“気”を旋律として起こす
私なりに「作曲」の定義をしてみると、
「“気”を旋律・詞として起こすこと」。
そして、それが楽器・肉声によって音に変換されたものを「音楽」と呼ぶ。
流行歌のほとんどは、恋愛ソング(恋唄)ですが、
これは男女間の恋心や失恋感情、嫉妬といった“気”を旋律・詞に起こしている。
童謡は、子供の好奇心という“気”を具体的にとらえて、唱として表現している。
モーツァルトの楽曲は、
自然界の躍動の“気(精霊と言ってもいい)”を旋律として表現している。
ベートーヴェンの楽曲は、
人間の苦悶や創造性、生きる歓びといった“気(魂のほとばしりと言ってもいい)”に
旋律を与え、可聴化している。
だから、作曲する者にとって、まずもって大事なのは“気”を感じること。
どんな“気”をモチーフにするかによって、その曲の性質もスケールも決まる。
(さらには、旋律化・歌詞化の技術によって、その曲の巧拙が決まる)
一方、その曲を聴く者にとって、「私はその曲が好きだ」という場合、
そのサビの部分のメロディが気にいってるとか、
そこの歌詞のワンフレーズがぐっとくるとか、具体的には、そういうことになるのでしょうが、
根本的には、その曲が汲み取った“気”に感応しているのだと思う。
私が最近、仕事をしながら聴くBGMとして流すことが多くなったのが、この2枚。
・『The Cello Suites Inspired by Bach』/YO-YO MA
・『月夜浜』/Acoustic Parsha
この2枚は、その曲が表現しようとする“気”がとてもよい。
(ただし、これは私がよいと感応しているのであって、万人が感応するわけではなさそう)
20世紀を代表するチェリスト・指揮者であったロストロポーヴィチが
いみじくも「バッハの音楽は、森・草木を観るようだ」と表現したように
バッハは、この宇宙・自然が遍在して持つ叡智を楽譜化するという創造を行ったと私は感じている。
そして、YO-YO MA氏の演奏によって、それが耳に届けられる。
この曲をBGMにして仕事をするとき(今もまさにスピーカーから流れている!)、
私は、森の中で、創造の神の“気”にチューニングするかのごとく、頭をはたらかせることができる。
2枚目の『月夜浜』もまた、沖縄の“気”を素晴らしくとらえているように感じます。
こうした音楽を生み出してくれたアーティストの方々に敬服と感謝(合掌)