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2010年3月27日 (土)

仕事の3極 ~亀治郎とヴェーバーとチャップリンと


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……おとといの晩、布団の中、寝付く前の私の頭の中をぐるぐると廻った3つのもの;

「市川亀治郎」
「マックスヴェーバー」
「チャップリン」

1)革新歌舞伎の求道者
その晩、NHKハイビジョン番組『伝統芸能の若き獅子たち』を観た。
革新的な歌舞伎を創造する「澤瀉屋」(おもだかや)を受け継いた市川亀治郎さんの
煮えたぎる挑戦の日々を追っていた。
(ちなみに、翌日の同番組シリーズは、文楽人形師の吉田蓑次さんを追っていた。
こちらも素晴らしくよかった)

市川亀治郎にとって、歌舞伎役者というのは、
もはや仕事とか職業とかを超越し、彼の生命活動そのものだという印象をもった。
そしてその生命活動は、求道というマグマをエネルギー源にしている。
そのギラギラした生命こそが、
異端、異彩、革新とされる「澤瀉屋」の血脈によく似合う。

いずれにしても、 「求道としての仕事」 がそこにはある。
加えて言うと、道を究めていくためには、師匠-弟子関係というのが重要になる。


2)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にある言葉
ちょうどいま、人事評価制度について調べものをしている。
企業の人事評価制度はいまや、とても大がかりで複雑なものになっている。
処遇体系のグランドデザインを設計し、目標管理方法を仕組み化し、職能基準をつくり、
コンピテンシー項目を設定し、業績の定量・定性評価方法を考え、
公正・公平な査定ができるよう評価者研修を実施し・・・

私も組織・人事系のコンサルタントなので、
このあたりの制度の必要具合はある程度理解できるのだが、
どうも近年の状況は、公正・公平な評価を金科玉条として制度だけが肥大化しているように思える。
(制度に使われている、というか、立派な制度つくって魂入らずというか)

それはさておき、
垣根をなくしたグローバル市場経済で、企業同士が行うビジネスはますますスポーツ化、
言い方を変えれば、利益という得点を競い合う高度なゲームになってきている。
(“戦略:strategy”という経営用語が示す通り、まさに企業は戦い合っている)

そして同時に、企業で働くサラリーパーソンにとっても、
仕事はますますスポーツ化、ゲーム化している。
自分がどれくらいのパフォーマンスをし、どれだけの分け前に与れるのかが、
小難しく設計された評価制度によって判定されるわけだ。

私は、マックス・ヴェーバーの次の言葉を思い出した。

  「アメリカでは富の追求はその宗教的、倫理的意味を失い、
  純粋に世俗的情熱と結合する傾向があり、
  それが営利活動にしばしばスポーツの性格を実際に与えている」

             
―――『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

ヴェーバーはおよそ100年前に、やや控えめに「スポーツの性格を与えている」と表現したが、
現在では、営利活動は「スポーツそのもの」になった。

ついでに言えば、営利の獲得の仕方が、「カネ→カネ」と直接的な投機になった。
かつてのアメリカンドリームを体現したビジネス人たちは、
資本金を集め、事業を興し、利益を上げるという、つまり
「カネ→事業(モノづくり・サービス提供)→カネ」という流れだった。
(間にある“事業”は、雇用を生み、社会生活の基盤となるさまざまな財をつくりだす)

ともかくも、 「ゲームとしての仕事」 がここにある。


3)歯車労働者
1つめの「求道としての仕事」、
2つめの「ゲームとしての仕事」を思ったとき、
ふと、もう1つの仕事の姿が湧いてきた。

それは、チャーリー・チャップリンの映画『モダンタイムス』(1936年)の映像とともに湧いてきた。

チャップリン扮する労働者が、ぼーっとしていたら、
機械の歯車の中にぐねぐねと流し込まれてしまった―――あの映像である。

工場労働者が単純作業にまで分解された仕事を黙々とこなし、
生産機械の一部になっていくことを痛烈に批判したあの映画を
いま、私たちがDVDか何かで改めて観たとしよう。

すると、多くの平成ビジネスパーソンたちは、
「かわいそうになぁ、そりゃあんな単純な肉体労働を歯車のようにさせられちゃ
人間疎外にもなるよ。昔はひどかったな」と思うかもしれない。

しかし、よくよく考えてみるに、
チャップリンが描いた当時のブルーカラーも、
平成ニッポンの知的労働に関わるホワイトカラーも
問題の本質は変わっていないように思える。

単純な肉体作業か、多少複雑な知的作業かだけの違いであって、
依然一人の働き手は、大きな利益創出装置の中の歯車であることには変わりがないのではないか。

ここには、 「労役としての仕事」 がある。

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私は眠りに入る前の頭の中で、これら仕事の3つの極を思い浮かべた。
ひょっとすると仕事にはほかにも極があるかもしれない。
(例えば「遊び」の極など)

いずれにしても、私たちはこれらの極と極の間の適当なところでうろちょろしている。
しかし、そのうろちょろの重心が、
「求道」の極に近いところなのか、
「ゲーム」の極に寄ったところなのか、はたまた、
「労役」の極のほうで沈み込んだままなのかは、けっこうな問題である。


【過去の参考記事】
●「道」としての経営・「ゲーム」としての経営


 

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