溢れるイメージ、涸れるイマジネーション
絵本を一冊手にとって読みました。
『スーホの白い馬』(大塚勇三再話、赤羽末吉画、福音館書店)という絵本です。
スーホは、モンゴルの草原に住む羊飼いの少年である。
歳をとったおばあさんと二人暮らしで、大人に負けないくらいよく働いた。
ある日、スーホは白い仔馬を拾って帰り、大事に育てはじめる。
月日は過ぎ、ある年の春に競馬大会が行われるという知らせがあった。
その大会で一等になった者を殿様の娘と結婚させるというのだ。
スーホは出場のため町に出て行く。
そしてスーホと白い馬は見事一等を取った。
ところが殿様は、スーホが貧しい羊飼いであることを知ると、
態度を一変させ、スーホから馬を取り上げる……
この絵本は、モンゴルに伝わる楽器「馬頭琴(ばとうきん)」の由来を題材にした
悲しくせつない物語です。
絵本ですから、大人にとってみればあっという間に読めてしまいます。
見開き2ページで1つの場面が描写され、全部で23場面です。
各場面とも最小限の文字数。ストーリーも単純です。
しかし、この絵本を読んだ1日は、ずーっと、
まぶたにモンゴルの景色と、スーホと白い馬の姿が浮かんで消えませんでした。
そして「馬頭琴」という楽器の音色も知らないのですが、
自分勝手にそれを想像して、頭のなかで爪弾いて聴いていました。
これほど簡素なイメージと簡素な文字で、
これだけふくよかなイマジネーションを起こさせる絵本の力───
いまさらながらすごいものだと感じました。
モンゴルと馬いえば、私は、
現代中国の詩人、牛漢(ニウハン)の「汗血馬」を思い出します。
「汗血馬」
千里のゴビを駆けてこそ河は流れ
千里の砂漠を駆けてこそ草原は広がる
風の吹かない七月と八月
ゴビは火の領土だ
ただ疾駆しないかぎり
四本の脚で宙を踊るように疾駆しないかぎり
胸先に風の生ずるのを感じることはなく
数百里の蒸し暑い土埃(つちぼこり)を通過できもしない
汗はすっかり乾ききった砂埃に吸い取られ
汗は馬の体の白い斑(まだら)模様と結晶する
───『牛漢詩集』秋吉久紀夫訳編より一部を抜粋
この詩を読むと、さらにまた、モンゴルの茫漠とした風景が目の奥に広がってきます。
ちなみに、牛漢は「私は詩を、おのれの骨で書く」と表現したそうです。
(詩人、新川和江がそう紹介していました)
彼はいまでこそ名誉を回復して著名な詩人として活躍していますが、
彼の半生は、政府の思想弾圧による投獄、幽閉、強制労働生活の日々でした。
詩をもって権力に抵抗したその精神のありさまが、作品にこびり付いています。
まさに“おのれの骨”で書いたような詩がたくさんあります。
さて、絵本や詩というのは、
きわめて少ない情報量で、きわめてふくよかな世界を与えるものです。
しかし、どこまでふくよかであるかは、
ひとえに読み手のイマジネーション(想像力)によります。
日常生活にイメージは溢れています。
テレビからはありとあらゆる映像が、
雑誌には流行をつくりだす写真が、
映画からはヴァーチャルな三次元の視覚世界が、
街には広告のポスターやら看板やらが、
店頭には買い気を誘うデザインが、
ネットには「きょうはこんなランチ食べてます」のようなデジカメ撮りの料理写真が、
ビジネスの資料には分析を行った数値表や図面やらが……
これらのイメージは、ある種、香辛料のような刺激物ではあるものの、
にじみやぼかしをもつふくよかなものではないので、
イマジネーションの滋養にはならない。
「詩心」を取り戻す時間、普段の生活に大事だなと、あらためて───。
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【補足】
このブログ記事を書いた後、
『絵本の力』(河合隼雄・松居直・柳田邦男、岩波書店)を読んでいたら、
本の中の鼎談で柳田さんがどきっとすることを本の中で発言されていました───
「私はノンフィクションの作品や評論をずっと書いてきたのですが、ノンフィクションの作品を書いていると言葉数がやたら多くなって、一所懸命理屈をつけたり解釈したり、考えれば考えるほど字数が多くなって何万語という言葉を費やすのですが、時折ふっと、それによって人生のほんとうにいちばん大事なものや魂の部分にどこまで触れえたのかと思ってしまうんです。人間の魂のレベルのコミュニケーションにどこまで関わり合えるかということになると、自分でぎょっとするほど反省するところが多い。
それに比べて、絵本というのは本当に少ない言葉や絵の数、標準的に言えば、十数枚から二十枚ちょっとぐらいの絵の数、そこに添えられたほんのわずかな言葉で、なにかいちばん大事なこと、人生について、命について、生きることについて、喜びや感動について、それがズンズン伝わってくる表現ができる。これはすごい表現手段だしコミュニケーション手段だと思います。そのあたりのことを私は今もういっぺん根源的に考え直しているところなんです」。
柳田邦男さんは、よい絵本は「人生に三度読むべきときがある」とおしゃっています。
まず自分が子どものとき、次に自分が子どもを育てるとき、そして自分が人生の後半に入ったとき。