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2010年1月

2010年1月31日 (日)

働く動機を「内発×利他」にシフトすると…

1hmkren 
(気がつけば庭のハクモクレンが着々と蕾を)


まず、きょうの結論を先に書いておくと、
働く動機を「内発×利他」にシフトすると・・・
自分が元気になる。自分がひらいてくる。そして自分が社会とつながる。
そして、そうした個人が増えることで社会は強くなる。


では、本論。
さて働く動機について2つの軸で分類してみる。
1つは「内発的動機と外発的動機」の軸。
もう1つは「利己的動機と利他的動機」の軸。

まず1つめの軸について。
内発的動機とは、自分の内側から湧き起こってくるもので、
仕事そのものの中にそれを行う理由を見出すものである。
他方、外発的動機は、自分の外側(他者)から与えられるもので、
仕事の周辺に行う理由がある。

外発的な動機は、賞罰(アメとムチ)が典型的なもので、
つまり、成果を上げれば金銭的な報酬や地位・名誉が与えられ、
逆に成果を上げなければ尻を叩かれるといったような仕組みによって生じさせられる。
また、その仕事は他人がカッコよく見てくれるとか、
その資格を取っておくと採用する側が有利にしてくれるといったように、
理由の起点が自分の外にあり、
他者から意欲を焚きつけられる場合が外発的動機となる。

動機4分類


一方、内発的な動機は、仕事そのものの中に見出す面白みや楽しみをいう。
そこに強い充足感を得ているので、それをやっていること自体が最大の報酬となる。
したがって外側(他者)からの刺激は不要である。

内発的動機は持続的で意志的である。
それに対し、外発的動機は単発的で反応的になる。

成果主義は基本的には、金銭的な報酬による刺激策で外発的動機を誘うもので、
私たちはときにそうした刺激に反応して意欲を燃やす場合があるが、
それのみで長いキャリアの道のりを進んでいくには限界がある。
なぜなら、人間は刺激疲れ、競争疲れしてしまうからだ
中長期にわたってその仕事をまっとうし、自分という才能を開いていくには、やはり、
その仕事、その職業、その職場に内発的な動機を持たねばならない。

心理学者ミハイ・チクセントミハイは、
仕事自体の中に内発的動機を見出し
それに没入するときの包括的感覚を「フロー」と名づけたことで有名である。
彼は著書『フロー体験 喜びの現象学』で次のように述べる。
「人間の生物学的性向を利用する社会的に条件づけられた刺激/反応のパタンに
従っている限り、我々は外から統制される。
我々は身体の命令からも独立し、
心の中に起こることについて責任を負うことを学ばねばならない」
と。

これは言ってみれば、主体的意志的に働こうとする人間は
餌付けされて曲芸をやるサーカスの玉乗り熊ではないということだ。

また、米・コロンビア大学の哲学部教授ジョシュア・ハルバースタムは、
『仕事と幸福、そして、人生について』の中で次のように言う。

「お金はムチと同じで、人を“働かせる”ことならできるが、
“働きたい”と思わせることはできない。
仕事の内容そのものだけが、内なるやる気を呼び覚ます」。

さらに、彼はこう付け加える。

迷路の中のネズミは、エサに至る道を見つけると、もう他の道を探そうとしなくなる
このネズミと同じようにただ報酬だけを求めて働いている人は、
自分がしなければならないことだけをする」。

* * * * *

次にもう1つの分類軸について。
利己的動機とは、まず自分の利益を中心に据える動機である。
それに対し、利他的動機は、他者の利益がまず思いの中心にあり、
結果的に自分がうれしいという動機である。

さて、利己的な動機と利他的な動機を比べて、どちらがより望ましいのか。
これについては、
私たちのよく知っているオーソドックスなことわざが簡潔に結論を言ってくれている。
すなわち―――― 「情けは人のためならず」。
(=人にかけた善行は、めぐり巡って自分に帰する)

「利他的であれ」というのは、説教じみて面白くない結論だと思うかもしれない。
しかし、これは理にかなっている。

なぜなら、利他的に行動するためには、まず自分をしっかり持たなければならない。
また全感覚を研ぎ澄ませて他者を受信しなければならない。
そして自らの欲求は他者への願いや祈りへと変わっていく。
すると、その行為を受けた他者から、感謝や支援、協力といったものが集まりだす。
そうして、ますます自分は勇気づけられ、
多少の挫折や困難にも負けていられない自分ができあがる。
そして当初はあいまいだった自分の想いが、具体的な夢や志としての輪郭を描き始める。
さらには個人の夢・志は、共感してくれる他者を巻き込んで、より大きなものに発展していく。
・・・気がつけば、大きな夢・志が叶っていた。
そんな状況が生まれるからだ。

動機の掛け合わせ


逆に、利己的な動機は、それが強まれば強まるほど自分の世界に閉じこもりがちになる。
そのため、実現過程において他者からの応援などは生じにくい。

(それは例えば次のことを想像してほしい。ここにAとBの二人の人間がいて、
Aは新車のポルシェを買うのが夢で、残業をいとわずケチケチ生活で金を貯めている。
Bは途上国に学校をつくることをライフワークと定め、私財を投じてそこに邁進している。
私たちはこのどちらを応援したいだろうか?)

したがって利己動機に根づく想いは発展性に乏しい。
そして行き過ぎた利己は、結果として、好ましからぬ状況にたどりつくことを
私たちは自他の経験から、あるいは史実から学んでいる。
(しかし本来的に利己という欲求は悪ではない)

なお、利己的・利他的という表現はどうも教条的な感じがするので
私は「内に閉じる動機」・「外に開く動機」としてもよいと考えている。
また、利己と利他は厳密に線引きができるわけでもない。
実際はあいまいな混合の形をとっている。
例えば、政治家や事業家の志は、どこまでが本当に世の中を思っての利他的動機か、
どこまでが利己的な満足を得ようとする野心なのかは判別が難しい。

結局、外発的×利己的(内に閉じる)動機は、
自分の外からのきっかけに対して利己的に反応する動機なので、
強くはあれど、深くを自分に考えさせるものではない。
ちょうど「強い物欲・金欲・名誉欲」とは言うが、
「深い物欲・金欲・名誉欲」とは言わないように。

この動機をもとになされる仕事の喜びは、優越、興奮、高揚、自己満足といった類になる。
これらを追い続けることは、結果的に自分を疲れさせる

それとは対照的に、内発的×利他的(外に開く)動機は、
自分だけでは完結しない問題に対し、
粘り強く他者と対話や協力をしてまでも実現させたいという動機である。
なので、その実現プロセスでは深い思索を自分に要求する。
だからその分、達成のときの喜びも大きくて味わい深いものになる。
喜びは、誇り、充実、確信、分かち合いといった類のものである。
地味で辛抱がいるが、健全な快活を得ることができ長続きする

* * * * *

今回のシリーズ記事は、「志力」を中心テーマにしてきた。
志とは、言ってみれば「内発的×利他的(外に開く)動機」に基づく想いである。
志を抱くことで、無限のエネルギーを湧かすことができる。
志は他者の共感を得ることにより、膨らみながら強くなっていく。

したがって、本記事のタイトルの答え:
働く動機を「内発×利他」にシフトすると…
自分が元気になる。自分がひらいてくる。そして自分が社会とつながる。
―――こういうことになるだろうか。

現在、仕事・働くことをめぐる社会問題はいろいろとある。
また各々の仕事・職場にも個別の問題がはびこっていて、
多くが不機嫌なワーキングライフを送っている。
しかし、結局のところ、そんな時代に個人が行うべき最良の方策は、
100年以上も前にウィリアム・クラーク博士が発したこの言葉に辿り着く
――― 「Boys Be Ambitious!」 (少年よ、大志を抱け)。

志は自分の身を助ける。そして成し遂げたことは、身を飾る。
この平成ニッポンの世は永い人類史上からみれば、はるかに恵まれた時代だ。
そんな時代に生まれ落ちて、志も抱かず、こぢんまり生きていくのは何ともモッタイナイ。

仕事は仕事、プライベートはプライベートと立て分けをして
仕事は叱られない程度にやりこなし、あとは趣味を楽しむ
―――そんな行き方はどこか残念だし、
最終的にはツライ職業人生に陥るリスクをはらんでいる。
(繰り返し言うが、ツライ職業人生に陥るリスクを最小限にするのは、志を抱くことである!)

これは何も、仕事にこき使われろと言っているのではない。
趣味を楽しむなと言っているのでもない。
想いを社会に開き、全人的に自分を投じられる一大事を持とうとする気概が
自分にあるかどうかを見つめ直してみたらどうかと言っているのだ。

村上龍さんの近著『無趣味のすすめ』で見つけた言葉にこうあった―――

「趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、
人生を揺るがすような出会いも発見もない。
心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。
真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクを伴った作業の中にあり、
常に失意や絶望と隣り合わせに存在している」。 

志はもはや死語になるかという状況にあり、
志す力は脆弱化するばかりである。
志は、よき個人をつくるともに、よき社会をつくり、
よき時代をつくるエートス(道徳的気風)の源になるものである。
一人一人の人間が、働く動機を「内発×利他」にシフトさせていくこと
―――これは十分に大きな個人的かつ社会的チャレンジなのだ。


(メジロもやって来た)
1mejiro

2010年1月19日 (火)

留め書き〈002〉 ~溢れるものを表現したい

Tome002 

    溢れるものを書かずにはおられない欲求。
    溢れるものを書ききれない技の不足。
    その欲求と不足の間を埋めようと行き来する過程で
    溢れるものの色・形がみえてくる。

      …これは私が初めて小説執筆に挑戦したときに感じたことです。


2010年1月16日 (土)

志力格差の時代〈下〉~社会的起業マインドを育め

1月の石

世の中に多種多様にある仕事を次のように分けてみる。例えば―――

「“ありがとう”を言われる仕事」
「“ありがとう”が全く耳に入ってこない仕事」。

さて、みなさんの仕事はどちらに分類されるだろうか。
私が独立自営を始めて最もよかったことは何かと言えば、
それは(恰好つけでも何でもなく)仕事で“ありがとう”を言われるようになったことだ。

ありがとうを言われると、働く上でどんな心理変化が起きてくるか。

1)
そんなに喜んでもらえるなら、もっとこうしてあげよう、あれをやってあげようとなる。
だから、(無料という意味での)サービス仕事・ボランティア仕事がついつい増える。
しかし、心は晴れ晴れしてやっている。
(サラリーマンの間で問題となっているサービス残業とは全く異なる類のものだ)

2)
へこたれなくなる。
いまだ収益基盤のか細いビジネスで、不安定にふらつきながらやっているが、
お客様の「ありがとう。また来年もよろしくお願いします」の声が聞こえてくるので、
少なくとも、もう1年踏ん張ろう、さらにもう1年踏ん張ろうと、進んでいける。
(悲壮感に陥らないところがいい)

3)
仕事で目指そうとする「想い」がより大きくなる。
ありがとうを言っていただいたお客様や
ありがたいと感じてくださった共感者の方々が、
「もっとこうしたらいいんじゃない」とか
「こういう形もあるんじゃないかしら」とアイデアをくれたり、手伝ってくれたりする。
酒を酌み交わしながら「想い」を共有してくれもする。
すると、自分一人で抱いていた想いが、いつしか複数の想いとなり、
その内容もどんどん膨らんでいく。

このように、仕事で「ありがとう」を言われることの影響はとても大きい。
心が晴れ晴れする、強くなる、想いが膨らんでくる―――いいことづくめだ。

ここで私なりのひとつの結論を言えば、

ありがとうを言われ続ける環境にあると、
人は働く動機を「利他動機」にシフトさせる。
そして志(想い)が膨らむ回路に入る。
さらに、その志がいろいろな人たちによって共有されるとき、もっと大きな力になる。

ちなみにその逆もまた真なりで―――

ありがとうを言われない環境にあると、
人は働く動機を「利己主義」にシフトさせる。
そして我欲(閉じた執着心)にとらわれる回路に入る。
さらに、そんな我欲にとらわれた人たちが世に多くなりすぎると、大きな災いが起こる。

* * * * *

とにもかくにも、“ありがとう”の力はすごい。
本記事のメインテーマである「志力格差」に話を戻すと、
「志力」(=想う力・志す力)の格差をなくすためにひとつ重要なことは、
特に若い世代に
「ありがとう」を言われる仕事体験を一度でも、そしてできればどんどんさせるということだ。

伊藤忠商事の丹羽宇一郎会長は
日本に「徴農制」を施してはどうかと提起されている。
社会に出る前の若者を国費で一定期間、兵役ではなく、農業につかせるというものだ。
(大いに賛同!)

私がそれにあやかって発想するなら、「徴ボランティア制」がいいと思っている。
(国からの命令による義務役なので、もはや“ボランティア”とは言えないが)
名称はともかく、ある期間、国民のお勤めとして、社会慈善事業(国内外への派遣)に参加するのである。
国家の徴集制ではなくて、学校・大学の必須授業として組み込んでしまう手もある。

私は、以前いた会社で、就職活動前の大学生をネットワークし、
「二十歳の社会勉強」プロジェクトと称して、彼らにいろいろな社会的活動を通して
働くこととは何か? 職業選択とは何か? を考えさせた。

沖縄の離島に大学生を数十人連れて行って、小学校で出前授業をやったり、
町の商店街に出かけていって活性化策を取材したり、
豪雪地方の村に行って雪下ろしを手伝ったりした。

そこで言われた“ありがとう”は、彼らにとって何よりの報酬であっただろうし、
またそれが啓発材料となっていろいろなことを考えただろうと思う。
そして(あのプロジェクトから10年ほど経つが)今でもあのときの経験は、
参加者の一人一人に、
今の自分の仕事の在り方は現状のままでいいのだろうか、
今の自分のキャリアの流れには、志のようなもの(想いやビジョン)があるのだろうか、
今の自分の存在は、どれだけ社会の役に立っているのだろうか、
今の自分の会社のビジネスは、どれだけ社会にプラスの貢献をしているのだろうか、
などといった自問をチラチラと投げかけて続けているにちがいない。

人生の早い段階で社会貢献的な仕事をして、そこでありがとうを言われる原体験は、
個々の人の中に「志」の形成意欲の種を確実に植える。
その種が植え付けられるかどうかは、彼(女)の人生・キャリアにとって決定的な出来事だ。

* * * * *

ありがとうを言われる原経験と併行して大事なのが、
「社会的起業マインド」の醸成である。

ここでいう「社会的起業マインド」は3つの観点を含んでいる。

1)社会的:
一人間・一世界市民の立場から「共通善(common good)」を志向し

2)起業:
(広い意味で)
どんな小さな仕事・事業でも、何か自分で考えてつくり出そうとする

3)マインド:
意識・心持ち

私はみずからが行う『プロフェッショナルシップ研修』というプログラムの中で
この「社会的起業マインド」の醸成を刺激するセッションを設けている。
なぜなら、一個の自律したプロであるためには、
働く先が、企業(株式会社)であろうと、NPOであろうと、役所であろうと、
この「社会的起業マインド」は、欠くべからず素養であると思うからだ。

私たちは、特に、いったん企業に就職してしまうと、
事業の第一目的は「利益の追求」であるように頭が染まってしまう。
「利益が出なければ会社は存続できないし、自分の給料だって出ない」
「会社の事業が社会・顧客に受け入れられているかは、獲得する利益によって代弁される」
「利益の最大化を狙って各社競い合うからイノベーションが起こり、文明は発達する」
「利潤追求を排除した共産・社会主義国家の末路は誰もが知っている通りだ」

・・・こうした利益追求を肯定する思考に、誰も否定はできない。

利益は大事だが、しかし、事業の目的ではない。
ちなみに、ピーター・ドラッカーは
「利益は目的ではなく、企業が存続するための条件である」
「組織は存続が目的ではなく、社会に対して貢献することが目的である」と言っている。

確かにたくさんの雇用を保持している企業は簡単につぶれてはいけない。
しかし、企業が自らの存続のために、利益を目的にすればするほど、
社員はその利益の数値目標に呪縛されて働くことになる。
すると社員の関心事は、ますます年収の「多い/少ない」に移っていく。
(これだけきついプレッシャーに耐えて目標をクリアしたんだから、
その利益の分け前を給料としてきちんともらわないとやってられない、
といった心理になる)

社会をあげてこの回路を際限なく増幅させてはいけない。
そのためにも個々の働き手の中に「社会的起業マインド」を醸成する必要がある。

私が行う「社会的起業マインド」を涵養するプログラムでは、例えば
『未来を変える80人-僕らが出会った社会起業家-』
(シルヴァン・ダルニル著/マチュー・ルルー著、永田千奈訳、日経BP社)
のような本をテキストにしている。
そこには社会的起業の具体事例と、起業者の生き生きとした動機が紹介されている。

受講者たちは、
それら事例や動機を知るだけで、相当にインスパイアというかショックにを受ける。
「あ、そうか、こういうビジネス発想もありなんだ」
「自己実現欲求が社会貢献と結び付くとはこういうことか」
「公共善サービスが、公営や非営利でなくてもビジネスとして回ることが可能なんだな」
「自分の欲する生き方と仕事が重ねられるなんてウラヤマシイ!」
などなど。

また、
『ムハマド・ユヌス自伝-貧困なき世界をめざす銀行家-』
(ムハマド・ユヌス著/アラン・ジョリ著、猪熊弘子訳、早川書房)も恰好の教材になる。

ムハマド・ユヌス氏は2006年の「ノーベル平和賞」受賞者である。
マイクロクレジットという手法でグラミン銀行を創業し、
バングラディシュの貧困層の人びとの生活を劇的に向上させた。
「ソーシャル・ビジネス」の提唱者でもある。

彼は、
何も金儲けがやりたくて銀行家になったわけではない。
貧困にあえぐ人びとを救える方法を考えて考えた結果、
たまたまマイクロクレジットという手段に出会ったのだ、
ということを自伝に書いている。

この自伝を読むと、
「想い」、もっと正確に言えば「社会的使命を自覚した想い」が
いかに自分の仕事をつくり出し、事業を興し、
スケールの大きなキャリア・人生を形づくっていく源泉になるかがわかる。

本連載の〈上〉編でも指摘したが、
「志力」(想う力・志す力)が弱りつつあるニッポンの若者・働き手たちには、
こうしたロールモデルを多く見せることが必要なのだ。
彼らはいまだ感受性が衰えたわけではない。
だから、よい見本刺激を与えれば、内面からきちんと火が点くようになっている。
(人間とはそういうものだ、そう信じたい)

「社会的起業マインド」は
社会のために意味のある仕事をしたい・事業をつくり出したい、
そしてそれは事業として回していけるものだ、の言い換えだが、
このマインドを醸成することは、教育が担うべき大きな役割といえる。
教育(啓育)は、何も学校・教育者だけがやるものではない。
親という立場から、家族という立場から、先輩という立場から、
上司・経営者という立場から、万人がやるものである。

そうした意味で、大人世代の人びとが(そして法人としての企業の一社一社が)、
「一人間・一世界市民の立場から共通善を志向し
どんな小さな仕事・事業でも、何か自分で考えてつくり出そうとする意識」を持って
一人一人の働き様・生き様として体現していくことが
何よりの後進世代への教育(啓育)となる。

* * * * *

志力の強い者と弱い者の格差が広がる社会で、憂慮すべきは、強と弱の格差というより、
志力を弱めている人間のほうがもはや多数派となり、
最弱のレベルがさらに落ち込んでいくことだ。
(志力が強い人間は放っておいて大丈夫。強い分にはどんどん強くなればいい)

仕事でありがとうを言われる原体験を持たない少年少女たちが
大人になってもありがとうを言われない仕事に就いていては、志など湧くはずがない。
そして、「社会的起業マインド」の涵養刺激をどこからも受けなければ、
彼(彼女)の中で、職業・仕事はますます、せせこましい“労役”に成り下がってしまうだろう。

---私は社会に諸々の格差問題がある中で、この「志力格差」は見過ごせないものだと思う。
国力の衰えは、個々人の志力の衰えからくるからだ。

最後に1つ、ノーマン・カズンズ(米・ジャーナリスト、作家)の言葉を紹介する。

「すべての人が金持ちになる幸運に恵まれるとは限らない。
しかし言葉については、誰しも貧乏人になる要はないし、
誰しも力のこもった、美しい言葉を使うという名声を奪われる要はない」。
    ―――『人間の選択~自伝的覚え書き』(松田銑訳、角川書店)より

この表現を拝借させていただくとすれば、私はこう言いたい。
「すべての人が金持ちになる幸運に恵まれるとは限らない。
しかし志・夢については、誰しも貧乏人になる要はないし、
誰しも気高き志・夢を描き、それを実現させるという名声を奪われる要はない」
と。


次回、補足記事として「動機」について書きます。

2010年1月 9日 (土)

留め書き 〈001〉 ~時間に色・価値を与える


Tome01 

   時間は万人に平等に流れるが、
   各人の中で流れる時間には、
   各人各様の色が着き、価値が与えられる。

     …だから人は生きた長さではなく、
      (長かろうが短かかろうが)
     自分の時間にどんな色を着け、
     どんな価値を与えていくのかが問われる。

     誰から問われるかといえば、
     それは---この世を去る間際の自分。

                                    (2010年元旦に)


1月の富士 
(西伊豆・淡島にて)

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