留め書き〈034〉~読む側の創造が良書を良書たらしめる
「よい書物」が生まれるためには二つの創造が要る。
ひとつに、
書き手が言葉による鐘を創ること。
もうひとつは、
読み手がそれをどんとたたき、音色に耳を立てること。
たとえば、私はいま、
池田晶子さんの『14歳からの哲学』(トランスビュー)を読み終えた。
彼女独自のスタイルの哲学書で、ほんとうによい著作だと思う。
ところが、試しに、Amazon.co.jpの読者レビューをみてほしい。
80件を超えるレビューのうち、おおかたは高い評価だが低い評価も少なくない。
低い評価を与える人のコメントを読むと、
読み取る器(それは読解力であったり、咀嚼力であったり、心の態度であったり)に
問題ありと思えるものが多数なのだが、
さりとて本人は目一杯そう思って、この本をとらえている。
彼らにとってこの本は良書からかけ離れているのだ。
また逆に、もしこの本を、人気の女性哲学エッセイストが著した本ということで、
その評判を鵜呑みにしてありがたく文字づらを読むだけの人がいるとすれば、
彼(彼女)にとっても、それは良書とはいえない。
読み手のなかでオリジナルな創造が起こっていないからだ。
むしろ前者の場合で、その本の中身には全く賛同できず、辛辣な批評を書くものの、
それに刺激されて、何か創造的な思考なり発想なりが生まれたなら、
それは本人にとって逆説的に良書といっていいかもしれない。
百万部売れているからといって良い本であるわけではない。
読み手のなかに、なにか強い理解なり、感動なり、空想世界なり、アイデアなり、
創造物が出来上がってこそ良書なのだ。
読み手に大きな創造物をこしらえさせる力をもつ本ほど、大きな本といえる。
良書とはそうした意味で、最終的に読み手がつくる個別的なものである。