a)触発のカチッ! 〈Inspiration Switch〉 Feed

2011年6月12日 (日)

室伏広治選手が描いたピラミッド


6月10日放送のNHK総合テレビ「ニュースウォッチ9」で

ハンマー投げの室伏広治選手がボードに絵を描いてインタビューに応じていた。
その絵はこんなものだった―――

Murohushi zu 

彼は、アスリートとして必要な鍛錬は3層に分かれると言う。
一番上が 「skill」 (技能)。
次に 「strength」 (強さ)。
一番下にくるのが 「fundamental」 (基礎)。

で、理想形は図の左に書いたようなピラミッド形。
右のように「fundamental」が小さい状態では、
上の2層をいくら鍛えてもパフォーマンスが上がらないと言う。
ヘタをすると、2層の「strength」を強めようとするあまり、ケガをするリスクも高める。

37歳になった自分は、
「skill」や「strength」の伸びシロは限られてきたかもしれないが、
身体をどう使うかといった基本・基礎の部分は
まだやりようがいくらでもあるような気がすると。
だから、いま自分は最下層にある「fundamental」を見つめ直している、と言うのだ。
(赤ちゃんの体の動きも研究しているという)

私はこのインタビューを観ながら、
道を究める超一級の人物の飽くなき探求心と向上努力に感心するとともに、
熟達は常に基礎の継続鍛錬によって進んでいくことを再認識した。

私はこれまでもずっと研修現場や著書で
仕事を成す・キャリアをつくる4要素〈3層+1軸〉を示してきた。
改めてその3層を見直すと、
室伏選手が描いた3層ピラミッドと内容的に重なることがわかる。


Tri-so zu 


1層目に、業務をこなす「知識・技能」。
2層目に、成果を出す力である「行動特性」。
3層目に、判断基準や動機づけの基となる「マインド・観」がくる。

仕事・キャリア形成においても、
やはり、最下層に敷かれる基盤が強くなければ1層、2層は十全に活かされない。
そしてまた、20代、30代は若さゆえに、何事も
知識獲得や技能習得、行動特性(コンピテンシー)開発で「デキル社員」になろうとする。
その努力は努力でいいのだが、
摂取するものがハウツー情報、成功法則本に偏りがちになる。
そして多くが3層を放置してしまう。
それでは、室伏選手の描いた右側の図(1層・2層でっかちの状態)になってしまう。

私は多くの人の仕事ぶり、キャリアの姿を観察してきて、
30代後半から、いかに3層という基盤を強く太く醸成するかが、
最終的にその人の職業人の格・器を決めると思っている。
ここでいう格や器は、経済的尺度でどれほど成功したかではなく、
彼(彼女)の仕事がどれだけの人に愛され、どれだけ社会によい影響を与えたか、
そしてどれだけの人を(直接・間接に)育てたか、そんな尺度である。

私は講演や研修でマインドや観の話をするときに、必ず引用するのが次の言葉である。

  「私の哲学は技術そのものより、思想が大切だというところにある。
  思想を具現化するための手段として技術があり、
  また、よき技術のないところからは、よき思想も生まれえない。
  人間の幸福を技術によって具現化するという技術者の使命が私の哲学であり、誇りである」。

                                  ―――本田宗一郎(『私の手が語る』グラフ社)


  「要するに人物が出来ておらなければならぬ。

  手習いでなく人物をつくる方が根本問題であって、
  これが一番書道の上にも肝要なことであります。
  (中略)人物の値打ちだけしか字は書けるものではないのです。
  入神の技も、結局、人物以上には決して光彩を放たぬものであると思います」。

                        ―――北大路魯山人(『魯山人著作集(第二巻)』五月書房)


最後に、マインドや観を強く太く醸成していく方法について。

ひとつに、常に未知に向かって挑戦し、ときに修羅場をくぐること。
そしてもうひとつに、強く太く気高く生きた人の魂に触れること。
それは古今東西の偉人の書物を読み、魂のレベルで時空を超えて響き合うこと。
自分の魂が欲するレベルに応じて、彼ら(偉人たち)は与えてくれる。

 

 

2010年9月30日 (木)

“ありきたり”をありきたりでなくする~柳宗理のケトルから


Ysori f 
今後長い付き合いになりそうな『柳宗理 ステンレスケトル』(つや消し)


我が家ではかれこれ10年以上使ってきた笛吹きケトルがあるのだが、
笛の鳴り具合も悪くなってきたので、いよいよ買い換えることにした。
で、前々から買い換えるならコレ!というものを決めていた。

――― 『柳宗理のケトル』 である。

使い始めてみて、ますますそのよさを実感している。

さて私は、働くうえにおいて、また、よい仕事をするうえにおいて、
「ロールモデル」を持て、「あこがれモデル」を見つけよと、各所で言っている。
模範・理想とすべき人物像、商品・サービスは、
自分と自分の仕事を引き上げてくれる具体的な刺激になるからだ。
で、私が理想とすべき商品のひとつがこの『柳宗理のケトル』である。

ケトル、つまりは“やかん”。
“やかん”などというありきたりな物を---
見るほどに、やっぱり美しいと感じる。
使うほどに、やっぱりいいなと納得できる。
そこまでの完成度に仕上げたのがこの商品なのだ。

奇をてらったデザインにするでもなし、
派手な加工をするのでもなし、
最新のテクノロジーで余分な機能を付けるでもなし、
しかし、基本のこと(沸かしやすい、持ちやすい、注ぎやすい、洗いやすい、安全性)が
見事に深く練られた工業デザイン―――私はここに自分の仕事への模範をみる。

私の仕事は、
「よりよく働くこととは何か」
「仕事を成す・キャリアをつくるとはどういうことか」
「プロフェッショナルであるためにはどうあるべきか」といった
とても基本的で普遍的で、ある種ありきたりな日常のことを扱い、
しかもそれを思索・内省させる教育サービスである。

受ける側からしてみれば、内容は刺激的な新しい知識に満ちておらず、
(自分の意識がさほど高まっていなければ)なんとも地味で退屈である。
受けさせる側(企業側)にしてみても、その教育が
直接的・即効的に業務処理能力の向上につながるわけではないため導入は消極的である。
また、市場には「キャリアデザイン研修」と呼ばれる商品がたくさん出回っていて、
「安かろうそれなりだろう」というものがあったり、
いたずらに理論や科学的ツールを盛り込んで豪華にしたものがあったりと、
商品の出回り数に比べて、ほんとうによいものは少ない。

私はそんな中にあって、『柳宗理のケトル』のように
ありきたりなテーマで、ついありきたりな商品になりがちのものを、そうはさせず、
腹応えのある商品としてズドンと世にぶつけることをしたい。

受けるほどに力を得、
振り返るほどに受けたことの深さを増す―――
そんな「働くとは何か」の教育プログラムをこしらえていきたいと常々思っている。


Ysori igr 
 柳宗理さんの実父は大正・昭和期に民藝運動を興した思想家・柳宗悦です。
 親子二代にわたって「用の美」を追求されているということになります。


 その商品(必ずしも商品とはかぎりませんが)がどれほどの「用の美」を備えているかどうかは、
 その商品がどれほど長く時代を超えて求められ続けるか、が一つの答えになるのではないでしょうか。


 

2010年6月18日 (金)

創造的に逸脱する力~『Kind of Blue』ライナーノーツから


Md kob 01b


NHK教育テレビで放映中の『坂本龍一~スコラ/音楽の学校』
それはそれはとてもよくできた番組で、毎回学ぶべきことがたくさんある。
(多くの人に勧めたい番組です)

もちろん音楽についても学べるのだが、
私は教育方法論の角度から多くのことを学ばせてもらっている。
一度きりのテレビ番組ではなく、
恒常的に全国津々浦々でこうした学びの場ができないものか―――それを考える。

さて、その番組で、Jazz音楽の歴史をやる回があったのだが、
そのときにマイルス・デイビスの名盤『Kind of Blue』 (1959年)の紹介があった。
(番組ではその中の代表曲『So What』を教材に使っていた)
番組が終わり、CD棚からそのアルバムを取り出し久しぶりに聴いてみた。

で、アルバムの中に入っているライナーノーツにふと目をやると、
ピアノでこのアルバムに参加しているビル・エヴァンスが小文を書いているではないか。
このアルバムは大学生のころから聴いていて(当時はLP盤だったが)、
そのころも多分このエヴァンスの文章を目にしていたとは思う。
しかし、きょうのきょうまで素通りで読んでいた。

いま、この“IMPROVISATION IN JAZZ”(ジャズにおける即興性) と題された小文を読むと
何ともびんびんと響いてくる。
エヴァンスの言っていることに対し、
ようやく私の受信機レベルが受け入れ可能状態になったのだろう。
名文や名著の類は、
受信側の心に準備ができたときはじめて、行間から光が射してくるものである。


エヴァンスの書き出しはこうだ……

  “There is a Japanese visual art in which the artist is forced to be spontaneous. He must paint on a thin stretched parchment with a special brush and black water paint in such a way that an unnatural or interrupted stroke will destroy the line or break through the parchment. Erasures or changes are impossible. These artists must practice a particular discipline, that of allowing the idea to express itself in communication with their hands in such a direct way that deliberation cannot interfere.

  The resulting pictures lack the complex composition and textures of ordinary painting, but it is said that those who see well find something captured that escapes explanation. ”

  「芸術家が自発的にならざるを得ない日本の視覚芸術がある。芸術家は薄く伸ばした羊皮紙に特別な筆と黒い水彩絵の具を使い描かなければならない。その際、動作が不自然になったり中断されたりすると、線や羊皮紙が台無しになってしまう。線を消したり変えたりすることは許されない。芸術家は熟考が介入することのできない直接的な手法を用いて、手とのコミュニケーションによりアイデアにそれ自体を表現させるという特別な訓練を受けなければならない。

  その結果生まれる絵は通常の絵画と比べて複雑な構成や質感を欠くが、見る人が見れば、説明の要らない何かを捉えていることが分かるという」。    (訳:安江幸子)


エヴァンスは紙という二次空間に筆を打ちつけていく書と、
時間という流れの中に旋律を放っていくジャズ音楽と、
どちらも後戻りのできない即興性に、その芸術的な妙味を見出している。

即興とは、適当や出鱈目(でたらめ)とは違う。
「創造的逸脱による個の表現」であって、そこには


  ①創造を司る基本技術の習熟
  ②逸脱の勇気
  ③そして何度やってもそこに貫通する個のスタイル

がある―――それが即興だ。

私は「キャリアとは何か・働くとは何か」を教える職業に就いてから
「キャリア形成はジャズ音楽に似ている」と言ってきたが、
その角度で読むと、このエヴァンスの小文はびんびんと響いてくる。

ジャズ音楽や書を 「単発・即興性」 の芸術とするなら、
クラシックの交響曲演奏や油絵は 「反復・重層性」 の芸術と言っていいかもしれない。

前者は原則、一筆書きで作品を仕上げ、やり直しがきかない。一発勝負の世界だ。
逆に後者は、入念に何度もリハーサルをやったり、下書きを描いたりし、
音を重ね、色を重ね、筆を重ね作品を組み立ててゆく。
時間と空間を往ったり来たりできるので大作も可能になる。その意味で反復・重層的なのだ。
これはどちらがいい・悪いという問題ではない。
どちらを意志的に選んで作品づくりをするかという問題だ。

人生やキャリアも言ってみれば、
“生き様・働き様”という一つの壮大な作品づくりであるが、
その創作過程は、「ジャズ・書」的にやるか、「交響曲・油絵」的にやるかの選択だといえる。

会社員として組織の中で働き、ある程度軌道に乗った事業の下で担当仕事を任されるのは、
「交響曲・油絵」的である。
指揮者に相当する中心者がいて、各自が役割を負い、各自が大小の業務を重ねていって、
漸進的に事業を競争力のあるものにしていく。このとき多少の失敗も許容される。

しかし、私のように個人で独立して新規に事業を始めると、そうはいかない。
自分の一挙手一投足が、即、事業に影響する。
下手をやっても後からの重ね修正はできないし、組織が守ってくれるわけでもない。
私にとっては、一回一回の研修プログラム、
一度一度のコンサルティング、一冊一冊の著作、一片一片の記事が勝負作品になる。
そこで評価されないと、次はない。

五年後にきちんと事業を安定化できているのか、それはわからない。
一年後、この商売を無事続けていられるかさえもわからない。
(無計画に事業・キャリアを進めているというわけではなく)

しかし、常に一瞬先の未知で白紙の空間に、
自分の信ずるところのサービスを打ちつけていく―――それしか仕事がない。
そういった意味で、いまの自分のキャリアは「ジャズ・書」的である。
自身がそういう状況にあるからこそ、
余計にジャズ音楽に惹かれ、エヴァンスの文面に過剰に反応してしまうのだとも思う。


再び彼の文章を引用すると……

  “Group improvisation is a further challenge. Aside from the weighty technical problem of collective coherent thinking, there is the very human, even social need for sympathy from all members to bend for the common result. This most difficult problem, I think, is beautifully met and solved on this recording.”

  「グループ・インプロヴィゼーションは更なる難問である。全体における重要な技術的な問題とは別に、全メンバーが共通の結果を目指すべく心を一つにしなければならないという、非常に人間的で社会的ですらある必要性がある。この最も難しい問題は、思うに、この作品においては非常に美しく対応され、解決されている」。

Md kob 02b 


一人のアーティストの即興創作ですら容易ではないのに
それが複数のアーティストの協働となると難度が増すことは明らかだ。

このアルバムに限って言えば、
「いやぁ、参加アーティストがマイルスにエヴァンス、
そしてコルトレーンにキャノンボール・アダレイでしょ、
そりゃいいものが出来るに決まってる」と思われるかもしれない。
しかし、そういった超一級のタレントが集まったときほど簡単にまとまるものではない。

そういえばその昔、『WiLL』という共同ブランドプロジェクトがあった。
トヨタ自動車や花王、アサヒビール、松下電器産業(現パナソニック)、近畿日本ツーリストなど
錚々たる企業が取り組んだが、案の定、うまくいかなかった。
(取り組みには敬意を表したいが、ビジネスにおける協働は、いかんせん損得勘定や立場の違いが壁となる)

結局のところ、複数の手による即興芸術の要は、
エヴァンスの指摘するように
「the common result(共通の結果)」に対する「sympathy(共感)」なのだ。
しかし、そのsympathyという言葉の美しさとは対照的に、
実際メンバーたちがやっていることは “殴り合い” である。

というのも、例えば『Kind of Blue』の演奏収録において、指揮者はいない。
もちろんマイルスはリーダー的な存在だが、
いざ演奏が始まれば彼はトランペットの演奏に集中するだけで、
他のプレイヤーにどうやれこうやれとは指図などしない。他も同じだ。
あるのは、音が現在進行形で弾き出されていく中で、
各プレイヤーが、ときにキーやコードを“創造的に逸脱”して、
他のプレイヤーに仕掛けたり呼び込んだり、その研ぎ澄まされた感性の殴り合いなのだ。

しかもマイルスは、何を演奏するかを示唆した“草案(sketches)”を
本番収録の数時間前に持参しただけである。
どの曲もいまだかつて完奏されたことがないものだ。
そこには事前の熟考や擦り合わせ、事後の塗り重ねなどない。出たとこ勝負の掛け合いである。

ジャズや書は言ってみれば「ハイリスク・ハイリターン」の創作である。
神がかり的な名作が生まれ出る一方、駄作も山積みされる。
それに対し交響曲演奏や油絵は「ローリスク・シュア(手堅い)リターン」かもしれない。
リハーサル練習や下書きなどによって失敗のリスクを減らし、完成状態に目途をつけ、創作がスタートする。

* * * * *

いま日本の働き手に強く求められるのは、ジャズ的な即興的創造の力ではないか。
即興的創造の力で重要になってくるのは、次の3つである。
  ①創造を司る基本技術の習熟
  ②逸脱の勇気
  ③個のスタイルを貫通させる意志

日本人が主としてやっている働き方は、
「組織の力で没個性的に、型にはめて、枠の中で、根回しをして、中心者に従いながら」である。
それは、ジャズ的な即興創造とは反対のものばかりである。

折しもW杯サッカー(南アフリカ大会)がたけなわだが、
ほんとうに強いチームというのは、
例えばブラジルとかイタリアとか、あるいは組織的と言われるドイツでさえも、
このジャズ的な即興的創造の力によって、最終的に勝利をつかみ取る。

現代サッカーは、戦略・戦術の研究、データの分析などによって
相手のよいところを消し、守備的にはどこも互角に戦えるようにはなってきている。
しかし、最後、試合に勝つためには誰かが球をゴールに突き刺さねばならない。
組織で固めたセオリーをどこかで破る個の動きこそ試合の分岐点をつくるのだ。

私は、サッカーにおいて攻撃は、ジャズセッションだと思っている。
球のゆくえによって状況が刻々と変わる時空間で、複数のプレイヤーが、
瞬間瞬間に予測をし、判断をし、肉体を操る筋書きのない即興的創造を行っているのだ。

球を保持しているプレイヤーは次の仕掛けを閃光のごとく考える。
球を保持していないプレイヤーはスペースに走り込む気配を放ってパスを呼び込む。
彼らは感覚と肉体を研ぎ澄ませて目に見えない殴り合いを(味方同士で)やっている。
“the common result”である「勝利」という栄光に「sympathy」を持ちながら。

私もサッカー少年だったのでよくわかるのだが、
守備の固い敵陣のペナルティーエリア近辺から、独り切り込んで局面をつくることは
ほんとうに難しいことだし、何よりも怖い。

茶の間のファンが、
「なんでそこでパスするんだよー」とか「逃げるな、シュートを打て」とか、
「だから日本は決定力がないんだよ」とか、そうコメントすることは簡単だ。
しかし、そう批評する個人も、例えば自分の職場で難しい状況に遭遇したときに、
独り勇気をもって局面を打開する創造力があるだろうか。

創造的な逸脱をするには相当な勇気が要る。
勇気だけではダメで、そもそもの基本ができていなくてはならない。
そして、最後まで自分の信ずるスタイルを依怙地なまでに貫くことも大事だ。

スポーツにせよ、ビジネスにせよ、私生活にせよ、
先行きの予測できない不安定な状況に身を置いても自分をしっかりと保ち、
流れの中から状況を、しかも個の表現としてつくりだす、そしてそれを面白がる
―――そんなたくましきマインドがいまの日本人(特に若い世代)にもっともっとほしい。

日本人は古来、形式を重んじ、型や枠に沿って行動するところに美意識を見出してきた。
しかし、伝統芸能の世界で口にされる 「守・破・離」 という言葉が示すように、
「守」は修行のほんの第一段階でしかない。
師は弟子たちに、あくまで「破り離れよ」と教えているのだ。
「破・離」とは、予定調和の創造的破壊、既定路線からの創造的逸脱にほかならない。

創造的に逸脱するたくましさを涵養するために、
社会ができること、家庭ができること、学校ができること、職場ができることは何だろう?
―――たぶんその答えもまた型どおりの教育方法ではだめなのだろう。
そのために、教育サービスづくりを生業とする私も創造的逸脱を楽しみながら
アイデアを生み出し実行していきたいと思っている。


2010年3月27日 (土)

仕事の3極 ~亀治郎とヴェーバーとチャップリンと


3kyoc01
 


……おとといの晩、布団の中、寝付く前の私の頭の中をぐるぐると廻った3つのもの;

「市川亀治郎」
「マックスヴェーバー」
「チャップリン」

1)革新歌舞伎の求道者
その晩、NHKハイビジョン番組『伝統芸能の若き獅子たち』を観た。
革新的な歌舞伎を創造する「澤瀉屋」(おもだかや)を受け継いた市川亀治郎さんの
煮えたぎる挑戦の日々を追っていた。
(ちなみに、翌日の同番組シリーズは、文楽人形師の吉田蓑次さんを追っていた。
こちらも素晴らしくよかった)

市川亀治郎にとって、歌舞伎役者というのは、
もはや仕事とか職業とかを超越し、彼の生命活動そのものだという印象をもった。
そしてその生命活動は、求道というマグマをエネルギー源にしている。
そのギラギラした生命こそが、
異端、異彩、革新とされる「澤瀉屋」の血脈によく似合う。

いずれにしても、 「求道としての仕事」 がそこにはある。
加えて言うと、道を究めていくためには、師匠-弟子関係というのが重要になる。


2)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にある言葉
ちょうどいま、人事評価制度について調べものをしている。
企業の人事評価制度はいまや、とても大がかりで複雑なものになっている。
処遇体系のグランドデザインを設計し、目標管理方法を仕組み化し、職能基準をつくり、
コンピテンシー項目を設定し、業績の定量・定性評価方法を考え、
公正・公平な査定ができるよう評価者研修を実施し・・・

私も組織・人事系のコンサルタントなので、
このあたりの制度の必要具合はある程度理解できるのだが、
どうも近年の状況は、公正・公平な評価を金科玉条として制度だけが肥大化しているように思える。
(制度に使われている、というか、立派な制度つくって魂入らずというか)

それはさておき、
垣根をなくしたグローバル市場経済で、企業同士が行うビジネスはますますスポーツ化、
言い方を変えれば、利益という得点を競い合う高度なゲームになってきている。
(“戦略:strategy”という経営用語が示す通り、まさに企業は戦い合っている)

そして同時に、企業で働くサラリーパーソンにとっても、
仕事はますますスポーツ化、ゲーム化している。
自分がどれくらいのパフォーマンスをし、どれだけの分け前に与れるのかが、
小難しく設計された評価制度によって判定されるわけだ。

私は、マックス・ヴェーバーの次の言葉を思い出した。

  「アメリカでは富の追求はその宗教的、倫理的意味を失い、
  純粋に世俗的情熱と結合する傾向があり、
  それが営利活動にしばしばスポーツの性格を実際に与えている」

             
―――『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

ヴェーバーはおよそ100年前に、やや控えめに「スポーツの性格を与えている」と表現したが、
現在では、営利活動は「スポーツそのもの」になった。

ついでに言えば、営利の獲得の仕方が、「カネ→カネ」と直接的な投機になった。
かつてのアメリカンドリームを体現したビジネス人たちは、
資本金を集め、事業を興し、利益を上げるという、つまり
「カネ→事業(モノづくり・サービス提供)→カネ」という流れだった。
(間にある“事業”は、雇用を生み、社会生活の基盤となるさまざまな財をつくりだす)

ともかくも、 「ゲームとしての仕事」 がここにある。


3)歯車労働者
1つめの「求道としての仕事」、
2つめの「ゲームとしての仕事」を思ったとき、
ふと、もう1つの仕事の姿が湧いてきた。

それは、チャーリー・チャップリンの映画『モダンタイムス』(1936年)の映像とともに湧いてきた。

チャップリン扮する労働者が、ぼーっとしていたら、
機械の歯車の中にぐねぐねと流し込まれてしまった―――あの映像である。

工場労働者が単純作業にまで分解された仕事を黙々とこなし、
生産機械の一部になっていくことを痛烈に批判したあの映画を
いま、私たちがDVDか何かで改めて観たとしよう。

すると、多くの平成ビジネスパーソンたちは、
「かわいそうになぁ、そりゃあんな単純な肉体労働を歯車のようにさせられちゃ
人間疎外にもなるよ。昔はひどかったな」と思うかもしれない。

しかし、よくよく考えてみるに、
チャップリンが描いた当時のブルーカラーも、
平成ニッポンの知的労働に関わるホワイトカラーも
問題の本質は変わっていないように思える。

単純な肉体作業か、多少複雑な知的作業かだけの違いであって、
依然一人の働き手は、大きな利益創出装置の中の歯車であることには変わりがないのではないか。

ここには、 「労役としての仕事」 がある。

3kyoc02 



私は眠りに入る前の頭の中で、これら仕事の3つの極を思い浮かべた。
ひょっとすると仕事にはほかにも極があるかもしれない。
(例えば「遊び」の極など)

いずれにしても、私たちはこれらの極と極の間の適当なところでうろちょろしている。
しかし、そのうろちょろの重心が、
「求道」の極に近いところなのか、
「ゲーム」の極に寄ったところなのか、はたまた、
「労役」の極のほうで沈み込んだままなのかは、けっこうな問題である。


【過去の参考記事】
●「道」としての経営・「ゲーム」としての経営


 

2010年3月10日 (水)

「プリズン・ドッグ」:受刑者更生プログラム


この「触発のカチッ!」と名づけたカテゴリーでは
私が生業としている人事・組織、人財教育、企業研修などとは違う分野
から受けた啓発材料・触発出来事を書いているのだが、
ここ最近、NHK番組が多い。で、きょうもたまたまNHK番組から。

ハイビジョン特集 『プリズン・ドッグ~僕に生きる力をくれた犬~』 を観た。

もちろん一視聴者として十分にじーんとくる番組だったが、
一職業人の目線からも十分に得るところが多い番組だった。

それはひとつに、教育方法の発想を広げてくれたこと。
もうひとつに、教育の目的は「自ら学ぶ力を育んでやること」という原点を強く再確認できたこと。

この番組のNHKの説明文はこうなっている;
「“犬と暮らす刑務所”がアメリカにある。
マクラーレン青少年刑務所を舞台に、犬の世話を初めて任され、
次第に人間らしい感情を取り戻していく受刑者の3ヶ月のドラマを追う」―――

この刑務所では、
捨てられたり虐待されたりした犬を受刑者たちがトレーニングして
(つまり捨て犬や虐待された犬は、それこそ人間や外界を極端に怖がって、
そのままでは飼い犬になれない状態にある)
新しい飼い主に引き渡すというプログラムを行っている。

青少年受刑者は、最初、1匹の犬を手渡される。
犬は怯えているだけだ。
挙動は異常だし、もちろんこちらの言うことなどきくはずもない。
しかし、受刑者たちは、その犬に自分の境遇を重ね合わせる。

受刑者は犬と辛抱強く触れあっていく過程で、
忍耐や、相手の気持ちに立つことや、信頼すること、相互が通じ合うときの喜びなどを
自然な形で感じ取っていく。
(こうやって言葉に落とすと野暮ったいのですが、映像では受刑者たちの微妙な表情がそれをにじみ映していました)

どの受刑者のどの犬も数カ月もすれば立派に飼い犬にして大丈夫なようにまで生まれ変わるもので、
犬たちは新しい飼い主(一般人の家庭)に引き取られていく。
(その引き渡しのときの別れのシーンが、番組上、クライマックスシーンなわけですが、
まぁ私は素直に目を赤くしました)

で、ここがアメリカ人のいいところなのだが、
新しく引き取り親になる一般の人(その家族の父とか子供たち)が、
ここまで育てあげてくれた受刑者に、直接肩をたたいたり、握手したりしながら、
「(ファーストネームを呼んで)いい仕事をしたね」「ほんとうに感謝しているよ」
なーんていう言葉を真正面からかけてやる。

受刑者にとっては、犬との交流もさることながら、
こうした最終的に人から感謝されることが決定的に重要な出来事になる。

そして、マクラーレン青少年刑務所では、さらにおまけの手間を運営側がかけている。
もらわれていった犬たちがその後どうしているかというので、
引き取り親からホームビデオの撮影テープを送ってもらい受刑者たちで視聴会を行うのだ。
受刑者たちの視聴するその表情たるや……
(あぁ、ここもまた、お涙クライマックス)

受刑者たちの更生心をさらにひと押しするここまでの手間、
この更生プログラムを走らせる施設、その背景にあるアメリカ社会の強い意思というものを感じた。

そのかいあって、マクラーレン青少年刑務所では、
このプログラムを受けた受刑者の再犯率は今のところゼロだと言う。

私もこれまでは、
疾病者のセラピー(療法)として、動物を飼育するとか植物を育てるなどのことは知っていたが、
受刑者の更生プログラムとして、犬を育てさせるという方法は知らなかった。

ネットで検索してみると、いわゆる 「プリズン・ドッグ・プログラム」 として
欧米を中心にいろいろな取り組みがなされているようである。

この番組を観て、この「プリズン・ドッグ・プログラム」が
教育(更生させるのもひとつの教育)プログラムとして再確認させてくれたのは次の3点。

○educationは「教育」というより、やはり「啓育」である。啓(ひら)き育むこと。

○「自学」「自助」「自立」……自ら学び、自らを助け、自ら立つ。
 個々の人間のこうした力を啓き育む方法はいかようにでもある。
 そして、この啓き育むことは、親、大人、社会の責務であるし、
 自然の発露としてなされなければならない。

○(犬にせよ人間にせよ)心がつながる経験が最上の学びである


 

過去の記事を一覧する

Related Site

Link