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2008年9月 3日 (水)

ものつくりの思想~「最善」を尽くすということ


◆「こんな程度でいいだろう」の顔をした製品

私は、生来、“ものつくり”に強い関心があります。
今でこそサービス業(第三次産業)を生業としていますが、
最初の就職はメーカーで、そこでは商品開発を担当していました。

「ものをつくる」こと―――これには、
農作物から手工芸品、芸術作品、工業製品、建築物、
あるいはコンピューターシステムのようなものまでを含みますが―――
そこには、つくり手の仕事の思想がいやおうなしに表れます
つくり手が一人であれば、その個人の思想が、
複数・事業体であれば、その集団の思想が、きちんと出ます。

私は、最近、100円ショップの製品をほとんど買わなくなりました。
そこにあるモノたちは、どれも
「なにせ100円なんだから、こんな程度のもんでいいでしょ」
というような顔で並んでいるからです。

品質への配慮、色づかいの感覚、パッケージデザインの親切さ、
棚の展示のしかた、物真似のやりかたなど、どれもが粗雑で、
そうした品を部屋に持ち込みたくない気分になります。

その粗雑さを許すのは、
「100円で売るためにコストがきついから」ではなく、
本質的には、その企業・経営者の“ものつくり思想”です。
ものつくり思想が、やはり粗雑なんだと思います。


しかし、粗雑感はあれど、多くの消費者から支持され、
企業体としても利益を出し、100円ショップという市場を創出した。
それはそれで、別の尺度から評価されるべきものではあります。


◆修練を越えた先に求めるものがある

私がメーカーにいて商品開発をやっていたころ、
ものつくりの厳しさや面白さを知る教科書として、
職人さんや芸術家、デザイナー、建築家の本をさまざま読みました。

その中で印象に残っているものを一つ紹介します。
作家の井上靖さんが幾人もの匠のもとを訪れ、
それを対談集としてまとめた『きれい寂び-人・仕事・作品』という本の中で、
陶芸家で人間国宝の近藤悠三さんはこう発言されています――――

 「ロクロやったら、ロクロが上手になる。上手になると良いロクロができにくい。
 つまり字をうんと勉強してやり出すと、決まった字になって
 味がぬけるということがありますねぇ。
 ロクロでもうんとやり出したら、抹茶茶碗の場合ですけど、ようないし、困ってねぇ。
 困らんでも、それをぬけてしもうたらいいんですけど・・・。

 なんぞ、手でも指でも一本か二本悪くなるか、腕でも片方曲らんようになれば、
 もっと味わいの深いもんができるかと思うし、
 しかし腕いためるわけにもゆかんので、夜、まっくらがりで、大分やりましたねえ。
 そして面白いものできたようやったけど、やっぱし、それはそれだけのものでしたね。

 いちばんロクロがようでけた時は調子にのるし、無我夢中になると、
 いつの間にか茶碗ぐらいでも三十ぐらい板に並んでいて、
 寸法なんかあてずに作っていても、そろうとるんですな。
 そしてあっと思ってるうちに三十ぐらいできてるんですな。
 きちんと同じに揃っているものが---。

 あとから考えたことやけど、私の手の中にに土が入ってきて、勝手にできる。
 つまり土ができにきよる。わしが作るんと違う。
 そういうようなことがずうっとありましたな。四十から五十ぐらいの時かな。

 つまり修練ですねえ。そうして、勝手にできたものが名品かというと、そうではない。
 勝手にできるというところで満足してしまうと職人になってしまいますねえ」。

・・・少々読み取りづらいかもしれませんが、要は、
ロクロで器を成形する作業は、修練していけば、
寸法を当てずとも、ぴしーっと同じ形のものが勝手に手の中で作れるようになる。
しかし、それで満足しているのは職人レベルである。
自分はそこで満足などしたくない。
精緻だが味の抜けた作品などこしらえてもしょうがないではないか、と。

私は、ものつくりにおいて、職人は職人ですごいと思うのですが、
肝が据わった芸術家というのは、さらに一段超えたところを見ているようです。
徹底した修練を超えた先に、ようやく求めるものがある。そこに行きたい――――
上の言葉の行間からは、近藤さんのものつくりの魂の炎が見え隠れします。


◆利益獲得ゲームの中で

私は、優れたもの(モノだけでなく、広くサービスも含めて)とは、
つくり手が、つくろうとする対象に自分をぶつけて、
自分を超えたところに出合う表現を形にしたもの
だと思っています。

自分をぶつけず、自分を超えようともせず、
適当に都合のいいところで妥協して、つくり流したものは
当然、陳腐なものになる。
薄っぺらなものつくりの思想(思想と言っていいかどうか)を通して、
「粗雑・適当・魂なし」の文字が透けて見える。

たかが100円のモノにそこまで求めてもしょうがないと
多くの方は思うかもしれませんが、
ものつくりのよき思想、仕事のよき思想を考えるとき、
商品の値段が安いか高いかは関係ありません。

例えば、私はいま、この原稿を新規に起こして書いている。
誰に読まれるとも、何人に読まれるものともわからない、
そしてこれで原稿料がいただけるわけでもない。つまりタダ働きの仕事ですが、
私は、自分をぶつけて、自分を超えたところに語彙、文章表現を見出して、
ようやく一本のエントリーを書き上げている。

また例えば、世の中には、さまざまなボランティアの仕事があります。
よき仕事をしようとする人は、ボランティアだからといって手抜きをしないでしょう。
むしろ、「ありがとう」の一言を聞いて、ますます頑張ってしまうものです。

ビジネスがどんどん利益獲得ゲーム化していく中にあって、
働くこともどんどん効率至上の作業と化していっています
企業・経営者は、最少のコストで最大の利潤を上げることを考え、
働き手は最高のパフォーマンス(効率性・生産性において)が求められる。
(そうなると、確かに働き手も自分の身を守るために、適当なところで手を抜かないと
やってられないよという気持ちは十分に理解できますが)

最少、最大、最高が大合唱されるなか、
だれも「最善」を考えない。

最善を尽くす働き方―――これについては、また改めて書きたいと思いますが、
いずれにしても、世の中には、
「こんな程度でいいっしょ」の仕事が溢れている。
それは購買者として残念なことでもありますが、
なによりも、そうして働き続ける本人の人生が一番もったいないなと私は感じます。
(余計なお世話かもしれませんが・・・)

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