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2009年12月27日 (日)

志力格差の時代〈中〉~格差の根っこはどこにある?


Asashimo 

「いやー、毎年の新入社員たちは何事も受け身になるばかりで」
「最近の学生がますますこぢんまりと保守的になって」
「ゆとり世代は何かと覇気がなくて」・・・

こうした「イマドキの若者」論(小言?)は、
いつの時代にも先行世代のおじさん・おばさん・上司・経営者・学者などから出てくる。

しかし、私はあまり一般論で先入観を持たないようにしている。
やはり、それは個別の人間の問題なのだ。
どの時代・どの世代にも受動的・保守的・覇気のない人間はいるし、
逆に、能動的・革新的・覇気に満ちた人間もいる。
とはいえ、この両者の格差は看過できない質のものになってきている。

起業家養成の活動を行う「ETIC」(代表理事;宮城治男)というNPOがある。
そこに集う学生や若年社会人たちを見ていると、一般論として揶揄される若者とは全く違う。

「社会的起業」という想いを軸に、
さまざまな背景をもつ若者たちがとても熱く寄り集まってきているのだ。
ここでは、大学生の中にも早くから志を見つける者がいる。
彼らの熱気をみていると、
個々にはどんな就職・キャリア展開をしていくのか予想がつかないが、
その想いの強さを抱いているかぎり「どう転んでも大丈夫だな、この子たちは」と思える。
それほどに、青いけれど、元気である。

と、その一方で、意欲的に腑抜けしたような若者が多いのも事実である。
私は、大学での講義や企業での研修で、
個々人が潜在的に持つ成長意欲や仕事意欲、キャリア形成意欲を
思考の補助線を与えながらステップ・バイ・ステップで引き出し、
どのような方向性(ベクトル)や理想像(イメージ)で描けるか
というワークをやっているが、まったくペンが動かないという人がけっこう出る。
(彼らは受講態度が不真面目なわけでなく、ほんとうに想い描けないのだという)

また、講義の後や研修の後に、
時間が許せば個別に相談を受けたりすることもあるのだが、
本当にもう自分のやりたいことの欠片も想い描けない人が来て、深刻な顔で
「どうすれば自分の意欲が想い描けるのでしょうか?」と質問をされるときがある。

平成ニッポンが、平和の代償として、意欲的に去勢された人間を続々生みだしている。
―――そんな現実を私はひしひしと感じる。

とはいえ、それによらず、熱を帯びた人間だっている。
そこには、意欲を湧かす者と湧かさざる者との格差がある。

* * * * *

ココ・シャネル(シャネル創業者)の名言;

「20歳の顔は、自然の贈り物。
50歳の顔は、あなたの功績」。


私は研修・講演などでこの言葉をよく紹介しているが、
これとともに、次のことを言い加えている。

28歳までのキャリアは“勢い”。
29歳からのキャリアは“意志”。
そして、50歳でのキャリアは、あなたの“人生の作品”。 

人生の作品とは、仕事の実績や経験などはもちろん、
あなた自身の人格や福徳、人脈、忘れ得ぬ今生の思い出などを含めて考えたい。

私も40代後半を迎え、自分自身や周辺を見るにつけ、また、
ビジネス雑誌記者として七年間、さまざまな経営人やビジネスパーソンを取材してきて、
ほんとうにキャリア・人生というものは、10年・20年という単位をかけて、
その人の“意志”(イシの字は、“意思”ではなく“意志”という志を当てるほう)が
如実に表われてくる
のだなぁと確信できる昨今である。

それは例えば同窓会などで容易に観察できる。
小学校にせよ、中学高校にせよ、大学にせよ、
卒業するときは、おおよそドングリの背比べだった同級生たちが、
今や、キャリアの悲喜こもごも、人生スケールの大小こもごもの差がついている。

注)
私が観察するのは、経済的な成功(暮らしが豊かそうか否か)というこもごもではない。
その歳になって、
どれだけ満足の仕事・意味を感じられる仕事に就けているのか、というこもごも、
どれだけの広さ・高さの景色で日々を送っているか、というこもごも―――
である。

こうした中長期をかけて表れるキャリア・人生の「こもごも」、
つまり多様な(質的)差異、人生の作品の差異はどこから生まれてくるのか?


本人の能力差? 家庭の経済力の差? 
たまたま就職した会社の差? もろもろの機会の差?
それとも性格の差? 運の差? 育ちの差? 容姿の差?・・・

どれも一因であるには違いないが、
私はそれらはむしろ二次的なものだと思っている。
私が考える大本の要因は、意欲の差、もっと表現を加えれば「志力」の差である。

(現代日本のような、ある意味まともな仕組みで動いている平時の社会においては)
志力さえあれば、たとえ自分が先天的に
能力的、機会的、環境的に多少ハンディキャップを負った状況だったとしても、
後天的な意志的努力によって、10年、20年をかけ、
それを補って余りあるほどに自身のキャリアを発展させていくことができる
―――私は強くそう思う。

志力とは、自分の内に志を育む力、そして志から得る前進力をいう。
志力とは、欲望の一種だが、反応的ではなく、意志的なものをいう。
(つまり外的な刺激で明滅するものではなく、環境に左右されず内面に湧き続ける意欲)

* * * * *

いま、世の中でいろいろな「格差」が問題となっている。
「年収格差」、「雇用格差」、「学習機会の格差」、「情報格差」、「希望格差」等々。

確かに、格差をマクロ的に分析し、マクロ的な手立てを打つことは大事だし不可欠だが、
社会やメディアや大人たちがマクロ的にああだこうだと言っているばかりでは、
本当の解決には至らない。

なぜなら、マクロ論議では、
格差が生じるのは、いまの利益至上経済システムに問題があるからだ、とか、
向上意欲を失った者の側に問題が多いからだとか、
そういった極めてざっくりした結論で押し進めるために、
弱者側に追いやられてしまった人たちを、
「そうだ、すべては社会が悪いのだ」と開き直りをさせる方向にしか事が進まない。
で、解決方法はといえば、手当の支給。
これでは、格差が固定化する回路に入ってしまう。
社会やメディアは彼らに脆弱な言い訳を与えるだけで、決して自己蘇生を促しはしない。

だから、そうさせないために、ミクロのアプローチ、
つまり格差の問題を個々の問題として、一人一人の人間に迫らなくてはならない。
自分の人生の責任は、最終的に自身が引き受けねばならないのだと。

いみじくも、ジャック・ウェルチ(GE社・元CEO)はこう言った;
「みずからの運命をコントロールせよ。
さもなくば、他の誰かがそれをやるであろう」
と。

そのために、
人の人生・キャリアにこもごもと差が生じる「根本要因」は、
生まれ持った能力差というより、年収差というより、運の差というより、
「志力」の差なんだと、一人でも多くの大人たちは、厳父・賢母のごとく、
後続の若い世代にそこかしこで言い続ける必要がある。
(だから私もいろいろな場で言う)

* * * * *

アメリカもまた、格差という面では、日本以上に諸問題を抱えている。
しかし、少なくともあの国では、
いまなお「アメリカンドリーム」が根強く個々人に信奉されていて、
その意味では日本より、格差問題を乗り越える個々の潜在力は強いといえるかもしれない。
(アメリカンドリームは、志の力というよりは俗的な欲望まで含んではいるけれども)

しかし、日本ではアメリカンドリームに代わるような
個々の自己蘇生力を奮い起こす明快な民族的コンセプトがない。
私個人は、アメリカンドリームほど単純明快ではないが、
ひとつの提起として

「社会的起業精神」を挙げたいと思っている。

この「社会的起業精神」の涵養を
うまく教育(小中高・大学教育、社会人教育)の中に組み入れることで、
格差の根っこに横たわる志力格差の問題によい効果をもたらすのではないかと期待もしている。

次回はこの「社会的起業精神」について詳しく触れます。

Yakiimo


 

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