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2008年3月30日 (日)

梵鐘を割り箸でたたくな! 丸太でたたけ!


今年(08年)、独立後4冊めの著作に挑戦しています。

「職・仕事・働くこととは何か?」をさまざまな角度から照射していきますが、

その中で、ひとつの寓話を創作し、中心に据える予定です。


きょうはその創作寓話を、先立って紹介したいと思います。


□ □ □ □ □ □ □ □ □


むかし、あるお寺の和尚さんが、2人の童子を呼び、こう言いました。


「本堂の裏に蔵があるじゃろ。

実はあの蔵の中に、大事な宝物が代々保管されておる。

その宝物が何か、ひとりずつ、蔵に入ってみてくるがいい。

しかし蔵には窓もなく、昼間でも中は真っ暗じゃぞ、気をつけてな」。


まず1人めに、青の童子が蔵に入っていきました。


蔵の中は、和尚さんの言ったとおり、真っ暗で何もみえません。

しかし、目の前に“何か”があることは気配でわかります。

具体的に何であるかは見当がつきません。


そのとき、童子の足裏に、枝の端くれほどの木片が触れたので、

青の童子はそれを拾い上げ、

目の前の“何か”をたたいてみました。


カラン、カラン・・・ カラン、カラン・・・


青の童子は蔵の中から出てきて本堂に戻り、こう告げます。


「なんだ和尚さん、あれは“鍋”か“やかん”ではないですか」―――――


* * * * * *


次に、赤の童子が蔵の中に入っていきました。


そのとき、赤の童子も真っ暗闇の中、足裏で触れた木片を拾い上げ、

目の前に感じる“何か”をたたいてみました。


カラン、カラン・・・ カラン、カラン・・・


赤の童子はさらに、しゃがみこんで足元のまわりを手で探ってみました。

クモの巣やら、ほこりやらをかぶりながら

頭をどこかにぶつけながら、はいつくばって手を伸ばしていくと、

今度は重い丸太のようなものが手に触れました。

その丸太を持ち上げ、

童子は目の前の“何か”を力いっぱいたたいてみました。


ゴォーーーーン。


赤の童子は本堂に戻り、和尚さんにこう言います。


「あんな立派な“梵鐘”の音は聞いたことがありません」―――――と。


□ □ □ □ □ □ □ □ □



私がこの寓話で言う「梵鐘」は、

「職・仕事・働くこと」の隠喩(メタファー)です。


働くことは、ほんとうに奥深い人間の営みです。

私たちは、職・仕事を通して、無限大に成長が可能ですし、

職・仕事から、無尽蔵に喜びや感動を引き出すことができます。


私は、「働く心持ちを再考築」するための研修を

そこかしこの企業・団体でやっていますが、

受講者(社員・職員)の中には、

「働くって、所詮こんなもんさ」とか、

「うちの会社の今の仕事って、やっぱ限界あるよね」とか、

そんなような割り切り、しらけ、あきらめの境地の人たちが必ず何割かいます。


もちろん、その境地に至った背景は人それぞれにあるでしょう。

安易・怠惰で開き直っている場合もあれば、

苦渋の体験・出来事を経て、そう閉じこもってしまう場合もあるでしょう。


しかし、いずれにせよ、「働くって、所詮こんなもんさ」という人は、

お寺の鐘を割り箸でたたいている人です。

チン、チーン、カラン、カラン、くらいにしか鳴りません。


しかし、働くことは、本来、すごく大きくて立派な梵鐘です。

ただ、その立派な形状は、あらかじめ目にははっきり見えません。


こちらが丸太で、どーんと叩けば、

ゴォーンと響くものです。


そして、その奥深いゴォーンという音は、

打った本人のみならず、村じゅうに響いて、

人びとに時を知らせ、他者の益となります。


鍋・やかんが、せいぜい、自分が食べるためだけの益しか

果たさないことを考えると、対照的です。


さて、あなたは、「働く」という宝物に対して、

割り箸でたたきますか?

丸太でたたきますか? ―――――

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