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2014年9月

2014年9月24日 (水)

美は客体にあるか・主体にあるか




◇ ◇ ◇ 近況報告 ◇ ◇ ◇

今夏、次回著作の草稿を書いています。中学・高校生に向けた「哲学絵本」を想定しています。

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いま「美しいってなんだろう?」の箇所を書いています。いやいや、なかなか手強いテーマです。簡単には書けません。たとえば、富士山を見て、美しいなと感じるとき、その「美」はどこにあるんでしょう? 富士山の側でしょうか、それとも美しいと感じている側でしょうか。こういったところからスタートして、真・善・美のような根源的価値のことを子どもたちに考えさせていきます。

価値を考えるとは、まさに「生き方」に直結し、「意志」を持つための作業にほかなりません。利発的な子どもを育む本はたくさん出ています。ですが、意志的な子どもを育む本はとても少ないように思います。健やかな精神が、健やかな意志を生み、健やかな価値を世の中に具現していく。そのための健やかな内容の本を目指したいと思います。






2014年9月23日 (火)

「成長」は目的ではない~「VITM」を転回せよ



◆「課長、その仕事、成長できますか?」と訊く若手社員
心理学博士の榎本博明さんは、『「やりたい仕事」病』(日経プレミアシリーズ)のなかで、昨今の若手社員が、やりたい仕事がみえないことへの不安、目の前の仕事によって成長が得られないことへの焦りなどを過剰に抱える様子について興味深く分析している。「成長欠乏不安症」の人は一度読んでみるといいだろう。

多くの上司や経営者、先生方、親たち、大人たちは、部下や従業員、生徒、子供たちに向かって「成長しろ、成長しろ」と言う。そして、私たち一人一人も「成長しなくては」と(強迫観念的に)思っている。

しかし私たちは、必ずしも「成長するぞ」と思って成長するわけではない。一所懸命、何か課題に取り組み、解決できたときに、“結果的に”成長しているというのが実態である。

だから人は「成長しなければ」とか、「なぜ成長しなければならないか」を考えてもはじまらない。「どんな仕事に没頭すれば、成長せずにいられないか」という順序でとらえるべきなのだ。成長は目的ではないからだ。何かを全うしたときに、あるいは、何かに持続的に身を投じている過程で、ふと振り返ってみたら結果的に成長していた、そんなものだ。

◆「VITM」という処方箋
若手社員の間で「やりたいことが見つからない症候群」「成長できますか症候群」が増える状況にあって、私が研修を通して行っている処方箋は、「キャリアをたくましく展開する『VITM』モデル」である。

  ・「V」ベクトル:自分が価値を置く軸
  ・「I」イメージ:理想とする像
  ・「T」トライアル:行動で仕掛けること、自分試し
  ・「M」ミーニング:意味・目的

私がこれまでにさまざまな人びとのキャリアを観察してきた中で、自分らしくキャリアをたくましく拓いている人の鍵になる要素がこの4つである。ただ、4要素のうちどれもバランスよく強い人は少ない。人によって強弱が出る。

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「I」(イメージ)先行でその理想実現に向かってひた走る人もいれば、必ずしも向かう先のイメージはできていないけれども、自分の譲れない価値軸「V」や意味「M」にこだわって地道にプロセスを積み上げる人もいる。また、ともかく「T」(行動)してみて状況変化を起こし、そこから次の一手を考えながら進む傾向の強い人もいる。

だが、何か1つでも強いということが実は重要である。その1つが引き金となって、キャリアがごろりと展開を始める可能性が高いからだ。「VITM」の4要素は相互に刺激し合って全体を強めていく。全体に流れができてくればしめたもので、その流れが起こったときはすでに何かに没頭する状態になっているはずである。そして知らずのうちに、結果的に「成長してしまう」ことになる。

さらに言えば、「VITM」がうまく回ることは、それ自体が報酬となる。自分の求めるV(価値)がどんどん見えてくる。理想とするI(イメージ)が成就する。M(意味)を満たすことができる。T(行動)することの爽快感を得られる。これらはすべて、金銭的報酬に勝るとも劣らない報酬である。

なお、この「VITM」を転回させるということは、働く個人のみならず、事業組織においても有効な概念モデルといえる。


◆忙しさは成長を約束するものではない

「忙しいだけなら、アリやミツバチだって忙しい。
問題は何によって忙しいかだ」。


とは、ヘンリー・デイビッド・ソローの言葉だ。漫然と忙しくしているだけでは、実は人は成長を得られない。ここに、いわゆる「アクティブ・ノンアクション」の問題がある。

「アクティブ・ノンアクション」(active non-action)とは、「行動的な不行動」とか「不毛な忙しさ」と訳され、多忙ではあるが目的意識を伴った行動となっていないがために結果的に生産的・価値的でない行動に終始していることを説明する概念である。

この概念は、もともと、哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカが言及した「怠惰な多忙」(busy idleness:あくせくしながらも結果として何も生んでいない空転状況のこと)から派生した。セネカが約2000年前の人物だということを考えると、人類の“不毛な忙しさ”問題は、古今東西を貫く一大問題なのかもしれない。

確かに私たちの仕事生活は忙しさに追い立てられ、それが止むことがない。でも、1日、1ヶ月、1年、3年を振り返ったとき、何かほんとうに価値のあることを成しえているのか、自分は何に向かって、何を積み重ねているのか……? おそらく漫然と忙しくしている人にとっては、つらく不安な自問になるだろう。

忙しさに納得ができ、その忙しさがきちんと自分の手ごたえある発展につながってくるためには、先ほど触れた「VITM」の意識のもとに働くことが欠かせないと私は思っている。企業内研修の場で多くの受講者と接し、就労意欲の減退感、キャリアの停滞感を抱く人は多い。一つの理由は、企業の事業目的・計画数値に合わせて、自分という労働力を提供し報酬をいただくという単純な対価交換関係に埋没していることだ(もちろん労働契約というのは、そもそもそういう関係をいうのだから、労使ともに特別問題のあることではないのだが)。つまり与えられた目標数値と自分との閉じた関係の中で、尽きない忙しさによる疲労感がどんどん充満していく。

ところが同じような数値目標下、同じような忙しさの中でも、嬉々として働いている人間もいる。それは、意識するしないにかかわらず「VITM」が彼(女)の中で転回しているためだ。「VITM」の転回は、らせん状にオープンに広がっていく発展実感を伴う。そしてその転回の舞台として、たまたま現職場があるという感覚だ。その意味で、「VITM」をうまく回している人にとって、会社というのは舞台提供者であり、パートナーやパトロンに近い関係意識を持つようになる。

また、「VITM」をうまく回している人は、必ずしも能力に長けた人(いわゆる「ハイパフォーマー」)ではないし、高い給料をもらっている人でもない。業務処理能力や専門知識のレベル、年俸の多寡とは別の次元、すなわち内省的に思索ができる、抽象的に本質を引き出すことができる、そして理念を行動で試すことができる、リスクをいとわないといった次元で強さや素直さを持った人である。V(価値)とかI(イメージ)とか、M(意味)とか、そういった“正解のない問い”に対して自分がどう肚をつくるかという問題なのである。

組織は個に対し、業務処理の高度化とスピード化を求める。そして事業を成長させるために、右肩上がりの数値を掲げて現場に発破をかける。個は組織に対して、正当な報酬と成長できる仕事を求める。組織も個も成長がほしい。だが、成長を目的として動いても容易に達成が得られない状況になっている。

知識と技術を身につけ、真面目にがんばれば何か報われた時代があった。だが、いまは組織も個も、いったん、意味や価値といった次元に思考と行動をくぐらせなければ、状況を打開できないときに来ている。サイエンスではなく、アートの要素がますます求められる時代になったともいえる。「VITM」モデルはまさに、アートとしての事業・仕事を考える作業なのである。

組織も個人も「アリやミツバチのように忙しいだけ」なのか、「みずからが想い描くVITMのもとに手ごたえをもって忙しい」のか、この差は大きい。スケジュールが埋まる日々にあって、「怠惰な多忙」を恐れよ。





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