志力格差の時代〈上〉~ロールモデルは不在か?
京都・東福寺にて(1)
「あなたが尊敬する人は誰ですか?」―――こういうアンケートが行われると、
日本の子供・若者の場合、たいてい答えが決まっている。
その答えの第1位は、ダントツで「両親(父・母)」である。
これは長年変わりがない。
そして1位に遠く離された格好で、「先生」とか「兄弟」とか、
今なら「イチロー」とかが続く。
「なんだ、親子関係がギスギスしているような風潮で、安心できる結果じゃないか」
と大人たちは、うれしがるかもしれない。
一方、子供たちも、「一番に尊敬できるのは両親です」と答えておけば、
周りから感心されるばかりなので、とりあえず無難にそう答えておくか、
一部にはそんな心理がはたらいているのかもしれない。
私は、多くの子供・若者が、判を押したように「尊敬する人は両親」と答えるのは、
あまり感心しないし、その流れは変わった方がいいとさえ思っている。
これは何も、親を尊敬するな、と言っているのではない。
もしこれが「あなたが一番感謝したい人は誰ですか?」―――「両親です」、
「あなたが一番大事にしたい人は誰ですか?」―――「両親です」、
であるならば、これはもう諸手を挙げて感心したい。
親というものは、尊敬の対象というより、感謝の対象のほうがより自然な感じがする。
* * * * *
今回の京都出張は、大学で講義を行うのが目的でした。
大学生に対し「就活テクニック」を伝授するセミナーは花盛りであるが、
大学生最大の問題である―――「そもそも自分のやりたいことがわからない」
といったことに深く向き合い自問するセミナーや講義は少ない。
(ときどき、「自己診断テスト」とか「適性能力発見テスト」といった
自己分析ツールによって職業選択を考えさせるプログラムがあるけれども、
これによって自分のやりたいことがつかめるわけではない。
生涯を賭してやりたいことというのは、分析ではなく「想い」から生じるものだから)
そんな折に、立命館大学から、
「就活テクではなく、キャリアをきっちり考える公開講義をやりたいので」
ということで依頼があり、話をお受けすることにしました。
「自分のやりたいことがわからない」、
「自分のなりたいものがわからない」――――
こうした問いに対する答え(答えというより“方向性”とか“像”とかいったもの)を
自分の中に持つために私が伝えていることはただひとつ―――
「立志伝・人物伝を読みなさい」です。
私は、若い世代の「やりたいこと・なりたいもの」の発想・意欲が薄弱なのは、
ひとえに模範とすべき人物像(広い意味で“ロールモデル”)の欠如だと思っている。
多様な人間像・多様な生き様・多様な働き様を、彼らは残念ながらあまりにもみていない。
多分、社会・大人たちがそう誘(いざな)ってこなかったことの結果だと思う。
そして若い世代はテレビに出てくる人しか知らない、知ろうとしない(人を知るのも受け身だから)。
いずれにしても、彼らの知る人は、狭い上に偏り過ぎている。
だから、自分の生き様をどうしていきたいのか、発想も意欲も湧きにくい。
小さい頃から多様なモデルを摂取していれば、
尊敬する人は?という問いに対して、誰も彼もが「両親」と紋切りに答えるわけはないのです。
だから、私が大学生や若年社員向けの講義や研修で言うことは、
「今一度、野口英世やヘレンケラーやガンジーなどの自伝や物語を読んでみなさい」です。
もちろん、ここで言う野口英世やヘレンケラーなどは象徴的な人物を挙げているだけで、
古今東西、第一級の人物、スケールの大きな生き方をした人間、
その世界の開拓者・変革者ならだれでもいいわけです。
そうした偉人たちについて、
小学校の学級文庫(マンガか何かで書かれた本)で読んだ時は
誰しもたいていその人の生涯のあらすじを追うのに精いっぱいだったと思う。
しかし、ある程度大人になってから、活字の本で改めて読んでみると
そこには新しい発見、啓発、刺激、思索の素がたくさん詰まっている。
それら偉人たちの生涯に真摯に触れると、
まず、自分の人生や思考がいかにちっぽけであるかに気がつく。
同時に、自分の恵まれた日常環境に「有難さの念」がわく。
そして、「こんな生ぬるい自分じゃいけないぞ」というエネルギーが起こってくる。
それは、“焦り”という感情というより、“健全な前進意志の発露”に近い。
そうやって多様なモデルを摂取し続けていると、
具体的に「ああ、こんな生き方をしてみたいな」という模範モデルに必ず出会える。
そして、何らかの行動を起こし、もがいていけば、
自分の方向性や理想像がおぼろげながら見えてくる。
そこまでくると、自分の集中すべきことが明確になってきて、ますます方向性と像が
はっきりしてくる―――
これが私の主張する「自分のやりたいこと・なりたいもの」が見えてくるプロセスです。
私が書物で出会ったロールモデルはそれこそ挙げればきりがないのですが、
その一つに、大学のときに読んだ『竜馬がゆく』(司馬遼太郎著)の中の坂本竜馬がある。
私はこの竜馬の姿を見て、二つのことを意志として強く持ちました。
一つは、狭い視界の中で生きない。世界が見える位置に自分を投げ出すこと。
一つは、どうせやる仕事なら、自分の一挙手一投足が世の中に何か響くような仕事をやる。
このときの意志が、自分としては、その後の米国留学、
メディア会社(出版社でのビジネスジャーナリスト)への就職につながっていきました。
冷めた人間の声として、
小説の中の坂本竜馬なんぞは、過剰に演出されたキャラクターであり、
それを真に受けて尊敬する、模範にするなどは滑稽だ、というものがあるかもしれない。
しかし、どの部分が演出であり、どこまでが架空であるかは本質的な問題ではない。
そのモデルによって、自分が感化を受け、意志を持ち、
自分の人生のコースがよりよい方向へ変われば、それは自分にとって「勝ち」なのです。
他人がどうこう言おうが、自分は重大な出会いをしたのだ!---ただそれだけです。
ともかく最初のローギアを入れるところが、一番難しい。
しかし、方法論としては、極めて単純で「第一級の人物の本を読もう!」なのです。
「何を、どう生きたか」というサンプルを多く見た人は、
自分が「何を、どう生きるか」という発想が豊富に湧く。
確かに、身の周りを見渡して、立派なロールモデルはいないかもしれない。
(職場の上司や経営者だって、立派な人物は極めて少ない)
しかし、図書館に行けば、古今東西、無尽蔵にいる。
時空を超えて、自分の生涯のコースを変えるモデル探しをすることを、是非お勧めしたい。
京都・東福寺にて(2)