a)触発のカチッ! 〈Inspiration Switch〉 Feed

2010年2月14日 (日)

『アクターズ・スタジオ・インタビュー』 NHK衛星テレビ

Kura 
小金井公園「江戸東京たてもの園」内にある三井八郎右衛門邸の土蔵


仕事を選び取ること、
仕事をつくり出すこと、
仕事によって自分を開いていくことは、
現代社会に生きる私たちにとって、とても重要なことだ。

しかし、仕事・働くことに関する教育(私は啓育という言葉で表現したいが)は
社会の中でいっこうにうまくなされない。
親も語らないし、教師も避けている、上司や経営者は利益のことで忙しい。
書店店頭は「成功のための○○の法則・ルール」といった
即席ハウツー伝授が雨後のタケノコ状態であるし、
テレビは思考不要のバラエティ番組に埋まる。
(まぁ、これらは悪でないにせよ、こればっかりの世の中ではどうだろうと思う)

そんな中、「これは(録画してまでも)観た方がいいよ」と周りに勧めたい番組がある。
それは、NHK衛星チャネルで放映している
『アクターズ・スタジオ・インタビュー』だ。
(米Bravo Media社製作:番組原題は“Inside the Actors Studio”)

番組の詳細は、番組HPや「ウィキペディア」に任せるとして、
とにかくこの番組は啓発に富んでいる。
(もちろん視聴者側の意識の高さや感度によるが)

つくりとしてはインタビュー形式の簡単なものだ。
しかし、インタビュイー(米国の映画俳優・映画監督たち)と
インタビュアー(ジェームズ・リプトン氏)、そして聴衆(アクターズスタジオの学生たち)
の三者が実にいい雰囲気をつくりあげて番組は進行していく。

語り手がハリウッドの大俳優・大監督なんだから面白くて当たり前と思うかもしれない。
しかし私は、
その毎回の登場者から発せられる映画・演技ネタ(話の情報)を面白がるより、
その登場者の役者としての働き様、人間としての生きる姿勢をこそ面白がってほしいと思うし、
学びとってほしいと思う。
なぜなら、この番組は映画関連番組というより
キャリア・生き方を学びとる番組として観た方が収穫が多いからだ。

加えて、その登場者の働き様・生きる姿勢のエッセンスを巧みに引き出そうとする司会者、
さらにそれを固唾をのんで聞き入る学生たち。
番組終わりにある学生からの質問時間も実に凛としたいい雰囲気である。
なぜなら、彼らは学生といっても、のほほんとした学生ではなく、
熾烈な米国の映画界・演劇界でのし上がっていこうと戦っている人間たちだから、
質問のひとつにしても眼差しが真剣で鋭い。
―――この空間内に満ちる求道的な熱がこの番組の良質なところである。

私が米国留学時代にひしひしとその威力を感じたのは、
個々の欧米人が醸し出す「セルフ・エスティーム」(self-esteem)と呼ばれる心的態度である。

セルフ・エスティームは「自尊心」と訳されるが、実際のニュアンスはもっと複雑である。
(心理学の世界では「自己肯定感」とする考えもある)
(自己中心的に我を張るという態度とは異なる。それはselfishという別語がある)

私の感じ取るセルフ・エスティームは、
・自分、そして自分の生き方を肯定的に受け入れ
・自分を堂々と外に開き出し(押し出すのではなく)
・自分の「佇まい」をどっしりと据え
・自らの人生に対し、自分自身が最大限に納得し、自信がもてるようにする心的態度
―――そんなようなものだ。

『アクターズ・スタジオ・インタビュー』を観ると、
このセルフ・エスティームのお手本がテンコ盛りなのだ。
毎回の登場者(俳優・監督ら)は言うに及ばず、
司会者のリプトン氏(彼もひとかどの役者であり演出家である)にしても、
聴衆の学生たちにしても、強くて高いセルフ・エスティームを醸し出している。
それはとりもなおさず、彼らの一人一人が「強く自分でありたい」ということを追求する意志に溢れているからだろう

ともかく、仕事・働くこと・キャリアをひらくことを考えるにあたって、
この番組はよき刺激材料・よき参考書となるものだ。
だから、私はおおいにこの番組を勧めたい。


ところで、日本ではこのような番組がつくれるだろうか? そして支持されるだろうか?
―――結論から言うと、難しいかもしれない。
(NHKは「佐野元春のザ・ソングライターズ」という番組でチャレンジしている)


理由は単純だ。多くの視聴者が好まない(=視聴率が取れない)からである。
こうした地味だが噛みごたえのあるインタビュー番組は、観る人を選ぶ。
そうなるとテレビ局はつくりづらい。
視聴率に比較的縛られないNHKでもつくりづらい。

確かに働き様や仕事のサクセス物語を扱ったいい番組はちらほらある。
『情熱大陸』(毎日放送)や『ワンステップ』(東京放送)、
『プロフェッショナル 仕事の流儀』『グラン・ジュテ~私が跳んだ日』『プロジェクトX~挑戦者たち』(以上、NHK)などだ。

しかし、これらは相当に製作側の意図や演出が入り込んでいる。
(シリアスな内容で数値を取るためにかなりの努力をしている。スポンサーも辛抱がいる)
そこまでつくり込まないと多くの人が観てくれないからだ。
いまの日本のテレビで、番組を極力“素”にして、観る側に能動的な咀嚼を求めたなら、
とたんに視聴率は見るも無残な数値に落ちていく。

さて、ここでクエスチョンをひとつ。
フランスのリヨン、日本ならさしずめ博多には何故よいレストラン、旨い店が多いか?

―――それは、食にうるさい客が多いから。

このことはメディアのコンテンツも全く同じことだ。
テレビ番組や出版物の内容は、
受け手・買い手のレベルに合わせて変化していく。

かの文豪ゲーテは、
「文学は、人間が堕落する度合いだけ堕落する」と喝破している。

『アクターズ・スタジオ・インタビュー』のような地味で滋味な良質番組が続く下地には
それを能動的に観ようとする視聴者が、ある一定数アメリカにはいるということである。
日本ではそこまでの数がいるかどうか…

日本で成立するとすれば、
インタビュイーに流行りの芸能人を迎え、
インタビュアーは女性アナウンサーか誰か、
聴衆は物見興味で来る人びと の番組。

それは、決して示唆と思索に満ちた公開インタビュー番組にはならず、
ノリと笑いで流れていく公開トーク番組となる。
(たとえ感動秘話が披露されたとしても、どこか陳腐な演出感が抜けきらない)

いや、まぁ、私はそんな番組も嫌いではないし、
番組作りの技巧面では素晴らしい発想力を日本のテレビ界は持ち合わせている。
しかし、やはり「大人の番組」をつくることは苦手なのだ。
(日本のマスカルチャーは“幼稚さ”を特徴とするという指摘もどこかでなされていた)

いずれにしても、
『アクターズ・スタジオ・インタビュー』のような大人な番組が
日本でもある一定数で支持され、ちょこちょことつくられればいいなと思う。
それはテレビ側・製作者側の問題ではなく、
私たち視聴者一人一人の求める力だろうし、
一人一人がセルフ・エスティームを強く高めようとする意志だろうと思う。


Actst nhk 

○「アクターズ・スタジオ・インタビュー」NHK番組サイト

○米Bravo Media社の番組公式サイト

 

2009年6月13日 (土)

私は「理解」を売っています ~情報は理解されてこそ力を生む

Whurman_bk

人は、自分自身だけで変わることは難しい。
確かに、自分を変えていく主体はまぎれもなく自分なのですが、
人が変わるには、触媒が要る。

触媒とは、人との出会いであったり、本との出会いであったり。
そんな意味で、きょうは私の人生・キャリアのコースを変えた最大級の触媒の1冊―――

Richard Saul Wurman著『Information Anxiety』 (1989年刊行)
(翻訳本:『情報選択の時代』松岡正剛訳)を取り上げます。


1992年、私はビジネスジャーナリズムの端っくれとして、ビジネス雑誌の記者をしていた。
記者生活丸3年を過ぎ、年齢も30歳。
仕事盛り、生意気盛り、
自分の名刺には「日経:NIKKEI」の文字もあって取材アポは易々と取れ、
向かうところ怖いものなしで、ガンガン取材に出歩き、記事を書いていました。

そんな折、ワーマンのこの著作に出会った。
ワーマンは、自身を“Information Architect”(情報建築家)として名乗っている。
それが第一に新鮮でした。

紙面にはこんな単語があった―――
“INFORMATION EXPLOSION” (情報爆発)
“INFORMATION ANXIETY” (情報不安症)
“UNDERSTANDING BUSINESS” (理解ビジネス)

そして、こんな一節―――

「毎週発行される1冊の『ニューヨーク・タイムズ』には、
17世紀の英国を生きた平均的な人が、
一生のあいだに出会うよりもたくさんの情報がつまっている」。


「私がフィラデルフィアに住んでいた子供のころ、父はこう教えてくれた。
エンサイクロペディア・ブリタニカの内容を暗記する必要はない。
そこに書かれている内容を見つけだす方法を身につければいいんだ」。


「私が、1エーカーは4万3560平方フィートだ、と言ったとしよう。
これは事実として正しい。
しかし、1エーカーがどのくらいのものかは伝わらない。
これに対して、1エーカーとは、エンドゾーンを除いた
アメリカンフットボールのフィールドと同じくらいの広さだ、と言ったとしよう。
これなら、正確さという点では劣るが、聞き手に理解させることには成功している」。



Etchartさらに極めつけは、紙面で紹介されている一つの図。
イェール大学のエドワード・タフテ教授が描いた『ナポレオンの行進』というチャートです。
(→現在、このサイトで詳細図が見ることができる


このチャートには次のような説明が付けられている。
「上の線図は、歴史と地理的な要素が混じっためずらしい地図だ。
これはナポレオンの軍隊のモスクワ遠征の往路とフランスへの帰路を示したものである。
グレーの部分はモスクワへの道筋、黒は帰路を表す。
線の厚みは旅の間の各地における軍隊の人数を示す。
ここには人員の消耗度がはっきりと表れている。
いちばん下には気温が記録されており、帰路の冬の気候が実際にどんなに苛酷だったかがうかがえる」。


このチャートを最初に見たとき、私は息をのんで固まってしまったことを覚えている。
ナポレオンのモスクワ遠征が、無謀で過酷な出来事であったことは知っていたが、
その状況を、どんな文章より、また、どんな写真より、この図は鮮明に表している。
表しているというより、私たちに具体的な“理解”を与える。
(写真が与えるのは、“印象”であって、“理解”ではない)

* * * * *

私はこの本を読んでからというもの、「情報」というものに非常にセンシティブになりました。
出版社で雑誌の編集という情報ビジネスに携わっていながら、
実は、「情報」のことを深く考えずにやっていたことを自覚した。

当時は、ともかく、面白いネタを刈り取ってきて、文章に書き起こし、
写真を添えれば、それなりに読まれる記事になり、雑誌になったのです。
「情報商品は鮮度と切り口さ」と、幼稚な哲学で悦に入っていたのかもしれません。

情報の本義は、「情報の受け手に力を与えることだ」とワーマンは言う。
力を与えるためには、その情報が“理解”されなければならない。

情報量が爆発する(増大する、ではない!)時代にあって、
情報をつくり出す人間はごまんといるが、
情報を理解させようとする人間は、一気に少なくなる。

これから自分が採るべき方向は、情報を“理解させる仕事”や
情報をつくり出すのは猫も杓子もやれる時代になる。
けど、情報を理解させることは誰もがやれる仕事ではない」―――
自分の針路が変わった一瞬でした。

93年-94年は、まさに、ワーマンの言った情報爆発が現実として感じられた。
パソコンでは、Macintosh が「ClassicⅡ」から、
「LCシリーズ」「Centrisシリーズ」、そして「Quadraシリーズ」として展開され、
ハードディスク容量も目まぐるしく増加していく。
そして94年には、ブラウザの『Netscape Navigator』がリリースされ、
現在のように、ワールドワイドウェブから、無尽蔵ともいえる情報が
机上のPC画面に投影される状況になった。
まさに、一般人の誰もが、情報のつくり手となって、それをネットに放てる時代、
結果、情報量が爆発する時代に突入した。

ボイジャー社は『エキスパンドブック』を発刊し、PC画面で読む電子書籍が普通になった。
(私は、ビートルズの『A Hard Days Night』を買って何度も観た)

また、アラン・ケイほか著『マルチメディア』(浜野保樹訳、岩波書店)というタイトルの本も出され、
今では、「なんだ、マルチメディアか」ですが、
当時は、言葉も新しかったし、予見に富み、時代の熱を帯びた内容で
これにも多くの刺激を受けました。

* * * * *

そして私は、94-95年と「情報の視覚化」を研究テーマに、米国に留学した。
留学先に選んだのは、
ドイツの機能主義的デザイン運動「バウハウス」の教育思想の流れを汲む
シカゴのイリノイ工科大学院「インスティチュート・オブ・デザイン」。

私がやっていたのは、例えば、
日経朝刊の一面記事を1枚の図に表すとどうなるか。
あるいは、
あいまいなコンセプトを、どう具体的な理解イメージに置き換えることができるか。

例えば、フランスの哲学者ベルグソンの言葉に、
「生命には物質のくだる坂をさかのぼろうとする努力がある」(『創造的進化』より)
がありますが、これを私なりに図化したのが下です。

Berg2_2

私は、この本との出会いで、
「情報のつくり屋」から、
「情報の理解促し人」へと、
キャリアのコースを変えた。


今では、さらに考えを進化させ、分野を絞り込んで
「働くとは何か?の理解促し人」→「働くとは何か?の翻訳人」を
自身の職業の定義としている。

あなたは「何を売ってるのですか?」と問われれば、
「私は“理解”を売っています」と答えるだろうし、
願わくば、その理解を通して、
働くことへの「力を与えたい」、「光を与えたい」と勝手に思っている。


【関連リンク】
○リチャード・ソール・ワーマンのサイト
http://www.wurman.com/
○ワーマンの仕事のひとつ『Understanding Healthcare』
http://www.understandinghealthcare.com/toc.php4
○エドワード・タフテのサイト
http://www.edwardtufte.com/tufte/index
○情報デザイナーとして活躍する一人、ナイジェル・ホームズのサイト
http://www.nigelholmes.com/

2009年5月12日 (火)

“気”を旋律として起こす

Yoyomacd 私なりに「作曲」の定義をしてみると、
「“気”を旋律・詞として起こすこと」。

そして、それが楽器・肉声によって音に変換されたものを「音楽」と呼ぶ。

流行歌のほとんどは、恋愛ソング(恋唄)ですが、
これは男女間の恋心や失恋感情、嫉妬といった“気”を旋律・詞に起こしている。

童謡は、子供の好奇心という“気”を具体的にとらえて、唱として表現している。

モーツァルトの楽曲は、
自然界の躍動の“気(精霊と言ってもいい)”を旋律として表現している。

ベートーヴェンの楽曲は、
人間の苦悶や創造性、生きる歓びといった“気(魂のほとばしりと言ってもいい)”に
旋律を与え、可聴化している。

だから、作曲する者にとって、まずもって大事なのは“気”を感じること。
どんな“気”をモチーフにするかによって、その曲の性質もスケールも決まる。
(さらには、旋律化・歌詞化の技術によって、その曲の巧拙が決まる)

一方、その曲を聴く者にとって、「私はその曲が好きだ」という場合、
そのサビの部分のメロディが気にいってるとか、
そこの歌詞のワンフレーズがぐっとくるとか、具体的には、そういうことになるのでしょうが、
根本的には、その曲が汲み取った“気”に感応しているのだと思う。

私が最近、仕事をしながら聴くBGMとして流すことが多くなったのが、この2枚。
・『The Cello Suites Inspired by Bach』/YO-YO MA
・『月夜浜』/Acoustic Parsha


この2枚は、その曲が表現しようとする“気”がとてもよい。
(ただし、これは私がよいと感応しているのであって、万人が感応するわけではなさそう)

20世紀を代表するチェリスト・指揮者であったロストロポーヴィチが
いみじくも「バッハの音楽は、森・草木を観るようだ」と表現したように
バッハは、この宇宙・自然が遍在して持つ叡智を楽譜化するという創造を行ったと私は感じている。
そして、YO-YO MA氏の演奏によって、それが耳に届けられる。

この曲をBGMにして仕事をするとき(今もまさにスピーカーから流れている!)、
私は、森の中で、創造の神の“気”にチューニングするかのごとく、頭をはたらかせることができる。

Tukyocd 2枚目の『月夜浜』もまた、沖縄の“気”を素晴らしくとらえているように感じます。

こうした音楽を生み出してくれたアーティストの方々に敬服と感謝(合掌)

2009年4月30日 (木)

異次元からの触発

Prnd_1 今夏、私の仕事テーマで一番大きいものは、管理職向け研修プログラムの改良です。

このプログラムは、部課長が部下に対して
「一個のプロフェッショナルであるとはどういうことか」をいかに語るかというコミュニケーションに関わる内容なのですが、
ここで最も重要な観点は、「働くこと・プロの仕事」の原理原則を
まず部課長のみなさんに、いかに腹で理解していただけるようプログラムを構築するかです。

こういったプログラムを私は、
「スキルのリテラシー」 (読み・書き・そろばんなどの基本技能を習う)に対して、
「ワーキングマインドのリテラシー」 (働く心持ちの基本をつくる)と呼んでいますが、
いずれにしてもリテラシー教育には、押さえるべき方法論があります。

その方法論で大いに参考になるのは、デザイン関係の教科書です。

私がいま手にとって再読しているのは、
『ポール・ランド、デザインの授業』『デザインの文法』
(2冊ともビー・エヌ・エヌ新社刊)。

グラフィックデザイナーの重鎮的存在、原研哉さんが、
「デザイナーは受け手の脳の中に情報の構築を行なっているのだ」と言うように
デザインという行為は、「認知・理解を生じさせる」企てです。

ですから、デザインの“いろは”を教える本には、
優れた方法論や教育的アプローチがいろいろ詰まっています。

こうした異次元からの触発を得ることによって、
私のプログラムは重層的・多面的にテコ入れされ、差別化された要素を付加することができる。

Prnd_2

20世紀を代表するグラフィックデザイナー、ポール・ランドが教える言葉は
すべてのビジネスパーソンの仕事に通じる内容でもある


Prnd_4 


「書籍は理解を生むためのメディア」ということを考えると
本のつくりや見せ方は重要な仕掛けとなるはず。
その意味で、いまのビジネス書は、どこか手抜き・思考不足なところがあるのではないか。
(自省を込めて)

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