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2011年9月15日 (木)

観念が人をつくる

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先日、本ブログで書いた「残念な感想~“知っている”が学ぶ心を妨げる」

yahooジャパンのニュースサイトにも掲載され、大きな反響をいただきました。

その中で私は、「観念が仕事をつくり、観念が人をつくる」 と書きましたが、

そこのところをもう少し詳しくきかせてほしいとの声がありましたので、
きょうはそれについて書きます。

* * * * *

さて最初に、古代ギリシャ・ストア派の哲学者エピクテトスの言葉です───
「人はものごとをではなく、それをどう見るかに思いわずらうのである」。

また、フランスの哲学家・モンテーニュは『エセー』でこう言っています───
「事柄に怒ってはならぬ。事柄はわれわれがいくら怒っても意に介しない」。


◆「その出来事が」ではなく「観念が」感情を引き起こす

この2つの言葉を理解するために、卑近な例を出しましょう。
職場の同僚2人が昼食のために定食屋に入りました。
2人は同じメニューを注文して待っていたところ、店員が間違った品を持ってきました。
そのとき、一人は
「オーダーと違うじゃないか。いますぐ作りなおして持ってきてくれ」と、
厳しく当たる対応をしました。

一方、別の一人は
「まぁ、昼食の混雑時だし間違いも時にはあるさ。
店員がまだ慣れてないのかもしれないし。時間もないからそのメニューでいいよ」と、
穏やかな対応をしました。

このように同じ出来事に対し、
結果として2人の持つ感情、そして対応がまったく異なったのはなぜでしょう。───
それは、各々が持つ観念(ものごとのとらえ方、見識、信念)が異なっているからといえます。

すなわち、一人は、
「客サービスは、決して客の期待を裏切ってはいけない。
飲食サービスにおいて注文品を間違えるなどというのは致命的なミスである」
という観念を持っているがゆえに、あのような対応が生じました。
他方、一人は、
「混雑するサービス現場では取り違えや勘違いは起こるものである。
おなかが満たされれば、メニューにあまりこだわらない」
という観念で受け止めたために、あのような対応になりました。

このように人の対応に差が出る仕組みを、
臨床心理学者アルバート・エリスは「ABC理論」でうまく説明しています。

ABCとは、次の3つを意味します。
 ・A(Activating Event)=出来事
 ・B(Belief)=信念、思い込み、自分の中のルール
 ・C(Consequence)=結果として表れた感情、症状、対応など

私たちは、何か自分の身に降りかかった出来事に対し、
「よかった」とか「悔しい」とか感情を持ちます。ですから私たちは単純に、
この場合の因果関係を〈A〉→〈C〉であるかのように思いがちです。

ところが実際は、その感情〈C〉を引き起こしているのは、
出来事〈A〉ではなく、その出来事をどういった信念〈B〉で受け止めたかによる
というのがこの理論の肝です。
すなわち、因果関係は〈A〉→〈B〉→〈C〉と表されます。


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アルバート・エリスは、このABC理論(より正確には「ABCDE理論」)を基に
「論理療法」を創始しました。そのエッセンスは、
「起こってしまった出来事を変えることはできないが、
その解釈を変えることで人生を好い方向に進めていくことはできる」というものです。


◆境遇の下部(しもべ)になるか・境遇を土台にするか

私個人のことを言えば、私は子どものころから身体が丈夫ではありません。
いわゆる虚弱体質の部類で、ともかく飲食するにも、活動するにも無理がききません。
すぐにお腹をこわす、すぐに風邪を引いて熱を出す、とそんなようなありさまでした。
大人になってからは何とか毎日仕事生活を送れるような状態にはなりましたが、
それでも、私は常に、痩せすぎでひ弱な身体に神経をつかう日々を送っています。

私は小学校のころから自分のそうした身体の境遇に落胆していました。
母も同じように痩せて身体が弱いほうだったので、
「あぁ、こんな親のもとに生まれた自分に運がないのだ」と誰を責めるでもなく、
ただ、自分の身体に落胆していました。

小学校5,6年のころだったでしょうか、そんなときに母は、
「健康だと健康の有難みがわからへんでしょ。病弱な人はその有難みがわかる。
これはすごいことと違う?」
「弱い人は弱い人の気持ちがわかる。だから、やさしい人になれる」と言ってくれた。

その言葉を聞いて、私は、
「そうか、弱いってことは、その分、みんなが感じられんことを余計に感じられるんや」
ということに気がついたのです。
───今から振り返ると、まさに私自身がABC理論で論理療法のきっかけを得た瞬間でした。

つまり、「虚弱な身体に生まれた」という出来事〈A〉に対し、
「虚弱な母のもとに生まれた自分に運がないのだ」という受け止め方〈B〉が、
自分を落胆〈C〉に導いていたのです。
〈A〉→〈B〉→〈C〉という因果関係です。〈A〉→〈C〉ではありません。

そこで私は母の言葉によって、〈B〉を変えることができた。
「弱いからこそ、多くを感じられる」という受け止め方〈B〉になった結果、
「虚弱だったとしても、強くやさしく生きていこう」という心持ち〈C〉になったのです。
心持ちが180度変わったわけですが、それが起きた前も後も、
「虚弱な身体に生まれた」という事実〈A〉はなんら変わっていません。


◆私たちは各々の解釈でとらえた世界を生きている

私が本記事「観念が人をつくる」で言いたいのはこのことです。
人は生きていく過程で、それこそ無数の出来事や事実に遭遇します。
それら出来事や事実を、どうとらえ、どう評価するか、そしてどう体験するかは
すべて観念という名の“フィルター” (ろ過器)の影響を受けます。

「世の中に事実はない。あるのは解釈だけだ」という言い回しがありますが、
まさに私たち一人一人は、各々の解釈でとらえた世界を生きているのです。

ですから、健やかな観念をもった人は、
健やかな方向にものごとをとらえ、評価し、体験をします。
結果的に健やかな人間となり、健やかな人生を送っていきます。
もっと言えば、健やかな観念が社会に満ちると、健やかな社会となります。
逆に、冷笑的な観念をもった人は、結果的に冷笑的な人間となり、冷笑的な人生を送ります。
冷笑的な観念が世の中を覆うと、冷笑的な社会になります。
観念というのは、それほど根本的に強力なものです。

人生をよりよくつくっていくためには、もちろん意志や努力や想像が必要ですが、
そもそもその意志を起こせるか、努力するエネルギーを湧かせられるか、明るく想像できるか、
それらを大本(おおもと)で支配しているのは観念です。

なんだ、じゃ、人生明るく生きるためには「ポジティブ・シンキング」だ、
と思われるかもしれません。私はポジティブ・シンキングには肯定的ですが、
昨今ではそれが単なる「気分転換術」として紹介される向きがあるのが残念です。

もちろん観念もポジティブサイドでもったほうがよいに決まっていますが、
観念をつくることは、功利的な術よりも深いものですし、
シンキング(思考)よりも根っこにあります。
観念は、その人の内に複雑に構築される信条体系・価値体系で、
一朝一夕にはできあがらないものです。
言ってみれば、それは心の内の地層のようなもので、
読書やら交友やら、見聞やら体験やらで、長い時間をかけて積もり、
ずどんと居座ってしまうものです。
意志的な努力を継続してやっと醸成できる観念もあれば、
知らぬ間に染まってしまい、それを脱色するのがなかなか難しい観念もあります。


◆いま個人と社会に必要なのは「健やかな観念」

いずれにせよ、どんな観念をもつかは、人生の一大事です。
どんな知識をもつか、どんな技能をもつか、どんな会社に入るかより、はるかに大事です。
私は教育分野の仕事をライフワークにしたいと思い8年前に独立しました。
私は「健やかな観念」こそが個人と社会に必要だと思い、
「働くこと×健やかな観念」を自分の中のキーコンセプトにして
企業研修の場で学びのプログラムづくりを始めました。

私がここで言う「健やかな」とは、
生き生きと強い、素直である、明るく開けている、善的なことに向かっている、
自然と調和している、などの意味合いです。
そうした健やかな観念を涵養してくれる古典的な言葉は世の中にたくさんあります。
先達たちが残してくれた宝石をひとつひとつ拾い集め、
「よりよい仕事を成す」ための学習プログラムという首飾りに仕立てる───
それが私の仕事になりました。

例えば、
 ・「人は努めている間は迷うものだ」 (ゲーテ『ファウスト』)

 ・「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」 (高村光太郎『道程』)

 ・「指揮者に勧められて、客席から演奏を聴いたクラリネット奏者がいる。
  そのとき彼は、初めて音楽を聴いた。
  その後は上手に吹くことを超えて、音楽を創造するようになった。
  これが成長である。仕事のやり方を変えたのではない。意味を加えたのだった」
  (ピーター・ドラッカー『仕事の哲学』)

 ・「他人が笑おうが笑うまいが、自分の歌を歌えばいいんだよ」 (岡本太郎『強く生きる言葉』)

 ・「勤勉なだけでは十分といえない。そんなことはアリだってやっている。

  問題は、何について勤勉であるかだ」 (ヘンリー・デイビッド・ソロー『ソロー語録』)

……これらの言葉を文字面(もじづら)で理解するのは簡単です。
しかし、肚で読む(=観念に落とし込む)ことは簡単ではありません。
しかも普段の仕事につなげて考えることも難しい。そのために、
私は玩具の「レゴブロック」を使ってシミュレーションゲームをやったり、
ドキュメンタリー番組や映画を観ながら討論をやったりします。

研修づくりの方法論の観点から言えば、
「その格言なら知っているよ」という知識を観念に変えていくために必要なことは、
心が活性化している状態、もっと言えば魂が何かを求めて動き出す状態をつくることです。
それは楽しく何かに没頭している場や、
困難を受けて真剣に考えようとしている場を疑似的に設けることです。
そこに普遍的で強い力をもった言葉をすっと差し出すと、
敏感になった心の琴線に響いていき、沁みていきます。
そしてそこから原理原則的なエッセンスを各自から引き出させ、
現実の仕事、現実の生活にどう応用ができそうかを考えさせる───
ここまでやって「知識→観念」の変換作業の半分でしょうか。
あとは、実際、一人一人がそれを糧にいろいろな現実問題を乗り越えていってようやく
自身の観念として肚に据わっていきます。

フランスの哲学者アランが
「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」と言ったとおり、
特に、楽観をもって建設的に事に向かっていこうとする「健やかな観念」は
気分的なものと違い、意志的なものであるために、その形成には忍耐と努力が要ります。


◆知識に肥えていても観念が痩せている

3・11以降、私たちはメディアを通し、
あの荒漠とした被災地でたくましく再起をはかる人たちの姿を数多く目にしてきました。
南アフリカ共和国の心臓外科医であるクリスチャン・バーナードは、かつてこう言っています。

─── 「苦難が人を高貴にさせるのではない。再生がそうさせるのである」。
    (“Suffering is not ennobling, recovering is.”)

確かに、苦難自体が人を高めるというより、
苦難を乗り越えようとするその過程で、人は強く、賢く、優しくなっていくのだと思います。
被災から立ち上がった人たちは、まぎれもなく、
自分の内で強い観念を起こし、そこから再生の意志を奮い立たせた人たちです。

私がテレビ報道から耳にしたのは、
「この震災にも何か意味があるにちがいない」、
「ここから立ち直り、教訓を未来に伝えていくことが自分たちがやれる最大のことだ」
といった勇気に満ちた声でした。
こうした観念を起こすにはすさまじいエネルギーを要したでしょうが、
この再生途上にある人の姿こそ高貴なのだと感じました。

観念は一様ではありません。
感情的な思い込みから、無意識の思考習慣、思想的・宗教的な信念まで、
さまざまな観念が一人の人間の内で、そして社会で、複雑な模様を渦巻いていきます。
あるものは安易に流れ込み感染を広げ、
あるものは試練を経て獲得され静かに感化の波を起こし、
あるものは悲観的で、傍観主義で、利己的で、
あるものは楽観的で、挑戦主義で、利他的で、
これらが四六時中せめぎ合いをし、勢力争いをします。
そして、どんな観念が支配的になるかで、個人の生き方も社会の様相も決まる。

いずれにせよ、観念が人をつくり、個々の観念が社会をつくります。
知識に肥えていても、観念に痩せているという人がいます。
同様に、物質は豊かだが、観念の貧しい社会もあります。
私たちは自身の内部に広がる無限の観念空間の開発に
もっともっと目を向けるときにきていると思います。

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