3) 働くマインド/観 Feed

2012年2月12日 (日)

原因と結果は一体〈続〉~善行を積めば宝くじに当たるか!?


前回の記事の補足として、原因と結果が一体=「因果一如」ということにもう少し触れる。


昔から「情けは人のためならず」ということわざがある。
他人に施した善い行いは巡り巡って自分に帰ってくるという意味だ。
これは真実だろうと思う。

だから、
私たちの中には日ごろから善いことをいろいろしていけば(=原因を積んでいけば)、
将来、宝くじに当たる(=結果が出る)かもしれないと期待する人もいるだろう。

しかし、これを「因果一如」とは言わない。
日ごろ行う善行の“因”と、宝くじに当たる“果”はまったくの別の出来事だからだ。
因と果が一対一でつながっていないと言おうか。

もし、私たちが何か人に善いことをしたのであれば、
その行為と同時に自分の気持ちがすがすがしくなっている。
そのすがすがしさこそが、結果・報いであって、これを因果一如と呼ぶ。

ちなみに、先ほどの「情けは人のためならず」をサポートする観念としては、
「陰徳あれば陽報あり」という言葉がある。
いずれにせよ、善い行いというのは、自分の境涯という土壌の肥やしになるようなもので、
いつか自分が立派な花を咲かせ、実を結ぶためには、いくらあってもよいものだ。



* * *(補足の補足)* * *


◆「真・善・美」の仕事はそれ自体が報酬である

さて、因果一如というコンセプトを「仕事・働くこと」に引き付けて考えるとどうなるか。
私たちは、働いたことの報酬としてお金をもらいたい。できれば多くもらいたい。
しかし、「利」ばかりを追っていくと、「もっと多く、もっと多く」の欲望が加速する。
そうなると逆に、少ない金額しかもらえないとなると、とたんにやる気がなくなる。

「これだけストレスを抱えながら働いているのに、これっぽっちの給料か……」と、
少なからずの人たちが神経と身体を痛めながら日々の仕事をこなしている。
金銭という外発的動機に動かされているかぎり、こうした状況は変わりなく続く。

そうした中で私たちは、東日本大震災後に多くのボランティアが全国から駆け寄り、
無償の汗を流しながら、とてもよい笑顔を見せる光景に数多く触れた。
それは「利」を求めての行為ではなく、「善」の行為であった。
「善」の行為は、内発的動機であり、それをやること自体がすでに報酬なのだ。
つまり、因果一如だ。


「善」に関わる仕事内容───
つまり他者の喜ぶ顔や社会貢献につながっている仕事
は、それ自体で報われる。

「真」に関わる仕事内容───
つまり科学者の研究のように真実を追求する仕事
は、それ自体で報われる。

「美」に関わる仕事内容───
つまり自分の美意識のもとに創造をする仕事
は、それ自体で報われる。


私はここで、だから「安い給料でもよい」と言っているのではない。
給料は経営にきちんと目を張って、相応のものをもらうべきだ。

ここで私が主張したいのは、
一人一人の働き手が、一つ一つの組織が、
仕事・事業の向け先として「(経済的)利」追求に偏った流れから、
「善的なもの」「真的なもの」「美的なもの」にシフトさせていく努力を怠ってはいけない
ということだ。

そんなキレイごとを言っていたら、熾烈なグローバル競争の中で勝っていけないと
少なからずの経営者は言うかもしれない。
しかし、低価格路線という「利」の競争次元で戦えば、日本は必ず新興諸国に負ける。

むしろ、知恵や技や感性をもった日本は、位相を変えて戦うところに勝機がある。
すでに米国のアップル社は「美」的次元で独り勝ちをしている。

社員に対して、「利」の価値一辺倒で危機意識を煽るやり方は限界がきている。
「善」「真」「美」といった価値を軸に据えた仕事観・事業観のもとに、
「働きがいのある」職務・職場に変えていこうと努力をする組織、
そして意義やビジョンを雄弁に語ることのできるトップ・ミドルがいる組織は、
結果的にしぶとく生き残っていくだろう。

「そんな青臭い正論など抽象論議に過ぎない」……こう思われる読者もいるかもしれない。
が、そんな正論めいた抽象論議を真正面からとらえて、
具体的に、働くことのあり方や事業のあり方、組織のあり方を進化発展させていくのが、
先進国ニッポンの真のチャレンジテーマではないのか。

スティーブ・ジョブズが東洋の禅思想に傾倒していたと日本人は誇らしげに語るが、
当の私たち日本人はどれほど自国が育んだ思想・哲学を知り、
現代に蘇生させているだろうか。

「その行為にやりがいがあり、その行為をやった瞬間にすでに報われている」=「因果一如」
───過去の賢人たちが残してくれたこうしたコンセプトは、抹香臭い観念ではなく、
新しい時代に生かすべきアドバンテージであり、テコであり、武器なのだ。
そしてこれを見事にやってこそ、ニッポンは再び力を得るだろうし、

先進国として、文化発信国として、存在感を増すようになる。






→ 前篇「原因と結果は一体」




2012年2月 4日 (土)

原因と結果は一体 ~If you build it, they will come.


2012年も明けて、はや2月。

プロ野球のキャンプが沖縄や宮崎で始まっている。
選手たちにとって、1月の自主トレーニングと2月のキャンプはとても大事な期間だ。

昨年、セ・リーグは中日ドラゴンズが大逆転で優勝を果たしたが、
優勝したときの有力選手たちの感想は、
「あれだけの厳しい練習をやってきた自分たちだから、優勝できなきゃおかしい。
優勝できて当然」といったようなものだった。
落合博満監督も「あの猛練習に報いるよう優勝させてやるのが自分の責務」と語っていた。

彼らの中では、2月のキャンプをやり切った時点で、すでに優勝が決まっていたのだ。
つまり、勝つ原因をつくるのと結果が同時であったということである。

* * * * *

ちょうどいま、私はある記事の執筆で「メタファー(比喩)」について書いている。
そこではメタファーの一例として仏教経典の1つである『法華経』を取り上げている。

『法華経(正式な中国語訳の名称:妙法蓮華経)』というネーミングはメタファーである。
法華経の原語は、古代インド語で
「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」=「白い蓮(ハス)の花のような正しい教え」。
私たちは京都や奈良のお寺に行って仏像をよく見ると、
それが蓮の上に座していることに気づく。
だが、なぜ仏教を象徴する植物が蓮なのだろう───?

蓮は泥水の中で育つが、泥に染まることなく、美しい白い花を咲かせる。
つまり、泥水は煩悩に満ちる現実の世界のことで、
その中に生きつつも仏性という花を咲かせていく人間の姿を蓮に込めたかったのだ。

加えてもう1つ大事な要素がある。
蓮という植物は「花果同時」という特徴を持つという。すなわち、
多くの植物が開花後、受粉プロセスを経て実を結ぶという時間差があるのに対し、
蓮は花が咲くのと同時にすでに実を付けている。

これは仏教が説く「因果倶時(いんがぐじ)」、「因果一如(いんがいちにょ)」とも言うが、
すなわち「原因と結果は一体で不可分のものである」というコンセプトに
蓮の花の性質は符合するのだ。

* * * * *

昨年の中日ドラゴンズのリーグ優勝は、2月時点ですでに決まっていた。
この見方が、仏教思想でいう「因果倶時」だ。
もちろん物理的には、4月からリーグ戦が実際に始まって10月に優勝が決まる。
この時間差について仏教は「因果異時(いんがいじ)」という対の概念を用意している。

こうした原因と結果を一体化してとらえる観念は、
東洋世界が生み出した優れた観念ではないかと思う。

道教(タオイズム)にも、
「道を求めたければ、師を求めるな。道を求めたとき、師はやって来る」といったような
言葉があったと記憶する。これもまさに、因果を一つのものとしてみている。

ケビン・コスナー主演の米国映画『フィールド・オブ・ドリームス』での有名な言葉;

    “If you build it, they will come.”
     (それを造れば、彼らはやってくるだろう)

本質的には、それを造った時点で、彼らがやって来ることが決定しているのだ。
(現象面では時差が出るが)

さて、2月も第1週が過ぎようとしている。
2012年が実り多き1年になるかどうかは、
この2月の行動具合で決まってしまうととらえると、うかうかしてはいられない。
「どんな原因を仕込むか」と「どんな結果が得られるか」は一体なのだ。

そう、そして、もっと言えば、「一日即一生」
一日一日という原因の積み重なりによって、一生がどんな果実となるかは決まる。
一日のなかに、すでに、自分の行く末の姿はあるのだ。




*→つづく 「原因と結果は一体」〈続〉



Yu ground
グランドに陽が落ちて、でも、選手たちにはそれぞれのさらなる鍛錬の時間がある

2011年9月15日 (木)

観念が人をつくる

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先日、本ブログで書いた「残念な感想~“知っている”が学ぶ心を妨げる」

yahooジャパンのニュースサイトにも掲載され、大きな反響をいただきました。

その中で私は、「観念が仕事をつくり、観念が人をつくる」 と書きましたが、

そこのところをもう少し詳しくきかせてほしいとの声がありましたので、
きょうはそれについて書きます。

* * * * *

さて最初に、古代ギリシャ・ストア派の哲学者エピクテトスの言葉です───
「人はものごとをではなく、それをどう見るかに思いわずらうのである」。

また、フランスの哲学家・モンテーニュは『エセー』でこう言っています───
「事柄に怒ってはならぬ。事柄はわれわれがいくら怒っても意に介しない」。


◆「その出来事が」ではなく「観念が」感情を引き起こす

この2つの言葉を理解するために、卑近な例を出しましょう。
職場の同僚2人が昼食のために定食屋に入りました。
2人は同じメニューを注文して待っていたところ、店員が間違った品を持ってきました。
そのとき、一人は
「オーダーと違うじゃないか。いますぐ作りなおして持ってきてくれ」と、
厳しく当たる対応をしました。

一方、別の一人は
「まぁ、昼食の混雑時だし間違いも時にはあるさ。
店員がまだ慣れてないのかもしれないし。時間もないからそのメニューでいいよ」と、
穏やかな対応をしました。

このように同じ出来事に対し、
結果として2人の持つ感情、そして対応がまったく異なったのはなぜでしょう。───
それは、各々が持つ観念(ものごとのとらえ方、見識、信念)が異なっているからといえます。

すなわち、一人は、
「客サービスは、決して客の期待を裏切ってはいけない。
飲食サービスにおいて注文品を間違えるなどというのは致命的なミスである」
という観念を持っているがゆえに、あのような対応が生じました。
他方、一人は、
「混雑するサービス現場では取り違えや勘違いは起こるものである。
おなかが満たされれば、メニューにあまりこだわらない」
という観念で受け止めたために、あのような対応になりました。

このように人の対応に差が出る仕組みを、
臨床心理学者アルバート・エリスは「ABC理論」でうまく説明しています。

ABCとは、次の3つを意味します。
 ・A(Activating Event)=出来事
 ・B(Belief)=信念、思い込み、自分の中のルール
 ・C(Consequence)=結果として表れた感情、症状、対応など

私たちは、何か自分の身に降りかかった出来事に対し、
「よかった」とか「悔しい」とか感情を持ちます。ですから私たちは単純に、
この場合の因果関係を〈A〉→〈C〉であるかのように思いがちです。

ところが実際は、その感情〈C〉を引き起こしているのは、
出来事〈A〉ではなく、その出来事をどういった信念〈B〉で受け止めたかによる
というのがこの理論の肝です。
すなわち、因果関係は〈A〉→〈B〉→〈C〉と表されます。


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アルバート・エリスは、このABC理論(より正確には「ABCDE理論」)を基に
「論理療法」を創始しました。そのエッセンスは、
「起こってしまった出来事を変えることはできないが、
その解釈を変えることで人生を好い方向に進めていくことはできる」というものです。


◆境遇の下部(しもべ)になるか・境遇を土台にするか

私個人のことを言えば、私は子どものころから身体が丈夫ではありません。
いわゆる虚弱体質の部類で、ともかく飲食するにも、活動するにも無理がききません。
すぐにお腹をこわす、すぐに風邪を引いて熱を出す、とそんなようなありさまでした。
大人になってからは何とか毎日仕事生活を送れるような状態にはなりましたが、
それでも、私は常に、痩せすぎでひ弱な身体に神経をつかう日々を送っています。

私は小学校のころから自分のそうした身体の境遇に落胆していました。
母も同じように痩せて身体が弱いほうだったので、
「あぁ、こんな親のもとに生まれた自分に運がないのだ」と誰を責めるでもなく、
ただ、自分の身体に落胆していました。

小学校5,6年のころだったでしょうか、そんなときに母は、
「健康だと健康の有難みがわからへんでしょ。病弱な人はその有難みがわかる。
これはすごいことと違う?」
「弱い人は弱い人の気持ちがわかる。だから、やさしい人になれる」と言ってくれた。

その言葉を聞いて、私は、
「そうか、弱いってことは、その分、みんなが感じられんことを余計に感じられるんや」
ということに気がついたのです。
───今から振り返ると、まさに私自身がABC理論で論理療法のきっかけを得た瞬間でした。

つまり、「虚弱な身体に生まれた」という出来事〈A〉に対し、
「虚弱な母のもとに生まれた自分に運がないのだ」という受け止め方〈B〉が、
自分を落胆〈C〉に導いていたのです。
〈A〉→〈B〉→〈C〉という因果関係です。〈A〉→〈C〉ではありません。

そこで私は母の言葉によって、〈B〉を変えることができた。
「弱いからこそ、多くを感じられる」という受け止め方〈B〉になった結果、
「虚弱だったとしても、強くやさしく生きていこう」という心持ち〈C〉になったのです。
心持ちが180度変わったわけですが、それが起きた前も後も、
「虚弱な身体に生まれた」という事実〈A〉はなんら変わっていません。


◆私たちは各々の解釈でとらえた世界を生きている

私が本記事「観念が人をつくる」で言いたいのはこのことです。
人は生きていく過程で、それこそ無数の出来事や事実に遭遇します。
それら出来事や事実を、どうとらえ、どう評価するか、そしてどう体験するかは
すべて観念という名の“フィルター” (ろ過器)の影響を受けます。

「世の中に事実はない。あるのは解釈だけだ」という言い回しがありますが、
まさに私たち一人一人は、各々の解釈でとらえた世界を生きているのです。

ですから、健やかな観念をもった人は、
健やかな方向にものごとをとらえ、評価し、体験をします。
結果的に健やかな人間となり、健やかな人生を送っていきます。
もっと言えば、健やかな観念が社会に満ちると、健やかな社会となります。
逆に、冷笑的な観念をもった人は、結果的に冷笑的な人間となり、冷笑的な人生を送ります。
冷笑的な観念が世の中を覆うと、冷笑的な社会になります。
観念というのは、それほど根本的に強力なものです。

人生をよりよくつくっていくためには、もちろん意志や努力や想像が必要ですが、
そもそもその意志を起こせるか、努力するエネルギーを湧かせられるか、明るく想像できるか、
それらを大本(おおもと)で支配しているのは観念です。

なんだ、じゃ、人生明るく生きるためには「ポジティブ・シンキング」だ、
と思われるかもしれません。私はポジティブ・シンキングには肯定的ですが、
昨今ではそれが単なる「気分転換術」として紹介される向きがあるのが残念です。

もちろん観念もポジティブサイドでもったほうがよいに決まっていますが、
観念をつくることは、功利的な術よりも深いものですし、
シンキング(思考)よりも根っこにあります。
観念は、その人の内に複雑に構築される信条体系・価値体系で、
一朝一夕にはできあがらないものです。
言ってみれば、それは心の内の地層のようなもので、
読書やら交友やら、見聞やら体験やらで、長い時間をかけて積もり、
ずどんと居座ってしまうものです。
意志的な努力を継続してやっと醸成できる観念もあれば、
知らぬ間に染まってしまい、それを脱色するのがなかなか難しい観念もあります。


◆いま個人と社会に必要なのは「健やかな観念」

いずれにせよ、どんな観念をもつかは、人生の一大事です。
どんな知識をもつか、どんな技能をもつか、どんな会社に入るかより、はるかに大事です。
私は教育分野の仕事をライフワークにしたいと思い8年前に独立しました。
私は「健やかな観念」こそが個人と社会に必要だと思い、
「働くこと×健やかな観念」を自分の中のキーコンセプトにして
企業研修の場で学びのプログラムづくりを始めました。

私がここで言う「健やかな」とは、
生き生きと強い、素直である、明るく開けている、善的なことに向かっている、
自然と調和している、などの意味合いです。
そうした健やかな観念を涵養してくれる古典的な言葉は世の中にたくさんあります。
先達たちが残してくれた宝石をひとつひとつ拾い集め、
「よりよい仕事を成す」ための学習プログラムという首飾りに仕立てる───
それが私の仕事になりました。

例えば、
 ・「人は努めている間は迷うものだ」 (ゲーテ『ファウスト』)

 ・「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」 (高村光太郎『道程』)

 ・「指揮者に勧められて、客席から演奏を聴いたクラリネット奏者がいる。
  そのとき彼は、初めて音楽を聴いた。
  その後は上手に吹くことを超えて、音楽を創造するようになった。
  これが成長である。仕事のやり方を変えたのではない。意味を加えたのだった」
  (ピーター・ドラッカー『仕事の哲学』)

 ・「他人が笑おうが笑うまいが、自分の歌を歌えばいいんだよ」 (岡本太郎『強く生きる言葉』)

 ・「勤勉なだけでは十分といえない。そんなことはアリだってやっている。

  問題は、何について勤勉であるかだ」 (ヘンリー・デイビッド・ソロー『ソロー語録』)

……これらの言葉を文字面(もじづら)で理解するのは簡単です。
しかし、肚で読む(=観念に落とし込む)ことは簡単ではありません。
しかも普段の仕事につなげて考えることも難しい。そのために、
私は玩具の「レゴブロック」を使ってシミュレーションゲームをやったり、
ドキュメンタリー番組や映画を観ながら討論をやったりします。

研修づくりの方法論の観点から言えば、
「その格言なら知っているよ」という知識を観念に変えていくために必要なことは、
心が活性化している状態、もっと言えば魂が何かを求めて動き出す状態をつくることです。
それは楽しく何かに没頭している場や、
困難を受けて真剣に考えようとしている場を疑似的に設けることです。
そこに普遍的で強い力をもった言葉をすっと差し出すと、
敏感になった心の琴線に響いていき、沁みていきます。
そしてそこから原理原則的なエッセンスを各自から引き出させ、
現実の仕事、現実の生活にどう応用ができそうかを考えさせる───
ここまでやって「知識→観念」の変換作業の半分でしょうか。
あとは、実際、一人一人がそれを糧にいろいろな現実問題を乗り越えていってようやく
自身の観念として肚に据わっていきます。

フランスの哲学者アランが
「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」と言ったとおり、
特に、楽観をもって建設的に事に向かっていこうとする「健やかな観念」は
気分的なものと違い、意志的なものであるために、その形成には忍耐と努力が要ります。


◆知識に肥えていても観念が痩せている

3・11以降、私たちはメディアを通し、
あの荒漠とした被災地でたくましく再起をはかる人たちの姿を数多く目にしてきました。
南アフリカ共和国の心臓外科医であるクリスチャン・バーナードは、かつてこう言っています。

─── 「苦難が人を高貴にさせるのではない。再生がそうさせるのである」。
    (“Suffering is not ennobling, recovering is.”)

確かに、苦難自体が人を高めるというより、
苦難を乗り越えようとするその過程で、人は強く、賢く、優しくなっていくのだと思います。
被災から立ち上がった人たちは、まぎれもなく、
自分の内で強い観念を起こし、そこから再生の意志を奮い立たせた人たちです。

私がテレビ報道から耳にしたのは、
「この震災にも何か意味があるにちがいない」、
「ここから立ち直り、教訓を未来に伝えていくことが自分たちがやれる最大のことだ」
といった勇気に満ちた声でした。
こうした観念を起こすにはすさまじいエネルギーを要したでしょうが、
この再生途上にある人の姿こそ高貴なのだと感じました。

観念は一様ではありません。
感情的な思い込みから、無意識の思考習慣、思想的・宗教的な信念まで、
さまざまな観念が一人の人間の内で、そして社会で、複雑な模様を渦巻いていきます。
あるものは安易に流れ込み感染を広げ、
あるものは試練を経て獲得され静かに感化の波を起こし、
あるものは悲観的で、傍観主義で、利己的で、
あるものは楽観的で、挑戦主義で、利他的で、
これらが四六時中せめぎ合いをし、勢力争いをします。
そして、どんな観念が支配的になるかで、個人の生き方も社会の様相も決まる。

いずれにせよ、観念が人をつくり、個々の観念が社会をつくります。
知識に肥えていても、観念に痩せているという人がいます。
同様に、物質は豊かだが、観念の貧しい社会もあります。
私たちは自身の内部に広がる無限の観念空間の開発に
もっともっと目を向けるときにきていると思います。

2011年3月 4日 (金)

人は「無視・賞賛・非難」の3段階で試される


ソフトバンクの携帯電話CMで、いま「白戸家・授業参観」篇が流れています。

「こども店長」でお馴染の加藤清史郎クンが先生役となって教壇に上がり、
『ちやほやの法則』なるものを説明します。

清史郎先生が“ちやほや”と書かれた球を高く持ち上げ、ズトンと地面に球を落とす。
そのときの清史郎先生のセリフ―――
「持ち上げといて、落とされる。
高く持ち上げられるほど、落差が大きい(再び球を高くから落とす)。
信じられるのは家族だけ……」。
(生徒に扮するマツコ・デラックスが) 「気を付けなよ、先生」。
(清史郎先生) 「あなたも」。
(さらにマツコ・デラックがイヌの白戸家お父さんに向かって) 「あんたもよ」。

……「さんざん持ちあげて、落とす」。
かつてメディアで働いていた自分にとっては身につまされる真実ですが、
このCMには思わず笑ってしまいました。

メディアも世の中も、常に自分たちの関心を奪うキャラクターを欲しています。
政治家にしろ、芸能人、文化人、スポーツ選手にしろ、
ヒーローやスター、アイドル、ヒール(悪役)を何かしら生み続け、
そして同時に、消費し続ける。
これは大衆心理に宿る習慣病のようなものなのかもしれません。

一般人である私たち一人一人も、長い人生途上にあって、
メディアに騒がれるかどうかは別にして、
ときに周囲からちやほやされ、実力以上に持ち上げられるときがあります。
また同時に、少し頭角を現すや否や、
周囲の嫉妬などによってつぶされそうになるときがあります。
そんなとき、私たちが留意しておきたい大事なことを
プロ野球選手・監督して活躍された野村克也さんは、こう表現しています。

「人間は、“無視・賞賛・非難”という段階で試されている」。 (『野村の流儀』より)


〈段階1:「無視」によって試される〉

誰しも無視されることは辛いものです。
自分なりに一生懸命やっても、誰も振り向いてくれない、誰も関心を持ってくれない、
話題にも上らない、評価もされない。
組織の中の一歯車として働いていると、こうした感覚をよく覚えます。
あるいは個人でブログを開設し、
自分の意見や作品をネット発信して叫ぶのだけれど、まったく反応が来ない。
また、就活中の学生が、志望企業にエントリーをしてもしても、
応募は空を切るばかりで、自分という存在が何十回も否定される。
これらはすべて、「無視」という試練にさらされています。

「無視」という名の試練は本人の何を試しているかといえば、それは「負けじ根性」です。

偉大すぎる芸術家などは、その作品があまりに万人の理解を超えているので
ときに、本人の生前には誰もが評価できない場合が起こりえますが、
一般人の場合であれば、たいてい自分の身の周りには目利きの人が多少いるものです。
ですから、もし「無視」によって、自分にやる気が起こらないという状況にあれば、
そのときの答えは、負けじ根性を出して「人を振り向かせてやる!」という奮起です。
その心持ちをしぶとく持ってやっていれば、
ひょんなところから理解者、評価者は現れてくるものです。


〈段階2:「賞賛」によって試される〉
いまはネットでの情報発信、情報交換が発達している時代ですから、
仕事の世界でも、趣味の世界でも、「シンデレラボーイ/ガール」があちこちに誕生します。
ネットの口コミで話題になったラーメン屋が一躍「時の店」になることは頻繁ですし、
「You Tube」でネタ芸を披露した人(ペット動物さえも)が、
1週間後にはテレビに出演し、人生のコースが大きく変わることはよくある話です。
人生のいろいろな場面で、こうした「賞賛」という名の“持ち上げ”が起こります。

「賞賛」は、受けないよりは受けたほうがいいに決まっているのですが、
これもひとつの試練です。「賞賛」によって、人は「謙虚さ」を試されます。
芸能人ではよく目にすることですが、
賞賛によってテング(天狗)になってしまい、その後人生を持ち崩してしまう人がいます。
賞賛は、わがままを引き出し、高慢さを増長させるはたらきがあるからです。

このことを古くから仏法では「八風におかされるな」と教えてきました。
「八風」とは、『ウィキペディア』の説明によれば、
仏道修行を妨げる8つの要素で、
「利・誉・称・楽・衰・毀・譏・苦」をいいます。

このうち前半4つは四順(しじゅん)と呼ばれ、
利い(うるおい):目先の利益
誉れ(ほまれ):名誉をうける
称え(たたえ):称賛される
楽しみ(たのしみ):様々な楽しみ
で、どちらかというとポジティブな要素です。
まさに称賛という試しは、この四順の中にあります。

ちなみに後半の4つは四違(しい)と呼ばれ、
衰え(おとろえ):肉体的な衰え、金銭・物の損失
毀れ(やぶれ):不名誉を受ける
譏り(そしり):中傷される
苦しみ(くるしみ):様々な苦しみ
といったネガティブな要素になります。
これらは次の試しの段階にかかってきます。


〈段階3:「非難」によって試される〉
野村さんが3番目にあげる試練は「非難」です。
そう、世の中は「上げておいて、落とす」ことがあるわけですから。
その人のやっていることが大きくなればなるほど、
妬む人間が増えたり、脅威を感じる人間が増えたりして、
いろいろなところから非難や中傷、批判、謀略が降りかかってきます。

野村さんは「賞賛されている間はプロじゃない。

周りから非難ごうごう浴びるようになってこそプロだ」と言います。

自分を落としにかかる力を撥ね除けて、
しぶとく高さを維持できるか、ここが一流になれるか否かの重大な分岐点になるでしょう。
この分岐点は、いわば篩(ふるい)と言ってもいいものです。
この篩は、その人の技量や才覚によって一流か否かの選別を行うのではなく、
その人が抱く信念の強さによって選別を行います。
結局、自分のやっていることに「覚悟」のある人が、非難に負けない人です。

芸術家として思想家として政治家として、
生涯、数多くの非難中傷を受けたゲーテは言います―――
「批評に対して自分を防衛することはできない。
これを物ともせずに行動すべきである。そうすれば、次第に批評も気にならなくなる」。
(『ゲーテ格言集』高橋健二訳より)

以上のことをふまえ、
「無視・賞賛・非難」という3つの段階で試されることを図にするとこうなるでしょうか。

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さて、さらに発展して考えると、
歴史上の偉人たちはもうひとつ4段階目のプロセスを経ているように思えます。
つまり、下図に示したように、
さらなる困難や妨害といった強力な下向きの力を受けながらも、
しかし、同時に、それを凌駕する上向きの力を得ながら高みに上がっていく、
それが偉大な人の生き様です。
で、このとき受ける上向きの力は、2段階目のときの「持ち上げ」とはまったく異なり、
これは共感や同志という名の堅固なエネルギーの力です。
偉大な仕事には、必ずそれを支える偉大な共感者や同志の力があったはずです。

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私は4段階目にあって大きなことを成し遂げようとする人の姿を
広野に一本立つ大樹のイメージでとらえます。
その大樹は、高く立っているがゆえに、枝葉を大きく広げているがゆえに
風の抵抗をいっそう強く受ける。
しかしその大樹は、人びとの目印となり、勇気づけとなり、
暑い夏の日には広い木陰を与え、冷たい冬の雨の日には雨をしのぐ場所を与えてくれる。
そしていつごろからか、そこにつながる蹊(こみち)もできる。
春や秋には、樹の下で唄や踊りもはじまる。

そして、清史郎先生が樹を見上げてたたずみ、ひと言―――
「いや、あなたは、よくぞ“ちやほやの法則”を乗り越えて、ここまで来ましたな(敬礼)」。


2011年2月25日 (金)

なめてかかって真剣にやる 〈補足〉



「跳ぶことはリスクである。跳ばないことはもっとリスクである」。

さて、あなたはどちらのリスクを選びますか?
―――と前記事でかっこよく書いて終えた。

しかし、こういうことは文字づらでは理解できても、なかなか実践ができない。
やはり(私も含め)、人は人生の多くの局面で跳ぶことを避けたがる……なぜだろう。
それはこういうことがあるからではないか、ということで内容を補足したのが下図である。



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私たちは、
危険を顧みず、勇敢に壁を越えていった人びとが、
結局、坂の途中で力尽き、想いを果たせなかった姿をよく目にする。
崖の底にあるのは、そんな「勇者たちの墓場」だ。

その一方、私たちは次のこともよく目にする。つまり、
現状に満足し、未知に挑戦しない人たちが、生涯そこそこ幸せに暮らしてゆく姿だ。
壁越えを逃避する人たちが、
必ず皆、ゆでガエルの沼で後悔の人生を送るかといえば、そうでもなさそうである。
「安逸の坂」の途中には「ラッキー洞窟」があって、そこで暮らせることも現実にはある。

例えば、会社組織の中でもそうだろう。
正義感や使命感が強くて組織の変革に動く人が、
結局、失敗し責任を取らされ、組織を去るケースはどこにでも転がっている。
逆に、保身に走り利己的に動く社員や役員が、
結局、好都合な居場所を確保してしまい、長く残り続ける……。

怠け者・臆病者が得をすることもあるし、
努め者・勇敢者が必ずしも得をせず、損をすることが起こりえる―――
人間社会や人生はそういう理不尽さを孕むところが奥深い点でもあるのだが、
問題は、結局、私たち一人一人が、みずからの行動の決断基準をどこに置くかだ。
「損か/得か」に置くのか、
「美しいか/美しくないか」に置くのか。

私はもちろん、壁を越えていく生き方が「美しい」と思うので、
常にそうしていこうと思っている。
「美しいか/美しくないか」―――それが決断の最上位にあるものだ。
その上で、最終的に、その方向が「得だったね」と思えるようにもがくだけである。
最初に「損か/得か」の判断があったなら、
いまも居心地のよかった大企業サラリーマン生活を続けていたはずである。



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