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2008年5月11日 (日)

自立から自律へ、そして自導「セルフ・リーダーシップ」へ <下>

前回から2回にわたって
・職業人の内的成熟過程「自立→自律→自導」
・自導=「セルフ・リーダーシップ」
について触れています。

前回、リーダーシップには、どうやら
・外(他者)に向けたリーダーシップ<outward leadership>と、
・内(自己)に向けたリーダーシップ<inward leadership>の
2つがありそうだと書きました。
そして、後者を特に「自導:セルフ・リーダーシップ」として考察しています。

◆自分を導くもう1人の自分
セルフ・リーダーシップについては、これまで、
一般的なリーダーシップ(outward leadership)ほどに多くが語られてきた
わけではありませんが、
『7つの習慣』で有名なスティーブン・R・コヴィー氏は
その「第二の習慣」<目的を持って始める>の中で、
“自己リーダーシップ(personal leadership)”として打ち出しています。

セルフ・リーダーシップをとらえる上でミソとなるのは、
「何が」己を導くのかということです。
それはおおいなる目的(夢/志、大義なるもの)であり、
抗し難く湧き起こってくる“内なる声”、“心の叫び”であり、
それを覚知したもう一人の自分でもあります。

セルフ・リーダーシップなる言葉を使わずとも、過去から賢人たちは
そのようなことに言及してきました。

例えば、世阿弥は『花鏡』の中で、 「離見の見」 と言っています。

つまり、演者自身の目線は「我見」 、観客の目線は「離見」
舞いを究めるには、我見・離見を越えて第三点から見晴らす「離見の見」
を持たねばならないという考えです。
「離見の見」とは、現実の自分を冷静に見下ろすもう一人の自分をこしらえ、
それが導き役を果たすという発想であり、
まさにセルフ・リーダーシップに通じるものです。

アーティストの世界はこれが顕著です。
パブロ・ピカソの言葉に、
 「着想は単なる出発点にすぎない・・・
 着想を、それがぼくの心に浮かんだとおりに定着できることは稀なのだ。
 仕事にとりかかるや否や、
 別のものがぼくの画筆の下から浮かびあがるのだ・・・
 描こうとするものを知るには描きはじめねばならない」。

同じく画家、中川一政は自身の著書『腹の虫』でこう書いています。
 「私の中に腹の虫が棲んでいる。
 山椒魚のようなものか海鼠のようなものかわからないが棲んでいる。
 ふだんは私はいるのを忘れている」。

ピカソにしても中川にしても、
描いているのは現実の自分の手と筆であるが、
それを操り、絵の完成に導いているのは、
別の何か、もう一人の自分、あるいは「腹の虫」だというのです。

また、リクルート社の企業メッセージは「Follow Your Heart」。
これもまた、内面から湧き出る心の声に、自分を従わせていきなさいというものです。

いずれにしても、仕事を成す、自分を成すうえで、
セルフ・リーディングの重要性は、各所でさまざまに語られてきました。

□ □ □ □ □ □ □ □ □ 

◆自立=船・自律=コンパス・自導=地図
さて、今回触れたセルフ・リーダーシップに関わることを私なりに
まとめてみた図が下です。

03008

私は、職業人の内的成熟を3フェーズに分けます。

●1:「自立」フェーズ
まず、自らを職業人として「立たせる」段階です。
知識や技能を習得し、一人立ちして業務を処理できるようになる、
そして、自分の稼ぎで生計を立てられるようになるというのがこのフェーズです。
養うのは「才気」。
能力を「持つ」、生活を「保つ」が基本動詞です。
反意語は「依存」です。

●2:「自律」フェーズ
自分なりの律を持って、自分を「方向づけ」できる段階です。
律とは、倫理・道徳観、信条・哲学、美学・型(スタイル)のようなもので、
仕事に独自判断と個性を与えられるようになるのがこのフェーズです。
養うべきは、物事のright or wrongを判別して、選択できる意志です。
「決める」、「動く」が基本動詞。
反意語は「他律」です。

●3:「自導」フェーズ
自らが描いた目的によって、自らを「導く」ことのできる段階です。
目的とは、「目標像+その意味・意義」のことです。
このフェーズの特徴は、
想いとか、夢/志、使命を覚知したもう1人の自分が自分の内にいて、
それが現実の自分を導くということです。
必要なのは、「勇気」であり、「覚悟」です。
基本動詞は、「描く」「(リスクを負って)踏み出す」「拓く」。
反意語は「受導・漂流・停滞」。

なお、私たちはこの3フェーズを時系列的に成長していく場合と、
同時並行的に深め合う場合と両方あると思います。

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◆自導は、自立・自律の再構築を促す
航海のアナロジーを用いるとすれば、
自立は「船」=知識・能力を存分につけて自分を性能のいい船にする
自律は「コンパス」=どんな状況でも、自らの判断を下せる羅針盤を持つ
自導は「(目的地を描いた)地図」=自分はどこに向かうかを腹決めする

おそらく、20代は自立と自律が大事になる期間でしょう。
そして、30代に入ると、自律・自導が大事になります。
さらに、30代後半からは、いかに自導を強めるかで
その後のキャリア・人生が決まってくると思います。

30代前半までは、自立・自律がなされていれば、
つまり自分という船がしっかりできていて、羅針盤も持っていれば
会社組織の与えてくれた地図(=「受導」の状態)に従って、
それなりに仕事人生は回っていく。
しかし、それは結局、他人の都合で描かれた地図の上
行ったり来たりさせられているにすぎない。

だから、その人には、真の活気が湧いてこない。働く発露がない
そうこうしているうちに、嫌な目的地に行かされる場合も出てくるし、
組織の用意する地図自体がうやむやになってくる場合も出てくる。
そして、自立もし、自律もしているビジネスパーソンが、
30代後半から漂流、停滞を始めてしまう。
真面目であればあるほど、うつを病んでしまうことにもなる・・・。

だから、自導が大事なわけです。
ひとたび、自分の中に大いなる目的を持てば、
エネルギーが無尽蔵に湧き上がってくる。

そして、その目的地(当初は目的方向・目的イメージでもよい)に合わせて、
船体はこれで大丈夫か、船体を補強する必要があるぞ、とか、
もっと精度のいいコンパスを持ったほうがいいぞ、とか、
自立や自律を補強する意識も生まれてくる。

このポジティブでアクティブな状態がまさに
目的を覚知したもう一人の自分が、現実の自分をリードする状態なわけです。

◆キャリア形成の要は「空想力」だ
キャリアをたくましく拓くためには、
「己を空想(妄想でもいい)すること」が第一です。
その空想が、現実の自分をいかようにでも引っ張り上げてくれるのです。
その空想を実現しようとするとき初めて、
既得の知識・技能の再構築が起こり、
新規の知識・技能の獲得に向けてもりもりと意欲が湧き起こる。

例えば私自身、この人財教育分野の仕事は新参者です。
私のコアスキルは何かと問われれば、
以前は、商品開発、情報の編集といった分野でした。
しかし、7年前、「教育」をライフワークにしようと腹を括った瞬間から、
すべてが変わりました。
過去に培った知識・技能は、教育の角度で再構築され、
不足している知識・技能を新たにどんどん吸収していきました。
新しい目的の下に、新たな自立と自律の編成が自分の中で起こったのです。

そしていま、日々の仕事をするにあたって、
自分の描いた理想とする教育サービス像、理想とする研修事業者像が
自分を導いてくれているという実感です。

こうした自分の実感もあり、
職業人教育において、もっともっと強化すべきは、
業務処理のための知識伝授や技能修得ではなく、
実は、「想いを描く能力」ではないのかと思う昨今です。

最後に、ウォルト・ディズニーの言葉:

 「夢見ることができれば、成し遂げることもできる」――――。

夢を描く人は、自己をリードできる。
しかし、夢を描かない人は、自己をリードできない。
自己をリードできないから、どこにもたどり着けない。
それでは人生が“もったいない”と思う。

自立から自律へ、そして自導「セルフ・リーダーシップ」へ <上>


◆「自律的」では不十分である!

私が行なっている人財研修事業のコアサービスは、

『キャリアの自律マインド醸成研修』と名づけているものです。

大小いろいろと手を入れて、かれこれ5年間続けてきました。


日々の“働く”にあたって、

「自立」とはどういうことか、

「自律」とはどういうことか、

そして、それらを越えて「合律的」働き方とは何か、等々を、

理屈の理解ではなく、「行(ぎょう)」として腹に落ちるように

研修プログラムを組んできました。


企業の研修分野において、

従業員を「自律的」働き方のできる人財に育てよう、という流れは

現在、誰も否定する人はいません。


これはこれで、その通りだと思います。

だから、私も働き手の自律心を涵養するサービスを今後も続けていきます。


ただ、ここにきて、それでは不十分であることに

私自身、気づき始めています。


企業の研修の現場に立つと(とくに大企業の場合はそうですが)、

5年目以上の社員の中には、

自律心がある程度確立されていて、自律的にちゃんと働ける人が

少なからず見受けられます。


彼らは、自律的に自らの判断基準で状況を判断し、

自分で行動を起こすことができます。

上司に対しても、組織に対しても意見を言うことができるし、

担当仕事の目標設定や納期、品質もきちんと自己管理ができます。

すでに部下を持って、彼らを動かしたり、

そうでなくとも後輩の面倒をみたりするなど、協働意識もあります。


しかし、そんな自律的な彼らであっても、「何かが足りない」・・・

かけがえなく働く一職業人として、確かに「何かが足りない」、

というか「何か満たされていない」ように思える・・・


◆天安門で戦車の前に立つ青年が示すもの

それが何なのかが、ぴーんと来たのは、

『リーダーシップの旅』(野田智義・金井壽宏著)

の中の一節を読んだときでした。

その箇所を抜き出してみると、


・・・・・・・・・

「皆さんはリーダーと聞いて、どんな人をイメージされますか?」

すると、未だ三十代と思しき白人男性が立ち上がって答えた。

「天安門広場で戦車を止めようとして一人で立ちはだかった、

名も知れぬ若い中国人の男性」。

(中略)

あの(天安門の)青年はきっと特別な人間でも、エリートでもないだろう。

自分が戦車を止めることで実現されること、

その何かを見てみたいと思い、

たった一人で足を踏み出したに違いない。

「他の人が見ない何かを見てみたい」という意志をもつあらゆる人の前に、

リーダーシップへの道が開けていることを、

彼の行動は示しているのではないか。

・・・・・・・・・・


著者の一人である野田さんは、

リーダーシップの原点が、

この天安門で戦車の前に立った一青年の姿にあるという。


青年が命を賭してその行動に出たのは、“内なる叫び”に従ってのことである。

それは、自らの内なる叫びによって、自らを導いたといってもいい。

そして、その勇気ある行動は、他の人びとを感化し、

結果的に、他の人びとを導くこととなる。


つまり、リーダーシップとは、

「リード・ザ・セルフ」を起点とし

「リード・ザ・ピープル」、「リード・ザ・ソサイアティ」と変化していく。

こういう段階的成長のうちに、

自己をリードする人は、結果的に他者をリードする人になる。


□ □ □ □ □ □ □ □ □

◆足らないのは“内なる声”によって「自らを導く」力

私が、研修の現場で、自律的に振る舞える人たちに

「何かが足りない」と感じていたのは、

つまるところ「セルフ・リーダーシップ」なのだと強く思いました。


「セルフ・リーダーシップ」とは、

他者を導くリーダーシップではなく、

自分自身を導くリーダーシップのことを言います。


セルフ・リーダーシップをここでは、「自導」という言葉で書き表しましょう。

さて、「自律的」であることと、「自導的」であることは、

多少重なりはあるものの別ものであるように思います。


自律的に働く人は、自分の律(規範やルールあるいはスタイル)を持って、

業務上、さまざまに出くわす出来事に対し、

自分なりに判断し、自分なりに行動をする人です。


一方、自導的に働く人は、

自らの“内なる声”を聞き取ることができ、

働く目的(目標像+その意味・意義)を描き抱いています。

そして、その目的によって、自らを導くように、

働き、キャリアを形成していく人です。


だから、自律的ではあるが、自導的でない人は存在します

つまり、日ごろ大小の業務は巧みにやりこなせるけれども、

中長期の自分をどこへ導いていっていいか分からない人は多い。

また、経営側(他者)から出される理念や方針に対しては

いろいろと批評や意見を加えられても、

自分自身の夢や志なるものをふくよかに語ることのできない人は多い。


譬えて言うなら、

自分という船をしっかり造って(=自立)

羅針盤もきちんと持っているが(=自律)

さて、どこに自分自身を導いていっていいのかが分からない、見えない。

つまり、目的地を描いた地図を持っていないのです(=自導でない)



◆職業人としての内的成熟過程「自立→自律→自導」

私は、職業人としての内的成熟過程を

「自立から自律へ」と2段階で考えていました。

(自律から斜め方向へ「合律」という半ステップも設定しましたが)

しかし、自律のその先に「自導」というもう1段階を加えた方がよさそうです。


なぜなら、十分、自律的な人であっても、

・中長期のキャリアという海原の中で漂流してしまうことがある

・働くことに真の活気がない。身体の奥底から湧き出でる輝きがない

・“うつ”になることだってある

からです。


ですからこのビジネス社会、事業組織にあって、育成すべきは、

自らを立たせ、自らを律することのできる人財であり、かつ、

自らを導くことのできる人財であると確信しています。


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さて補足的に、私なりに整理した図を掲示しておきます。


Pict1

次回は「自立→自律→自導」、「セルフ・リーダーシップ」について

さらに考察を深めたいと思います。



2008年5月 8日 (木)

サラリーマンは“ニブリーマン”になるなかれ!


R薫風心地よい5月のGW最終日、

私はぶらり自転車で近所の味の素スタジアムに行き、

当日券を買ってJリーグの試合観戦をしました。

(FC東京vs名古屋グランパスエイト戦:結果は0-1)


私はサッカー観戦をちょこちょこやりますが、

いつも気になるのが、リザーブ(控え)の選手たちが、

華やかな緑のピッチの脇で、試合中、幾度もダッシュを繰り返しながら

身体を温めて準備している様子です。


彼らに出場機会があるかどうかはまったくわからない。

むしろないことのほうが多い。

出られたとしても、後半残り10分くらいのときかもしれない。

場合によっては、チームがリードしている情勢で、

少しの時間稼ぎのための交代だってある。


しかし、そんなわずかな出場でも、チャンスはチャンス。

リザーブの選手にとっては、死活問題です。


◆サッカーの思い出:補欠選手のはがゆさ

私も小学生のころ、サッカー少年でした。

練習は真面目でしたが、万年補欠で、

ついぞレギュラーのポジションは得られずじまいでした。


いつも出場は、後半30分あたりから。

その交代とて戦略的なものでなく、監督のおはからいによって、

「村山は練習真面目だしな、ちょっと行ってこい」みたいな、そんな感じでした。


モチベーションという言葉は、子供のころは知りませんでしたが、

補欠選手として「やる気」を自分の中に維持するのは

ほんとうに苦しかったという記憶だけ残っています。


「きょうも人情交代だろうなぁ」と思うと、朝起きるのがおっくうになる。

母親が弁当を豪勢に作ってくれればくれるほど申し訳ない気がする。

試合を補欠席でみていて、レギュラー選手の巧さに「やっぱすごいなー」

と劣等感を覚えるのと同時に、

レギュラー選手がヘマをすると「俺なら、ああするのに、コンチクショー」

とアタマに血が上る。

試合後の昼食時、レギュラー選手たちは試合の内容をあれこれ談議して

盛り上がる。その横で、補欠組は、黙々と弁当を食う・・・


だから、私は、ピッチの脇で黙々と身体を温め、

「俺を出せ。俺を使え」と無言のアピールをしている選手たちの気持ちが

少なからずわかります。

しかも、彼らには生活がかかっている。


◆目の前の仕事は「チャンス」に溢れている

さて、話を「働くこと」に移しましょう。


平成のビジネスパーソンたちは、「働くこと」のチャンスに

どれだけの感謝と、それを面白がる心持ちでいるでしょうか?


過酷なプロスポーツ選手ほどではありませんが、

ビジネス現場での1つ1つの業務や仕事、プロジェクトは

ある意味、勝負事であり、

ストレスやプレッシャーと戦いながら、

より高いパフォーマンスや結果を出していかねばならない有給の任務です。


仕事は、実にさまざまなチャンス(機会)を私たちに与えてくれます。

つまり仕事は、

・自分の可能性を開いてくれる成長機会であり、

・さまざまな人と出会える触発機会であり、

・何か事を成し遂げることによって味わう感動機会であり、

・学校では教われないことを身につける学習機会であり、

・ひょっとしたら自分も有名になれる名声機会であり、

・あわよくば一攫千金を手にすることもある財成機会でもある。

◆「チャンス」への感覚が鈍くなるサラリーマン

私は17年間のサラリーマン生活をやめて、5年前に独立しました。

独立後、劇的に意識が変わるのが「お金」と「チャンス」への向き合い方です。


会社で宮仕えをしている身であれば、給料は安定的に支払われますし、

仕事は何かしら自動的に振られてきます。

したがって、サラリーマンにどっぷり浸かっていると、

どうしてもカネとチャンスに対して意識が鈍化しがちになります。


その点、自営業で、独り世の中に対峙すると、

いやがうえにもカネとチャンスに対して意識が先鋭化してきます。


よいチャンスの獲得は必然的にカネを呼んできますから、

特にチャンスは決定的に重要だと認識するようになります。


サッカーの話を再度すれば、

日本代表としてピッチに立てるのは11人だけです。

欧州リーグでプレーする実力選手ですら代表に選ばれない場合もありますし、

代表に選ばれたとしても試合に出られない場合も多々あります。


残り数分で交代という出場でもかなり幸運と思わなくてはなりません。

実力があっても、仕事ができない、仕事舞台にすら立てないというのが

厳しいプロスポーツの世界です。


ですから、チャンスを得たことに自然と感謝の念が湧き、

過酷なプレッシャー下でも「楽しんでやろう」とするのが、

真のプロフェッショナリズムの心情だと思います。


深い次元の仕事の「楽しみ」「喜び」とは、

感謝や自負心、使命感から生まれます。


◆小さな仕事はない。仕事を小さくしている人間がいるだけ

さて、会社員のみなさんの目の前には日々、大小さまざまに

会社側から仕事が振られてきます。

些細な雑務、ヤボ用、単純作業、外回り、いやな上司からの無理難題・・・

どれだけその仕事がつまらなくても、会社員は幸せな類です。


なぜなら、

すくなくとも、ピッチの上に立って、それが行なえるという状況なのですから。

ある意味、労せずして、レギュラーポジションを確保している身です。


小さな役はない。

小さな役者がいるだけだ。


とは、演劇の世界の言葉ですが、

そのつまらない仕事を活かすも殺すも、結局は自分次第です。


与えられた仕事に対し、

それをチャンスだと認識しなおし、

どれだけ深い次元で「楽しむ」ことができるか――――


仕事を深く「楽しむ」ことができれば、おのずと

・いい成長

・いい出会い

・いい感動

・いい学び

・いい評判

・いい収入

「ごほうび」として待ち受けていることでしょう。


同じ会社員でも、チャンスに鈍い「ニブリーマン」となるか、

それともチャンスに感謝してそれを深く楽しむことができる

「ビジネス・プロフェッショナル」となるか・・・

すべては自分の心持ちひとつ。



2008年5月 1日 (木)

組織文化と組織風土の違い


さて、前回、このカテゴリーでは、

自律的働き方、他律的働き方、そして第三の「合律的」働き方

について書きました。

きょうは、その発展形で、組織文化/風土について考えてみたいと思います。



「赤福」よ、おまえもか!

昨年、2007年の1年を表す言葉は「偽」。

メディアのニュースでは、

心無い企業・団体・組織による偽装が次々明らかになりました。


中でも、三重県出身の私にとって、赤福の一件は実にショックでした。

新興の成金ブランドならいざ知らず、

信頼しきっていた伝統の老舗ブランドなだけに。。。


しかし、考えてみるに、

老舗で、業界地位がゆるぎなく、

オーナー家の強い支配経営であればあるほど、

こういった問題が起きやすくもあります。


つまり、

オーナー家の歴代経営者は、

自らの律が支配的かつ成功的な状況が永く続くことで

いつしか自律の悪い面である「我律」(=俺様ルール)の上に

あぐらをかいてしまいます。

「我律」はいつも、結果的に自己中心的な逸脱・暴走を招きます。


また、その下で働く従業員たちは、

何かおかしい、世間感覚とズレていると感じつつも

いつしか他律的に陥り、経営トップのやり方に従順になっていきます。

(おそらく、途中で勇敢に意見する人もあったかもしれませんが、

やむなく去っていったのだと思います)


真に強い組織、優れた組織というのは、

組織のトップも個々の構成員も、

自律と他律を超えて、「合律」という第三の行き方を志向する組織であると

前回の記事で書きました。


その文脈で赤福の一件をとらえるならば、

株式会社赤福という事業組織において

オーナー家の経営者は、

自分の律をゆがんだ形で押し進め、

社会の律(=他律)との間で“合律”を図らなかった。


また、関連する従業員も

いつしか事なかれ的に他律に流れてしまい、

製造者としての自らの良識や知恵(=自律)に照らし合わせて、

経営層との間で“合律”という創造的な行動をとらなくなっていた。


そうした状況が、次第に硬直した組織風土となり、

赤福という閉鎖的な空間の中で、

経営者や従業員に一種の重力となって作用していた。

そして問題は、世間ににじみ出た。

――――そのように私はみます。


こうした状況は、赤福に限ったことではなく、最近問題となった

石屋製菓(「白い恋人」の製造元)にしても、ミートホープ社にしても

同じような構図が見出せると思います。



文化は「手で耕すこと」・風土は「勝手に漂うもの」

確かに、赤福という商品自体には、300年の歴史や文化があります。

しかし、だからといって、

自動的に株式会社「赤福」という事業組織に、

それに釣り合う“組織文化”があるのでしょうか? 

――――そうとは限りません。


なぜなら今回のような一件は、

組織文化が引き起こしたのではなく、

組織風土が引き起こした、いわば風土病の一種だからです。


「組織文化」と「組織風土」はよく似通った意味で使われますが、

本記事のここからは、

これら両者の違いについて、私なりの解釈を書きたいと思います。


まず、両者の違いを図にまとめてみました。


03005

文化と風土の違いは、実は英語表記で考えると明確です。

文化は“culture”、「手で耕す」という意味です。

風土は“climate”、これは「天候」の意味です。


つまり、文化は、耕すという意志的・肉体的な努力が必要なのに対し、

風土は、人間の努力のあるなしに関わらず、

何かしらそこに漂い覆うものです。


また、文化は意志的であるがゆえに、

その中核には理念・哲学といった価値が必要で

(たいていは組織の中心者が強く設定します)、

個々の構成員はそれに対し、

共感・共振をもって積極的に受け入れようとする。

その結果、組織全体は、熱を帯び、動的に

ある種の方向性とスタイルを持って、外界の変化に対応しながら成長を志向する。


そこには、組織の中心者と個々の構成員が、

自律と他律をわきまえ、

合律という第三の行き方をつくり出していこうとする動きが

当然のごとく起こっている。

組織が持つこうした志向性・志向様式・帯熱を、

私は「組織文化」と考えます。



他方、「組織風土」は、成り行きで形成されてしまうものです。

風土の形成には、組織の中核となる理念や哲学めいたものは必要ありません。

風土は、多分に雰囲気的で散漫としたものです。

その際、風土それ自体は、善でも悪でもない。


ただ、もし、その組織に“有利なご都合・既得権益”のようなものがある場合、

組織の中心者は、それを「我律」として張り、

構成員たちは消極的「他律」として、

それを受け入れる(決して共感・共振はしていない)ときがあります。


こうした空気が組織を硬直的に覆って、

一種の重力として組織員の行動に歪みを生じさせ、習慣化したとき、

それは「風土病」となる。


私が、赤福の一件を、風土病と言ったのはこうした考えによるからです。



◆風土から文化への昇華ステップ

風土と文化は、きっちり明確に分けることはできませんし、

実際の企業は、風土面と文化面を混合して持っていることが

現実の姿であろうと思います。


しかし、私も仕事でさまざまな事業組織をみてきましたが、

独自に明瞭で強い組織文化を持っているところは数少ない気がします。


組織文化を形成するためには、

1)基軸となる価値(理念/哲学)を据える

2)その価値に対して、個と全が共振して、熱を帯びる

3)その価値を具現化した志向性・志向様式を共有する


これら3つのステップがざっくり必要になりますが、

1番目はどこの組織でも簡単にできます。

(組織が掲げる理念・ビジョン・バリューの表明はホームページに溢れています)

要は、2番目以降がうまく動き出すかです。


そのための第一歩は、

組織のトップ、および、個々の構成員が、

自律と他律を超えて、

合律的な創造解をつくり出そうとする意識から始まります。


赤福の名の由来は、「真心を意味する赤心慶福」だと聞きました。

経営者は我律を見直し、

そして関連した従業員は他律を排し、

何がお客様にとって「赤心慶福」であるのかという合律の目線から

謙虚な出直しを期待したいところです。




2008年4月26日 (土)

自律と他律 そして“合律的”働き方


◆働くマインド/観はパソコンでいうOS(プラットフォーム)

私は人財育成研修の中でも、特に

「自律的に働くマインド/観を醸成する」という観点からサービスを行なっています。


「自律的に働くマインド/観」は、言ってみれば、

1人1人の職業人のキャリア(仕事人生)を構築する基盤、

つまり「プラットフォーム」となるべきものです。


各人の持つ諸々の知識や能力・資質は、パソコンに当てはめれば、

上層にあるアプリケーションソフトのようなもので、

それらを生かすも殺すも、そのベースではたらくOS

きちんとインストールされていなくてはなりません。


そのインストールは、最終的には各人が各様にみずからの手で

やらなくてはならないのですが、

「仕事とは何か?」「働くとは何か?」「自律的とは何か?」

「儲けるとは何か?」「そう働く目的とは何か?」「会社・組織とは何か?」・・・

などの根本的な問いを

これまで、親も発してこなかったし、ましてや学校も発してこなかった、

会社に入った今も、経営者や上司が発してくれることは

ごくまれな状況となっている。


だから、よほど自己啓発的な人間か、

よほどよき上司、よき人生の師に出会った人間、

もしくは良質の仕事経験を得た人間でなければ、

「自律的に働くマインド/観」は醸成が難しい。


せめて、若年職業人のうちに、

そうした「自律的に働くマインド/観」醸成のための

きっかけとなる材料を与えられれば・・・

これが私の提供するサービスの基本的な想いです。


さて、そうしたことを狙いとした研修プログラムの中で、

受講者に醸成を促したい核概念は、

・「自立と自律」の働き方

・「自律と他律」の働き方  です。


前者の「自立と自律」の違いについては、

おおよそ新卒入社3年目くらいまでに腹で押さえたい概念です。

これに関しては、前回触れていますので、そちらの記事を参照ください。


で、今回は、後者について述べたいと思います。

以下に触れる「自律と他律」の働き方の特長、および“合律的”な働き方は、

入社5年目くらいには醸成しておきたい概念です。


* * * * * * * * *


◆自律は善で、他律は悪か

さて、自律・他律は字のごとく、


「自律的」=自分自身で“律”を設け、

それによって判断・行動するさま

「他律的」=他者が設けた“律”によって、判断・行動するさま


ですが、さて、“律”とは、何でしょうか?

律とは・・・

「ある価値観や信条にもとづく規範やルールのこと。

さまざまな事柄を判断し、行動する基準となるもの」をいいます。


したがって、もう少し分解して言うと、

自律的とは、自分が正しいと思うルール・やり方を用いて

意志的・能動的に事に臨む態度を意味し、

他律的とは、他者が決めたルール・やり方を用いて、

追従的・受命的に事に望む態度を意味する といってよいでしょう。


一般的に、だから自律的な働き方は善で、

他律的な働き方は悪だと意識されがちです。

しかし、私は、そうばっさり切り捨てて、認識してもらいたくはありません。


03004a_3 1つの軸に、自律的な働き方と他律的な働き方、

もう1つの軸に、望ましい点と望ましくない点を置くと、

4つのマトリックスができます。


誰しも、「自律的×望ましい点」と「他律的×望ましくない点」は

すぐに思い浮かべることができます。

ですが、よくよく考えると、

「自律的×望ましくない点」と「他律的×望ましい点」も

いくつか意識することができます。


例えば、自律的は、

過剰に自律がはたらくと、自己中心的な暴走や逸脱を生みます。

自律的働き方が、いつしか“我律的”働き方に陥るわけです。

若年層社員で、自律意識過剰の人間ほど、

自分の適当な判断でトラブルを起こしてしまったり、

「こんな古臭い会社やってられるか」といってプッツン切れて、

簡単に転職に走るケースはよくあります。


また、他律的な働き方は、時に、効率的でミスの少ないものです。

もしその会社組織が、過去から営々と築き上げてきたノウハウを持っている場合は、

ヘタに個人が独断で勝手に動くより、

組織の持つ暗黙知・形式知に従って(=他律的に)淡々とスピーディーに

仕事をやるほうがいいでしょう。

組織が持つ伝統の知を従順に利用することは、賢明な手でもあるのです。

(ただ、これに安住し慢性化させると、他律的の望ましくない面がじわり表出してきます)


いずれにしても、私たちが自律・他律を考える上で重要なのは、

自律が善で、他律は悪と単純に意識づけするのではなく、

自律的働き方にも、よい面と悪い面があり、

他律的働き方にも、消極的な他律と、積極的な他律があることを

押さえることだと思います。


* * * * * * * * *


◆自律と他律を高い次元で止揚する「合律」

そして、ここからがきょうの記事で最も重要な論点になるのですが、

働き方は、自律的と他律的の2分法を超えて、

新しい意識概念を登場させるべきだという考えです。



自分の日ごろの仕事を振り返った場合、

その仕事は、必ずしも自律で行なわれたか、

あるいは他律かという両極の2つで分けられるものではありません。

実際にはその中間形態が存在します。


つまり、ある仕事をやろうとするとき、

組織や上司はこう考え、こう行なうようにと命令してくる(=他律的な)流れと、

それに対し、

「いや、自分はこう思うので、こうしたい」とする(=自律的な)流れが生じます。


そして、結果的には、自分と上司なり、組織なりが討議をして、

双方が納得する流れをつくりだして、対処する場合です。

この自分と他者の間に生み出された新たな第三の流れは、

自律的でもあり、同時に他律的でもあります。

その第三の流れは、

双方の律を“合した”という意味で、「合律的」と呼んでいいかもしれません。

また、自律的な“正”の考えに対し、他律的な“反”の考えがあって、

その2つを高い次元で止揚する“合”と考えてもいいでしょう。

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◆働く個々人が合律的に振る舞う組織は変化適応に強い

合律的という止揚の形態は、とても大事な律の持ち方です。


事業組織は、常に環境の変化にさらされていて、

その環境適応・環境創造のために、新しいやり方を生み出していかねばなりません。

その際、誰がそれらを生み出していくのか?――――

もちろん、それは経営者および個々の働き手にほかなりません。


しかし、彼らが過剰に自律的(時に我律的)に考え出し、行動する選択肢は

往々にしてハイリスクであるし、全体がまとまるにもエネルギーが要る。

(存亡の危機にある組織が、起死回生の一発を狙って行なう

経営者の超我律的選択肢は例外的なものと考えるべき)


そんなとき、自律と他律の間で、止揚的に(決して「中庸的に」ではない!)

第三の選択肢を創造していくことは、

最も現実的で、かつ成功確率の高い変化対応策を生み出すことにつながっていきます。


強い会社・変化対応に優れた組織というのは、

経営者が合律的なマネジメントを実行するということは当然ですが、

やはり、現場の個々の働き手が、合律的な考えをし、

合律的に振舞うということが決定的に重要だと思います。


冒頭、入社3年目くらいまでの若年層社員には、

“自立する働き方”から“自律する働き方”にシフトアップさせることが

大事だといいましたが、

この自律、他律を超えて、“合律的”に働くという意識と行動が大事になってくるのは、

入社5年目くらいからだと思います。

(もちろん、一部分、早熟な人財もいるでしょうが)


組織の中堅クラスが、合律的な働き方をして、

その組織の骨格となる文化とダイナミズムを創出する―――――

私はいくつもの強い事業組織をみてそう思います


他方、自律的なヒトはどんどん他社に流出し、

他律的なヒトが組織に居残る―――――

これが停滞する組織の姿のように思います


次回は、この合律的働き方を発展させて、

組織文化と組織風土の違いについて書こうと思います。



*なお、自律と他律、合律の詳しい論議は、

拙著『“働く”をじっくりみつめなおすための18講義』

ご参照いただければ幸いです。

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