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2009年11月22日 (日)

3つの仕事~塗り絵・油絵・切り絵

Matis01 

◆マティス絵画の昇華点「Jazz」シリーズ

20世紀を代表するフランスの画家アンリ・マティス。
マティス最晩年の傑作とされるのが切り絵シリーズ「Jazz」です。
マティスは高齢になるにつれ手先や視力が弱くなり、油絵の筆が持てなくなってきました。
とはいえ湧き上がる創作への情熱を抑えきれるわけもありません。

そこで彼は、色紙とハサミを持ち、「切り絵」に没頭します。
切り絵はいったん紙にハサミを入れたが最後、やり直しはききません。
その一度きりの即興性が音楽でいう「Jazz」と共通 しているところから、
マティスはみずからの切り絵作品群を「Jazz」と命名したわけです。

読者のみなさんも一度、その作品をご覧になってください。
(ネット検索にかければ代表的な作品が画面上でいくつも見られると思います)
その色使いと構図、簡略化されたフォルム。
そこにはこれぞマティスといわんばかりの独創性が踊っています。

一見誰にでもハサミで切り取れそうな紙の断片ですが、
それを即興の芸術として成り立たせている完成度の高さは、
やはり彼のそれまでの何十年にも及ぶ創作活動から体得した技と感覚ではないでしょうか。

◆即興の中にこそ宿る真の実力
即興という芸術形態は、
常に不測の状況との対面、そして瞬時のレスポンス(反応)から生み出されます。
やり直しは不可です。

切り絵であれば、
ハサミを入れるその一刀一刀で作品の出来不出来が刻々と移り変わります。
その点では、書道も同じで、一画一画の筆運びで作品の優劣が決します。

ジャズ音楽もまたそうです。譜面はあってなきがごとし、
瞬時先の未知の時空間に音色を奏でていくその1フレーズ1フレーズ、
共演者とのかけあい、そして聴衆の反応がそのまま作品として仕上がっていきます。
その作品がいいか悪いかは、もう、やってみないとわからないのです。

即興(アドリブ)とは「(規定表現からの)逸脱的創造行為」ととらえてもいいでしょうが、
この即興という試みは、何も芸術家だけに限られた特別な行為ではありません。
私たち1人1人のビジネスパーソンにとっても不可欠で大事な行為です。

なぜなら、私たちが日ごろ行う1つ1つの仕事においても、
未知の状況に対面にしながら、みずからの技術と意志でもって
状況を“即興的”に創出していくことが求められるからです。

◆3つの「仕事」
さて、そんなことから、
私は、ビジネスパーソンが日々行っている「仕事」に3つあるなと思いました。

02-009(3つの絵仕事 

まず、仕事は大きく分けて
「与えられる仕事」
「自分でつくり出す仕事」の2つがあります。

与えられる仕事とは、
すでに他者(上司か、会社組織か)が決めた仕事があって、
あとはあなたが正確にやりこなす仕事です。

絵で言えば、「塗り絵」のようなものです。
紙の上には、あらかじめ線で絵が描いてあり、その枠内に色をつけていく類のものです。
そこで問われるのは、どんな着色剤を使うか(水彩絵の具か、色鉛筆か、ペンキかなど)、
どんな配色にするか、どう枠からはみ出さないようにていねいに塗るか・・・
くらいのものです。

さて、自分でつくり出す仕事は、さらに2つに分かれます。
「積み重ねていく」仕事と、
「伸(の)るか反(そ)るか」の仕事の2種類です。

両者とも、何を描くかということは自分でイメージしなくてはなりません。
その点で、塗り絵とは全く違うレベルにあります。

「積み重ねていく仕事」とは、
いわば「油絵」的な仕事をいいます。
つまり1つ1つの絵筆さばきを何千回、何万回と重ねていって
やがて1枚の大きな作品をこしらえるというものです。
整理して言えば、
持続・発展の仕事、ローリスクでシュア(手堅い)リターンのもの、
到達点をある程度予測しながら仕上げていく仕事です。

比較してローリスクであるというのは、
油絵の場合、仮に筆運びや色付けに失敗したとしても、
再度上から新しい絵の具を塗れば修正がききます。
ひとつひとつの意思決定や行動に時間をかけることができ、
しかもやり直しができるという意味で、リスクが低いということです。
ですから、長い期間に労力を注ぎ込み大作を仕上げることも可能になります。

一方、「伸るか反るかの仕事」は、
まさに「切り絵」的な仕事のことであり、リスクの高い仕事です。

いざ、やってみなければ結果はわかりません。後戻りもできません。
経営者の仕事や、起業(独立起業はもちろん企業内起業も含む)的な仕事はこの典型です
言い換えれば、英断・開拓の仕事です。

不測の状況の中での一挙手一投足が、その事業の成否に大きく影響します。
いとも簡単に失敗するときもあれば、
本人が予想だにしなかった素晴らしい結果が出るときもあります。

◆「塗り絵」仕事の繰り返しでいいのか?
私たちは職業人として、日々いろいろなレベルの仕事をしています。
塗り絵的な仕事をずっと繰り返してキャリアを終える人もいれば、
油絵的な仕事を丹念に続けて、
大小を問わずいくつかの作品を業績として残していく人もいます。
また、新規事業の立ち上げや全く新しい会社を興すという切り絵的な仕事に
情熱を燃やす人もいます。

私個人は6年前に会社勤めを辞め、いまは独立してビジネスをしています。
言ってみれば、切り絵作品に挑戦している最中で、
そのハサミの一刀一刀に細心の注意を払いながら、
でも潔く切り込みを入れている毎日です。

私の事業がどんな作品に出来上がるか、
1日、1ヶ月、1年、5年をおいて振り返って初めて、
その出来栄えがわかるといった状況です。

まだ事業で成功したわけでもありませんので、偉そうなことはいえませんが、
切り絵的な仕事には、塗り絵には当然比べようもなく、
そして油絵とも全く異なった面白さや喜び、気づき(悟りに近い)があります。

独立してからの1年1年は、サラリーマン時代の1年1年に比べて、
濃度が2~3倍になった感じでしょうか。
さらにはサラリーマンをずっと続けていたら絶対に感得することもなかったような思いを
自分の中に植え付けることもできました。

ですから、一端の職業人であれば、
何らかの形で切り絵的な仕事にチャレンジすることをおおいにお勧めしたいのです。

確かに会社の中で働いている以上、「塗り絵」的な仕事はどこまでいってもなくならないし、
「塗り絵」的な仕事をこなすことによって、
職業人としての基本が磨かれるといったプロセスもあるでしょう。

ですが、「塗り絵」的な仕事にどっぷり浸かったままいると、
今度は「塗り絵的な仕事だってツライんだ。
誰かがやんなきゃいけない仕事を自分がやってんだからもっと評価してくれ(給料が安い)」
なんていう都合のいい自己正当化をしはじめます。
そうなっては、働く個人にとっても、雇う組織にとっても不幸です。

会社に雇われるビジネスパーソンとしては、おそらく
「油絵」的な仕事をベースにし、ある部分「塗り絵」的な仕事が混じってくる、
そして、ときに「切り絵」的な仕事に挑戦していく―――
これが理想の姿だと思います。

最後に「切り絵」的仕事をする際の注意点を3点だけ。
1つに、基本力を備えること。
 (芸術家が行う即興にしても、それは基本技術あってこそのものです)
2つに、リスクに対しての適切な感覚をもつこと。
 (何事もやみくもにやるのは、むしろ愚行です)
3つに、不測の状況下でも仕事を楽しむためには、そこに「情熱」を感じていること。
 (情熱なしには、精神的・肉体的負荷に耐えられません)

Matis02

2009年5月 5日 (火)

血肉になる読書法:私の場合

Dokusyo1

世間では5月の連休真っ只中。

私は自営業なので、あえて人が混む日に出かけずとも
オフシーズンや平日を選んで、仕事の調整をして出かければいいと思っています。
1月末の沖縄や、5月連休後の信州の山などは、
静かな海や山に身を置けるので、とても気分よく仕事ができる。旅費も安い。
だからそういうとき、私はまとまった仕事を持って、東京を離れます。

ですから、私のGWは毎年、近所の公園でピクニックランチと読書と決め込んでいる。
(天気が良ければ毎日でも)
私にとって公園は、自分のオフィスの延長スペースだと思っていて、
そこにキャンプ用のテーブルとイスを出し、
本を読んだり企画書を書くことを普通にやっています。

5月のこのころの風は、木陰にいるとほんとうに心地よく、
持参したワインとチーズとパンと読書がはずむ。
(もちろんアイデアもはずむ!)

さて、きょうは読書法の話です。

先日、とあるところで話をした際、
私の読書法について聞かせてほしいと手が挙がったので、手短に紹介しました。
そのときの内容を整理して書きます。

私が紹介する読書法は、テーマとしては「血肉になる読書法」についてです。
(速読法とか多読法とかいったものではなく)

読んだ本の内容を、いかに自分の思考の養分・思想の血肉としていくか―――
それについて私は3段階の作業が必要だと考えます。

■作業1:「読む」
まず、「読む」こと。
これは当然の行為ですが、必ず、自分が気づきを得た箇所、重要だと思える箇所には
マーカーを引くなり、付箋を貼るなりしてチェックをして読んでいく。

■作業2:「書き留める」
読み終わり、自分がチェックした箇所を
メモ帳に書き留めるか、パソコンに文字入力して保存する。

ちなみに私は、マーカーを引いた箇所を3つの重要度レベルに分け、
・レベル高:メモ帳に書き留め+パソコンに入力(私はエクセルに放り込んでいる)
・レベル中:パソコンに入力
・レベル低:マーカー引きのまま

■作業3:「引用する」
仕事の企画書であれ、プライベートのブログであれ、自分の表現する文章において、
自分の考えを補強したり、読み手により深い理解を促したりするために
過去の作業2で書き留めた中から一文を引用する―――これが決定的に重要です。

読んだ本を自分の血肉とするためには、
読むだけでは不十分で、重要個所を書き留めなければなりません。
でも、書き留めただけでは、まだ不十分です。
それを自分の書く文章の中で引用して初めて血肉になります。

例えば、私は今度の本(『ぶれない「自分の仕事観」をつくるキーワード80』)の中で
哲学者アンリ・ベルグソンの

“生命には物質のくだる坂をさかのぼろうとする努力がある”
                                                                         ―――『創造的進化』より

を引用しました。
この一文を引用することで、私は、

1) この一文の深意をつかもうと、その前後を再度しっかり読む
2) この一文を強く記憶する(単に書き留めるよりも)
3) 自分の(未熟な)思考レベルをベルグソンのレベルに少しでも近づけることができる
4) そしてこの一文は、以降、私の思想の血肉となる


Dokusyo2 このように引用という作業には、多くの思考鍛錬効果があるのです。

ですから私は、思考力を鍛えたいのであれば、多読ではなく、一冊の深読を強く勧めます
深読は、引用する作業によってなされます。
言い換えると、単なるインプットだけの読書は浅いレベルにとどまり、
アウトプットとして用いて深いレベルのものが獲得できるということです。

また、深読(シンドク)とは、次のシンドクにもつながっている。
・身読:身をもって読む
・心読:心で読む



本を読み、
重要個所を書き留め、
引用する。


この作業は、ピーター・ドラッカーの言う「知識労働者」であれば、
すべての人が習慣化すべきことがらです。
陸上競技選手でいう日々のランニングであり、
野球選手でいうバットの素振りです。


Dokusyo3
読みっぱなしにせず、重要個所を「書き留める」習慣をつける。
思考深い人というのは、概して「メモ魔」です!

2009年1月 7日 (水)

「成長すること」の3つの観点

09年も明けて、1週間。
日々の仕事がまた忙しく動き始めましたが、
みなさんは「年初の決意」(New Year's resolution)を書き出す人でしょうか?
私はビジネスダイアリーとは別でアイデア手帳をこしらえているのですが、
そこに毎年、公私の想い・誓いを書き込んでいます。

定量的な目標はほとんど書きません。
心の奥から湧き出すマグマのようなものを文字に落として書いています。
「こうありたい」「こうするゾ!」のような理想イメージも含めて。
そして、一年ごとのテーマを一語で表す。

今年のテーマは「抜け出る」年(The Year of Getting Out)としました。
ちなみに、昨年が「かたちづくる」年(The Year of Forming)、
一昨年が「深化する」年(The Year of Deepening)でした。

まぁ、その1年はテーマどおりにいかないことのほうが多いのですが、
それでも、自分の“内なる声”を書き出し、
テーマ付けすることは、なんとなく気が引き締まっていいものだと思います。

さて、きょうは、「成長」ということにつき書きます。
私は、人が「成長すること」を3つの観点から考えています。

●第1の観点=【水平的成長】
これは主に仕事の量や種類をこなすことによって、
その結果、その仕事に順応する、視野が広がる、経験の幅を持つといった成長です。

誰しも、その仕事に不慣れで未熟なころは、
ともかく繰り返しその仕事に挑戦したり、場数を踏んだりして自信をつけます。

また、大企業では、ジョブローテーションで、定期的に従業員を配置換えしますが、
これも多様で幅のある業務経験を積ませることが目的です。

その他、自己啓発のためにいろいろな分野の読書をしたり、
セミナーや異業種交流会に参加をして、
自分の知識領域の面積を拡大させるのも水平的な成長です。
加えて、留学や旅行も格好の水平的成長の機会になるでしょう。

概して、水平的成長は、
流動的に多様な物事を見聞することで得るものといえます。

●第2の観点=【垂直的成長】
これまでの仕事より難度の高い仕事に挑戦し、それをクリアしたとき、
あるいは、仕事上の苦境・修羅場をくぐって、
無事、事態をとりまとめることができたとき、人は、垂直的成長を遂げることになります。
いわゆる「一皮向けた」変化、「大人になった」変化がこれにあたります。

また、こういう経験によって、これまでとは一段高い目線で考えられるようになった、
より高い志向・目標を描くようになった、より深くものを見つめるようになった、
などは垂直的成長の証です。

概して、垂直的成長は、固定的にある箇所で奮闘し、
深掘りする中で得られることが多いように見受けられます。

なお、水平的成長と垂直的成長は、完全に二分しているものではなく、
人が成長するとき、たいていはこの両方の微妙な混合によって得られるものです。

●第3の観点=【連続的な成長・非連続的な成長】
成長を考える第3のキーワードは
「連続・非連続」(もしくは、「地続き的・飛び地的」)です。

この「連続・非連続」という言葉は、
もともとイノベーション(技術などによる革新)のプロセスを研究する現場から生まれてきたものです。
著名なイノベーション研究者であるヨーゼフ・シュンペーターは、
非連続的なイノベーションを次のように例えています―――

「いくら郵便馬車を列ねても、
それによって決して鉄道を得ることはできなかった」
と。

私たちの成長にも、「連続・非連続」といった2つの種類がありそうです。
ひとつの職種、会社、業界で、日々、知識・技能を習得し、経験を重ね、
そのキャリアパスを一歩一歩進んでいくという連続的な成長(地続き的な成長)がひとつ。

そして、ある日、突然、何かの出会いやチャンスとめぐり合い、
これまでとは分野の全く異なる世界で仕事を始め、
非連続的に大飛躍していく成長(飛び地的な成長)がもうひとつです。

非連続的成長には、こうしたキャリアパスに関わることだけではありません。
働く意識の非連続的成長もあります。
例えば、次のピーター・ドラッカーの言葉が象徴的にそれを表しています。

「指揮者に勧められて、客席から演奏を聴いたクラリネット奏者がいる。
そのとき彼は、初めて音楽を聴いた。
その後は上手に吹くことを超えて、音楽を創造するようになった。
これが成長である。
仕事のやり方を変えたのではない。意味を加えたのだった」。

                                                              ――――『仕事の哲学』(ダイヤモンド刊)より

人は仕事に大きな意味を見出したとき、それに向き合う意識ががらっと変わります。
それこそまさに、心が非連続的な跳躍をしたときです。

◆成長は目的ではない
多くの上司や社長、先生方、親たち、大人たちは、
部下や従業員、生徒、子供たちに向かって「成長しろ、成長しろ」と言う。
そして、私たち一人一人も「成長しなくては」と(強迫観念的に)思っている。

しかし、私たちは、必ずしも「成長するゾっ!」と思って成長するわけではない。
一生懸命、何か課題に取り組み、解決できたときに、
“結果的に”成長しているというのが実態です。


だから、人は
「成長しなければ」とか、「なぜ成長しなければならないか」を考えてもはじまらない。
どんな仕事に没頭すれば、成長せずにいられないか、という順序で成長をとらえるべきでしょう。
成長は目的ではないからです。
何かを全うしたときに結果的にそうなってしまうものです。

ですから、私たち一人一人にあっては、
十分に自分の“内なる声”“心の叫び”を聴き取るべきです。
「この世に生まれて何がしたかったのか」という抗しがたい想いを汲み取ることです。
そして、それを明確に腹に落とすために、自分の言葉で書き出すこと。

平成ニッポンの世で、いろいろな格差が問題となってきていますが、
私はその根本は、個々の人間の
「内なる声」格差、「心の叫び」格差から生じていると思っています。
(この問題は深くて大きいので、また別機会に書きたいと思います)

そして、また、会社組織にあっては、
長の職にあるものは、部下に対し、
仕事の定量的な目標を与え、
あるいは仕事のやり方のみを教えるのではなく、

仕事に対する“内なる声”、あるいは仕事の意味を
部下本人が見出すよう「よい問い」を投げかけ、「よい課題」与えることが求められると思います。

2008年9月 3日 (水)

ものつくりの思想~「最善」を尽くすということ


◆「こんな程度でいいだろう」の顔をした製品

私は、生来、“ものつくり”に強い関心があります。
今でこそサービス業(第三次産業)を生業としていますが、
最初の就職はメーカーで、そこでは商品開発を担当していました。

「ものをつくる」こと―――これには、
農作物から手工芸品、芸術作品、工業製品、建築物、
あるいはコンピューターシステムのようなものまでを含みますが―――
そこには、つくり手の仕事の思想がいやおうなしに表れます
つくり手が一人であれば、その個人の思想が、
複数・事業体であれば、その集団の思想が、きちんと出ます。

私は、最近、100円ショップの製品をほとんど買わなくなりました。
そこにあるモノたちは、どれも
「なにせ100円なんだから、こんな程度のもんでいいでしょ」
というような顔で並んでいるからです。

品質への配慮、色づかいの感覚、パッケージデザインの親切さ、
棚の展示のしかた、物真似のやりかたなど、どれもが粗雑で、
そうした品を部屋に持ち込みたくない気分になります。

その粗雑さを許すのは、
「100円で売るためにコストがきついから」ではなく、
本質的には、その企業・経営者の“ものつくり思想”です。
ものつくり思想が、やはり粗雑なんだと思います。


しかし、粗雑感はあれど、多くの消費者から支持され、
企業体としても利益を出し、100円ショップという市場を創出した。
それはそれで、別の尺度から評価されるべきものではあります。


◆修練を越えた先に求めるものがある

私がメーカーにいて商品開発をやっていたころ、
ものつくりの厳しさや面白さを知る教科書として、
職人さんや芸術家、デザイナー、建築家の本をさまざま読みました。

その中で印象に残っているものを一つ紹介します。
作家の井上靖さんが幾人もの匠のもとを訪れ、
それを対談集としてまとめた『きれい寂び-人・仕事・作品』という本の中で、
陶芸家で人間国宝の近藤悠三さんはこう発言されています――――

 「ロクロやったら、ロクロが上手になる。上手になると良いロクロができにくい。
 つまり字をうんと勉強してやり出すと、決まった字になって
 味がぬけるということがありますねぇ。
 ロクロでもうんとやり出したら、抹茶茶碗の場合ですけど、ようないし、困ってねぇ。
 困らんでも、それをぬけてしもうたらいいんですけど・・・。

 なんぞ、手でも指でも一本か二本悪くなるか、腕でも片方曲らんようになれば、
 もっと味わいの深いもんができるかと思うし、
 しかし腕いためるわけにもゆかんので、夜、まっくらがりで、大分やりましたねえ。
 そして面白いものできたようやったけど、やっぱし、それはそれだけのものでしたね。

 いちばんロクロがようでけた時は調子にのるし、無我夢中になると、
 いつの間にか茶碗ぐらいでも三十ぐらい板に並んでいて、
 寸法なんかあてずに作っていても、そろうとるんですな。
 そしてあっと思ってるうちに三十ぐらいできてるんですな。
 きちんと同じに揃っているものが---。

 あとから考えたことやけど、私の手の中にに土が入ってきて、勝手にできる。
 つまり土ができにきよる。わしが作るんと違う。
 そういうようなことがずうっとありましたな。四十から五十ぐらいの時かな。

 つまり修練ですねえ。そうして、勝手にできたものが名品かというと、そうではない。
 勝手にできるというところで満足してしまうと職人になってしまいますねえ」。

・・・少々読み取りづらいかもしれませんが、要は、
ロクロで器を成形する作業は、修練していけば、
寸法を当てずとも、ぴしーっと同じ形のものが勝手に手の中で作れるようになる。
しかし、それで満足しているのは職人レベルである。
自分はそこで満足などしたくない。
精緻だが味の抜けた作品などこしらえてもしょうがないではないか、と。

私は、ものつくりにおいて、職人は職人ですごいと思うのですが、
肝が据わった芸術家というのは、さらに一段超えたところを見ているようです。
徹底した修練を超えた先に、ようやく求めるものがある。そこに行きたい――――
上の言葉の行間からは、近藤さんのものつくりの魂の炎が見え隠れします。


◆利益獲得ゲームの中で

私は、優れたもの(モノだけでなく、広くサービスも含めて)とは、
つくり手が、つくろうとする対象に自分をぶつけて、
自分を超えたところに出合う表現を形にしたもの
だと思っています。

自分をぶつけず、自分を超えようともせず、
適当に都合のいいところで妥協して、つくり流したものは
当然、陳腐なものになる。
薄っぺらなものつくりの思想(思想と言っていいかどうか)を通して、
「粗雑・適当・魂なし」の文字が透けて見える。

たかが100円のモノにそこまで求めてもしょうがないと
多くの方は思うかもしれませんが、
ものつくりのよき思想、仕事のよき思想を考えるとき、
商品の値段が安いか高いかは関係ありません。

例えば、私はいま、この原稿を新規に起こして書いている。
誰に読まれるとも、何人に読まれるものともわからない、
そしてこれで原稿料がいただけるわけでもない。つまりタダ働きの仕事ですが、
私は、自分をぶつけて、自分を超えたところに語彙、文章表現を見出して、
ようやく一本のエントリーを書き上げている。

また例えば、世の中には、さまざまなボランティアの仕事があります。
よき仕事をしようとする人は、ボランティアだからといって手抜きをしないでしょう。
むしろ、「ありがとう」の一言を聞いて、ますます頑張ってしまうものです。

ビジネスがどんどん利益獲得ゲーム化していく中にあって、
働くこともどんどん効率至上の作業と化していっています
企業・経営者は、最少のコストで最大の利潤を上げることを考え、
働き手は最高のパフォーマンス(効率性・生産性において)が求められる。
(そうなると、確かに働き手も自分の身を守るために、適当なところで手を抜かないと
やってられないよという気持ちは十分に理解できますが)

最少、最大、最高が大合唱されるなか、
だれも「最善」を考えない。

最善を尽くす働き方―――これについては、また改めて書きたいと思いますが、
いずれにしても、世の中には、
「こんな程度でいいっしょ」の仕事が溢れている。
それは購買者として残念なことでもありますが、
なによりも、そうして働き続ける本人の人生が一番もったいないなと私は感じます。
(余計なお世話かもしれませんが・・・)

2008年5月27日 (火)

これからの大事な人財要件3<自律した強い個>

要件3【自律した強い個」のマインド】=


私は人財をみるとき3つの層に分けてみるようにしています。


【第1層】どんな「知識・技能(スキル)」を持っているか

【第2層】どんな「行動特性・態度・習慣」で行動しているか

【第3層】どんな「観・マインド」で、自らのあるべき仕事・人生を考えているか


つまり上から順に、have要素、do要素、be要素で人財をみるわけです。

これまで、人事の世界では、主に人財をhave要素、do要素の2つで

事細かに要件を出してとらえてきました。

しかし、これからは、第3層の「be」要素にもしかるべき視線を入れて、

その人財をとらえ、育成する必要がある、それが今回のこの記事の中心軸です。


で、働き手に、よき人財として、第3層(be要素)に何を求めるか――――

1つは先に言及した「賢慮・美徳」性、

そしてもう1つは、「自律マインド×個として強いこと」です。


よき人財というものは、

組織に雇われていようがいまいが、

チームで仕事をしていようがいまいが、

自分が平社員であろうと、管理職・経営者であろうと、

結局のところ、


・一人で考える時間をつくり

・一人で決断し

・一人で率先し

・一人で組織と向き合い、一人で顧客あるいは社会と向き合い

・一人で自らの仕事をつくりだし

・一人で責任を負う覚悟をし

・一人で仕事の完成を目指す  働き手です。


仕事を真に極めていくことは、必然的に「孤独」という状態を引き込んでいきます。

また「孤独」でなければ本当の深い仕事はできません。

(注:「孤独」であって、「孤立」ではありません)


真のプロフェッショナル、真の経営者を見つめれば、それは実に孤独なものです。


ゲーテは、

「何か意味あることは、

孤独のなかでしか創られないことを私は痛感した」と言い、

また、ソローは、

「ものを考える人間、働いている人間はどこにいようとも孤独である」

と言いました。


この孤独に耐え、孤独を基盤とし

(哲学者・池田晶子の言う“「零地点の孤独」を知る”)、

孤独を楽しみにさえする。

そして、外にはそんな孤独をみせずに、

周囲と調和をはかり、周囲を動かして、仕事を成していく――――

これが自律した「個として強い」人財です。


しかし、それとは逆に、人事担当者の若手・中間管理職をみる目には心配事が多い。


・業務命令の意図を理解し、それをソツなくこなすことはできる。

だが、仕事をつくりだすことができない。

・事業や組織への不満や批評を口にすることは多い。

だが、それを変えようとする意気はない

・3人寄っても文殊の知恵が出ない。誰もが周囲の出方をうかがって、

自分の意見を言わない。無難で平板な論議しかできない。

・経営からの情報・意思を単に現場に下ろすだけの

“伝言型”中間管理職が多い。そして、

自らの意見を上に返すこともなく、また、自らそしゃく・増幅して

下に伝えるわけでもない。

・「その仕事において、そう行動する理由はなぜだ?なぜだ?なぜだ?」・・・

と問うていけば、結局、「組織がそう求めたから」という答えしか出てこない。

・現状の事業・仕事のやり方・あり方は明らかに組織都合のものである。

決して顧客目線にはなっていない。しかし、それを変えることは面倒だし、

失職のおそれすらあるので容認してしまう。

・(本人の意識は薄いが)組織外の場に出ると、

やたら「●●会社の●●(役職)でござい」というオーラで立ち振る舞う。

また、他の人間をみる場合に、何よりも会社名や役職で判断し、

その尺度から離れられない


・・・このように働き手が「個として弱い」がゆえに起こってくる症状は

さまざまあります。


私は、企業や地方自治体の従業員・職員に対し、

自律マインド醸成のための研修を行なっていますが、

多くが「個として強くなっていない(=個として弱いままの)」現状を感じます。


私は研修の中で、

・「で、あなた自身はどう考えますか?」、

・「組織や経営者の考え方の受け売りではなく、

この事業に関するあなたの意見・判断は何ですか?その根拠はなんですか?」、

・「あなた自身が、顧客と世間の前に出て全説明ができますか?」、

・「あなたは何者ですか?名刺なしに語ることができますか?」、

・「明日から一個のプロフェッショナルとして、自営で生きていくことができますか?」、

などの目線から問いを発し、各自の「個としてひ弱な」就労意識にカツを入れます。


アランの『幸福論』#89に、次のような一節があります。


「古代の賢者は、難破から逃れて、すっぱだかで陸に上がり、

『私は自分の全財産を身につけている』と言った」。


こうした「個」として毅然とした人財こそが、これからの時代に大事な人財です。



*********

<補足>


雇用組織にぶら下がるでもなく、雇用組織の威を借りるでもなく、

他者や世間の流れに付和雷同することなく、

一個の職業人として悠然と仕事を成していく―――――

そんな「個として強い」働き手は、充分に「孤独感」を味わいます


ですが、それは決して「孤立感」ではありません


世の中には、「個として強く」働くがゆえに、

その孤独感を理解している人たちがたくさんいます。


で、そうした人たちは、心の深い次元でつながります


糸井重里さんの『ほぼ日刊イトイ新聞』の表紙ページにあるあの名文句:

Only is not lonely.  が示すとおり、

能あり志ある「個」は、共振し、連帯し合い、コスモスを形成します


また、古今東西の偉人の書物に触れるとき、

それを“身読・心読”(身で読み・心で読むこと)できるがゆえに、

時空を超えてピーンとつながることができます。

決して孤独ではないのです。




*参考文献

野中郁次郎・紺野登『美徳の経営』、NTT出版、2007

アラン『幸福論』(白井健三郎訳)、集英社文庫

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