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2013年5月

2013年5月22日 (水)

どっしりと静かだが激しい土の造形───樂茶碗

Rakuyaki


私たちは常に何かしら“表現”したいと望んでいる。きょうはどんな服を着ていこうか、どんなことを話そうか・どんな言葉で話そうか、どんな写真を撮ってネットに上げようか、どんなプレゼントをしようか……現代人はいったい1日のうちにいくつの表現を行っているのだろう。

考えてみれば「職業・仕事」にしても、それは自分の能力と価値観を、意見やアイデア、商品やサービスといった形に表現する行為だと言っていい。それら一人の人間が行う大小あまたの表現は、人に見られたり見られなかったり、評価されたりされなかったり。でも、たいていのものは悠久の時間の波のなかへ泡のようにすっと消えていく。

しかし、なかには、とてつもなく強靭な表現があって、たとえば、聖書や仏典、コーランのように千年単位の時を超えて私たちに影響を与える深遠な物語がある。また、モーツァルトやベートーベンは華麗で荘厳な音の織物を書き上げた。ガンジーやキング牧師は崇高で不屈の生きざまによって、21世紀の私たちに正義とは何かを問いかける。ピカソは油絵という表現によって、ガウディは建築物という表現によって、世阿弥は猿楽という表現によって、いまだに私たちを魅了する。

長い時間の風雪をもろともしない強靭な表現に接することはとても楽しい。その表現を前に、心身が引き締まる楽しさ、咀嚼する楽しさ、圧倒される楽しさ、畏れ敬う楽しさ、インスピレーションをもらう楽しさがある。

そんな強靭な表現のひとつに対面してきた。
過日、関西出張の合間に『樂美術館』(京都市)を訪ねた。折しも「樂歴代名品展」を開催中だった。

「一樂二萩三唐津」(いちらく・にはぎ・さんからつ)という言葉があるように、お茶の世界で好まれる焼きものの一番めにくるのが京都の樂焼である。樂焼はロクロを使わずに手づくねで成形し、一品ずつ小炉に入れて焼くところに特徴がある。約400年前、千利休が樂長次郎に焼かせたときに始まる。樂焼の美と技は、初代・樂長次郎から連綿と継承され、現在、十五代目の樂吉左衛門に至っている。

1枚のガラスを隔てて展示台には、初代・長次郎作の茶碗をはじめ、二代・常慶、三代・道入、四代・一入、五代・宗入らの作品が並んでいる。武骨だけれども流麗、粗に見えて繊細、素ながら綿密。単色のなかの無限の奥行き。目で撫でれば撫でるほどに鈍重な快楽を呼び起こす造形。油断をすればその小さな土の塊にからだ全部が吸い込まれてしまうのではないかと思える強い存在感。一つ一つの器を眺めていると、時間がいくらでも経ってしまう(手のひらで触れることができれば、さらに魅了されてしまうところだが)。「なんで、こんな造形をつくってしまえるのか!」───私は心のなかでそんな感嘆の声を何度も上げながら、ただただ見入るだけ。

長次郎の茶碗は初代にして後の誰をも黙らせるほどの完成度を誇っている。だから、二代目以降の樂家当主は、長次郎を超えることが宿命であるかのように、それぞれが独自の作風を必死になって生み出していくという歴史が生まれた。

樂家十五代・樂吉左衛門さんは、NHKのテレビ番組で、初代・長次郎の茶碗についてこう語っていた───

「動かざる岩みたいにどかんとしていて、だけど静かだっていう」、
「美という範疇からも醜いという概念からも逸脱しているし、両方におさまらない激しさをもっている。そんなものを世の中にぬっと差し出してくる鋭さ、激しさ、意志力」。


……吉左衛門さんもまた、長次郎の遺した器そして長次郎という人間の巨大な壁を目の前に「こんなものをどう乗り越えたものか」と戦う一人の陶工である。

ちなみに吉左衛門さんは、樂焼なるものをしっかりと受け継ぎながら前衛的な試みをする人である。彼が先のテレビ番組のなかで、「言葉なんかにとらえられないところにいきたい」と言っていたのが印象的である。

“どっしりと静かだが激しいもの”───そういう表現を私も遺していきたいと思う。私の場合は著作という形で。たとえば、いま私の机にはマルクス・アウレーリウスの『自省録』(神谷美恵子訳、岩波文庫)がある。マルクス・アウレーリウスは2世紀に生きたローマの哲人皇帝である。彼の書いたものが1900年の時を超えて、いまだ私たちに大きな啓発を与える。どっしりとして静かだが激しい巌(いわお)のごとき内容だから朽ちないのだ。

私は独立して11年目を迎え、その間に8冊の著作を刊行することができた。しかし、どこか時流に乗って売りたい、評価されたい、自分の知見をひけらかしたい、のような下心が排せなかったようにも思う。
そんなとき、美醜を超え、世間の評価など眼中に入れず、ただひたすらに土と炎に向き合い、おのれの造形を突き出し続けた長次郎の生きざまには、はっと気づかされるものがある。

“動かざる岩みたいにどかんとしていて、だけど静かだっていう”書物を著すには、まず、自分という人間がそうなってなくてはいけない。人生は短く、芸の道は長い。想い描く表現を手にするまでの修業はまだまだ続く───。








2013年5月 2日 (木)

苗床づくりと種まき


Tanemaki05

ゴールデンウィークが始まりました。
私は地元の田んぼにいます。


Tanemaki00 「田んぼの学校」は毎年、無農薬栽培です。なので、いま時期の田んぼの雑草はすごい生命力です。ただ雑草といってもちゃんと名のある野草です。レンゲにナズナ、ホトケノザ、ヨモギなど。間近で観察するといろんなものが花を咲かせています。風に小きざみに揺れるカタバミの可憐な黄色の花、オオイヌノフグリの花のすがすがしく繊細な青色のグラデーション、トキワハゼのミクロアートな造形の花……。
かれらは根っこをしっかり張って伸びたい放題、もう、ぼーぼー状態です。近くには除草剤がまかれている農家の商業用耕作地があるので、ひと目で比較できるのですが、その雑草の生い茂る状態は大違いです。

こうした雑草を根っこから手で刈る作業はそれはもう大変です。ですが、こうした作業を経験すれば、農家が除草剤を使うことも十分に理解ができます。

* * * * *

きょうは水路そうじも行いました。
この田んぼは湧水箇所から水を引いています。水路はコンクリートですが、それでもところどころに水草が生え、さまざまな生き物を囲っています。そうした生態系に極力インパクトを与えないように、引っ掛かった人工物(ビニール袋や空き缶など)を丁寧に取り除いていきます。ザリガニやオタマジャクシ、カワニナ(ホタルの幼虫の餌になる)など、私にとっては何十年ぶり
かの手にとっての観察となりました
「田んぼの学校」は親子での参加も多いのですが、子どもたちにこうした原体験をさせておくことはきわめて大事なことだと思います。


Tanemaki03 そして午後からは苗床づくりと種まき。各自が自宅で芽を出させた種籾(たねもみ)を持ち寄り、苗床にまきました。芽と根が伸び、稲が10センチくらいまで生長したら、水を張った田んぼに手で植えることになります。それが6月中旬の予定です。

土と草の香りを満喫し、さまざまな生命(いのち)
触れた日でした。
「春(はる)」は、新しい生命が湧き出でようと「張る(はる)」、田畑を耕して開く「墾る(はる)」、また陽光がきらきらと輝く「晴る(はる)」などからきているそうです。田んぼに出ると、そんないろんな「はる」を鋭敏に感じ取ることができます。同時に、自分自身が生き物として本来もっているエネルギーも自然と呼ばれて、からだの内側から張ってくる状態も感じ取ることができます。農の作業はそうしたからだを蘇生させる力をもっています。



Tanemaki02_2



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