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2012年4月

2012年4月28日 (土)

新葉は美しい・学ぶ人は美しい


Sinba 01

春の陽光と慈雨に誘われて出てくる新葉。


わずか数週間前までは水墨画で描くようだった寒々とした世界に、
突如として現れる瑞々しき生命体。
いったいぜんたいあの冬枯れした枝幹のどこにこのようなものを蓄えていたのだろう。

古い部分を捨て、
その古い部分のなかから新しい部分を生まれさせる。
そうした死と生のサイクルを営々と動かしながら一つの生命は健やかに続いてゆく。


Sinba 02


「学ぶ」という行為は、まさにそうした生命活動の一つである。
古い知識を土台に、それらを組み合わせ、編集しなおし、
新しい知識へと生まれ変わらせていく。

何かを真剣に学んでいる人が輝いて見えるのは、
内面から瑞々しい新葉が出てくるから。

逆に、学ばない人は、新葉の再生が起こらず、朽ちる回路に入る。
美しくない。

さて私の仕事は、教育。
若葉を誘うのが、春の陽と雨であるなら、
私はどういった光になれるか、熱になれるか、水になれるか、それを日夜考える。


「たった一回の穏やかな雨で、草は緑の色合いを濃くする。
同じように、よりよい思想が流れ込むことで、
僕らの視界がひらけてくるのだ」。


                                                                         ───ヘンリー・D・ソロー『森の生活』


健やかなゴールデン・ウィークを!

Sinba 03



2012年4月19日 (木)

志村ふくみさんの言葉


Hana ik2


Shimura kd


私は桜の終わりの季節を迎えると、一人の匠の言葉を思い出します。

志村ふくみさんは、染織作家で人間国宝にも選ばれた方です。
彼女によれば、
淡いピンクの桜色を染めたいときに、桜の木の皮をはいで樹液を採るそうなのですが、
春の時期のいよいよ花を咲かせようとするタイミングの桜の木でないと、
あのピンク色は出ないのだといいます。
秋のころの桜の木ではダメなのです。

「植物にはすべて周期があって、機を逸すれば色は出ないのです。
たとえ色は出ても、精ではないのです。
花と共に精気は飛び去ってしまい、あざやかな真紅や紫、黄金色の花も、
花そのものでは染まりません」。

色はただの色ではなく、木の精なのです。
色の背後に一すじの道がかよっていて、そこから何かが匂い立ってくるのです」。

                                                                                              ───(志村ふくみ『一色一生』より)


さらに、志村さんの言葉です。


「その植物のもっている生命の、まあいいましたら出自、生まれてくるところですね。
桜の花ですとやはり花の咲く前に、花びらにいく色を木が蓄えてもっていた、
その時期に切って染めれば色が出る。

……結局、花へいくいのちを私がいただいている、
であったら裂(きれ)の中に花と同じようなものが咲かなければ、
いただいたということのあかしが……。

自然の恵みをだれがいただくかといえば、
ほんとうは花が咲くのが自然なのに、私がいただくんだから、
やはり私の中で裂の中で桜が咲いてほしいっていうような気持ちが、
しぜんに湧いてきたんですね」。

                                                              ───(梅原猛対談集『芸術の世界〈上〉』より)



現代では、多くの労働者が第三次(第四次)産業に就き、
仕事の対象がますます情報・知識に向かっている。
そしてサラリーによって雇われ、空調のきいたビルの中で、
パソコン端末の窓の中に頭を泳がす。
頭を泳がす先にあるのは、利益獲得という得点ゲーム。
ゲーム展開は『エクセル』シートのタテ・ヨコに並んだ膨大な数値が
刻々と上がり下がりすることで示される。

だからこそ勝ち負けがはっきりしてビジネスは面白い!ということでもあるのだろうが、
そこにあるのは「仕事の興奮」であって、
「仕事の幸福」ではないような気がする。
現代の多くのビジネスパーソンにとって、
上の志村さんの言葉は、気に留めることもない遠いささやきのように思える。

ビジネス現場での仕事が、ますます、生命や自然と切り離されてゆく。
そして一方、癒しの露天温泉や登山・キャンピングなどが人気レジャーになる。
仕事は仕事で、人工的な装置とルールの中で数取りゲームをやり、
休みは休みで、自然をカラダの中に取り込みに行く(渋滞道路にストレスを溜めながら)。
そんな分離の姿は、それこそ不自然なのだが、そうするしかないのだろう。

自然を考えることや生命を感じ取ることが普段の生活の中にあり、
そしてそれが、仕事にも当たり前のように結び付いてくる。
それは、近代までの農業的・職人的な仕事生活でしか適用できないものだろうか。
(これはウィリアム・モリス『ユートピアだより』1890年以来の問題でもある)

いや、自然や生命への希求は人間が本然(ほんねん)として持っているものだから、
現代の情報・知識産業の現場においても、
一人一人の働き手が、仕事の根底に据えていいはずものである。

企業の研修現場は、スキル・知識を習得させることに忙しい。
そんな中で、私は「観」を涵養するプログラムを押し進めていく。


Hana ik1
桜は咲いてよし、はらはらと散ってよし。そして散り積もってよし。
水面に並び浮かぶ花びらを「筏(いかだ)」と見立てたのは何とも古人の風流心。




2012年4月18日 (水)

100年後、自分のヴァイオリンに会ってみたい

 

「私が生み落としたのはまだヴァイオリンの赤ちゃん。
それこそタイムマシンがあれば、
100年後、これがどんなふうになっているか会いにいってみたい」。



先日、あるテレビ番組でヴァイオリン製作職人が紹介されていた。
現在、イタリアに工房を構えるその方は、菊田浩さん。
菊田さんは、NHKのエンジニアを辞めて、
突然、ヴァイオリン製作の世界に飛び込んだという異色の経歴である。

それまで楽器や音楽にはまったく縁がなかったという。
それで食っていけるとも何ともわからない状況で、
大きなリスクを負い、職人の道に入ってしまう、その潔さには共感が持てる。

しかしながら、菊田さんはその後修業を積み重ね、見事、
「ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン製作コンクール」(ポーランド)や
「チャイコフスキー国際コンクール・ヴァイオリン製作部門」(ロシア)など、
その世界最高峰のコンクールで優勝を飾るほどの実力者になってしまった。

冒頭は、(正確ではないかもしれないが)番組中に菊田さんが語った言葉だ。
「100年後、自作のヴァイオリンに会ってみたい」とは、
何とも想いが豊かに滲み出ている表現である。

名器「ストラディバリウス」がそうであるように、
ヴァイオリンは製作者の手を離れ、
幾世代にも渡り、人の手で奏でられ手直しをされてこそ成熟が始まる。
(「ストラディバリウス」はおおよそ300年もの)

ヴァイオリン製作の名職人といえども、
みずから手を施せるのは形をつくるまで。
どれだけ精緻につくろうと、出来たては音色も若く、未完成品なのだ。
長い時間と人の手がなければ、名器にはなれないのである。
だからこそ、我が子を100年の旅に出す親の気持ちが菊池さんに湧いてくるのだろう。


───100年の時間単位で自分の仕事を考えられる。
これは何と素晴らしいことだろう! なおかつ、
───自分の創造物が100年の時間単位で人の手と耳と目を楽しませる。
これほどの仕事の喜びがあるだろうか。


私は、菊田さんを世界最高峰のコンクールで優勝したからといって「成功者」と呼びたくない
自分が死んでも、自分のつくりあげたものが生き残って人びとを喜ばせていく。
そしてそのことを想い浮かべることができる。
その意味で、彼を最高の「幸せ者」と呼びたい
きっとご本人もそうであるにちがいない。



2012年4月14日 (土)

抽象的に考える力~喩え話をどう現実に展開するか



THINK2012 Spr 4th雑誌『THINK!』(東洋経済新報社)に連載中の

「抽象度を上げて本質をつかむ~曖昧さ思考トレーニング」も第4回を迎えました。

今回のテーマは「比喩化」です。
比喩について思考の流れは2種類あります。
1つは、「比喩の凝結」=ものごとを比喩表現に落とし込む流れ。
もう1つは、「比喩の展開」=比喩表現を他のものごとへ応用する流れ。

『THINK!』誌面では、その2つにつきいろいろな角度から例を出して解説します。
きょうのブログでは、その一部、「比喩の展開」について少し書きましょう。

* * * * *

◆共通性を見出して括る…それが抽象作業

   まず、「抽象的に考える」とはどういうことかを改めて押さえることから始めたい。抽象とは、物事のある性質を引き抜いて把握することをいう。抽象の「抽」は「抜く・引く」という意味で、「象」は「ようす・ありさま」のことだ。

   図1を見てほしい。横に「ヒト」「キリン」「カエル」「ミジンコ」「サクラ」と並んでいる。そこでまず「ヒト」と「キリン」を括る〈共通性①〉は何だろうか。次に「ヒト」と「カエル」を括る〈共通性②〉は何だろうか。そういう具合に〈共通性③〉〈共通性④〉に入る言葉を考えてほしい。
……正解の一例をあげると、順に「哺乳動物」「脊椎動物」「動物」「生き物」となる。このように複数の物事の間に何かしらの共通性を考えるとは、簡単に言えば、グループ分けをしてそこにラベル張りをする作業でもある。その作業をするとき、私たちは必然的に、そこに並んでいる物事の外観や性質から特徴的な要素を引き抜き、どんな括りで分類できそうかを考える。これがまさに抽象的に考えることにほかならない。


Aimaisa01


   より多くの物事、より関係性の弱い物事を括ろうとするほど、そこに付けられるラベルはより多くの曖昧さを含むようになる。共通性①の「哺乳動物」と、共通性④の「生き物」とを比べてみてもわかるとおり、後者のほうが概念の範囲が広く、その分だけ曖昧さが増す。抽象度を上げて考えることは曖昧さを伴うのだ。

◆「魔法使いの弟子」から何を学びとるか

   では、「比喩の展開」を考えていこう。「比喩の展開」とは、「比喩表現を他のものごとへ応用する」思考のことである。
   「魔法使いの弟子」という寓話(教訓や諷刺を含んだ喩え話)をご存じだろうか? ドイツの文豪ゲーテは、この古い寓話を詩文に取り込み、それをフランスの作曲家ポール・デュカスは、1897年に交響詩として楽曲化した。そしてこの寓話は1940年、ディズニー製作のアニメーション映画『ファンタジア』によって幅広く知られることとなる。映像化されたシーンはこんな感じだ。

───ミッキーマウス扮する魔法使いの弟子は、師匠から水汲みを命ぜられ、両手に木桶を持って家の外と中を往復している。折しも師匠が出かけていなくなり、ミッキーはここぞとばかり、見よう見まねの呪文を箒(ほうき)にかける。すると箒は木桶を両手に持って歩き出し、自分の代わりに水汲みを始める。しめしめとミッキーは居眠りをする。しかしその間にも水はどんどん溜まり続け、ついには溢れ出す。

ミッキーは目を覚まし、あわてて箒を止めようとするが、箒にストップをかける呪文がわからない。ミッキーは斧を持ち出して、箒を切り刻んでしまう。ところが切られた破片がそれぞれ1本の箒となって蘇り、水汲みを始める始末。箒の数は幾何級数的に増えていき、ミッキーは洪水状態の家の中であっぷあっぷと溺れる……。


   さて、この寓話からあなたは何を学び取るだろう。ある人は「怠け心は結局得にならない」と日常生活への知恵にするかもしれない。また、ある人は「技術は中途半端に用いると危険だ」と自分の仕事のことに当てはめて考えるかもしれない。さらには、これを現代文明への警鐘として受け止める人もいるかもしれない。

   米国の評論家・歴史家であるルイス・マンフォードは、『現代文明を考える』(講談社、生田勉・山下泉訳)の中で、この寓話を取り上げ、こう書く。

───「大量生産は過酷な新しい負担、すなわち絶えず消費し続ける義務を課します。(中略)『魔法使いの弟子』のそらおそろしい寓話は、写真から美術作品の複製、自動車から原子爆弾にいたる私たちのあらゆる活動にあてはまります。それはまるで、ブレーキもハンドルもなくアクセルしかついていない自動車を発明したようなもので、唯一の操作方式は機械を速く働かせることにあるのです」。


◆抽象的な物語に触れよ

   1つの寓話から引き出す内容、当てはめる先は、人それぞれに異なる。それを描いたのが図2だ。このように、ある比喩を生活や仕事、社会といった他の物事に広げ応用していくのが「比喩の展開」である。
   比喩の展開プロセスは、図に描いたとおり3ステップになる。───①抽象度を上げて考え、②そこから共通性を見出し、③当てはめる。この一連の流れを私は、その形から「π(パイ)の字」プロセスと呼んでいる。

Aimaisa02


   「アリとキリギリス」「ウサギとカメ」「北風と太陽」など、世の中にはさまざまな寓話がある。寓話は子ども向けの話と済ませてはいけない。古典的な寓話は、人生のいつの時期に読んでも、そのときどきのとらえ方ができる。抽象度を高く上げて、その寓話が内包するエッセンスをつかみ、遠くのものごとに敷衍(ふえん)することは、大人の成熟した思考の姿でもあるのだ。
   具体的な情報ばかり摂取していてもこうした思考力は鍛えられない。抽象的な物語に触れ、それを咀嚼し展開する思考機会を自分で設けなくてはならない。それはさほど難しいことではない。例えば、文学にせよ絵画にせよ、芸術作品に接し、作者が曖昧さの奥に潜ませた本質は何だろうと、感性を開き、思考を巡らせていくことで養われる。



Msakura
桜の盛りも過ぎ、いよいよ初夏を彩る新葉のまぶしい季節に

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