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2011年12月 5日 (月)

働く“自由”があることの負荷


Izu sst 01
中伊豆・修善寺にて



私は「プロフェッショナルシップ」(一個のプロであるための就労基盤意識)を醸成するための研修を企業現場で行っています。それは“先端”を感じ取る仕事でもあるので、とても面白く、刺激的に、そして、ときに悲観の波に襲われながら、でも楽観の意志を失わずにやっています。

何の先端かと言えば、情報や技術の先端ではありません。いまの時代に働く人たちの「心持ち」の先端です。私の行う研修プログラムは、働く意味や仕事の価値、個人と組織の在り方、を受講者に考えさせる内容ですので、必然、彼らが内省し言葉に落としたものを私は受け取ります。

顧客は主に大企業や地方自治体で、受講者はその従業員・公務員です。現代の日本の経済を牽引し、消費スタイルを形づくり、文化をつくる、いわば先導の人たちが、いま、こころの内でどう働くこと・生きることについて考えているか、それを知ることは、流行という表層の波を知ることではなく、底流を知ることになるので、中長期にこの国がどの方向に変わっていくのかを感じ取ることができます。


◆「あこがれるものが特にない」


さてそれで、きょうは最近の研修現場から感じることを1点書きます。

研修プログラムの中で私は『あこがれモデルを探せ』というワークをやっています。これは世の中を広く見渡してみて、

  ・「あの商品の発想っていいな/あのサービスを見習いたい」とか、
  ・「ああいった事業を打ち立ててみたい」
  ・「あの人の仕事はすごい/ああいうワークスタイルが恰好いい」、
  ・「あの会社のやり方は素晴らしい/あの組織から学べることがありそうだ」

といった模範や理想としたい事例を挙げてもらい、その挙げたモデルに関し、具体的にどういう点にあこがれるのかを書く。そしてそれを現実の自分の仕事や生活にどう応用できそうかを考えるものです。

私の研修では、最終的に、自分の仕事がどんな意味につながっているか、自分の働く組織が社会的にどんな存在意義をもっているか、その上で、自分は職業を通して何をしたいか、何者になりたいかを考えさせるわけですが、それをいきなり問うても頭が回らないので、こうした補助ワークから始め、自身の興味・関心や、想い・志向性をあぶり出していくわけです。

……さて、補助ワークとはいえ、これがなかなか書けないのです。

一応、ワークシートには3つのモデルを書く欄を用意していますが、がんばってようやく1つ書ける人、そしてついに1つも書けない人が、合わせて全体の2割~3割は出るでしょうか。本人たちは不真面目にやっているふうでもなく、ヒントを出して思考を促しても、「いや、ほんとに、思い浮かばないんです」と当惑した表情をみせます。

「じゃ、尊敬する人は誰かいますか?」と訊くと、「あぁ、それじゃ、お父さん」と言う。「お父さんのどんな点を尊敬しますか?」と訊くと、「たくましいところ」と答える。「そのお父さんの尊敬する点を自分の働き方にどう取り入れられそう?」───「う、うーん。。。自分もたくましく家族を養っていきたい」と、そんな調子です。この答え自体は無垢な気持ちから出たもので悪いとは言いません。問題は、意欲を具体的に起こす思考ができなくなっていることです。

ちなみに、彼らの年次は入社3年目から5年目、20代後半とお考えください。担当仕事はすでに一人前かそれ以上にできるように育ってはいるものの、「あこがれモデル」を想い抱くことに関しては、ある割合が、こうなってしまう現実があります。私は8年前からこの種の研修ワークを取り入れていますが、「あこがれが特にない/うまく抱けない」という割合は増えている傾向にあると感じています。


◆2年間の兵役が自由への意識を目覚めさせる

「あこがれる」という気持ちは、意欲を湧き起こし、意欲に方向性を与え、他の様子から学ぶ(「学ぶ」は「真似る」を由来とする説もある)という点で、とても大事なものです。あこがれを起こせない個人が増えるということは、そのまま、社会全体の意欲の減退、方向性の喪失、学ぶ思考力の脆弱化につながっていきます。

私たちは何にあこがれてもいいし、そのあこがれを目指すことで自分の力を引き出し、何になってもいい、という自由を手にしています。しかし、その自由の中で私たちはますます浮遊の度を強めています。

私がかつて企業で管理職をやっていたとき、部下に韓国人の男性がいました。彼はともかく20代の時間を惜しむように、会社内外でいろいろなことに挑戦をしていました。彼にいろいろと話を聞くと、そうした意欲は兵役中に芽生えたと言います。ご存じのとおり、韓国は徴兵制を敷いています。男性は一般的に20代のうちに約2年間の兵役義務につきます。

能力も知識も感情も形成盛りの20代に2年間の服務生活。ある種の自由が奪われた状態が個々の人間に与える影響は小さいはずがありません。彼は兵役中、むさぼるように読書をし、服務を終えたら何をしようこれをしようと想いが溢れたそうです。


◆自由を敬遠する底には怠惰や臆病がある

幸いにも日本には徴兵制はありません。自分の人生の時間は100%自分が自由に使えます。しかし逆に、そうした有り余る自由に対して、私たちは戸惑ったり、敬遠したり、負担に感じたりと、どうも具合がよくないのです。


「あこがれるものは特にない」、「やりたいことがわからない」、「会社の中で与えられた仕事をとりあえずきちんとやるだけ」、「そういえば働く目的って考えたことがない」……。目の前には自由という大海原があるにもかかわらず、漕ぎ出すことができないで浜辺で逡巡している場合が多いのです。

ピーター・ドラッカーは次のように言います───


「自由は楽しいものではない。
それは選択の責任である。楽しいどころか重荷である」。

(『ドラッカー365の金言』)


また、エーリッヒ・フロムもこう指摘しました───

「(近代人は)個人を束縛していた前個人的社会の絆からは自由になったが、個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は、まだ獲得していない。

……かれは自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めるか、あるいは、人間の独自性と個性にもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる」。 
(『自由からの逃走』)


学びたいものは何でも学ぶことができる、なりたいものには何でもなることができる(もちろん、そうなる努力と運があってのことですが)───こういう自由な環境下にありながら、なぜ、私たちはそれを敬遠してしまうのでしょうか。

その大きな理由の一つは、自由には危険やら責任やら、判断やらが伴うので、そのために大きなエネルギーを湧かせる必要があるからでしょう。

人は、自由そのものを敬遠しているのではなく、それに付随する危険や責任、判断、エネルギーを湧かすことに対して、面倒がり、怖がっていると考えられます。

選ばなくてすむといった状況のほうが、基本的にラクなのです。確かに、日常生活や仕事生活で、大小のあらゆることに対して、事細かに判断をしなくてはならないとしたら、面倒でたまりません。多くのことが、自動的に制限的に決められて流れていくことも場合により望ましくあります。

しかし、人生に決定的な影響を与える職業選択と、日々の仕事の創造において、その自由を敬遠するのは、一つの怠慢や臆病にほかならないでしょう。

丸山真男は強く言います───

「アメリカのある社会学者が『自由を祝福することはやさしい。それに比べて自由を擁護することは困難である。しかし自由を擁護することに比べて、自由を市民が日々行使することはさらに困難である』といっておりますが……(中略)。

自由は置き物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。

その意味では近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえ何とか安全に過せたら、物事の判断などは人にあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々とよりかかっていたい気性の持主などにとっては、はなはだもって荷厄介なしろ物だといえましょう」。
(『日本の思想』)



私が研修を通して接している層は、大企業の従業員や公務員であり、はっきり言えば、いろいろな意味で“守られた層”の人たちです。

守られているがゆえに、その分、安心して十全に自己を開き、仕事を開いて、日本をぐいぐいと牽引していってほしいと願いたいところです。フロムの表現を借りれば、「人間の独自性と個性にもとづいて積極的に」自由を活かしてほしい。しかし、現実は、「自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求める」傾向が強まっています。


◆個々が内面を掘り起こすことでしか世の中は善く変わらない

私はここで、日本のサラリーマンが「仕事を怠けている」と言っているのでありません。「自由を活かすことを怠けている」のではないかと言っているのです。

私たちはそれこそ残業の日々です。うつ病が社会問題化するほど、ストレスもさまざまに抱えています。その面ではよく働いています。 しかし、私たちが気づかねばならないのは、その働き過ぎは、フロムの指摘する“自由の重荷から逃れた新しい依存と従属”によって引き起こされているものではないかということです。


私たちは、自分の仕事の在り方を決める自由を手にしています。そして、組織の在り方、事業の在り方、資本主義の在り方も自分たちで決められる自由を持っています。しかし、その正しい解を見つけ出し、実現するには相当の努力が要るので、それは遠まわしにしたり、誰かがやってくれるだろうことを期待して、とりあえず目先の自己の利益確保だけを考えて、現状体制に依存と従属をするわけです。

多少の愚痴や問題はあるけれど、その依存と従属の仕事で、毎月、お給料が振り込まれ、なんとなく生活が回っていくのであれば、ことさらに自由を使いこなす必要もない。まさに丸山の言う「アームチェア」的な居心地に身を置くことができれば、そこから立ち上がりたくなくなる状態が生まれる───私には、「あこがれモデル」を探せなくなった社員たちの姿をそこに見るような気がします。

かといって、私はこうしたことを批評するだけで終わりたくはありません。私の目の前には、そうした問題の解決に身を投げる大海原が広がっています。ですから私は、守られた環境のサラリーマン生活にピリオドを打ち、独立して教育事業への道を歩み始めました。自分の自由をもっと活かしてみようと思ったのです。

「世の中を悪い方向に変えるにはマス情報で事足りるが、世の中を善い方向に変えるには1人1人の内面を掘り起こしていかなければならない」───これは私が大手出版社に勤めて得た最大の収穫です。

そうしていまは、日本の企業・自治体の第一線で働く1人1人と、学びの場を通して対話や思索を交える仕事をやっています。目下の課題の一つは、「あこがれを抱けなくなりつつある若年層社員に、どうすれば思考の刺激を与えられるのか」。そもそも『あこがれモデルを探せ』は、働く目的を考える補助ワークでしたが、その補助ワークの補助ワークが必要になってきたという状況です。しかしそれもやりがいのある仕事です。

いまの仕事は、日本のサラリーパーソンの「心持ちの先端を感じ取る」仕事ですが、同時に、教育を通して、そうした人たちの「心持ちの先端をつくる仕事」でもあります。


Tamagawa sst 02
多摩川から夕暮れの富士山を望む



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