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2009年12月27日 (日)

志力格差の時代〈中〉~格差の根っこはどこにある?


Asashimo 

「いやー、毎年の新入社員たちは何事も受け身になるばかりで」
「最近の学生がますますこぢんまりと保守的になって」
「ゆとり世代は何かと覇気がなくて」・・・

こうした「イマドキの若者」論(小言?)は、
いつの時代にも先行世代のおじさん・おばさん・上司・経営者・学者などから出てくる。

しかし、私はあまり一般論で先入観を持たないようにしている。
やはり、それは個別の人間の問題なのだ。
どの時代・どの世代にも受動的・保守的・覇気のない人間はいるし、
逆に、能動的・革新的・覇気に満ちた人間もいる。
とはいえ、この両者の格差は看過できない質のものになってきている。

起業家養成の活動を行う「ETIC」(代表理事;宮城治男)というNPOがある。
そこに集う学生や若年社会人たちを見ていると、一般論として揶揄される若者とは全く違う。

「社会的起業」という想いを軸に、
さまざまな背景をもつ若者たちがとても熱く寄り集まってきているのだ。
ここでは、大学生の中にも早くから志を見つける者がいる。
彼らの熱気をみていると、
個々にはどんな就職・キャリア展開をしていくのか予想がつかないが、
その想いの強さを抱いているかぎり「どう転んでも大丈夫だな、この子たちは」と思える。
それほどに、青いけれど、元気である。

と、その一方で、意欲的に腑抜けしたような若者が多いのも事実である。
私は、大学での講義や企業での研修で、
個々人が潜在的に持つ成長意欲や仕事意欲、キャリア形成意欲を
思考の補助線を与えながらステップ・バイ・ステップで引き出し、
どのような方向性(ベクトル)や理想像(イメージ)で描けるか
というワークをやっているが、まったくペンが動かないという人がけっこう出る。
(彼らは受講態度が不真面目なわけでなく、ほんとうに想い描けないのだという)

また、講義の後や研修の後に、
時間が許せば個別に相談を受けたりすることもあるのだが、
本当にもう自分のやりたいことの欠片も想い描けない人が来て、深刻な顔で
「どうすれば自分の意欲が想い描けるのでしょうか?」と質問をされるときがある。

平成ニッポンが、平和の代償として、意欲的に去勢された人間を続々生みだしている。
―――そんな現実を私はひしひしと感じる。

とはいえ、それによらず、熱を帯びた人間だっている。
そこには、意欲を湧かす者と湧かさざる者との格差がある。

* * * * *

ココ・シャネル(シャネル創業者)の名言;

「20歳の顔は、自然の贈り物。
50歳の顔は、あなたの功績」。


私は研修・講演などでこの言葉をよく紹介しているが、
これとともに、次のことを言い加えている。

28歳までのキャリアは“勢い”。
29歳からのキャリアは“意志”。
そして、50歳でのキャリアは、あなたの“人生の作品”。 

人生の作品とは、仕事の実績や経験などはもちろん、
あなた自身の人格や福徳、人脈、忘れ得ぬ今生の思い出などを含めて考えたい。

私も40代後半を迎え、自分自身や周辺を見るにつけ、また、
ビジネス雑誌記者として七年間、さまざまな経営人やビジネスパーソンを取材してきて、
ほんとうにキャリア・人生というものは、10年・20年という単位をかけて、
その人の“意志”(イシの字は、“意思”ではなく“意志”という志を当てるほう)が
如実に表われてくる
のだなぁと確信できる昨今である。

それは例えば同窓会などで容易に観察できる。
小学校にせよ、中学高校にせよ、大学にせよ、
卒業するときは、おおよそドングリの背比べだった同級生たちが、
今や、キャリアの悲喜こもごも、人生スケールの大小こもごもの差がついている。

注)
私が観察するのは、経済的な成功(暮らしが豊かそうか否か)というこもごもではない。
その歳になって、
どれだけ満足の仕事・意味を感じられる仕事に就けているのか、というこもごも、
どれだけの広さ・高さの景色で日々を送っているか、というこもごも―――
である。

こうした中長期をかけて表れるキャリア・人生の「こもごも」、
つまり多様な(質的)差異、人生の作品の差異はどこから生まれてくるのか?


本人の能力差? 家庭の経済力の差? 
たまたま就職した会社の差? もろもろの機会の差?
それとも性格の差? 運の差? 育ちの差? 容姿の差?・・・

どれも一因であるには違いないが、
私はそれらはむしろ二次的なものだと思っている。
私が考える大本の要因は、意欲の差、もっと表現を加えれば「志力」の差である。

(現代日本のような、ある意味まともな仕組みで動いている平時の社会においては)
志力さえあれば、たとえ自分が先天的に
能力的、機会的、環境的に多少ハンディキャップを負った状況だったとしても、
後天的な意志的努力によって、10年、20年をかけ、
それを補って余りあるほどに自身のキャリアを発展させていくことができる
―――私は強くそう思う。

志力とは、自分の内に志を育む力、そして志から得る前進力をいう。
志力とは、欲望の一種だが、反応的ではなく、意志的なものをいう。
(つまり外的な刺激で明滅するものではなく、環境に左右されず内面に湧き続ける意欲)

* * * * *

いま、世の中でいろいろな「格差」が問題となっている。
「年収格差」、「雇用格差」、「学習機会の格差」、「情報格差」、「希望格差」等々。

確かに、格差をマクロ的に分析し、マクロ的な手立てを打つことは大事だし不可欠だが、
社会やメディアや大人たちがマクロ的にああだこうだと言っているばかりでは、
本当の解決には至らない。

なぜなら、マクロ論議では、
格差が生じるのは、いまの利益至上経済システムに問題があるからだ、とか、
向上意欲を失った者の側に問題が多いからだとか、
そういった極めてざっくりした結論で押し進めるために、
弱者側に追いやられてしまった人たちを、
「そうだ、すべては社会が悪いのだ」と開き直りをさせる方向にしか事が進まない。
で、解決方法はといえば、手当の支給。
これでは、格差が固定化する回路に入ってしまう。
社会やメディアは彼らに脆弱な言い訳を与えるだけで、決して自己蘇生を促しはしない。

だから、そうさせないために、ミクロのアプローチ、
つまり格差の問題を個々の問題として、一人一人の人間に迫らなくてはならない。
自分の人生の責任は、最終的に自身が引き受けねばならないのだと。

いみじくも、ジャック・ウェルチ(GE社・元CEO)はこう言った;
「みずからの運命をコントロールせよ。
さもなくば、他の誰かがそれをやるであろう」
と。

そのために、
人の人生・キャリアにこもごもと差が生じる「根本要因」は、
生まれ持った能力差というより、年収差というより、運の差というより、
「志力」の差なんだと、一人でも多くの大人たちは、厳父・賢母のごとく、
後続の若い世代にそこかしこで言い続ける必要がある。
(だから私もいろいろな場で言う)

* * * * *

アメリカもまた、格差という面では、日本以上に諸問題を抱えている。
しかし、少なくともあの国では、
いまなお「アメリカンドリーム」が根強く個々人に信奉されていて、
その意味では日本より、格差問題を乗り越える個々の潜在力は強いといえるかもしれない。
(アメリカンドリームは、志の力というよりは俗的な欲望まで含んではいるけれども)

しかし、日本ではアメリカンドリームに代わるような
個々の自己蘇生力を奮い起こす明快な民族的コンセプトがない。
私個人は、アメリカンドリームほど単純明快ではないが、
ひとつの提起として

「社会的起業精神」を挙げたいと思っている。

この「社会的起業精神」の涵養を
うまく教育(小中高・大学教育、社会人教育)の中に組み入れることで、
格差の根っこに横たわる志力格差の問題によい効果をもたらすのではないかと期待もしている。

次回はこの「社会的起業精神」について詳しく触れます。

Yakiimo


 

2009年12月 5日 (土)

志力格差の時代〈上〉~ロールモデルは不在か?

Tohukuji01 
京都・東福寺にて(1)


「あなたが尊敬する人は誰ですか?」―――こういうアンケートが行われると、
日本の子供・若者の場合、たいてい答えが決まっている。

その答えの第1位は、ダントツで「両親(父・母)」である。
これは長年変わりがない。
そして1位に遠く離された格好で、「先生」とか「兄弟」とか、
今なら「イチロー」とかが続く。

「なんだ、親子関係がギスギスしているような風潮で、安心できる結果じゃないか」
と大人たちは、うれしがるかもしれない。
一方、子供たちも、「一番に尊敬できるのは両親です」と答えておけば、
周りから感心されるばかりなので、とりあえず無難にそう答えておくか、
一部にはそんな心理がはたらいているのかもしれない。

私は、多くの子供・若者が、判を押したように「尊敬する人は両親」と答えるのは、
あまり感心しないし、その流れは変わった方がいいとさえ思っている


これは何も、親を尊敬するな、と言っているのではない。
もしこれが「あなたが一番感謝したい人は誰ですか?」―――「両親です」、
「あなたが一番大事にしたい人は誰ですか?」―――「両親です」、
であるならば、これはもう諸手を挙げて感心したい。
親というものは、尊敬の対象というより、感謝の対象のほうがより自然な感じがする。

* * * * *

今回の京都出張は、大学で講義を行うのが目的でした。
大学生に対し「就活テクニック」を伝授するセミナーは花盛りであるが、
大学生最大の問題である―――「そもそも自分のやりたいことがわからない」
といったことに深く向き合い自問するセミナーや講義は少ない。
(ときどき、「自己診断テスト」とか「適性能力発見テスト」といった
自己分析ツールによって職業選択を考えさせるプログラムがあるけれども、
これによって自分のやりたいことがつかめるわけではない。
生涯を賭してやりたいことというのは、分析ではなく「想い」から生じるものだから

そんな折に、立命館大学から、
「就活テクではなく、キャリアをきっちり考える公開講義をやりたいので」
ということで依頼があり、話をお受けすることにしました。

「自分のやりたいことがわからない」、
「自分のなりたいものがわからない」
――――
こうした問いに対する答え(答えというより“方向性”とか“像”とかいったもの)を
自分の中に持つために私が伝えていることはただひとつ―――

「立志伝・人物伝を読みなさい」です。

私は、若い世代の「やりたいこと・なりたいもの」の発想・意欲が薄弱なのは、
ひとえに模範とすべき人物像(広い意味で“ロールモデル”)の欠如だと思っている。

多様な人間像・多様な生き様・多様な働き様を、彼らは残念ながらあまりにもみていない。
多分、社会・大人たちがそう誘(いざな)ってこなかったことの結果だと思う。
そして若い世代はテレビに出てくる人しか知らない、知ろうとしない(人を知るのも受け身だから)。
いずれにしても、彼らの知る人は、狭い上に偏り過ぎている。
だから、自分の生き様をどうしていきたいのか、発想も意欲も湧きにくい。

小さい頃から多様なモデルを摂取していれば、
尊敬する人は?という問いに対して、誰も彼もが「両親」と紋切りに答えるわけはないのです。

だから、私が大学生や若年社員向けの講義や研修で言うことは、
「今一度、野口英世やヘレンケラーやガンジーなどの自伝や物語を読んでみなさい」です。

もちろん、ここで言う野口英世やヘレンケラーなどは象徴的な人物を挙げているだけで、
古今東西、第一級の人物、スケールの大きな生き方をした人間、
その世界の開拓者・変革者ならだれでもいいわけです。

そうした偉人たちについて、
小学校の学級文庫(マンガか何かで書かれた本)で読んだ時は
誰しもたいていその人の生涯のあらすじを追うのに精いっぱいだったと思う。
しかし、ある程度大人になってから、活字の本で改めて読んでみると
そこには新しい発見、啓発、刺激、思索の素がたくさん詰まっている。

それら偉人たちの生涯に真摯に触れると、
まず、自分の人生や思考がいかにちっぽけであるかに気がつく。
同時に、自分の恵まれた日常環境に「有難さの念」がわく。
そして、「こんな生ぬるい自分じゃいけないぞ」というエネルギーが起こってくる。
それは、“焦り”という感情というより、“健全な前進意志の発露”に近い。

そうやって多様なモデルを摂取し続けていると、
具体的に「ああ、こんな生き方をしてみたいな」という模範モデルに必ず出会える。
そして、何らかの行動を起こし、もがいていけば、
自分の方向性や理想像がおぼろげながら見えてくる。
そこまでくると、自分の集中すべきことが明確になってきて、ますます方向性と像が
はっきりしてくる―――
これが私の主張する「自分のやりたいこと・なりたいもの」が見えてくるプロセスです。

私が書物で出会ったロールモデルはそれこそ挙げればきりがないのですが、
その一つに、大学のときに読んだ『竜馬がゆく』(司馬遼太郎著)の中の坂本竜馬がある。
私はこの竜馬の姿を見て、二つのことを意志として強く持ちました。

一つは、狭い視界の中で生きない。世界が見える位置に自分を投げ出すこと。
一つは、どうせやる仕事なら、自分の一挙手一投足が世の中に何か響くような仕事をやる。

このときの意志が、自分としては、その後の米国留学、
メディア会社(出版社でのビジネスジャーナリスト)への就職につながっていきました。

冷めた人間の声として、
小説の中の坂本竜馬なんぞは、過剰に演出されたキャラクターであり、
それを真に受けて尊敬する、模範にするなどは滑稽だ、というものがあるかもしれない。
しかし、どの部分が演出であり、どこまでが架空であるかは本質的な問題ではない。
そのモデルによって、自分が感化を受け、意志を持ち、
自分の人生のコースがよりよい方向へ変われば、それは自分にとって「勝ち」なのです。
他人がどうこう言おうが、自分は重大な出会いをしたのだ!---ただそれだけです。

ともかく最初のローギアを入れるところが、一番難しい。
しかし、方法論としては、極めて単純で「第一級の人物の本を読もう!」なのです。
「何を、どう生きたか」というサンプルを多く見た人は、
自分が「何を、どう生きるか」という発想が豊富に湧く。

確かに、身の周りを見渡して、立派なロールモデルはいないかもしれない。
(職場の上司や経営者だって、立派な人物は極めて少ない)
しかし、図書館に行けば、古今東西、無尽蔵にいる。
時空を超えて、自分の生涯のコースを変えるモデル探しをすることを、是非お勧めしたい。

Tohukuji02 
京都・東福寺にて(2)


 

2009年4月28日 (火)

二十歳の顔・五十歳の顔

Sora02
私は自分がやる研修でいつもこの言葉を紹介しています。

「二十歳の顔は自然の贈りもの。
五十歳の顔はあなたの功績」。

―――ココ・シャネル(シャネル創業者)

ほんとうに人の顔は、十年、二十年と経つうちに、その人の歴史と内容を表すものになります。

偏狭な人は顔つきも偏狭になるし、寛大な人は寛大な顔つきになる。
銀行勤めの人は銀行員っぽい顔になってくるし、ベンチャーの人はベンチャーの顔になる。
職人の方はいやおうなしに職人顔になる。
漁師一筋、農業一筋の方々は、味わい深き漁師顔、農夫顔になる。
また、役人には役人然とした顔というのがあるように思える。

顔は目で見てわかりやすいものですが、目に見えないキャリア(職業人生)でも原則は同じ。
十年、二十年を経るうちに、確実にその人の内実を表すようになる。

だから、五十歳の時点で、どんな仕事に就き、どんな内容のことをやっているか、
そしてそれまでにどんなものを世に残してきたかというのは、
実は、自分のそれまでの生き方を表明していることにほかならない


そんな意味を込めて、私はシャネルの言葉をこう言い換えて受講者に伝えている。

二十八歳までのキャリアは、勢い。
二十九歳からのキャリアは、意志。
そして、五十歳でのキャリアは、あなたの人生の作品。


「人生の作品」とは、仕事上で成し遂げた数々の実績はもちろんそうですが、
その人の人格・人間性を含めて考えたいと思う。
働くことはその人自身をつくりあげる作業でもあるからです。

* * * * * *

二〇代と三〇代(正確には上に書いたとおり28-29歳あたりが重要な境目)とでは、
仕事・キャリアに向かう意識をがらり変えなければなりません。
自分に問わねばならない問題の質が根本的に変わるからです。

何十年と続く職業人生を航海に例えるなら、次の三つが求められる。

○自分という船を強く性能よく造ること
○ぶれないコンパス(羅針盤)を持つこと
○地図を持ち、そこに目的地を描くこと


一番目は、つまり知識・技能・経済力をどう身につけていくかという「自立」の問題です。
二番目は、働く上での主義・信条・哲学・価値といったものをどう築き、
どう自分を方向づけしていくかという「自律」の問題になる。
そして三番目は、自分の仕事に意味を与え、
どんな目的に向かって自分自身を導いていくかという「自導」の問題です。

二〇代での最優先課題は船をきちんと造ること、すなわち「自立」だから
分かりやすいし取り組みもしやすい。根気があれば何とかなる。

しかし、三〇代以降に求められる「自律」や「自導」の問題は、
決して一筋縄ではいかない作業となる。

みずからの価値観をまっとうに醸成し、ぶれないコンパスを持つこと。
中長期の視野に立って創造的意志を起こし、自分が目指す方向性や像を地図として描くこと。
それと同時に、そこからの逆算で不足する知識や技能を新たに習得して、船を補強すること―――
これらは、もはや「自分の仕事観」なしには解決のできない問題です。

世の中には、知識本やハウツー本・成功本が数多くあります。
しかし、自分に仕事観をつくらない状態では、これらの本に翻弄されるだけになる。
常にそういう類のものを読んでいないと落ち着かない、あるいは、
玉石混交の中からいいものを判別できないといったことです。

仕事観をつくることで初めて、
知識・技能・ハウツー情報に「頼る・振り回される」から、
「活かす・取捨選択できる」へと変わることができる。


また、もっと重要なことは、
よい仕事観をつくれば、よい仕事観をもった人たちに引き寄せられ、
よい仕事チャンスに恵まれるようになること。

そうした中でコンパスがつくられ、地図に目的地が描けるようになってもくる。
二〇代終わりから三〇代にかけてこの回路に入ることこそ、
その年代にいる働き手が得るべき最重要のものである。


【すべてのビジネスパーソンへの問い】
□就職時の勢いにまかせて、いつしか仕事・職業人生を考えることがおざなりになっていないか?
□船の細かな性能向上(=知識・技能習得)ばかりに気を取られて、
コンパスをつくること、地図を持ち目的地を描くことを忘れていないか?
□社内・社外を問わず、仕事観を共有できる人びと(=同志)と出会っているだろうか?

【経営者・上司・人事の方々への問い】
□一人一人の働き手が、みずからのコンパスを醸成できるよう、また地図に目的地を描けるよう刺激しているか?対話しているか?
□あなたの組織という港には、性能はそこそこいいが、コンパスを持たず、目的地を描くこともできずに、大海原を渡っていけない船がたくさん停泊しているのではないか?

Sora01
雲が変わった。夏の雲到来

2009年4月 8日 (水)

よいプロフェッショナルがもつ「おすそ分け」思想

Yozakura01_2

Yozakura02 昨晩は、調布・小金井・三鷹の三市民が楽しみにしている年に一晩(3時間限り)の「野川桜ライトアップ」イベントがありました。
(写真上:写真左は昼間の様子)

野川は、国分寺崖線の湧水にその源を発し、国分寺市、調布市、小金井市、三鷹市、狛江市、世田谷区を流れ、多摩川へと合流する一級河川です。

一級河川とはいえ、両岸は野草に覆われ、さまざまな野鳥が棲み、遊歩道(兼サイクリングロード)が延々続くのどかな川です。
今時期は、桜と川べりの菜の花が絵になる景色です。

そんな季節に行われるのが「野川桜ライトアップ」。
野川の桜並木(調布市佐須町付近)約650mに照明を当て、
散歩鑑賞するというイベントです。

夜桜照明か、なーんだ、それならどこでもやってる、と思ってはいけません。
私も夜桜はたくさん観てきましたが、おそらく
その圧倒される美しさ(特に花の白のまぶしさ)は、ほんとうに「日本一」だと思います。
(私だけでなく、たぶん来た人はみんなそう確信してると思います)

ここの夜桜照明が日本一のまぶしい白の美しさを出すのは、なぜか?

それは、使用している照明機材にあります。
機材の詳しいスペックは素人なので分かりませんが、
映画やCFなどの撮影に使う高輝度の大型ハロゲンライトです。
一基でも相当にまぶしい出力がありますが、それを惜しげもなく何十基と設置しています。
(ですから、大型の発電車も稼働させています)

写真をやる方ならご存知のとおり、
ハロゲンライトは太陽光に近いため、色かぶりがなく、桜の白がくっきり白に出ます。
それが、夜空の黒の中に浮かび上がる景色は荘厳です。
そして、水面(みなも)には、それが反射して写り込む。
しかもそれが川の両岸650mに渡って続く。

・・・とまぁ、この美しさは現地で目の当たりにしないと実感できないものですが、
これを読んでくださる方は、来年は遠出してでも来る価値は十分ですので
是非、注目していてください。

* * * * *

で、前置きが長くなりましたが、本題はここから。

このライトアップ、今年で19年目になるのですが、どこが主催しているのか?
実は、いまでこそ来場者が増えすぎたため、
調布市がある部分サポートし、警察署などが協力して交通誘導などをしていますが、
基本的には、スタート時からすべてボランティア運営です。(入場も無料)

その強力で大型のハロゲンライト機材、一台あたり相当な価格のものだし、
その台数を考えると設置コストも大変なものです。
しかし、それらは「アークシステム」という照明会社が自腹でやってくれています。
機材導入も設置も撤収も。
(一般的な作業に関しては、市民ボランティアの力も借りています)

ことの起こりは、19年前、当時野川沿いに事務所を構えていたアークシステムさんが
社員の花見用として、野川の桜の木一本にハロゲン照明を当てて楽しんだ。

そしたら、その白く浮かび上がる美しさが近所の人の評判になって
照明の数を増やしていくことに。
そして、口づてにどんどん人が集まり出し、照明の数を増やし、今に至る。

今のイベント規模になると、
その運営コスト・労力負担、リスク負担(機材は雨に当たるとダメになる)は
相当なものになると思いますが、アークさんはやり続けてくれています。

ほんとうに有難うございます。

人によっては、結局、それって照明会社が技術力を誇示して
営業に結びつけるデモの一貫じゃないの、という見方があるかもしれません。
しかし、私は、このイベントの自腹継続は、アークさんのまごころというか、
「おすそ分け」の気持ちからきていると思っています。

「自分たちだけできれいな花見を楽しんでいるのはもったいない」
「近所の人がよろこんでくれるなら、どんどんやってあげよう」
「そして、どんどん人が集まってきて、名物行事にでもなれば自分たちもうれしい」
―――単純にそんな気持ちの発露からやってくれているんだと思います。

真に優れたプロフェッショナルというのは、
みずからの専門技術や知識の供与において、報酬に拘泥しないのが原義です。


「プロフェッショナルの原義」については、本ブログのここで触れています。

私は、プロは安い報酬で奉仕せよといっているのではありません。
お金を持っている人からはそれなりに(高く)いただけばいいし、
お金のない人にはそれなりに(安く)してあげればいい
と言っているのです。

その理想像は「赤ひげ」先生です。
(医は仁術であるとして、貧乏な患者からは治療費・薬代を取らない)

「プロの技」と「私欲のない社会精神」が結びついたとき
私は、そのプロフェッショナルをカッコイイと思う。


アメリカなどで法外な顧問料を取ってそれを誇らしげに語る弁護士やコンサルタント、
あるいは、GMの某会長のように多額の退職金を受け取ろうとしている経営者、
それらはカッコ悪いプロフェッショナルだと思いますし、
プロフェッショナルの原義にそもそも反しています。

Yozakura04

2008年11月10日 (月)

サラリーマンの「3鈍」

平均株価が下がり始めると、人は「景気後退」といい、
自分の周辺でリストラが出ると、「不景気」と眉をひそめる。
そして、自分がリストラされると、「恐慌だ!」と騒ぐ。


・・・こんなような言い回しを以前どこかで聞いたようなことがあります。
確かに私たちはいま、大変な時に突入しつつあるのかもしれません。
(過度に悲観するのは賢明ではありませんが)

私などのように個人で事業をやっている者にとっては、
すでに今年前半からその下降トレンドはしっかり身で受け止めていましたし、
そうでなくとも、
この好景気といわれたここ3、4年においてすら、
気を緩めることはありませんでした。

しかし、大企業に勤めるサラリーパーソンにとって
現況はさほど深刻なものとして感じられていないのではないでしょうか。
(深刻に受け止めろ、と言いたいわけではありませんが)

私も、90年以降のバブル崩壊とその後の経済低迷期を
大企業のサラリーマンとして過ごしましたが、
世の中が深刻な状況にあるという実感が薄かったのを覚えています。

メディアのニュースでは耳と頭に入ってきても、
自分の給料が激減するわけでもなく、
日々の業務量が減るわけでもなく、
失業の脅威にさらされるでもなく、
株で大損をしたわけでもなく(そもそも株を保有していないので)
資金繰りに駆けずり回るわけでもなく・・・

もちろん会社の経営者は、ことあるごとに
「えー、昨今の経済状況・市場は厳しさを増し、わが社も・・・」と
社内に向かってアナウンスするわけですが、
しもじもの従業員にはあまり刺さっていかない枕詞のようで
日々のことをやりこなすことで時を過ごしていました。

* * * * * * *

私は、5年前に、晴れてサラリーマン業をやめ、
独立して事業をやっていますが、だからこそいま、
サラリーマンのことがよくわかるようにもなりました。

サラリーマン、特に大企業のホワイトカラー(加えて公務員)は、概して
「守られた働き人」であると思います。
中小企業の経営者や従業員、独立自営業者、ブルーカラーの人びと、
ましてや非正規雇用の人びとは、景気の荒波をほぼ直接的に受けますが、
大企業は、その事業体自身が防波堤となっていて、
そこで従業員は守られます。
従業員個人が受けるのは、防波堤で緩和された波風ですみます。
(もちろん、場合によっては企業という防波堤自身が壊れるときもありますが)

雇用組織が防波堤の役目を果たして、
その中で比較的安心して働けることは、もちろん望ましいことです。
人は雇用の安定保障やら収入保障があってこそ、
仕事に集中でき、内容のあるいい仕事を生み出すことができます。

しかし、人間というものは、環境の恩恵を活かすこともあれば、
恩恵に甘えて怠けることもします。

「貧すれば鈍する」とは昔から言いますが、
同じように、サラリーマンにおいて、
「安すれば鈍する」ことが起きると私は観察しています。

つまり、安心・安穏とした守られた状態に身を置き続けるうちに、
働く意識がいろいろと鈍ってくるという症状です。
私はこれを「サラリーマンの鈍化病」と呼んでいます。
あるいは「キャリアの平和ボケ」といっていいかもしれません。

きょうは、その鈍化病のうち3つを寓話を交えて紹介したいと思います。
サラリーマン諸氏にとっては、多少、耳の痛い内容かもしれませんが、
寓話の紹介だと思って、気楽に読み流してください。

私が感じる「3つの鈍」とは、
1)変化に鈍くなる
2)超えることに鈍くなる
3)リスクを取ることに鈍くなる 
 です。


●鈍化病1【変化に鈍くなる】 “ゆでガエル”の話
生きたカエルを熱いお湯の入った器に入れると、
当然、カエルはびっくりして器から飛び出てくる。
ところが今度は、最初から器に水とカエルを一緒に入れておき、
その器をゆっくりゆっくり底から熱していく。
・・・すると不思議なことに、カエルは器から出ることなく、
やがてお湯と一緒にゆだって死んでしまう。


この話は、人は急激な変化に対しては、びっくりして何か反応しようとするが、
長い時間をかけてゆっくりやってくる変化に対しては鈍感になり
やがてその変化の中で押し流され、埋没していくという教訓である。


窓際族とかリストラ組とか、それは嫌な言葉ではあります。
私はいま、会社(雇用組織)とも、そこで働く従業員ともニュートラルな立場で
人財教育サービスを行う身ですので、客観的に物事が見られるわけですが、
窓際やリストラを生む原因は、会社側にもありますし、働く個人側にもあります。

しかし、根本的には、働く個人が、働く意識を常に鋭敏にさせて
自己防衛・自己発展させていくしか、この手の問題の解決はないと思っています。
だから、私は、
「サラリーマンよ、ニブ(鈍)リーマンになるな。
環境の変化を感じつつ、変えない自分の軸を持って、自分を変えていけ
と勇気づけるしかない。

ゆでガエルは、保守・安穏・怠惰・安住の行く末の象徴として
肝に銘じておきたい話だと思います。


拙著『ピカソのキャリア ゆでガエルのキャリア』は、
この話をモチーフにして書き上げました。



●鈍化病2【超えることに鈍くなる】 “ノミの天井”の話
ノミの体長はわずか数ミリだが、体長の何十倍もの高さを跳ぶことができる。
ビーカーにノミを入れておくと、当初、
ほとんどはビーカーの口から元気よく跳び出ていってしまう。
しかし、ビーカーにガラス板でふたをしておくとどうなるか。
ノミは何度もガラスの天井板にぶつかって落ちてくる。
これをしばらく続けた後、ガラス板をはずしてみる。
すると、ノミは天井だった高さ以上に跳ばなくなっており、
ビーカーの外に跳び出ることはない。


確かに組織にはガラスの天井がさまざまな形で存在します。
暗黙の制度であったり、経営幹部や上司の頭ごなしの圧力であったり、
あるいは(これが最もおそろしいのですが)自分自身で限界を設ける姿勢であったり。。。

ですが、サラリーマンは、結局のところ
自分の時間と労力をサラリーに換えている職業であり、
組織から言われた範囲で失敗なくやっていれば、
給料は安定的にもらえる(ことに慣らされる)。
だから自分を超える、枠を超える、多数決を超えることをしなくなる

「なぜ、超えることをしないのか?」と問えば、
「組織がこうだから」「上司がこうだから」など批判や愚痴をこぼすだけ。
それはまさに鈍化病の症状です。

・・・さて、ちなみに、上のノミの天井話には続編があります。

いっこうにビーカーの口から出なくなったノミたちを
再び外に跳び出るような状態に戻すにはどうすればよいか?


―――普通どおり跳べるノミを1匹そのビーカーに混ぜてやること。
(ナルホド!)

*注)
なお、ゆでガエルとノミの天井の話は、ビジネス訓話としてよく用いられるものですが、
科学的に根拠があるかは定かではありません。



●鈍化病3【リスクを取ることに鈍くなる】 “落とした鍵”の話
ある夜遅くに、家に帰る途中の男が、
街灯の下で四つんばいになっているナスルディンに出くわした。
「何か探し物ですか?」と男が尋ねたところ
「家の鍵を探しているんです」とナスルディンが答えた。
一緒に探しましょうということで、二人が四つんばいで探すのだが、見つからない。
そこで、男は再び尋ねる。
「ナスルディン、鍵を落とした正確な場所がわかりますか?」
ナスルディンは、後ろの暗い道を指し示した。
「向こうです。私の家の中」。
「じゃあ一体なんでこんなところで探しているんです?」
と男は信じられないといった口調で尋ねた。
「だって、家の中よりここのほうが明るいじゃありませんか」。
                 ―――(『人を動かす50の物語』M.パーキン著より抜粋)

ナスルディンはなんともトンチンカンな人間だと思いませんか。
しかし、これはサラリーマンのひとつの姿をよく表していると思います。

自分が求める解はたぶん向こうの
「暗い・未知の・想定外の展開を覚悟しなければならない・リスクのある所」
あるかもしれない―――こう思いつつも、
サラリーマン組織にいると、
「適当に見えている範囲で・既知の・想定の範囲内で済む(予定調和の)・リスクのない所」
で、仕事をやろう(やり過ごそう)とします。

サラリーマン鈍化病の3つめは
「リスクテイクして何かをつかみ取る」ことをしなくなることです

その暗い未知のゾーンで、もがけば何かつかめるかもしれないことはわかっていても、
混乱や葛藤や迷路を背負い込みたくない。
傷つくことの怖さ、見えないことの不安、もがくことの煩わしさ、
やっても所詮ムダという冷めた達観、などがあるのでしょうか。

そのくせ、酒の場では、「ここは俺のいる場所じゃない!」と大見栄を切ったりもする。
しかし、翌日には、
また、街灯の下で鍵を探す(探すふりをして忙しく振舞う)・・・。

何事も見えている範囲で、リスクを負わず、
組織が求める想定内の結果を出すことで、
身を忙しくし、仕事をやっている気になる。
しかし、永遠に真に自分が求めているものを見出すことはない。
・・・それでも、給料は毎月きちんと振り込まれ、生活は回っていく。
だから、余計にサラリーマンはリスクを取らなくなる・・・。(沈黙)

* * * * *

ちょっとサラリーマン業を揶揄しすぎかもしれませんが、
私は、サラリーマンの味方です!
だからこそ、どういう「働き観」を持って仕事に臨んでいけばいいのか
それを一緒に考えましょうというのが私の生業ですから。

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