志村ふくみさんの言葉
私は桜の終わりの季節を迎えると、一人の匠の言葉を思い出します。
志村ふくみさんは、染織作家で人間国宝にも選ばれた方です。
彼女によれば、
淡いピンクの桜色を染めたいときに、桜の木の皮をはいで樹液を採るそうなのですが、
春の時期のいよいよ花を咲かせようとするタイミングの桜の木でないと、
あのピンク色は出ないのだといいます。
秋のころの桜の木ではダメなのです。
「植物にはすべて周期があって、機を逸すれば色は出ないのです。
たとえ色は出ても、精ではないのです。
花と共に精気は飛び去ってしまい、あざやかな真紅や紫、黄金色の花も、
花そのものでは染まりません」。
「色はただの色ではなく、木の精なのです。
色の背後に一すじの道がかよっていて、そこから何かが匂い立ってくるのです」。
───(志村ふくみ『一色一生』より)
さらに、志村さんの言葉です。
「その植物のもっている生命の、まあいいましたら出自、生まれてくるところですね。
桜の花ですとやはり花の咲く前に、花びらにいく色を木が蓄えてもっていた、
その時期に切って染めれば色が出る。
……結局、花へいくいのちを私がいただいている、
であったら裂(きれ)の中に花と同じようなものが咲かなければ、
いただいたということのあかしが……。
自然の恵みをだれがいただくかといえば、
ほんとうは花が咲くのが自然なのに、私がいただくんだから、
やはり私の中で裂の中で桜が咲いてほしいっていうような気持ちが、
しぜんに湧いてきたんですね」。
───(梅原猛対談集『芸術の世界〈上〉』より)
現代では、多くの労働者が第三次(第四次)産業に就き、
仕事の対象がますます情報・知識に向かっている。
そしてサラリーによって雇われ、空調のきいたビルの中で、
パソコン端末の窓の中に頭を泳がす。
頭を泳がす先にあるのは、利益獲得という得点ゲーム。
ゲーム展開は『エクセル』シートのタテ・ヨコに並んだ膨大な数値が
刻々と上がり下がりすることで示される。
だからこそ勝ち負けがはっきりしてビジネスは面白い!ということでもあるのだろうが、
そこにあるのは「仕事の興奮」であって、
「仕事の幸福」ではないような気がする。
現代の多くのビジネスパーソンにとって、
上の志村さんの言葉は、気に留めることもない遠いささやきのように思える。
ビジネス現場での仕事が、ますます、生命や自然と切り離されてゆく。
そして一方、癒しの露天温泉や登山・キャンピングなどが人気レジャーになる。
仕事は仕事で、人工的な装置とルールの中で数取りゲームをやり、
休みは休みで、自然をカラダの中に取り込みに行く(渋滞道路にストレスを溜めながら)。
そんな分離の姿は、それこそ不自然なのだが、そうするしかないのだろう。
自然を考えることや生命を感じ取ることが普段の生活の中にあり、
そしてそれが、仕事にも当たり前のように結び付いてくる。
それは、近代までの農業的・職人的な仕事生活でしか適用できないものだろうか。
(これはウィリアム・モリス『ユートピアだより』1890年以来の問題でもある)
いや、自然や生命への希求は人間が本然(ほんねん)として持っているものだから、
現代の情報・知識産業の現場においても、
一人一人の働き手が、仕事の根底に据えていいはずものである。
企業の研修現場は、スキル・知識を習得させることに忙しい。
そんな中で、私は「観」を涵養するプログラムを押し進めていく。
桜は咲いてよし、はらはらと散ってよし。そして散り積もってよし。
水面に並び浮かぶ花びらを「筏(いかだ)」と見立てたのは何とも古人の風流心。