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2011年2月23日 (水)

なめてかかって真剣にやる


ずいぶん前のことになるが、米メジャーリーグ野球の松坂大輔選手が

「なめてかかって真剣にやる」といった内容のことをコメントしていたと記憶する。
「なめてかかる」とだけ言ってしまうと、何を高慢な、となってしまいそうだが、
その後の「真剣にやる」というところが松坂選手らしくて利いている。

「なめてかかる」というのは決して悪くない。
いやむしろ、それくらいのメンタリティーがなければ大きなことには挑戦できない。
きょうはそんな壁を飛び越えよという話である。

* * * * *

私たちの眼前には、つねに無限大の可能性の世界が広がっている。
しかし、その世界は壁に覆われていて、どれくらい広いのかよく見えない。
壁の向こうは未知であり、そこを越えて行くには勇気が要り、危険が伴う。
一方、壁のこちら側は、自分が住んでいる世界で、
勝手がじゅうぶんに分かっており、平穏である。
無茶をしなければ、安心感をもって暮らし続けられるだろうと思える。
そんなことを表したのが図1である。

Jump it 01 


「既知の平穏世界」と「未知の挑戦世界」の間には壁がある。

これは挑戦を阻む壁である。分かりやすく言えば、
「~だからできない」「~のために難しい」「~なのでやめておこう」といった壁だ。
壁は2つの構造になっていて、目に見える壁と目に見えない壁とに分けられる。

目に見える壁は、能力の壁、財力の壁、環境の壁などである。
目に見えない壁は、不安の壁、臆病の壁、怠惰の壁などをいう。
前者は物理的な壁、後者は精神的な壁と考えていいだろう。

何かに挑戦しようとしたとき、
能力のレベルが足りていない、資金がない、地方に住んでいる、などといった
物理的な理由でできない状況はしばしば起こる。
しかし、歴史上の偉人をはじめ、身の回りの大成した人の生き方を見ればわかるとおり、
彼らのほとんどはそうした物理的困難が最終的な障害物にはなっていない。
事を成すにあたって、越えるべきもっとも高い壁は、
実はみずからが自分の内につくってしまう精神的な壁なのだ。

私たちは誰しも、もっと何か可能性を開きたい、開かねばとは常々思っている。
しかし、壁の前に来て、壁を見上げ、躊躇し、“壁前逃亡”してしまうことが多い。
そんなとき、有効な手立てのひとつは、
「こんなことたいしたことないさ」と自己暗示にかけることだ。
やろうとする挑戦に対し、「なめてかかる」ことで精神的な壁はぐんと下がる。

どんな挑戦も、最初、ゼロをイチにするところの勇気と行動が必要である。
そのイチにする壁越えのひと跳びが、「なめてかかる」心持ちで実現するのなら、
その「なめかかり」は、実は歓迎すべき高慢さなのだ。


で、本当の勝負はそこから始まる。
図2に示したとおり、飛び越えた壁の後ろは上り坂になっている(たぶん悪路、道なき道)。

Jump it 02 


この坂で、「なめてかかった」天狗鼻はへし折られる。
たぶん松坂選手も、自分の小生意気だった考え方を改めているに違いない。
怪我やスランプを経験して、相当に試されているはずだ。
だがその分、彼は真剣さに磨かれたいい顔つきになった。
その坂では、いろいろと真剣にもがかねば転げ落ちてしまう。
その坂はリスク(危険)に満ちているが、それは負うに値するリスクだ。

挑戦の坂を見事上りきると、「成長」という名の見晴らしのいい高台に出る。
高台からは、最初に見た壁が、今となっては小さく見降ろすことができるだろう。
このように壁の向こうの未知の世界は、危険も伴うが、それ以上にチャンスがある。


では、次に、壁のこちら側も詳しくみてみよう(図3)。
ここは既知の世界であり、確かに平穏や安心がある。

Jump it 03 


しかし、その環境に浸って、変化を避け、挑戦を怠けているとどうなるか……。
壁のこちら側の世界は実はゆるい下り坂になっていて、
本人はあまり気づかないだろうが、ずるずると下に落ちていく。
そしてその落ちていく先には「保身の沼」、別名「ゆでガエルの沼」がある。

ゆでガエルの教訓とは次のようなものだ―――
生きたカエルを熱湯の入った器に入れると、
当然、カエルはびっくりして器から飛び出てくる。
ところが今度は、最初から器に水とカエルを一緒に入れておき、
その器をゆっくりゆっくり底から熱していく。
……すると不思議なことに、カエルは器から出ることなく、
やがてお湯と一緒にゆだって死んでしまう。
この話は、人は急激な変化に対しては、びっくりして何か反応しようとするが、
長い時間をかけてゆっくりやってくる変化に対しては鈍感になり、
やがてその変化の中で押し流され、埋没していくという教訓である。

壁を越えずにこちら側に安穏と住み続けることにもリスクがある。
このリスクは、壁の向こう側のリスクとはまったく異なるものである。
いつの間にか忍び寄ってくるリスクであり、
気がつくと(たいてい30代後半から40代)、ゆでガエルの沼にとっぷり浸かっている。
そこから抜け出ようと手足をもがいても、思うように力が入らず、気力が上がらず、
結局、沼地でだましだまし人生を送ることになる。
安逸に流れる“精神の習慣”は、中高年になってくると、
もはや治し難い性分になってしまうことを肝に銘じなくてはならない。

さて、私たちはもちろんそうした沼で大切なキャリア・人生を送りたくはない。
だからこそ、常に未知の挑戦世界へと目をやり、
大小の壁を越えていくことを習慣化する必要がある。
しかし誰しも、松坂選手のように「なめてかかれる」ほど自信や度胸があるわけではない。

───ではどうすればいいか。
その一番の答えは、坂の上に太陽を昇らせることだ。 「坂の上の太陽」とは、
大いなる目的、夢、志といった自分が献身できる“意味・大義”である。
この太陽の光が強ければ強いほど、高ければ高いほど、目の前に現れる壁は低く見える。
と同時に、太陽は未知の世界で遭遇する数々の難所も明るく照らしてくれるだろう。


Jump it 04 


最後に、フランスの哲学者アラン『幸福論』(白井健三郎訳、集英社文庫)から
いくつか言葉を拾ってみる―――

・「人間は、意欲し創造することによってのみ幸福である」。

・「予見できない新しい材料にもとづいて、すみやかに或る行動を描き、
そしてただちにそれを実行すること、それは人生を申し分なく満たすことである」。

・「ほんとうの計画は仕事の上にしか成長しない。
ミケランジェロは、すべての人物を頭のなかにいだいてから、描きはじめたのだなどと、
わたしは夢にも考えない。(中略)ただもっぱらかれは描きはじめたのだ。
すると、人物の姿が浮かんできたのである」。

・「はっきり目ざめた思考は、すでにそれ自体が心を落ち着かせるものである。
(中略)わたしたちはなにもしないでいると、たちまち、ひとりでに不幸をつくることになる」。

―――跳ぶことはリスクである。跳ばないことはもっとリスクである。
さて、あなたはどちらのリスクを選びますか?




* →「なめてかかって真剣にやる」〈補足編〉に続く

 

 

 

2010年12月16日 (木)

Point of No Return 〈不退転の覚悟〉


 まだ人間が地球が球であることを知らなかった大昔、
水平線の向こうに別の陸地があるかどうかを知らなかった大昔、
そんなころに大海原へと漕ぎ出していくのは、相当な勇気が要ったことだろう。
海の果ては巨大な滝になっているとか、
大蛇が大口を開けて海の水を全部飲み込んでいるとか、
そんな言い伝えに人びとは航海を恐れ、また逆に好奇心も湧かせたりもしたのだろう。

例えば、新天地を探すために、20日間分の食糧・燃料を積んで航海に出たときの、
11日めを迎えるときの気持ちはどんなだろう?
つまり、丸10日経つまでは、いつでも引き返そうと思えば引き返すことができる。
(帰路分の食糧と燃料は足りるから)
しかし、覚悟を決めて未知の陸地に針路を取り続けるとき、
11日めを越えた瞬間から後戻りできなくなる。
この11日めを 「Point of No Return (帰還不能点)」 という。

未知に踏み込む恐怖と、未知を見てみたいという冒険心と、
その狭間に「Point of No Return」はある。

私はサラリーマン生活を止めて、独立しようと思ったときに、
自分自身の「Point of No Return」を越えた。
まぁ、大昔の人の航海とは違い、独立に失敗したからといって、
生命まで落とすわけではないので、後戻りできないときの危険度は小さいのだが。
それでも、大なり小なりこの「Point of No Return」なるものを
人生の中で経験しておくかおかないかは、精神に大きな違いを生むと思う。

「後戻りできない選択を採る」には、世の中にいろいろな表現がある。

●「背水の陣」;
広辞苑によれば、―――[史記淮陰侯伝](漢の韓信が趙を攻めた時、
わざと川を背にして陣取り、味方に決死の覚悟をさせ、大いに敵を破った故事から)
一歩も退くことのできない絶体絶命の立場。
失敗すれば再起はできないことを覚悟して全力を尽くして事に当たること。

●「to burn one's boats/to burn one’s bridges」;
英語でのイディオムはこんな感じになる。
これは、引き返すための乗り物をなくすという意味で「自分の船を焼く」、
もしくは退路を断つために「橋を焼き払う」といったことだろう。

●「ルビコン川を渡る」;
政敵ポンペイウスの手に落ちたローマを奪還するために、
いったん野に下ったユリウス・カエサルは自軍を率いてルビコン川の岸に立った。
当時、兵軍を伴ってルビコン川を渡ることは法律で禁じられていた。
国禁を犯して川を渡ることは、カエサルの不退転の覚悟を表していた。

人生、調子のいいときは、
イケイケドンドンで前進のための橋をつくることが簡単なときがある。
しかし、真の勇気は、後戻りできないよう後ろの橋を壊すことにある。
「つくる」より「壊す」ほうが、ある意味、難しいのだ。


Pnr kansas 
You Tubeを探っていたら、懐かしいジャケットに出くわした。
高校生のときにプログレッシブ・ロックというジャンルが流行していて
そのときによく聴いていたKansas『Point of No Return』。

2010年11月 7日 (日)

試す勇気と状況をつくりだす力~「七放五落十二達」の法則

 
栂池004r 
長野県・栂池自然園にて 


【記事前記】======

先週、グロービス経営大学院大学(東京都千代田区)様で
同校の在学生約40人に向けて3時間のキャリアセミナーを持たせていただいた。
(タイトルは;
『セルフ・リーダーシップとキャリア』~「想い」が自己を導きキャリアを拓いていく)

セミナー(私の場合はワークショップに近いが)は音楽ライブと一緒で、
聴衆が盛り上がればパフォーマーも盛り上がる。
この日はまさに熱き受講者揃いで、私も大いに乗せられた。
で、その後の懇親会で学生のみなさんと話すうち、
『七放五落十二達』が一番響いた、という声が多かった。

この『七放五落十二達』というコンセプトは、
私がずっと以前から企業研修で紹介してきたものなのだが、これまで
さほど大きな反応はなかった。そのため研修コンテンツから外すこともしばしばあった。
ところが今回のセミナーでは、
“ちなみに程度で”紹介したこの『七放五落十二達』の反応が強かったのである。

その理由は、たぶん、彼らがリスクを負って行動しているからだと思う。
『七放五落十二達』は、簡単に言えば、リスクを取って行動で仕掛けよ、もがけ、
されば道は開かれん、というメッセージのコンセプトである。
グロービスには1科目からバラで学ぶ単科生もたくさんいるが、今回集まったのは、
大学院生(平日夜間と土日をかけて2年間でMBA学位を取る)である。
彼らは本業仕事とプライベート活動の隙間から勉強時間をつくっている。
学費(300万円弱)を自費で払う人も多く、転職経験率も高い。
そういう下地のある人たちの塊だから、『七放五落十二達』に敏感に響いたのだと思う。
(私が行う通常の企業研修では、受講者の塊はこういった質の塊にはならない)

さて、きょうはそんな『七放五落十二達』の話である。

==========


◆人はリスクと引き換えに何かを得る
リスクに対する「危機」という訳語は実に奥深いものです。
そこには、危険(デンジャー)と機会(チャンス)が同居しています。

飛行機が飛ぼうとするとき、抵抗する風を浮揚力に変え、機体は地を離れます。
サーファーにとって荒ぶる高波は命を奪いかねないものですが、
いったんその波に乗るや、このうえなく爽快な瞬間を獲得することができます。
考えてみれば、人はリスクをコントロールし、リスクと引き換えに
何かを成し遂げるものです。

私は仕事柄、さまざまにキャリアの相談を受けます。
「組織に新たな提案をしたいとは思うのですが……」
「転職を考えているのですが……」「留学したいのですが……」
「独立しようと思っているのですが……」
「異動希望を出したほうがいいか迷っていて……」
こうして悩む人は多いのですが、大方は不安や保身心から二の足を踏むことになり、
それなりに冒険を回避して、それなりの結果で妥協することになります。
(場合により、その選択は中庸の道を選んだのであって、決して悪いとはいえませんが)

しかし、思い切って何かを試していれば、大きく自分が拓けたかもしれません。
仕事やキャリアづくりにおいて、ひとたび何か試してみよう、変化を仕掛けてみよう
とするとリスクが伴います。
リスクとは、事態が悪化する可能性、体力や経済力を失う可能性、
みずからの信用を落とす可能性、周囲から非難される可能性、等々です。

これらリスクを挙げていけばきりがありませんが、リスクも考えようです。
平成ニッポンにおいての仕事上のリスクです。
命を取られるわけでも、給料がゼロになるわけでもありません。
自分が決めた建設的な目的を持って、変化を仕掛けて、自分を試す。
そこでたとえ現象面で失敗したとしても、
何か取り返しのつかない惨劇が待っているでしょうか。
おそらく、そこで得られる心境は、
「これで、またひとつ状況が進んだぞ。得たものは大きい」―――ではないでしょうか。
目的に向かう意志の下では、自分を試すことに失敗はないのです。

歴史上の偉人の生涯はもちろんですが、
私たちが身近で見つける「あ、あの人の人生はいいな」において忘れてはならないことは、
その人は必ず、あるタイミングで勇気ある決意と行動を仕掛けたということです。


◆7割見えたらサイを投げよ=七放

私は、仕事上で自分試しを何らかの形で仕掛けようとしている人に対して
(自分自身に対してもそうですが)アドバイスしていることは単純明快です。
――――7割レベルまで計画、夢、志、理想像が見えるのであれば「GO!」です。
ただし、健康であること、家庭環境がある程度安定していること、
そしてその計画に対し情熱があることの3条件が付いた場合です。
7割レベルでいったんそのプランを放ってみるということで、
私はこれを「七放」(しちほう)と名づけています。

俗に言う石橋をたたいてから渡るのか、石橋をたたきながら渡るのか。
仕事やキャリアづくりは、時間をかけて意志決定すれば、
必ずいい答えが持っているとは限りません。
状況や仕事の縁といったものは、刻々と変化していきます。
動くときは勇気を持って大胆に動くことが自分を拓いていく要です。
この複雑な社会、複雑な人生において、どんな行動プランであれ、
10割読み切るということは不可能です。たとえ読めたとしても、
世の中がそのプランどおりに展開してくれる保証はどこにもありません。

7割まで来たら、まずサイを投げる。
そして出た目を見て、次のプランを考え、また行動する。
その繰り返しの中で、道が見え、道が固まってくるものです。


◆不測の状況と葛藤し道を探り当てる=五落

「七で放つ」のは簡単ですが、本人の真価を問われるのはここからです。
つまりそこからは、混乱、困惑、不測の出来事のオンパレードです。
未知の連続に、「こんなはずじゃなかった!」という場面も多々出現してきます。
自分が描いていたプランのそこかしこにひび割れが生じ、あるいは崩れ落ち、
変色し、縮小していくでしょう。
そうして当初掲げていたプランは5割レベルまで落ち込む状況になります。
―――これが「五落」(ごらく)です。
ただし、肝に命じてください。これは落ち込んだように見えるだけです。

「五落」という背丈まで生い茂る草むらの中、
素手で草を掻き分け、投げ倒し、道を探っていきます。
どれほどの長さかわかりませんが、そうした混沌をくぐり、修羅場をくぐると、
やがて広い丘に出ます。

その丘には、さわやかな風が吹いていて、ふと足元を見ると花も咲いています。
そんな足元の花に気づくくらいに心に余裕ができたとき、振り返ってみてください。
おそらく事を起こす前までの自分を、冷静に眼下に見下ろせるはずです。
その到達した丘は、当初自分が計画した以上の高みになっていることが多く、
12割レベルというのが実感値となります。
―――それが「十二達」(じゅうにたつ)ともいうべき境地です。


七放五落a 


◆過去のことがすべてつながる「十二達の丘」

満足のいく仕事人生を築いていくにはさまざまな要素が必要になりますが、
最も重要なものは「自分を試す勇気」と「状況をつくりだす力」ではないでしょうか。
わかりやすくいえば、リスクを恐れず、常に行動で仕掛ける。
そして、自分なりの正解をつくりだすことです。

動いていけば、いくほどに自分の視界はどんどん開けてきます。
Aという山を目指していたが、
状況をつくりだすうちにBの山にたどり着くこともあるかもしれません。
ですが、たぶんそのときあなたはBの山頂に立ってこう思うでしょう―――
「あぁ、Bの山もまんざらではない。いい山だ」と。
そして遠く向こうに見えるAの山頂をなつかしく眺めるでしょう。

仕事の成就やキャリアの進路に、これしかダメという唯一無二の正解はありません。
人はゆらぎながら成長していく動物です。
ひとたび何か事を起こすと、自分を取り巻くいろいろな条件、制約、都合などが
複雑な力学を伴って、自分に向かってきます。
そうして押し合いへしあいしながら、キャリアの道筋はつくられ、
方向が自分の中で固まってきます。
どこまで行っても不安は付きまといますが、

自分らしくという思いに根ざしていればそのプロセスもまた楽しめるものです。
自分らしく、不測の状況と葛藤して、行き着いた先が自分の居場所であり、
そこに充実感を覚えるのであればそれは大正解を勝ち取ったということなのです。


七放五落b 


◆ゼロをイチにさえすれば、やがて百にも千にもなる
勇気と夢・志を持って自分試しを敢行した人たちの経験によると、
「十二達」の丘に到達したとき、
過去のことがすべて必然性を持ってつながってくるといいます。
過去に何気ないところで得ていた技術や知識、人脈、そして雑多な経験や失敗などが、
あたかも今抱いている夢・志のためにあったのかと思えるのです。

先が読めないから行動できない、というのは言い訳です。
まずは行動してみないから、先が見えてこないだけの話です。

ヒルティは『幸福論』で次のように書いています。
  「まず何よりも肝心なのは、思い切ってやり始めることである。
  仕事の机にすわって、心を仕事に向けるという決心が、
  結局一番むずかしいことなのだ。

  一度ペンをとって最初の一線を引くか、あるいは鍬を握って一打ちするかすれば、
  それでもう事柄はずっと容易になっているのである。
  ・・・だから、大切なのは、事をのばさないこと」。

同様に、ノーベル化学賞受賞の福井謙一博士は、『哲学の創造』の中で、
まったく新しい学問というのは、論理によらない直観的選択から始まる場合が多い。
だから着想を持ったら、ともかく荒っぽくてもいいから実験を始めること。
そうすれば試行錯誤の中で正しい結論が裏付けられていくと語っています。

何かの状況を前に、グズグズ、ウジウジ躊躇して、
「ああなったらどうしよう、こうなったらどうしよう」と悩んでいる状態は気持ちが悪い。
どうせ悩むんだったら、何か事を行って、
その展開の上でどうしようかと悩むほうが、悩みがいもあるし、
第一気持ちがすっきりする---そう思いませんか。

本田宗一郎は――― 「やりもせんに」 と言いました。
鳥井信治郎は――― 「やってみなはれ」 と言いました。
そして、ナイキのブランドメッセージは――― 「Just Do It !」

サイを投げよ! すると先が見えてくる。腹が固まってくる。

栂池002r 
長野県・栂池自然園にて 


 

2010年10月 4日 (月)

「能動・主体の人」vs「受動・反応の人」

 
Murodo01 
立山・室堂平にて。血の池を手前に雄山を望む


先日、いまだ就職先が決まっていない大学4年生たちに会う機会があった。
依然、ネットで求人情報を探し回る日々なのだが、
新案件はほとんど出てこず、宙ぶらりんの状態が続いているという。
親から経済的支援を継続してもらえる学生なら、
卒業を1年延期する手続きをとって、来春もう一度就職活動をする選択肢があるが、
そうでない学生は、いったん卒業し、
派遣でもアルバイトでも食うための手当をしながら、再チャンスを探すということになる。

私はそうした彼らに対し、おおいに励ましもし、具体的なアドバイスもするのだが、

最終的には「自分自身が力を湧かせて勝ち取るしかないんだよ」と言うほかない。
しかし、
「リーマンショック以降の不景気・就職氷河期という大きな社会情勢の中にあって、
一個人は非力すぎる、どうしようもない」―――
いまだ就職口の見つからない学生の心にはそんな気持ちが充満しているだろう。
だからといって、そのことで大人はいたずらに同情するだけではいけない。
彼らが真に必要なのは、事を切り拓くように促す激励や助言であって、同情ではない。

もちろん、社会として支援制度を補強することも、景気全体をよくすることも必要だ。

しかし、マスメディアはそうした外部環境要因を特別に取り上げ、
センチメンタルなトーンで学生たちをある種の悲劇の主人公に仕立てる内容も少なくない。
すると学生の中には「そうだ就職できないのは景気のせいなんだ」、
「こんなタイミングに生まれ合わせた自分が不幸なのだ」、
「企業は非情だ。社会は何もしてくれない」などといった
勘違いの言い訳や被害者意識が蔓延してくる。この蔓延を放置してはいけない。
私たちは厳父(肝っ玉母ちゃんでもいいのだが)の心で、
外部環境がどうあれ、
国に期待していいのは最低限の支援やセーフティネットであって、
人生やキャリアそのものの本幹をつくっていくのは、あくまで自分自身の意志と力なのだ
と勇気づけていくことが求められる。
職を得るというのは、「自立」の根幹に関わる問題である。
この一線が死守されなければ、個人も国も立ち行かなくなる。

それにしても、自分を取り巻く環境の力がいやおうもなく大きなものと感じられ、

自分の努力の範囲で変えられることなど些細なものだという気持ちに陥るときは
就職学生に限らず、一般の私たち1人1人にも日頃よくあることだ。
勤めている組織が大きければ大きいほど、
社会が複雑になればなるほど、
経済システムがグローバル規模に広がれば広がるほど、
自分の人生が不遇であればあるほど、
環境や運命に対する投げやり感・無力感は心の内に根を広げる。

きょうの本題は、そんな自分と環境・運命の関係である。

* * * * *

◆自分と環境・運命は「因果の環」にある

私たちは経験で「自分が変われば環境・運命が変わる」ことを知っているし、
また「環境・運命が変わることで自分が変わる」ことも知っている。

つまり、

自分の意志や行動は、環境や運命に影響を与える。
そして同時に、環境や運命は自分にも影響を与えてくる。
―――それを簡単に示したのが下図である。

Ingawa01 
 
自分と環境・運命は、図のように

ニワトリが先かタマゴが先かという後先のつかない関係になっていて
互いに因果の連鎖でぐるぐる回っている。

このとき、 「自分→環境・運命」の影響方向を強く意識するか、
それとも「環境・運命→自分」の方向を強く意識するか―――
これはどちらが正解/不正解というものではないが、

どちらを主にして腹に据えるかは、長い人生を送るにあたって極めて重要な一点である。

◆変化の起点を自分に置くか自分の外に置くか

因果の環において、「自分→環境・運命」の方向を強く意識することは、
言い換えれば、変化の起点を常に自分に置くことである。
逆に、「環境・運命→自分」の方向を強く意識することは、
変化の起点を自分の外に置くことだ。

この起点の置き方の違いは、人間を2種類に分ける。
前者を「能動・主体の人」と呼び、後者を「受動・反応の人」と呼ぶことにしよう。
具体的には―――

 【能動・主体の人】

 ○状況はどうあれ他者や環境への働きかけはまず自分から起こすという意識を持つ。
 ○ゼロをイチにする仕掛けをやってみて、周りにどんな影響が出るかを待つ。
  そして、周りから返ってきたものを刺激にして、またみずから仕掛けていく。
  この繰り返しのなかで、自分の方向性を修正したり、確信を深めたりしていく。
 ○口グセは、「変わんなきゃ変わんない」、「ここまでやった自分に納得」、
  「人事を尽くして天命を待つ」等々。

 【受動・反応の人】

 ○自分が変わるきっかけをいつも他者や環境、運命といったものに期待する。
 ○いったん起きた出来事に対して一喜一憂し、どう反応すればいいかに気をもむ。
 ○口グセは、「環境がこんなだから」、「あの上司さえ代わってくれれば」、
  「自分には運がないので」、「自分の居場所はこんなところじゃない」等々。

Ingawa02 


◆「いま・ここの自分」がすべての出発点

「能動・主体の人」は、自分の過去がどうあれ、自分をどう活かすも、
また未来をどうつくるも、すべてその出発点は「いま・ここの自分」にあると考える。
その意識を見事に表したのが、
米プロ野球メジャーリーガー松井秀喜選手を育てた
星陵高校野球部の部室に貼ってあるという指導書きである(山下智茂監督の言葉)。


「心が変われば行動が変わる。行動が変われば、習慣が変わる。

習慣が変われば、人格が変わる。人格が変われば運命が変わる」。


これをイメージ化したのが下図である。

Ingawa03 

この図は、自分を取り巻く環境や外界で起きるさまざまな出来事、

そして降りかかる運命は、「いま・ここの自分」の一念と地続きであることを示している。

しかし、たった今の自分の意志で、

現環境とか運命とかいった大きな流れを変えられるのだろうか?―――
これは誰しも何か遠い話、つながらない話のように聞こえる。
「今は毎日の仕事をこなすのでいっぱいいっぱいなのに、
環境を変える、運命を変えるなんて、そんな……」というのが実感ではないか。

だが、この指導書きは、いきなり環境や運命が変えられるとは言っていない。

まずは自分の心を少し変えてみたらどうか、行動を変えてみたらどうかと言うのだ。
これならたった今から誰でもできる。
例えば、朝何時に起きる、すれ違った人には必ず挨拶をする、
月に何冊の読書をする、そしてその感想のブログを書く、など。
これら行動の蓄積や習慣は、中長期に必ずその人自身に影響を与えていく。
そして気づけば人生コースが変わっている―――星陵高校の指導書きはこういう論法だ。

確かに振り返ってみればわかるとおり、

現時点での自分の環境や運命は、決して偶然そうなったわけではない。
これまでの過去において、意図するしないにかかわらず、
自分が何らかの選択や行動をしてきた蓄積結果として現れているものだ。
私たちは、実は瞬間瞬間に選択を重ねてきた。
「いや、特段心を決めて選択したわけでもない」と言う人もいるかもしれないが、
それは「心を決めずに事をやり過ごす」という選択をしたのだ。

◆人はしんどさの質を選べる

働いていくこと、生きていくことは、どのみちしんどいものだ。
しかし、人はそのしんどさの質を選ぶことができる。
「受動・反応的」に日々を送り過ごすことは、ある意味、ラクではあるが、
環境に振り回されるしんどさを味わう上に、
自分の行き先がどんどん流されていくという不安も背負い込む。
他方、「能動・主体的」に働きかけていくことは、行動を仕掛けるしんどさはあるが、
自分の方向がどんどん見えてくる面白さがある。

どのみちしんどいのであれば、あなたはどちらを選びますか?―――

その問いはすなわち「いま・ここの自分」をどう変えていきますか、
ということにほかならない。すべての人にとって、「いま・ここの自分」は、
その瞬間以降の人生の大きな分岐点であり、出発点となる。
常に一瞬一瞬を「能動・主体的」に生きる人は、
最終的に自分の想う方向にひらいていくことができ、生涯を通じて若い。

* * * * *

◆1人1人の思考と行動がこの世界をつくっている

さて、話をもう少し広げていく。
私たちは21世紀に入り、ますます、
一個人として制御のきかない社会に生きている感覚を強くしている。
しかし、そんな中だからこそ、
「自分が変われば、環境が変わる」―――これは信ずるに値する原理だ。
つまり、自分が変われば家族が変わる、自分が変われば会社・組織が変わる、
自分が変われば地域・国・国際社会が変わる、
自分が変われば自然・地球が変わる、という原理だ。

この世界は、私たち1人1人の絶え間ない思考・言動の連続・集積体である。

英国の哲学者、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861-1947年)の考え方を借りれば、
この世界は「関係性の森」である(仏教思想はこれを「縁起」と説く)。
私たち1人1人のどんな瞬間的な、どんな些細な思考や言動も
ことごとくこの「関係性の森」に通じ、この森に影響を与え、この森をつくっている。

ホワイトヘッドは『観念の冒険』の中でこう言い表す―――

「われわれは、どんな分子で身体が終わり、外の世界がはじまるのか、いうことはできない。

脳髄は身体と連続しており、
身体は自然の世界のほかの部分と連続しているというのが真理なのだ」と。

                                                                  (参考文献:中村昇著『ホワイトヘッドの哲学』講談社)

この複雑な「関係性の森」の内では、無数の「こと」が相互に反応し合い、

新しい「こと」が生起し、その森自体の性質やら形やらを決めていく。
このとき、森の住人である私たち1人1人にとって重要なのは、この森を
楽観・意志に満ちたみずみずしい森にするのか、
それとも、悲観・感情が覆いかぶさる茫漠とした荒れ地にするのか、だ。

Ingawa04 
 


◆世に望む変化があるなら、まずあなた自身がその変化になりなさい

個人が、家族が、会社が、地域が、国が、世界がよりよくなっていくための答えは
自明である。

マハトマ・ガンジーは次のように言った(そして事実そう行動した)。
“You must be the change you wish to see in the world.”
(この世の中に望む変化があるなら、あなた自身がその変化にならねばならない)

また寓話だが、ハチドリのクリキンディはこうした。

 ―――森が燃えていました
 森の生きものたちは われ先にと 逃げて いきました
 でもクリキンディという名の ハチドリだけは いったりきたり
 くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは 火の上に落としていきます
 動物たちがそれを見て 「そんなことをして いったい何になるんだ」 といって笑います
 クリキンディは こう答えました
 「私は、私にできることをしているだけ」―――
 
                   (南米アンデスの先住民の話:出典『ハチドリのひとしずく』辻信一監修・光文社)


環境(家族、会社・組織、地域、国、国際社会)はどのみち変化していく。

そのとき、1人1人が「能動・主体の人」となり環境に働きかけをしていくなら、
環境は楽観と意志の方向に動いていく。決して一筋縄ではないが。
逆に、1人1人が「受動・反応の人」となり環境を傍観・放置すれば、
環境は悲観と感情の方向に漂流を始める。その結果は歴史の教えるところである。

◆中国からのメールマガジン

ちょうどいま、日中関係がぎくしゃくしている。
国家間の関係づくりもまた、一個人の想いや力は微細なものだと思える類のものだ。
今回の尖閣諸島での出来事で私が残念に思うのは、
両国ともマスメディアから流れる自国側のニュースによって
「やっぱり中国人は~」、「やっぱり日本人っていうのは~」という
ステレオタイプを貼りつけて、相互に不信と嫌悪を募らせている点である。

そんな折、現在、中国に長期滞在している仕事仲間のビジネスコンサルタント
戸井雄一朗さん(クイックウィンズ社)からメールマガジンを受け取った。
その冒頭の一部を紹介させていただく。

=戸井さんからのメールマガジン文(抜粋)=

 「日中関係に緊張感がはしっている中、相変わらず中国に滞在しています。
 テレビのニュースを見ると、中国の数々の圧力で両国の関係の悪化が報じられています。
 家族や友人が心配してメールをくれたりします。
 かくいう私も今回こうして長期で滞在する前は、
 こうした国際的な摩擦があると、「ああ、中国だからね」と思っていました。
 しかし、実際に接している中国人の方々はいたって親切なんですよね。
 世話になっているサービスアパートメントの不動産屋さんは
 全くの業務外のことでも困っていると助けてくれます。
 タクシーの運転手さんは言葉が通じなくても一生懸命話しかけてきて、
 私の下手くそな中国語の発音を笑いながら直してくれたりします。

 一人ひとりの関係と、国益をめぐる国際関係は別物だと認識しました。

 国益をめぐる関係と個人の人間関係は全く異なるものなので当たり前とは思いますが、
 一人ひとりの集合体が組織(この場合は国家)であるはずなのに、
 組織は個人とは異なる顔を見せるようです。

 そんな国同士の諍いをしり目に、今日も中国人のメンバーと仕事をします。

 時には議論しあい、時には冗談を飛ばしあいながら。
 両国がもめているこんな時期だからこそ、
 それはちょっぴり感動的で誇りに思える光景です」―――。


……この文章は、にわかにざわついていた私の心を穏やかにしてくれた。

このメールマガジンは1万4000人ほどに配信されているというから、
その中にも少なからず詰まった息をほっと吐けた人もいるのではないだろうか。

私個人もこの内容はよく理解できる。

米国留学時代や国内大学院時代に何人もの中国人学生と知り合ったが、
中国人といってもやはり千差万別の性格や考え方をもった人間たちなのである。
彼らの中には、繊細な人もいれば、金儲け欲より社会貢献欲のほうが強い人もいる。
尊敬できる人もいるし、歴史観を中立に持っている人もいる。
逆に、日本人でも粗暴な人はたくさんいるし、守銭奴のような人間も多く見かける。
尊敬できない輩もいるし、偏った歴史観で物事を決めつける人間もいる。

私たちはついつい物事を単純化したレッテルを貼ってとらえてしまいがちになる。

マスメディアから流れてくる報道(特に映像)はその恰好の材料となる。
十把一絡げでばっさりと裁断したほうが思考がラクだからだ。
しかし、それは「受動・反応の人」の行動である。悲観と感情が私たちを縛りはじめる。
そうなって得することは両国民と国家にとって、一切ない。

だから、こういうときこそ1人1人が「能動・主体の人」になることが求められる。

戸井さんのように中国の人びとと直接的に交流できなくとも、
私たちは人間主義に立って、
「だから中国人は~だ」とか「やっぱり中国は~だ」といったばっさりとした思考を止め、
日中の友好はかなう、なぜならお互い人間同士だからだと思うこと―――
ここから1人1人の能動・主体がはじまる。
そういう楽観(能天気ということではない)と意志が底辺に満ちてこそ
政治や外交は建設的な成果を得られる。

中国に限らず、韓国にしても、ロシアにしても、

隣国への思いや考えは日本人の中にもさまざまある。政治的な利害の対立もある。
しかし国家間の友好関係は1人1人の願望からはじまり、民間交流でしか築けない。
それには長い時間と労力と忍耐を要する。
日本人はその時間と労力と忍耐を引き受ける成熟さをもっていると私は信じたい。

私たち1人1人は、一生活人、一働き人、一家族人、一国民、一地球人として生きる。

「環境が~だから、自分は~できない」と思うのではなく、
「自分が~すれば、環境は~に変わっていくだろう」と構えることで、
生活や職場、家庭、国、この地球はずいぶんとよい場所になるに違いない。

Murodo02 
Murodo03 
立山・室堂平にて。浄土山(上)と日本海側の雲海に沈む太陽
 

 

2010年1月16日 (土)

志力格差の時代〈下〉~社会的起業マインドを育め

1月の石

世の中に多種多様にある仕事を次のように分けてみる。例えば―――

「“ありがとう”を言われる仕事」
「“ありがとう”が全く耳に入ってこない仕事」。

さて、みなさんの仕事はどちらに分類されるだろうか。
私が独立自営を始めて最もよかったことは何かと言えば、
それは(恰好つけでも何でもなく)仕事で“ありがとう”を言われるようになったことだ。

ありがとうを言われると、働く上でどんな心理変化が起きてくるか。

1)
そんなに喜んでもらえるなら、もっとこうしてあげよう、あれをやってあげようとなる。
だから、(無料という意味での)サービス仕事・ボランティア仕事がついつい増える。
しかし、心は晴れ晴れしてやっている。
(サラリーマンの間で問題となっているサービス残業とは全く異なる類のものだ)

2)
へこたれなくなる。
いまだ収益基盤のか細いビジネスで、不安定にふらつきながらやっているが、
お客様の「ありがとう。また来年もよろしくお願いします」の声が聞こえてくるので、
少なくとも、もう1年踏ん張ろう、さらにもう1年踏ん張ろうと、進んでいける。
(悲壮感に陥らないところがいい)

3)
仕事で目指そうとする「想い」がより大きくなる。
ありがとうを言っていただいたお客様や
ありがたいと感じてくださった共感者の方々が、
「もっとこうしたらいいんじゃない」とか
「こういう形もあるんじゃないかしら」とアイデアをくれたり、手伝ってくれたりする。
酒を酌み交わしながら「想い」を共有してくれもする。
すると、自分一人で抱いていた想いが、いつしか複数の想いとなり、
その内容もどんどん膨らんでいく。

このように、仕事で「ありがとう」を言われることの影響はとても大きい。
心が晴れ晴れする、強くなる、想いが膨らんでくる―――いいことづくめだ。

ここで私なりのひとつの結論を言えば、

ありがとうを言われ続ける環境にあると、
人は働く動機を「利他動機」にシフトさせる。
そして志(想い)が膨らむ回路に入る。
さらに、その志がいろいろな人たちによって共有されるとき、もっと大きな力になる。

ちなみにその逆もまた真なりで―――

ありがとうを言われない環境にあると、
人は働く動機を「利己主義」にシフトさせる。
そして我欲(閉じた執着心)にとらわれる回路に入る。
さらに、そんな我欲にとらわれた人たちが世に多くなりすぎると、大きな災いが起こる。

* * * * *

とにもかくにも、“ありがとう”の力はすごい。
本記事のメインテーマである「志力格差」に話を戻すと、
「志力」(=想う力・志す力)の格差をなくすためにひとつ重要なことは、
特に若い世代に
「ありがとう」を言われる仕事体験を一度でも、そしてできればどんどんさせるということだ。

伊藤忠商事の丹羽宇一郎会長は
日本に「徴農制」を施してはどうかと提起されている。
社会に出る前の若者を国費で一定期間、兵役ではなく、農業につかせるというものだ。
(大いに賛同!)

私がそれにあやかって発想するなら、「徴ボランティア制」がいいと思っている。
(国からの命令による義務役なので、もはや“ボランティア”とは言えないが)
名称はともかく、ある期間、国民のお勤めとして、社会慈善事業(国内外への派遣)に参加するのである。
国家の徴集制ではなくて、学校・大学の必須授業として組み込んでしまう手もある。

私は、以前いた会社で、就職活動前の大学生をネットワークし、
「二十歳の社会勉強」プロジェクトと称して、彼らにいろいろな社会的活動を通して
働くこととは何か? 職業選択とは何か? を考えさせた。

沖縄の離島に大学生を数十人連れて行って、小学校で出前授業をやったり、
町の商店街に出かけていって活性化策を取材したり、
豪雪地方の村に行って雪下ろしを手伝ったりした。

そこで言われた“ありがとう”は、彼らにとって何よりの報酬であっただろうし、
またそれが啓発材料となっていろいろなことを考えただろうと思う。
そして(あのプロジェクトから10年ほど経つが)今でもあのときの経験は、
参加者の一人一人に、
今の自分の仕事の在り方は現状のままでいいのだろうか、
今の自分のキャリアの流れには、志のようなもの(想いやビジョン)があるのだろうか、
今の自分の存在は、どれだけ社会の役に立っているのだろうか、
今の自分の会社のビジネスは、どれだけ社会にプラスの貢献をしているのだろうか、
などといった自問をチラチラと投げかけて続けているにちがいない。

人生の早い段階で社会貢献的な仕事をして、そこでありがとうを言われる原体験は、
個々の人の中に「志」の形成意欲の種を確実に植える。
その種が植え付けられるかどうかは、彼(女)の人生・キャリアにとって決定的な出来事だ。

* * * * *

ありがとうを言われる原経験と併行して大事なのが、
「社会的起業マインド」の醸成である。

ここでいう「社会的起業マインド」は3つの観点を含んでいる。

1)社会的:
一人間・一世界市民の立場から「共通善(common good)」を志向し

2)起業:
(広い意味で)
どんな小さな仕事・事業でも、何か自分で考えてつくり出そうとする

3)マインド:
意識・心持ち

私はみずからが行う『プロフェッショナルシップ研修』というプログラムの中で
この「社会的起業マインド」の醸成を刺激するセッションを設けている。
なぜなら、一個の自律したプロであるためには、
働く先が、企業(株式会社)であろうと、NPOであろうと、役所であろうと、
この「社会的起業マインド」は、欠くべからず素養であると思うからだ。

私たちは、特に、いったん企業に就職してしまうと、
事業の第一目的は「利益の追求」であるように頭が染まってしまう。
「利益が出なければ会社は存続できないし、自分の給料だって出ない」
「会社の事業が社会・顧客に受け入れられているかは、獲得する利益によって代弁される」
「利益の最大化を狙って各社競い合うからイノベーションが起こり、文明は発達する」
「利潤追求を排除した共産・社会主義国家の末路は誰もが知っている通りだ」

・・・こうした利益追求を肯定する思考に、誰も否定はできない。

利益は大事だが、しかし、事業の目的ではない。
ちなみに、ピーター・ドラッカーは
「利益は目的ではなく、企業が存続するための条件である」
「組織は存続が目的ではなく、社会に対して貢献することが目的である」と言っている。

確かにたくさんの雇用を保持している企業は簡単につぶれてはいけない。
しかし、企業が自らの存続のために、利益を目的にすればするほど、
社員はその利益の数値目標に呪縛されて働くことになる。
すると社員の関心事は、ますます年収の「多い/少ない」に移っていく。
(これだけきついプレッシャーに耐えて目標をクリアしたんだから、
その利益の分け前を給料としてきちんともらわないとやってられない、
といった心理になる)

社会をあげてこの回路を際限なく増幅させてはいけない。
そのためにも個々の働き手の中に「社会的起業マインド」を醸成する必要がある。

私が行う「社会的起業マインド」を涵養するプログラムでは、例えば
『未来を変える80人-僕らが出会った社会起業家-』
(シルヴァン・ダルニル著/マチュー・ルルー著、永田千奈訳、日経BP社)
のような本をテキストにしている。
そこには社会的起業の具体事例と、起業者の生き生きとした動機が紹介されている。

受講者たちは、
それら事例や動機を知るだけで、相当にインスパイアというかショックにを受ける。
「あ、そうか、こういうビジネス発想もありなんだ」
「自己実現欲求が社会貢献と結び付くとはこういうことか」
「公共善サービスが、公営や非営利でなくてもビジネスとして回ることが可能なんだな」
「自分の欲する生き方と仕事が重ねられるなんてウラヤマシイ!」
などなど。

また、
『ムハマド・ユヌス自伝-貧困なき世界をめざす銀行家-』
(ムハマド・ユヌス著/アラン・ジョリ著、猪熊弘子訳、早川書房)も恰好の教材になる。

ムハマド・ユヌス氏は2006年の「ノーベル平和賞」受賞者である。
マイクロクレジットという手法でグラミン銀行を創業し、
バングラディシュの貧困層の人びとの生活を劇的に向上させた。
「ソーシャル・ビジネス」の提唱者でもある。

彼は、
何も金儲けがやりたくて銀行家になったわけではない。
貧困にあえぐ人びとを救える方法を考えて考えた結果、
たまたまマイクロクレジットという手段に出会ったのだ、
ということを自伝に書いている。

この自伝を読むと、
「想い」、もっと正確に言えば「社会的使命を自覚した想い」が
いかに自分の仕事をつくり出し、事業を興し、
スケールの大きなキャリア・人生を形づくっていく源泉になるかがわかる。

本連載の〈上〉編でも指摘したが、
「志力」(想う力・志す力)が弱りつつあるニッポンの若者・働き手たちには、
こうしたロールモデルを多く見せることが必要なのだ。
彼らはいまだ感受性が衰えたわけではない。
だから、よい見本刺激を与えれば、内面からきちんと火が点くようになっている。
(人間とはそういうものだ、そう信じたい)

「社会的起業マインド」は
社会のために意味のある仕事をしたい・事業をつくり出したい、
そしてそれは事業として回していけるものだ、の言い換えだが、
このマインドを醸成することは、教育が担うべき大きな役割といえる。
教育(啓育)は、何も学校・教育者だけがやるものではない。
親という立場から、家族という立場から、先輩という立場から、
上司・経営者という立場から、万人がやるものである。

そうした意味で、大人世代の人びとが(そして法人としての企業の一社一社が)、
「一人間・一世界市民の立場から共通善を志向し
どんな小さな仕事・事業でも、何か自分で考えてつくり出そうとする意識」を持って
一人一人の働き様・生き様として体現していくことが
何よりの後進世代への教育(啓育)となる。

* * * * *

志力の強い者と弱い者の格差が広がる社会で、憂慮すべきは、強と弱の格差というより、
志力を弱めている人間のほうがもはや多数派となり、
最弱のレベルがさらに落ち込んでいくことだ。
(志力が強い人間は放っておいて大丈夫。強い分にはどんどん強くなればいい)

仕事でありがとうを言われる原体験を持たない少年少女たちが
大人になってもありがとうを言われない仕事に就いていては、志など湧くはずがない。
そして、「社会的起業マインド」の涵養刺激をどこからも受けなければ、
彼(彼女)の中で、職業・仕事はますます、せせこましい“労役”に成り下がってしまうだろう。

---私は社会に諸々の格差問題がある中で、この「志力格差」は見過ごせないものだと思う。
国力の衰えは、個々人の志力の衰えからくるからだ。

最後に1つ、ノーマン・カズンズ(米・ジャーナリスト、作家)の言葉を紹介する。

「すべての人が金持ちになる幸運に恵まれるとは限らない。
しかし言葉については、誰しも貧乏人になる要はないし、
誰しも力のこもった、美しい言葉を使うという名声を奪われる要はない」。
    ―――『人間の選択~自伝的覚え書き』(松田銑訳、角川書店)より

この表現を拝借させていただくとすれば、私はこう言いたい。
「すべての人が金持ちになる幸運に恵まれるとは限らない。
しかし志・夢については、誰しも貧乏人になる要はないし、
誰しも気高き志・夢を描き、それを実現させるという名声を奪われる要はない」
と。


次回、補足記事として「動機」について書きます。

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