高村光太郎『ロダンの言葉』
「オーギュスト・ロダン×高村光太郎」 ―――何とも重厚なカップリングである。
「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」……
ご存じ『道程』を書いた詩人であり彫刻家である高村が、ロダンの訳業を試みた一冊である。
ロダンのような美の巨人の言葉を訳するなどは、
語学に長けているだけではかなわない所業である。
ロダンの精神の奥底には、
凡人にはすべてを見取ることのできないような哲学の巌(いわお)がそびえ立ち、
また、彼独自の高度な芸術表現の技術論や感性論があって、
それを訳出することは高村であっても困難な作業であったにちがいない。
しかし、日本国で誰がもっとも訳者としてふさわしいかといえば、
今でも高村光太郎以上の人物は見当たらないのではないかと思う。
この本は当然芸術のことについて多くが語られているのだが、
ロダンの発信は、広く平成のビジネスパーソンにも通じている。
なぜなら、
芸術の仕事も、ビジネスにおける仕事も、
1)目に見えない内側の本質を、目に見えている外側の現象から探りつかむこと
2)目に見えない内側の本質を、目に見えるよう外側の表現にして提示すること
の営為であるからだ。
例えば、マーケティングの仕事は、
店頭でどんな価格帯が売れているとか、どんな色が売れているとか、
どんな商品クレームが多いとか、そういった外側に見えている流行現象・消費現象から
次に消費者は何を欲しがっているかという目に見えない潜在需要を読み解く仕事である。
そして、それを受けた商品開発者たちは、真剣に討議して、
自分たちが考える次の商品はこうあるべきだという仮説や意思を持つ。
そしてそれを具体的商品として落とし込み、生産し、
「消費者の皆さん、皆さんの次に欲しがっていたものはこんなものではなかったですか?」
と世に問う。
さて、ロダンは何と言っただろうか。
○「眼でばかり見ないで、叡智で見るのです」。
○「立体的理法は物の主眼であって外観ではありません」。
○「美は性格の中にあるのです。情熱の中にあるのです。
…美は性格があるからこそ、若しくは情熱が裏から見えて来るからこそ存在するのです。
肉体は情熱が姿を宿す型(ムーラージ)です」。
○「内面からの肉づけが無いなら、輪郭は脂を持てない。
しなやかにならない。堅い陰で乾からびる」。
○「肉づけする時、決して表面(スルファス)で考えるな。
凹凸(ルリーフ)で考えなさい。
君達の精神がすべての上面にあるものは
皆其を後ろから押している量の一端だと見做す様になれと思う。
形は君達に向かって突き出たものだと思いなさい。
一切の生は一つの中心から湧き起る。
やがて芽ぐみそして内から外へと咲き開く。
同じ様に、美しい彫刻には、いつでも一つの強い内の衝動を感じる」。
○「こういう事を忘れるな。相貌は無い。量しかないという事を。
素描する時、決して外囲線に気を取られるな。
凹凸だけを考えなさい。凹凸が外囲線を支配するのです」。
○「藝術家の資格は唯智慧と、注意と、誠実と、意志とだけです。
正直な労働者のように君達の仕事をやり遂げよ。
真実であれ、若き人々よ。
しかし此は平凡に正確であれという事を意味するのではない。
低級な正確というものがあります。写真や石膏型のそれです。
藝術は内の真実があってこそ始まります。
すべての君達の形、すべての君達の色彩をして感情を訳出せしめよ」。
○「良い彫刻家が人間の胴体を作る時、
彼の再現するのは筋肉ばかりではありません。
其は筋肉を活動させる生命です。
われわれが輪郭線を写し出す時は、
内に包まれている精神的内容で其を豊富にするのです」。
○「凡庸な人間が自然を模写しても決して藝術品にはなりません。
それは彼が『見』ないで眺めるからです」。
ロダンが一貫して訴えているのは、
外側の線だけを肉眼で追うのではなく、
内側の本質を“慧眼”で観よ、ということです。
そして、外側の輪郭をつくるのは、
内側の本質(彼の言葉では、性格、情熱、量、真実、精神的内容)の湧き出しによれ。
私たちは一つ一つの仕事に対し、
こうした「内への洞察」と「内からの表現」をしているかどうか―――
これは重要な自省の視点となる。
表層を浮き沈みする情報のみを集め、上っ面をなめるだけの検討をし、
体裁を適当に整えただけのデザインによってパッケージ化されたモノやサービスが
周囲にあふれていやしないか―――私はそれが気になる。
そして、そうした受け入れの軽さのある商品のほうがむしろよく売れてしまう
―――そのことに私はいっそう危惧をする。
会社現場ではよく上司が「もっと本質を見極めろ」などと言うが、
現在のビジネス現場では、
「内への洞察」や「内からの表現」といった本質をみること・本物をつくることよりも、
実のところ、
スピードや効率、目標量の達成、マスセールスの追求のほうに執心している。
そしてマスとしての消費者も、
本質や本物を志向するよりも、
「安けりゃいい消費」「安くてそこそこ品質でいい消費」に偏っていて、
消費生活の質が粗野化(もっと言えば粗暴化)している。
(この粗野というのは、チープシックやシンプルネスといった美意識の
はたらいたものとはまったく別方向のものだ)
消費者が安易なものを好んで買えば買うほど、作り手はものづくり力を退化させる。
日本が今後も「ものづくり立国」していくためには、
「安けりゃ売れる」といった表層の現象・表層の需要を超えて、
内側に入ったものづくりをしていかねばならない。
(日本にまだ少なからずいる志あるものづくりの人たちは、このことを十分知っている。
しかし、いかんせん、マス消費者は「安けりゃいい」なのだ。
志あるものづくり人たちが、どんどん追いやられている……)
* * *
ロダンにとって仕事をすることは、生きることと同義であった。
そして、それは「大いなるもの」とつながる歓喜であった。
○「永久の若さは専念と熱中とで出来る」。
○「勉強は不断の若返りである」。
○「私の考では宗教というものは信教の誦読とはまるで別なものです。
其はすべて説明された事の無い、
又疑も無く世界に於いて説明され得ないあらゆるものの情緒です。
宇宙的法則を維持し、又万物の種を保存する『知られぬ力』の礼拝です。
…其は此の世から、われわれの思想をまるで翼の生えた様に飛翔させるのです。
此の意味でなら、私は宗教的です。
若し宗教が存在していなかったら、私は其を作り出す必要があったでしょう。
真の藝術家は、要するに、人間の中の一番宗教的な人間です」。
○「藝術は万象の中で明らかに観じ、
又意識を以て照り輝かしつつ万象を再現する叡智の歓喜です」。
私はことあるごとに、
「真に“よい仕事”とは宗教的体験である」と言っている。
これには「シュウキョー」と聞くだけでうさん臭さを感じる人も多い。
しかし、その人は、「宗教的」の意味を狭くとらえているか、
本当に“よい仕事”を成したことのない人だろう。
* * *
ロダンは若き芸術家たちにさまざまにメッセージを送っている。
○「肝腎な点は感動する事、愛する事、望む事、身ぶるいする事、生きる事です」。
○「われわれは自然を心ばかりでなく、
殊に知力を以て会得しようと努めねばなりません。
感じ易いが、知解力無いという人は感情を表現することの出来ないものです」。
○「若し君達の才能が極めて新しいと、
君達は最初はほんの少しばかりの賛同者しか得ないでしかも群衆の敵を持ちます。
勇気を失うな。前者が勝ちます。
なぜかといえば彼等は何故君達を愛するかを知っているのに、
後者は何故君達が嫌いなのか知っていないからです。
前者は真実に対して情熱を持ち又絶えず新しい同人を集めるのに、
後者は自分達の間違った意見に対して何処までも続けてゆく熱中をまるで表さない。
前者は頑固であるのに、後者は風のまにまに変る。
真実が勝つ事は確かです」。
高村光太郎はロダンを師と仰いだ。
師の言葉を自分の中で血肉化し、それを翻訳して日本にも広めた。
そして彫刻家として、師を乗り越えていこうと創造に命を燃やした。
こうした師弟の展開は、芸術家の世界のみならず、
事業組織の世界でもどんどん起こってほしいものだ。
師を持った働き手は幸福である。
しかし、師を持つためには、前提として、
みずからの仕事・職業を一つの「道」として昇華させていなければならない。
*本記事では、
『ロダンの言葉』の集英社・文芸文庫版を取り上げました。
同様のもので、
『ロダンの言葉抄』岩波文庫版もあります。