
私の研修サービスは、
キャリア教育やプロフェッショナルとしての基盤意識醸成に的を絞っていて、
かっこよく言えば「明日からの働くことに対し、“光と力”を与えたい」という想いで
プログラム開発をしています。
研修を終えておじぎをしたときに、
受講者一人一人の内側に光が見えてきたか、力が湧いてきたか、
もし、そうであるなら、それこそが教育者冥利に尽きる喜びです。

私たちはそれぞれに売っているものがあります。
トマトを売っている、カメラを売っている、クルマを売っている、
建物を売っている、生命保険を売っている、料理を売っている。
それら商品を通して売っているのは、必ずしも便益や機能だけではないはずです。
その商品・サービスを送り届けたときに、
「手に触れることのできないホログラム」的な何かがお客様の内に立ち上がること
―――それがひとつのプロフェッショナルの仕事だと思います。


* * * * *

◆学ぶ力のひとつは類推力
さて、このように1冊の本を再読すると、改めてさまざまな気づきが起こります。
再読は心に余裕があるので、こうした気づきが起こりやすいのです。
そして何より大事なことは、
分野違いの本でも、自分のいまの仕事に当てはめるとどうなるか、
いまの自分に状況に引き戻すとどうなるかという「類推」をすることです。
類推(アナロジー)とは、
「似たところをもととして他の事も同じだろうと考えること」(広辞苑)です。

この類推が豊かな人は、世の中のさまざまなことから多くを学び取ることができます。
逆に言えば、学び力の強い人は類推力が強いのです。
隣の一を観察して、自分の十に応用展開してしまうことができるわけです。

いたずらに手を広げて多読するばかりが学びではありません。
いまそこの本棚にある一度読んだ本を手に取って再読する。
そして類推を利かせる。
「再読×類推」―――これをこの2月、知的基礎トレーニングとしてやってみてはどうでしょうか。

 


 

2011年2月 2日 (水)

“曖昧に考える力”が実は大事~ソリッド思考とファジー思考

 
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◆曖昧なことを曖昧に考える力

  「考える人間の最も美しい幸福は、
  究め得るものを究めてしまい、
  究め得ないものを静かに崇めることである」。

       ────ゲーテ『格言と反省』 (高橋健二訳『ゲーテ格言集』より)

ドイツの文豪ゲーテが、同時に優れた自然科学者であったことはあまり知られていない。
形態学の創始や色相環の発明など、その合理的、論理的、客観的な思考によって
科学の面でも人類に数多くの貢献を残している。

そのゲーテにとって、やはり「この宇宙とは何か?」「人間とは何か?」
そして「神とは何か?」は、生涯を懸けて取り組んだ“大いなる問い”であった。
その問いに対し、ゲーテは、
“大いなる合理的・論理的・客観的思考”をもって解明をしようとしたが、
ついに答えは出せなかった。
出せなかったというか、最終的には「不可知である」という結論にたどり着いた。

彼は不可知であるという謙虚な前提に立ち、今度は“大いなる曖昧な思考”でもって
この宇宙をとらえ、人間をとらえ、神をとらえた。
そして、大いなる示唆・暗示に富む戯曲『ファウスト』を書き上げた。
この歴史的名作は、以降、
“読める人が読めば”無尽蔵にその深遠さを与えてくれる文学として光彩を放っている。

今日私たちがこの『ファウスト』を読むことに困難を覚える理由として、
キリスト教の観念・知識が乏しいから、昔の外国の文章だから、
あるいは高尚すぎるから、といったことをあげるかもしれない。
それらは一部の理由としてあるだろう。
しかし私は、本質的な理由はそこにあらずと思っている。
真の理由は、端的に言ってしまえば、「曖昧に考える力」を失くしたからである。

現代の私たちは、あまりに、
物質還元論的な科学万能主義と、
ビジネス社会からくる効率・実用・功利主義の影響を受けていて、
曖昧さを悪とし、不明瞭を避け、揺らぎに不安を感じ、目に見えるものに固執し、
論理的客観的に考えることを賢いとし、具体的に記述することを奨励するようになった。
これらは決して悪いことではないが、その偏向が大きくなるにしたがって、私たちは、
曖昧さを肯定し、不明瞭を受容し、揺らぎを意図的に呼び込み、目に見えないものを求め、
直観的主観的に考えることを賢いとし、示唆的に表現をする、ことが弱くなった。

つまり、日常生活や人生、社会には、科学がどれだけ発達しようと、
依然、曖昧な問いだらけであるのだが、現代の私たちは、
それに対し、曖昧さで強く考え、曖昧な強い答えを持ち、
曖昧にどんと構えることができなくなってしまっているのである。

その代わりに、やたら情報を集めることで安心する、
書物に載っている知識を得ることで答えを知った気になる、
論理的な分析手法といわれるものに傾倒し、その行為に自己満足する、
他人の書いた成功法則・上達マニュアルなどを鵜呑みにして実践する───
といった見かけは具体的で合理的そうでありながら、
その実、中身が詰まっていない思考で曖昧さから逃げることが増えた。

そんなところから、きょうは、曖昧に考えることを肯定する記事である。
そして、世の中あげて具体的に形式化して考えることをよしとする趨勢が、
実は私たちの思考力を弱くしている現状を見つめ直す記事でもある。


◆「ソリッド思考」と「ファジー思考」
さて、本記事では、
人間の思考を「ソリッド思考」と「ファジー思考」の2つに分けて考える。

「ソリッド思考」とは、次のような要素を特徴とする。
 ・solid=固形の・硬い・実線の
 ・具体的に、定義して、明示して、形式化するように考えること
 ・関連語:tangible(触れられる)、explicit(系統立てられた)、logical(論理にかなった)、
  description(記述)

他方、「ファジー思考」とは、次のような要素を特徴とする。
 ・fuzzy=ぼやけた・曖昧な・不明瞭な
 ・抽象的に、輪郭を描かず、暗示して、示唆化するように考えること
 ・関連語:intangible(触れられない)、tacit(暗黙の)、intuitional(直観の)、
  metaphor(比喩)

「ソリッド思考/ファジー思考」という軸に加え、
もう1軸「中身が詰まった思考/中身の詰まっていない思考」を加えると下図になる。
私たちはこの4象限をうろちょろしながら物事を考える。

 Sl-fz 01

上の4象限の説明を簡単にしておくと、
ソリッド思考の陽面である「ダイヤモンドの彫刻刀」は、
クリスタルクリアな明晰さで物事を鮮明に切り出し、造形することのできる思考である。
逆に陰面である「糸吊り人形」は、
具体的・形式的に考えようとするのだが、
実際は他人の受け売りや流行の方法を真似るだけで、
思考が自分のものになっておらず、ギスギスとやせている状態をいう。
頭でっかちで目がぎょろっとしていて、身体は骨ばった恰好、
しかも実際は自分で動くのではなく、
人から操られてぎこちなく動くだけという糸吊り人形から想起している。

他方、ファジー思考の陽面「濃厚な滋養スープ」は、
どろどろと知識やら智慧やら洞察やら悟りやらが混然一体となり、
形のない液状として柔軟に豊かな思考がなされていくことを言い表している。
また、陰面の「霧の中のボート」は、
何をどう見てよいか、どう進んでよいかがわからずにプカプカと漂流している小船、
そのような思考状態を想像していただければよいだろう。


◆「ソリッド」と「ファジー」のコミュニケーションモデル
さて、私たちは外界・他者から情報をさまざまに受信して思考を行う。
その際にコミュニケーションが発生するわけだが、その原理を表したのが下図だ。
(J.B.ベンジャミン著『コミュニケーション』二瓶社からヒントを得て筆者が独自に作成)


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漏斗(じょうご)を2つ横にして合わせたような図は、
送り手が送りたい内容を何らかの表現に変換して、情報として発信し、
受け手がその情報を受信して、読解作業を通し理解することを示している。

この基本図をさらに詳しく考察していこう。
図3はこの一連のコミュニケーションの詳細を描いたものだ。


Sl-fz 03 

送り手が送りたいことというのは、実は図に示したように、
色がはっきりしている部分とぼやけてにじんだ部分とがある。
前者は、送り手が具体的に考え明示できる、いわば「ソリッドな内容」であり、
後者は、曖昧に考え明示できない、暗示に任せたい、「ファジーな内容」である。

それに伴って、表現される情報も
実線部分(ソリッドな情報)と、にじみ部分(ファジーな情報)ができる。

そして受け手は、この情報を受信して読解するわけだが、
受け手が理解することもまた、色がはっきりする部分とにじむ部分とに分かれる。
前者は、送り手の情報を逐語訳的・具体的に把握する「ソリッドな理解」であり、
後者は、受け手自らが創造的・観照的に情報を解釈する「ファジーな理解」である。

では、このコミュニケーションモデルを実例で考えてみたい。
図4の受信例〈1〉は、ソリッド情報のみが伝達されるケースだ。
『JR時刻表』は、送り手から受け手に対し、羅列した数値情報を届けるもので、
曖昧さを許さないソリッドな内容→ソリッドな情報→ソリッドな理解を
実現するものとなる。

Sl-fz 04 


受信例〈2〉は、そこにファジーな要素が入ってくるケースである。
松尾芭蕉は「古池や 蛙跳び込む 水の音」と詠んだ。
この句を詠んだとき、芭蕉は眼前に広がる自然を具体的に描写しようとした。
それが図の色が明確に塗ってある部分=ソリッドな内容である。
しかし、実際のところ、芭蕉が眼前に観ていたのは、具象的な景色だけではない。
むしろ直接目に見えない多くのことを感じ、それを伝えたいと思った。
それは図の色がにじんだ部分=ファジーな内容である。

芭蕉は森に深く身を浸しながら、ソリッドに、そして、ファジーに思考を巡らせ、
「五・七・五」という文字形式にそれを結晶化させた。

そして受け手である句の鑑賞者は、その「五・七・五」を文字通りに解凍して、
芭蕉の目に映った(耳に聴こえたというべきか)景色を自らの心の中に再現する。
これがソリッドな理解となる。
しかし、鑑賞者も、その記述通りの景色の再現で終えるわけではない。
鑑賞者それぞれは、それぞれの想像力に応じて、
その「五・七・五」の行間を膨らませたり、
必ずしも芭蕉が感じた世界とは同じではない別の世界を感じたり、
そうしたファジーな理解を行うのである。
このように、一級の芸術作品は、作者側の優れたにじみ表現と
鑑賞者側の優れたにじみ理解の両方がなされてはじめて成り立つのである。

芸術作品より難解な哲学書を表したのが、受信例〈3〉である。
デカルトが『方法序説』を通じて読者に伝える内容は、
具体的明示の部分は少なく、抽象的暗示の部分が大きい。
「我思う、ゆえに我あり」という言葉の結晶は形而上の示唆に富み過ぎていて、
私たち一般人が理解できるのはそのわずかしかない。

哲学書と同様(いやそれ以上に)、抽象的暗示に富んでいるのは、宗教の経典である。
キリスト教の『聖書』、仏教で例えば『法華経』、イスラム教の『コーラン』などは、
その文章を逐語訳的に理解したところで、その教えのごく一部分しか分からない。
その教義を理解するというのは、その大部分がファジーな思考・体験・確信によるのだ。

〈受信例4〉は、対自然の場合を表したもので、少し特殊である。
なぜなら、自然は、私たちに実にさまざまなメッセージを発しているが、
それらはいっさい形式化されないからだ。
すべてがファジーな情報(現象、雰囲気、アナログな変化)として発せられるのみである。
だから、そのメッセージを受け取るには、
道具を用いて観察値として検知するか(=ソリッド理解)、
個々の五感・第六感を研ぎ澄ませて感知するか(=ファジー理解)になる。
人間が自然の美しさを深く理解するのは、もちろん後者によってである。

このように私たちは、ソリッドとファジーの2つを複雑微妙に掛け合わせながら、
物事をとらえたり、伝えようとしたり、理解しようとしている。
大事なことは、物事が複雑になればなるほど、
ファジー、つまり不明瞭な“にじみ”の部分が大きくなってくることである。
このことは言い方を変えると、
世の中の複雑なことをとらえ、伝え、理解しようとするには、
ファジーに考える力をつけないとダメだということだ。

ソリッドに考えるということは、端的に言うと、
物事を単純化して目に見える形にしてしまうことである。
もちろんこういった思考も必要ではあるが、それに安易に偏向してしまうと、
往々にして、真理を含んだ“にじみ”の部分を捨ててしまう、
あるいは、曖昧の中に潜む本質を抽出できなくなってしまうことに陥る。
実はこれが、いまビジネス現場でも、世の中一般でも起こっている現象なのだ。


◆“にじみ”を省く思考がもたらすもの
私は企業研修とそれに関連するビジネス書の執筆を主たる生業としている。
顧客企業の要望に応え、潜在読者であるビジネスパーソンの要望を受けながら、
研修プログラムや書籍コンテンツをつくるのが仕事となる。
しかし、いつも研修担当者や出版社の編集者と綱引きをしている。
それはどんな綱引きかというと、
「なるべく具体的・実践実用的で分かりやすくしてください」という先方の要請と、
「多少、抽象論となっても、受け手に思索させる余白を入れましょう」という
私の意図との綱引きである。

企業の研修担当者は、業務処理に直結する研修内容を望む。
知識吸収や技能習得をさせて研修効果の見えやすいプログラムを望む。
そういったプログラムの方が、受講者からは何かと文句は出ないし、やりやすいのだ。
また、ビジネス書の企画・編集においてもそうだ。
ともかく内容を単純化し即効的なものにしたほうが売りやすいし、実際に売れていく。

受け手は簡便なソリッドな情報を欲しがり、理解に骨の折れるファジーな情報を敬遠する。
より正確に言えば、直接仕事の処理に結びつく情報には金を出して本を買うが、
直接的に実効のないものには、よいことが書かれているとは思いつつ、
金を出してまで難しい本を読みたくないというのが心情だ。
そのために中間にいる人たちは、戸惑いながら、しかし最終的に受け手におもねっている。
私は(自省を込めてだが)その傾向に抗わねばならないと思っている。

その理由を図5、図6を使って説明しよう。図5は、
書店によく並んでいる『○○に成功する25の鉄則』といった実用書のモデルである。
著者は、具体的で分かりやすい即効性のある本のほうが売れるだろうと思って、
そして出版社のそうした意向もあるので、思い切って内容を単純化する。
そして、にじみ情報を省いて、「成功する25の鉄則」という本をまとめる。


Sl-fz 05 


この本は、いわば簡便に内容が具体化され、整理されたソリッド情報の本である。
読者はにじみ部分の情報がないので、とても読みやすい。
読者は成功を信じて、25の鉄則をマニュアル的に実践すればよいだけだ。
読者はことさら行間を読み、
自分なりに内容を膨らませて理解しようという刺激を受けない。
こうした類の情報摂取・情報理解が習慣化してくると、
ファジーに考える力が衰えていくのは明らかだ。

にじみを省いた情報が好まれ、同時に、ファジーな思考力が衰えるとどうなるか
───図6を見てほしい。
いま、「成功する25の鉄則」を読んだ受け手Aは、
この本のことを他者(受け手a)に伝えようと思っているのだが、
本にはにじみの部分が削ぎ落とされている上に、
みずからもファジーに考える力が弱いので、自分なりににじみを加えられない。
すると、送り手Aが発信できるのは、
本を読んで具体的に理解できた箇所の要約か、
コピペ(コピー&ペースト)でまるまるの写しかになる。
そうして理解容易なソリッド情報だけが、縮小再生産されて伝わっていく。


Sl-fz 06 


私は研修の作り手、本の書き手として、
できるだけ分かりやすくプログラムやコンテンツをこしらえる努力は、当然する。
しかし、受け手が安易さから所望する「簡便で具体的で、考える手間を省略した」情報を
与えることは拒みたい。
たとえ売りづらくとも、ファジーな思索を要求する仕掛けを盛る。

曖昧に考えることは大事なことだ。
曖昧さを受け入れて、曖昧さとともに思考ができない人は、実は思考力の弱い人である。
具体的な情報、具体的な方法は、効率・実用・功利に結びつきやすい。
大衆的な人気も起こりやすい。だからそこに商売も集まっていく。
しかし、そこに傾倒していけばいくほど、私たちは思考力を弱めていくという罠がある。

思考力は行動の源泉でもあるために、曖昧な思考力の脆弱化は、
仕事を具体的に指示されなければできない社員、
みずからの仕事をみずからつくり出せない社員が増えることと決して無関係ではない。
その点を十分に感じ取っている問題意識の高い人事担当者や編集者は少なからずいる。
しかし、昨今のビジネス現場に吹き荒れる実利・即効主義の明解で強い風の前では、
曖昧に考える力を育もうなどという、まさにファジーな意見(親心?)は、
その灯を消さずにいるのがやっとのことである。


◆ファジー思考とは「干しこんぶ」である
思考力を鍛えるということでロジカルシンキング流行りである。
しかし、その方法論をマニュアル的にいくら巧みに習得したところで、
曖昧なテーマを曖昧に考える力をそもそも欠いていては、
大元のところで行き詰まってしまい、
物事をロジカルに分解し、因果づけし、系統立てるという川下のプロセスに
移ることはできない。
大きく複雑な問題であればあるほど、曖昧に考える力がまず必要で、
その上でのロジカルシンキングなのだ。

曖昧に考える力を身につけると、今度は逆に、
世の中の形式化された知識がどんどん生きてくる。
先ほど例に出したような「成功する25の鉄則」を読んでも、
曖昧に考える力を持った読者なら、その羅列された25項目の行間を膨らませたり、
あるいはそこに自分なりの批評と創造を加えて、発展的な理解を得ることができる。
つまり、形式的に固形化された情報を崩し、そこにみずからのにじみを加えて、
ふくよかに考えることができるのである。

ちなみに私はこれを「干しこんぶ思考」と呼んでいる。
―――干して乾燥させたこんぶ(昆布)はカリカリに固く縮こまっているが、
水の中に入れて浸すと、どんどんと大きく柔らかに形が戻ってくる。
そして、こんぶの表面にはぬるぬるした厚い粘液状の膜ができる。
その膜は昆布のエキスをたっぷり含んで、栄養価も高いらしい。
まさに曖昧な思考とは、この“昆布の水戻し”のようにしなやかに膨らみ、
豊かな“含み”をつくり出す思考なのだ。

ただ、私が結論として言いたいのは、
曖昧に考える(ファジー思考)力だけでなく、
やはり具体的に考える(ソリッド思考)力も同様に重要であるということだ。
この2つは車の両輪であって、2つがうまく掛け合う状態が最良である。

例えば、MBA(経営学修士)課程でよく用いられるケーススタディ学習を取り上げよう。
学習者は、まずケース文を読む。このケース文には、ばらばらと
ファクト(その事業に関連して起こった出来事やデータなど)が書かれているだけである。
このケース文は、いわば必要最小限度のソリッド情報と、
行間にたっぷりとにじみを含んだファジー情報の混合素材である。
学習者はこれを読んで、大いに想像をはたらかさねばならない。
事業はどんな状況に置かれていたか、経営者はどんな心境だったか、
こういう手を打てば競合他社はどういう反応をするか……
これらは曖昧さの中で行うファジーな思考である。
にじみを大きく膨らませて、そこでさまざまにシミュレーションを試みる作業となる。

そして次に、学習者は、その事業がなぜ成功したか、失敗したかの要点を整理する。
それは5つの要因にまとめられるかもしれないし、
1つの図に表現できるかもしれない。
これは、曖昧さを固形化させる作業であり、ソリッド思考が求められる箇所だ。

そして、それら成果物をもとに、クラスでディスカッションを行う。
これはまた、ファジー思考とソリッド思考の往復になるだろう。
そしてそのケースで得た自分なりの結論を、今度は自分が直面する事業に応用する。
そこでもさらに、ファジーに考え、ソリッドに考える往復が待っている。
ただし、昨今、そこかしこでやられているケーススタディは、
事例をお決まりのフレームワークに流し込んで、
それで何かを学んだように錯覚しているところが問題である。
「4P」やら「SWOT」やら「5Forces」に流し込むのが学習の目的ではない。

理想は下図のような位置で、2つの思考が相乗的に回転することだ。
切れ味鋭いダイヤモンドの刀を持ち、
みずからが考えるものを明快に切り出し、造形する力を磨くとともに、
内には豊かな知識・叡智を湛え、
ひとたび稲妻が走るや否や、新しい何かを生み出す力を持つ───その両回転だ。
そのために大事なことは、
物事を究めたいという意志を強く湧かせることだろう。
そして、借り物でない中身の詰まった自分自身の思考をすることだ。

理を尽くして考えて考えて、曖昧さにたどり着くことは自然に起こる。
(ゲーテが不可知論にたどり着いたように)
合理性と曖昧さは相反しない。
ただ、ラクをして考えたい効率性や功利主義の人間にとっては嫌うべきものなのだろう。
理を尽くして考え持った曖昧さは、そのままその人の考える力になる。
強い思考力を持った人は、内に相当の曖昧さを保持した人なのだ。


Sl-fz 07 



◆輪郭線で写実するのではない。内から精神的内容で満たすのである〈ロダン〉
最後に、彫刻芸術の巨人オーギュスト・ロダンの言葉を書き留めておく。
(いずれも『ロダンの言葉』高村光太郎編集、講談社より)
これらの言葉の行間には、にじみが溢れている。
そのにじみを大いに曖昧に味わってほしい。

  「良い彫刻家が人間の胴体を作る時、彼の再現するのは筋肉ばかりではありません。
  其は筋肉を活動させる生命です。
  われわれが輪郭線を写し出す時は、内に包まれている精神的内容で其を豊富にするのです」。  

  「凡庸な人間が自然を模写しても決して藝術品にはなりません。
  それは彼が“見”ないで眺めるからです」。

  「肉づけする時、決して表面(スルファス)で考えるな。
  凹凸(ルリーフ)で考えなさい。
  君達の精神がすべての上面にあるものは皆其を後ろから押している量の一端だと
  見做す様になれと思う。形は君達に向かって突き出たものだと思いなさい。
  一切の生は一つの中心から湧き起る。
  やがて芽ぐみそして内から外へと咲き開く。
  同じ様に、美しい彫刻には、いつでも一つの強い内の衝動を感じる。
  此が古代藝術の秘訣です」。 




 

2010年11月 8日 (月)

創造する心~ものをみるために私は目を閉じるのです


Akigumo 
あれほど暑かった夏も去り、ふと見上げると空の模様もすっかり変わった



◆以前の創造といまの創造は何か別のものになった

ここ数年、私は好んで詩の本を手に取ることが多くなった。
もちろんひとつには仕事上の能力向上のためというのがある。
あいまいな概念をうまく言葉として結晶化させ、
受け手(=お客様)に咀嚼しやすい形で差し出すことは
教育のプロとして磨かねばならない能力のひとつだ。

だが、その理由以上に感じるのは、
自分自身の仕事における創造や創造する心が、
詩作や詩人の心とずいぶん近くなってきたからではないか―――ということである。

例えば、いま新川和江の『詩が生まれるとき』 (みすず書房)
『詩の履歴書~「いのち」の詩学』 (思潮社)の2冊を読んでいる。
彼女は詩の生まれ出るときの様子をこう書いている―――

  あ、このひと、息をしていない―――と自分で気づく一瞬が、
  私にはしばしばある。われにかえり、深く息を吸いこむのだが、
  多くの場合、ひとつの思いを凝(こご)らせようとしている時で、
  周りの空気に少しでも漣(さざなみ)が立つと、
  ゼリー状に固まりかけていた想念が、それでご破算になる。
  高邁な思想や深い哲学性をもつ詩の種子でもないのだけれど、
  ひと様から見ればとるに足りない小品も、そうしたいじましい時間を経て、
  やっとやっと、発芽するのである。

また、「詩作」と題された詩は―――

  はじめに混沌(どろどろ)があった
  それから光がきた
  古い書物は世のはじまりをそう記している
  光がくるまで
  どれほどの闇が必要であったか
  混沌は混沌であることのせつなさに
  どれほど耐えねばならなかったか
  そのようにして詩の第一行が
  わたくしの中の混沌にも
  射してくる一瞬がある

  それからは

  風がきた 小鳥がきた
  川が流れ出し 銀鱗がはねた
  刳(く)り船がきた ひげ男がきた はだしの女がきた

  (中略)

  それが済むと

  またしても天と地は
  けじめもなく闇の中に溶け込み
  はじまりの混沌にもどる
  だから 光がやってくる最初のものがたりは
  千度繙(ひもと)いても 詩を書くわたくしに
  日々あたらしい

私は自らのビジネスにおいて、詩ほど純粋無垢な創造活動をやっているわけではないが、
それでも、彼女の言い表そうとするこの微妙で繊細で、
それでいてどこか壮大な感覚を持つことがしばしばある。
だから、この文章に接したときに額のすぐ奥のほうの細胞がぴんと反応したのだ。
しかし、
「創造」という作業は仕事で昔から嫌というほど恒常的にやってきたはずなのに、
昔はあまりこういう感覚にはならなかった。

それはなぜだろうと、少し考えを巡らせてみる……
企業勤めをやっていたころの創造は、
マスの顧客に受けようとする企てや仕掛け、あるいは、
何かゲームに勝つことの戦略や目論見のような類のもので、
そこでうまく創造ができると、「してやったり!」といった痛快さを得るものであった。
それに対し、いまの仕事での創造は(主には教育プログラムをつくることであるが)、
何か自分から滲み出た(絞り出したといったほうが適切だろうか)作品を売っている
そんなような類のものになった。
うまく創造ができると「そうか、自分はこんなものをつくりたかったんだ」
という驚きがある。
このように、以前の創造といまの創造は何か別のものになった。


◆創造することの広がり図
そこできょうは、「創造」あるいは「創造する心」について整理してみたい。
まず私は、次の4つの創造の軸を考える。
 
 ・「真」を求める創造
 ・「美」を求める創造
 ・「利」を求める創造
 ・「理」を求める創造

これら4つの軸で図を描くと下のようになる。

Souzouzu 


〈1〉真/美を求める「芸術」的創造
創造といえば、大本命はここである。
言葉を紡ぐ、物語を編む、句を詠む、曲を書く、音を奏でる、歌を歌う、
絵を描く、形を彫る、器を焼く、書を認める、舞いを舞う、茶を立てる……
これら美を追求する創造は、それ自体が目的となり、
よいものが出来たことこそが最大の報いとなる。
もちろんここでいう芸術的創造は芸術家の作品だけにかぎらない。
暮れ泥(なず)む光の中で普段の道を歩き、ふと季節の変わり目の風を感じたとき、
その驚きを何か手帳に書き留めておきたい、そうした詩心による作文も立派な創造である。
また子供が白い画用紙に無心で描きなぐる絵も、
浜辺で夢中でこしらえる砂のお城も芸術的創造だ。

芸術的創造は、表現を極めていけばいくほど、それは求道となり、
その先に見えてきそうな真なるものを見出したいという想いへと昇華していく。
その昇華の過程では、創造は感性的な表現という優雅なニュアンスではなくなり
情念の噴出を形として留める闘いに変容する。

〈2〉美/利を求める「生活」的創造
生活の中では実にいろいろな知恵が起こる。
これは日常を美しく生きたい、便利に暮らしたいという気持ちから起こる創造である。
例えば家電製品や生活雑貨の商品開発においては、
ユーザーの使い勝手がいいように機能や形状を考えに考える。
これはこの生活的創造の次元に立った作業である。

〈3〉利/理を求める「戦略」的創造
武力戦争にせよ、ビジネス戦争にせよ、戦いの場では勝利・生き残りをかけて、
創造が活発に起こる。
それは覇権を握るための仕組みづくりであったり、
競争優位に立つための改良・改善であったり、
相手を陥れるための謀(はかりごと)や実利を得るための駆け引きであったりする。
ここでは、データを分析し、ロジックに考え、
勝てる確率を客観的に上げていくという創造が行われる。

〈4〉理/真を求める「研究」的創造
20世紀、アインシュタインが残した世界最大級の創造は、E=mc2という数式。
自然科学の世界の創造とは、
物事を理で突き詰めていって、何かの法則を発見することだ。

科学者の研究にせよ、学童の自然観察にせよ、
その創造の源泉は、万人の心の中にある好奇心である。
「なぜだろう?」「なんだろう、これ?」―――この単純な問いかけこそ
この宇宙を貫く“大いなる何か”への入り口なのだ。

……このように創造と言ってもさまざまに広がりがあり、
私たちはその広がりの中のさまざまな地点で創造を行っている。
で、先ほど、私自身の仕事上の創造を振り返り、
以前の創造といまの創造はどこか別物になったような気がする、書いた。
その“別ものになった”をよくよく考えていくと、
実はこの図でいう創造の地点が変わったからではないか、ということに行き着いた。

つまり、以前の仕事では自分の創造(あるいは、創造する心)が
主に、利×理を求める「戦略」象限でなされていたのに対し、
現在の仕事では、真×美を求める「芸術」象限、より正確に言うと、「芸術」象限の中でも
真×理を求める「研究」象限との境に近いところ、でなされるようになった。
私は日々、ビジネスを真剣にやってはいるものの、いまの創造は、
競争戦略のための創造というより、詩作に近い創造なのだ。
だから詩人・新川和江の言葉に響くのだと思う。


◆「うわべの理×利得」の創造に偏っていないか
もとより創造は人間に備わった素晴らしい能力である。
図の4象限のうちのどんな位置で行われる創造であっても、創造は価値あるものだし、
創造はやっている本人に面白みも、充実感も与えてくれる。

しかし、私が感じるのは、昨今の企業現場での創造が、
あまりに経済的な「利」にとらわれ、同時に、
あまりに「理」がうわべだけの知識使いになっていないか、
そしてそのために
創造が何かギリギリと尖り、ペラペラと薄くなっていないか―――そんな点だ。

マックス・ヴェーバーは『職業としての学問』でこう語る。

 「情熱はいわゆる『霊感』を生み出す地盤であり、

 そして『霊感』は学者にとって決定的なものである。
 ところが、近ごろの若い人たちは、学問がまるで実験室か統計作成室で取り扱う
 計算問題になってしまったかのうように考える。
 ちょうど『工場で』なにかを製造するときのように、学問というものは、
 もはや『全心』を傾ける必要はなく、
 たんに機械的に頭をはたらかすだけでやっていけるものになってしまった」。

……この中の「学問」という単語を「仕事」に置き換えてもまったく有効である。
言うまでもなく、ここでヴェーバーが使う「霊感」とは、
単なるひらめきよりもずっと深い意味を込めている。
ましてやオカルト的な怪しげなものを言っているのでもない。
霊感とは、何か大いなるものとつながっている智慧の一種だ。

企業の現場では、ますます大量のデータを蓄積し、情報分析の手法を編み出し、
こぞってロジカルシンキングを重視し、理知的に創造をさせようとする。
そしてその創造は競争に勝ち残る、利益を獲得するという目的に向けられている。
創造を「理×利」の方向に押し進めれば押し進めるほど、
私たちは霊感(語感が重ければ“インスピレーション”と言ってもいい)による創造から
どんどん遠ざかってしまう。
私はここで理知的に利益を求める創造が悪いと言っているのではない。
「理×利」の創造は、果たして
霊感から遠ざかることを補うに余りある創造を私たちにもたらしているのだろうか?
―――その点を見つめたいのだ。

評論家の小林秀雄は、現代人の感受性・思考についてさまざまに指摘している。
(以下引用『人生の鍛錬』より)

 「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、
 無常という事がわかっていない。

 常なるものを見失ったからである」。

 「古代人の耳目は吾々に較べれば恐らく比較にならぬ位鋭敏なものであった。

 吾々はただ、古代人の思いも及ばぬ複雑な刺戟を受けて
 神経の分裂と錯雑とを持っているに過ぎない」。

 「能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いをしているように
 思われるからだ。

 当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。(中略)
 考えれば考えるほどわからなくなるというのも、
 物を合理的に究めようとする人には、
極めて正常な事である。
 だが、これは能率的に考えている人には異常な事だろう」。

私たちは知識や情報を駆使することで理知的に賢くなっている、そう思いがちだ。
しかし、小林はむしろ現代人の退化を喝破する。
その要因を心理学者の河合隼雄は次のように一言で表す。

 「現代人は『信ずる』ことよりも、『知る』ことに重きをおこうとしている」―――。
  (『生きるとは自分の物語をつくること』より)

現代人は確かにさまざまに創造はしているけれども、
ほんとうに深く大きな創造をしているのか。
そして何よりも、創造のほんとうの喜びを得ているのか。
霊感や信ずることを排除してしまい、
人間が古来から持ってきた“何か大事な創造の心”を失いかけている私たちは、
次の言葉を再度噛みしめたい。

「Wonder is the basis of worship. (不思議なものへの驚きは崇敬の地盤となる) 」。
  ―――トーマス・カーライル (英国の歴史家)

「ものをみるために、私は目を閉じるのです」。
  ―――ポール・ゴーギャン (フランスの画家)

「静に見れば、もの皆自得すと云へり」。  ―――松尾芭蕉
 日本画家の東山魁夷はこの芭蕉の言葉を引いて、
 自己の利害得失を離れて虚心にものを見れば、その時はじめて、
 天地の間に存在する万物がそれぞれの生命をもって十全とした姿を現す。
 そうした対象と自己とが深い所でつながったときの喜びを芭蕉は記したのではないか、
 と『風景との対話』の中で書いている。


ビジネスは生き残りをかけた戦争なんだから、

そこに詩人の心を持ち込むのはお門違いと反論があるかもしれない。
そのとき私は言いたい―――
目の前の仕事に詩的創造を加える人は、その仕事をほんとうに楽しめる人だ。
そしてまた、
詩心をもった人こそがビジネスをやることで、経済は地球的規模で変わっていく。


 

Akigumo2 
鰯雲(いわしぐも)の由来は、この雲が現れると鰯が大量に獲れるからだとか。
鯖雲(さばぐも)・鱗雲(うろこぐも)・羊雲(ひつじぐも)とも呼ばれる



2010年5月19日 (水)

地・風・火・水―――能・観・志・人

Zyumoku

◆キャリアをつくる4大要素
地球の4大要素をよく「地・風・火・水」などという。
これにならって、個々のビジネスパーソンがキャリアをつくる4大要素をあげるとすれば、
私はそれが「能・観・志・人」ではないかと思っている。

つまり、私たち一人一人が職業人として、
自分なりに満足のいくキャリア(働き様・生き様)を体現していくためには、
「能」を磨き、「観」をつくり、「志」を抱き、「人」と交わっていくことが基本要素になる。
細かくは次のとおりだ。

【能】を磨く 
 ・知識、経験(ナレッジ)を得る
 ・技能(スキル)を身につける
 ・行動特性(コンピテンシー)を強める

【観】をつくる 
 ・価値軸(バリュー)を持つ
 ・自律意識、プロ精神(マインド・スピリット)を醸成する

【志】を抱く
 ・目標像(イメージ)を描く
 ・方向性(ベクトル)を持つ
 ・情熱(パッション)を湧かせる
 ・使命(ミッション)を感じる

【人】と交わる
 ・人脈(ネットワーク)を築く
 ・人から啓発(インスピレーション)を受ける

◆能力を磨くだけでは不十分
確かに日々の業務をこなし、キャリアをつくっていくためには
「能を磨く」ことが大事だし、それが一番の基本になる。
だから、私たちは自己研鑽を怠ってはいけないし、
会社も従業員にいろいろな能力研修を施そうとする。

しかし「能を磨く」ことは、キャリアをつくる上で一部の役割しか果たさない。
技能や知識、経験といった要素は、あくまで仕事を成すための手段にすぎないからだ。
手段の取得に終始しているキャリアには早晩行き詰まりがみえてくる。

30歳前後からは、仕事の目的(=目標+意味)を自分なりに見出し、
自分の仕事をつくり出していかなければキャリアの展開は望めない。
目的観なしには、能力的にもマンネリ感や限界感が出てきて、「能を磨く」意欲も低下してくる。
キャリアの停滞はそのようなところから始まる。

◆4要素の好循環がキャリアを大きく展開させる
そこで重要になってくるのが、「観をつくる」ことだ。
すなわち自分の価値軸を持ち、自律的に考え、
自ら創造した選択肢にリスクを負って果敢に行動することだ。

自分の「観」で定めた行動だから、たとえ失敗しても悔いはないはずだし、
その失敗は未来に必ず活きるものになる。

自分の中に「観」ができてくれば、次はそれを基盤として、
目指すべき理想像は何か、情熱を燃やすことのできる目標は何かといった「志」を抱けるようになる。

そうすれば、それを実現するためにどんな「能」が必要になってくるのかが明確になる。
となると、それを獲得するためにがんばろうという具体的で新鮮な意欲が湧いてくる。
キャリアの停滞や中だるみを打破するブレイクポイントはまさにここにある。

また、同じ方向の想いや価値観を持っている「人」たちとの人脈交流も重要である。
そうした人たちと社内外で出会い、結びつきあうことで、さまざまに触発を受け、
「観」や「志」がいっそう深く固まってくるからだ。
情熱は伝染するものであるし、
人は人によってしか感化されないものである。

このように能・観・志・人の要素は相互に影響しあっている。
この4要素の循環を起こすことで、キャリアは力強く展開を始める。

◆能・観・志・人=幹・根・陽・水
4要素を樹木にたとえてみると、
 ・能=幹、枝葉
 ・観=根
 ・志=陽の光
 ・人=水

さらに言えば、
 ・仕事舞台(担当プロジェクト、雇用組織、業界、社会)=大地
 ・仕事上の成果=花、木の実
 ・自分のキャリア=樹木の姿

能・観・志・人の4要素はどれも大切ではあるが、
その中でも私はやはり「観」が一番肝心だと思っている。
「観」が強ければ、環境をたくましく活かしていける自己ができあがり
「強いキャリア」を展開していくことができる。
逆に、「観」が弱ければ、環境に翻弄されがちな自己となり
「弱いキャリア」しか歩めない。

強いキャリアとは、納得の仕事の連続、泰然自若の職業人生である。
弱いキャリアとは、妥協の仕事の連続、付和雷同の職業人生である。

いずれにしても、多忙という圧力によって働かされている私たちは、
職業人として「なぜ働くのか?」、「この多忙はどこかにつながっているのか?」
「自分はこの仕事を通して何を世に提供したいのか?」と言う自問を常に投げかける必要がある。

自分にある程度答えを持っている人は、すでに根っこ(=観)ができているので、
キャリアという樹木はちゃんと大きくなっていくだろう。
もし、まだ答えを持ち合わせていないようであれば、
樹木の生長にはいったん限界がくるかもしれない。
それどころか、危うくすると枯らしてしまうことも起きかねない。
(心身の病の危機はいつもそこにある)

◆人に会え・立志伝を読め
「観」をどうやって醸成すればよいかという方法論に関しては、
万人に効く統一のハウツーやマニュアルのようなものはない。
自分でもがきながら徐々に固めていくものだからだ。
何事も“No pain, no gain. No challenge, no progress. ” である。

しかし、その醸成を促すきっかけを他からもらうことは可能である。
仕事・キャリアに行き詰ったら、私が勧めることは2つ。

 1)「想い」を持った人にどんどん会うこと。
 2)偉人伝、立志伝を読むこと。

仕事と関係が薄くてもよい。自分が共感できる趣旨で行われている
イベントやセミナー、勉強会、NPO活動、ボランティア活動などに参加する。
(運営側に回ればさらにいいだろう)
そうした「想い」で動いている人たちからエネルギーをもらえる。
そして彼らの「観」という根っこの大きさを知る。

また、強く、高く、豊かに生きた人の本を読むことも
萎えた自分、ダレた自分、沈んだ自分を蘇生させるのに役立つ。
平成ニッポンに生まれてウジウジしている自分がちっぽけに感じられるだろう。
自分がたくましく大人になっていくために「ロールモデル」は不可欠だが、
ロールモデルは何も身の回りの生きた人物でなくともよい。
本を通して出会う人間でいっこうにかまわないのだ。

そんなところからまたエネルギーを湧かせて行動を起こす。
その過程で、自分の「観」が次第につくられていく。
気がつけば、「能」の付き方や、「志」の明瞭さ、「人」の広がりが以前よりも増しているはずだ。
―――そうやって、人は停滞を脱し、成長してゆく。


Zyumoku2 
(長野県・安曇野にて)

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