留め書き〈022〉~芸術家を殺すな
「よき描き手を殺すなんてことは簡単なことさ。
大勢が無視さえすればそれでいいんだ」
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「豊かな暮らし」「成熟した社会」は、さまざまに定義ができるだろう。
私はその定義のひとつとして、
「絵を飾る暮らし」「芸術家を遊ばせる社会」を挙げたい。
量産消費財としてのモノが溢れる時代にあって、
モノには原価(コスト)・値段があり、機能・用益があり、
古くなれば新しく買い換えるという観念が私たちの頭にこびりついている。
そのために、モノを買うときには、
コストに見合った値段か、その機能は他品と比べてどうなのかを念入りに調べ、
買った後にはたいてい「やっぱり新しい商品はいいな。もっと買い換えようか」となる。
私にはたまたま画家の知人がいる。そのおかげで、
画家の個展を観にいき、絵を買い、絵を飾ることをしている。
絵とは不思議なモノで、
コストとは無関係に値がついているものであり
(そもそも絵にコストという概念を持ち込むことが誤り)、
機能・用益といえばおそらくインテリアとしてよさそうだとかそんなようなことだろうが、
実際はそれ以上の何かを感じて買っている。
よい絵はよい本と同じで決して古くならない。
自分の眼が成長すれば、それと一緒に味わいも深まってくる。
私たちは、絵の具の模様が乗った額布を買っているのではなく、
作者が美という真理に向かう過程での「もがきの跡」を買っているのかもしれない。
そのもがきというのは、
作者が長年努力して得た技術や、彼の揺れ動く魂を引き連れていて、
それがいやおうなしに絵に滲み出る(ときに、ほとばしり、舞い、薫る)。
その滲み出に感応してしまうとき、私たちは「ああ、いい絵だな」と息をこぼす。
いずれにせよ用益や値段では計れない、でも傍においておきたいモノ───それが画家の絵だ。
しかし、ある見方をすれば、
生活にあってもなくてもいいモノ───それが画家の絵でもある。
もっといえば、世の中にいてもいなくてもいい人種───それが芸術家だ。
しかし、量産消費財ばかりに囲まれた生活、芸術家の住まない世界はなんとも息苦しい。
「無用の用」ともいうべき絵や画家の生殺与奪の権を握っているのは、
ほかならぬ私たちひとりひとり。市井の生活者が(もちろん投機的な動機ではなく)、
「今度、本物の絵を部屋に飾ってみようか」と画廊に足を運ぶ風景がごく普通になる日本───
ふーむ、やってくるだろうか……(腕組み)。
平田達哉「ながれ雲」(2010年)を飾る